常照寺の報恩講に向けて仏具のおみがきをしました。
おみがきを終えて新年会。あるご門徒さんが「おみがきはただ仏具をきれいにするだけやないですね。心をみがく、信心をみがくっていうことですね」といって酒を注ぎにきてくれた。
「信心をみがく」ってどんなイメージですか?と尋ねると、「うーん、きれいに見えた仏具もみがいてみればやっぱり垢がついとる。ワシら一所懸命ホトケさんに手を合わさせてもらっても、やっぱりキタナイ心が混ざっとるんとちゃいますか。だからその汚い心をもっとキレイにしやなあかんのとちゃいますか」
その時は「ほな、みがいて満足するだけやなくて、頑張って報恩講に参らんといけませんね」と、そんな会話でした。
仏具を磨いたらキレイになるのは世間ではあたりまえのことです。だけど世間を客体とする真宗仏教で「信心」つまり信仰心をみがくというとどんなのか。
親鸞はご消息(お手紙)に、師の法然上人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と、つまり浄土の教えに生きる人は愚者になって往生するのですといっておられたといいます。
成仏、仏になることを目的とする仏教において、浄土の教えからすれば往生成仏するのは「愚者」にならんといかん。
浄土真宗で「信心をみがく」というのは、「愚者」になるということ。世間のイメージとはかけはなれてますね。
阿弥陀如来の信仰を篤くするというのは、必ず救う、必ずたすけるという如来の本願力を疑わないということにつきます。自分の努力や修行で往生するのではない、如来の他力によって往生成仏する。
オレはこれだけホトケさまのお飾りをピカピカにしたといって功徳を積んだ気になるのが世間でいう仏教だとすれば、真宗の仏教は、仏具を磨けば磨くほど、キタナイものが露呈してくる。
磨けば磨くほどピカピカにかがやくお荘厳。鏡のごとき仏の荘厳が映しだす私のこころの愚かさをはたして自覚することができるか。
阿弥陀如来は、自分の力では何とも救いようのない者をすくいとるはたらきです。救われようと努力を重ねるものを救うのではない。なぜなら、他力の救いを信用せずに自分の力を信用するのですから。つまり自力を信じるというのは、他力を疑うことに他ならない。
阿弥陀さまが必ずたすけるというのにそれが信じられない。だけどそれを愚人というのだ。
大丈夫だ。阿弥陀にかかればみな愚人だった。必ずたすかる。
さて報恩講。恩に報いるというが、まず恩を知らねば。知れば恩を忘れていたことがわかる。忘恩に気づくことができる。
恩知らずなんだ。いつも私は。
報恩講のご参詣をお待ちしています。
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