遊煩悩林

住職のつぶやき

予習

2014年11月22日 | ブログ



「石井光太さんの講演会に行きませんか」と誘われ、著書の東日本大震災直後の釜石市の遺体安置所を追ったルポルタージュ『遺体―震災、津波の果てに』(新潮文庫)を読む機会をいただきました。
11月20日に同朋大学で行われた『3.11を忘れない「震災と日本人の死生観」』と題した「同朋フォーラム」http://www.doho.ac.jp/assets/files/event/2014/shinran/forum_20141021_A4.pdfこの講演に向けて読んでおかなくては、と映画化された『遺体 明日への十日間』http://www.phantom-film.jp/library/site/reunion-movie/とともにお取り寄せして予習をしたのでした。
それなりの準備をしたつもりでしたが、ご門徒の通夜のため参加はかなわなかったのですが・・・。
それでも著書や作品を通して、これまで想像すらしなかった様々なことを知らされ、考えさせられました。
無数の犠牲者に伴う自治体や葬祭業者の遺体処理に係る諸事、棺の手配から火葬に至るまでの経緯・・・。そういえば棺の手配について、伊勢のご門徒が営む葬儀社も棺を積んで被災地に走ったと聞いています。
とくに印象的だったのは、火葬業務が間に合わない想定下で、土葬という埋葬方法に対する遺族の抵抗感が色濃く描かれていたところです。
「仮土葬」つまり、いったん遺体を土葬し、のちに掘り起こして火葬するという手段についての抵抗感は否めないものとして理解できましたが、どうもそれ以上に遺族が火葬にこだわる感覚が表現されているように感じました。その感覚はいったいどういった背景をもったものなのか・・・。
原作には、この期に及んで火葬の順番を優先的に割当ててもらおうとする遺族や、葬儀社に対して従来のサービスが提供されないことに対する遺族の不満なども漏らさずに描写されていて、人間そのもの、私自身が抱えている無自覚な煩悩の闇の深さをえぐり出されたようにも思いました。
震災後、被災地の寺のバザーにわずかな品を送ったことがありましたが、そのバザーは有償のバザーでした。
非常時にあってなお、いや非常時だからこそあからさまな深い闇があったと聞きました。無料で配布すると檀家の方とそうでない方の中にみえない壁、つまり差別がおこる。差別心はみえなくてもそれがことばや行動になってみえてくる。
檀家からすれば檀家でない者が寺に集まってくる物資を持って行くことに抵抗があり、また檀家でない者は檀家でない寺に物をもらいにいくことに抵抗がある。生きていく上で最低限の物であってももらいにいくことができない。全て有償にすることで檀家とそうでない方々の制限を取り払い、同じ被災者として、生き残ったもの同士のいのちの公平性を保とうということだったのでしょう。
さて、これは映画には表現されてませんでしたが、原作に描かれた地元の住職らが抱えた問題もこのいわゆる「檀家制度」の壁でした。
実際のところの判断は難しいところですが、犠牲者のお弔いを通じて「檀家をとった」「とられた」という闇がそこには根強くあったことがうかがえます。
『遺体』は日ごろ私たちがごまかしている意識、目を背けている無意識の自覚化を鋭くせまってきます。
寺や教団が抱える闇、そして何より住職が抱える闇・・・。
世界中の紛争や貧困の悲しみの現実を追って書き綴っておられる著者のお話を改めてどこかで聞ける機会があればと思います。
悲しみの現実をみつめ、深い煩悩の闇を抱える私であることの予習を怠らずにつとめなければなりません。


親鸞聖人はご自身の有りのままの姿を仏さまの智慧の光によって写しだされたお方です。それは、表面上はいくら取り繕っていても心の中は他の人を「怨んだり、妬んだり、やきもちをやいたり、腹を立てたり」する救われ難い、真のひとかけらもない自分の本当の姿だったのです。そしてその煩悩をどうしても消すことのできない自分のありのままの姿に絶望されたのです。
その絶望の中から、そのままのお前を無条件で救うと言ってくださっている如来さまの呼び声に不思議にも出遇われたのです。

智慧の光によって見えなかったものが見えてくる

若藤会「月のことば」(756)より抜粋

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