遊煩悩林

住職のつぶやき

人はひとりでは学べない

2017年05月25日 | ブログ

晴れてよし、降ってよし、いまを生きる

『京都佛光寺の八行標語』

https://www.amazon.co.jp/晴れてよし、降ってよし、いまを生きる-佛光寺/dp/4054062970

この標語集に、

あいにくの雨

めぐみの雨

自我の思いが

ひとつの

雨を

ふたつに

分ける

という八行のことばがある。

これは、いつか「組」の研修会で同朋大学の伊東恵深先生が教えてくれた。

 

今朝、小学6年の息子が雨のなか修学旅行に出かけて行った。

本人は何とも言っていませんが、ひとつの雨をぶった切る親の「自ぃい〜我ぁぁあ」の思いに見送られて。

出発前の先生のご挨拶。「あいにくの天気だがクラス全員がそろって出発できることが何より」。そのとおりです。

我が家は今週、修学旅行ラッシュ。

坊守は昨日から「東海連区坊守研修会」という1泊2日の修学の旅に出ています。

私は昨日2泊3日の「他教区交流研修会in金沢」という修学の旅から帰ったところ。

金沢では天気に恵まれ過ぎたので、坊守はとにかく、息子らの修学旅行に半分わけてあげたいという自我の思いです。

「晴れてよし、降ってよし」なんてとても思えないからこそ修学の道が開かれています。

 

さて金沢での研修会は「仏法に学ぶ関係存在」をテーマに各地からの仲間と、宗派を超えて「八行標語」の佛光寺派の僧侶らとともに、蓮如上人ゆかりの「本泉寺」に泊まり込ませていただいた。

九州小倉からお越しいただいた講師の伊藤元先生は、このテーマについて「人はひとりでは学べない」と提言された。

ひとりで勉強はできるけど、それは知識を増やすことはできたとしてもほんとうの学びにはならない。

自分と自分の学んだことを批判するものをもたないとほんとうの学びにならない。

現代はあらゆることについて答えをつくってしまっている時代で、その答えの枠から出られない。仏法を分別の枠の中に入れようとするといくら学んでも「依止(えじ)」がわからんのだ、と。

仏教を頭で「理解」しようという学びは、自分の依りどころ(帰依所)をはっきりさせるものではないという意味で「ほんとう」の学びではないということでしょう。

あくまでも「学ぶ」のはひとりだけど、それではその学びの確かさがわからない。学びを批判するものとの関係によって学びが学びとなる、と。

だから「人はひとりでは学べない」というのは、互いの学びを批判しあえる関係の必要性を言うのだ。

その関係存在を仲間、サンガだと。

 

僧侶は僧侶となるときに「自信教人信」ということを誓う。「自信教人信のまことを尽くす」と。

「自ら信じ人に信をすすめる」ということですが、これまで何かどうも釈然としませんでした。

「『教人信』において『自信』があきらかになる」という伊藤元さんの言葉に教えられました。

「『教人信』を離れた『自信』はひとりよがり。『自信』のない『教人信』は、たんなる教化者意識だけで『聞法者』ではない」とも。

どうか「聞法者」であり続けてくださいと。

世阿弥の『花鑑』から「初心忘るべからず」を引いて、この「初心」は「未熟さ」を言う、と。

どれだけ学んでも、どれだけ歳をとっても未熟者であることを気づかせてくれる関係性を築くことによって、聞法者であり続けられるというのでしょう。

いくら学んだとしても聞法者であり続ける姿勢、「その姿勢がその人の教化の内容となるのです」と。

教化に携わるものと教化されるものが「とも」に仏弟子として出遇っていくこと、それが「仏法に学ぶ関係存在」だと聞かせていただきました。

ご門徒の皆さんとそんな間柄を築いていければと思います。

 

翌日、宿泊先のホテルにあった新聞にこんなことばを見つけました。

学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない

鷲田清一『朝日新聞』「折々のことば」文中

修学の旅で出遇った言葉と仲間にお礼申し上げ、ほんとうの学びとなるように修学を続けていきたいと思います。

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