遊煩悩林

住職のつぶやき

探しもの

2015年06月01日 | ブログ


うーん。思い出せない。

お寺の掲示板の言葉を何と書こうかと思いをめぐらし、スマホのメモを探っていたところ

人間が仏を証明するのではない 仏が人間を証明するのです
曽我量深

というメモのところで手が止まりました。
ただ、このことばをどこで目にしたのか、何かの書物で見たのか、誰かに聞いたのか・・・。それが思い出せない。
その出典を確かめようと思っても、このメモをどこで記したのか覚えがないのですから調べようもないまま掲示板に記しました。

探しものは探している時には見つからないものですが・・・。

ふとした時の記憶を辿って本堂に並べられている『曽我量深選集』の第6巻「歎異抄聴記」第26講を開くことができました。

そこには

仏教学真宗学は人間が仏を証明する学ではなく、人間が仏に証明される学である。

教行信証の証とは我々人間が仏に証明されることである。

掲示板に記したメモはこの記憶でした。

「浄土真宗」は、私たちが仏さまを証明するのではなく、仏さまが証明してくださっている私に出遇うという仏教だということです。
仏さまやそのはたらきを自分なりに説明しようとする私そのものが、一所懸命に仏さまを証明しようと躍起になっているのではないだろうかと問われます。
それを説明し、証明しようとするのは、もしかすると仏さまやそのはたらきを疑っていることに他ならないのではないかと考えさせられました。

ところで、探しものをしながらこんな「詩」を思い出しました。

ものを取りに部屋に入って 何を取りにきたかを忘れて 戻ることがある
戻る途中で ハタと思い出すことがあるが その時はすばらしい
身体が先に この世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
いつの日か思い当たるときのある人は 幸福である
思い出せぬまま僕はすごすごあの世へ戻る

杉山平一

「生」というタイトルのこの詩は、2009年の常照寺の春の彼岸会で名古屋市の恵林寺住職である荒山信先生が紹介してくださった詩です。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/6767d4e7eeacf23d54e285eb62bb15ba

信先生のご子息である荒山優さんが常照寺の永代経にお話しに来て下さいます。
「いつまでもお浄土のみ教えをお伝えするために」と諸仏に願われてつとまる法要です。
それはこの自分がいったい誰なのか、この世に何をしにきたのかを確かめさせていただく機会です。
仏さまが証明して下さる「私」とはいったいどんな「私」であるのか、ともにたずねたいと思います。

ご参詣をお待ちしております。

http://jyosyoji.info

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