遊煩悩林

住職のつぶやき

宗教しよう!

2012年10月08日 | ブログ

孫のお宮参りはどうしたらいいでしょう?

85歳で亡くなったお母さまの二・七日(ふたなのか)のお参りのあと、その娘である奥さまがいくつかの質問を記したメモを見ながら尋ねてくれました。
聞くと、この11月に孫のお宮参りがあって、娘さんは「お母さんも一緒に」といっているのですが、無病息災を願う宮参りに、母親を亡くしたばかりの自分が行ってもし孫の成長に何かあったらと思うとどうしたらいいのか迷っている・・・のだとか。
ご主人とあれこれネットを検索しながら、49日が過ぎているからいいだろうとか、100ヶ日が過ぎていないから駄目だとか。忌明けしたからいいだろうとか、喪中はがきを出すんだからまだ喪中だとか。嫁に出した娘の子だからいいとか、嫁ぎ先にご迷惑になるとか。ああでもないこうでもないと理屈をつけて納得してみたり、ため息をついてみたり。「昔からの言い伝えにはそれなりの根拠があるのでしょうから・・・本当のところはどうなのでしょう」と。

「それはお宮さんに聞いてください」というわけにもいかず。
だいたい寺の住職がお宮参りをすすめる理由もありません。「わざわざ行かなくていいでしょう」と言いたいところでしたが、浄土真宗の確かさを体現するならば堂々と鳥居をくぐれるのです。
おすすめの意味の問題です。
僧侶である私が「おすすめしない」のは、忌中だからとか、喪中だからとかいう理由ではありません。浄土真宗の確かさを表明するならば、気にせず行っておいで、と「おすすめ」できるのです。に、してもお念仏の確かさを証明するためにわざわざお宮参りに行っておいでというのも未熟な僧侶には気が引けるところです。
昔からの言い伝えは大事にしたいという気持ちもわかりますが、それが「因習」だとはっきりすれば、誰かがきっちりと決別しなくてはなりません。ただその「誰か」に誰もなりたくないわけです。
触穢思想と霊性とでもいうのでしょうか。ケガレが伝染するといった意識と万世は霊が支配しているという感覚から逃れられない。その解放がナムアミダブツとして伝統されています。
ナムアミダブツと念仏申してきた母親の死をどう受けとめるか。
浄土に往生を遂げたと信仰すれば、何もお宮さんに遠慮することはありません。
しかし、穢土に送って冥福を祈る信仰ならば、ご遠慮しなければならないことも出てくる。ただし遠慮せずにおれるのは、一人ひとりの信仰が認められる成熟した社会においてです。遠慮する必要がないというよりは、それについて干渉されることがないということでしょう。それを許さないのは、神さまでもなく、仏さまでもない「世間さま」。

「本当のところ」は、実は孫の成長の心配ではなくて「私」の問題です。
嫁ぎ先のご親類をはじめ、いわゆる「世間さま」から「非常識」といわれるのではないか。そして、孫の健やかな成長を願っているつもりが、その孫に何かあれば「私のせい」になるのではないかという恐れ。極端にいえば、孫の無病息災の問題ではなくて、自分を弁護し、保障してくれる都合を求めているにすぎません。
「子どもの健やかな健康をお祈りする」といいますが、この時点で祖父母の精神状態は健康とはいえないのではないでしょうか。なぜそんな不健康が生じるかといえば、「宮参りは慎むものだ」という世間が未だに蔓延っているからでしょう。
いろいろ理屈を並び立てて誰かが「行ってもいいよ」といったところで、モヤモヤはいつまでも晴れるものではありません。どこでモヤモヤが晴れるかといえば、「世間さま」が認め、また「孫の健やかな成長」が確約されたときです。
孫の健やかな成長が確約されなければ、喪中の宮参りのせいで、という不安が払拭されることはありません。
まず「孫の健やかな成長」と「私の宮参り」と「おばあちゃんの死」を関連づけ、一括りにされている呪縛から解放されなくてはなりません。
もしお孫さまの健康に不具合が生じたとき、その犯人を誰になすりつけるつもりでしょうか。喪中に宮参りした母なのか、亡くなったおばあちゃんなのか、はたまた神さまか、仏さまか、霊とかか。

無病息災を願う宮参りを否定する気はありません。ただしそれは御利益信仰とは称しても宗教ではないと思うのです。
「無病息災」は煩悩です。煩悩を満たす宗教はありません。
孫の無病息災を願わずにはおれないという煩悩に気づき、その煩悩を抱えたままこの私が救われるということが明らかになった時に宗教、信仰の道が開かれてくるのでしょう。
自分や家族の無病息災を祈ることが我欲だと気づき、神の名を借りてそれを満たそうとしていた自分がはっきりすれば、亡くなったお母さんも孫も、そしてこの私も「生老病死」する身をともに堂々と引き受けましょうと一歩踏み出せるのではないでしょうか。
虐待の話題が目立つ今日。健やかな成長を願われて育ったはずの子どもが、親のつまらない期待に応えられなかったり、親の自己愛と善意の押し売りにうんざりして反抗した時にどんなカタチで「親の願い」が転換するのか。これだけあなたに愛情を注ぎ込んできたとか、大切にしてきたとか、よくよく胸に手をあててみなければなりません。

ただ、宮参りしていいとかいかんとか、そんなことが宗教として語られるとすれば、何かやはり未成熟なのでしょう。
お参りするのに制限をつけるのは仏さまでも神さまでもない。全部人間です。
人間といっても実態のない「世間さま」が、神や仏の罰や祟りを語り、宗教を装って脅すだけです。
何も仏や神を軽んじろというのではありません。
宗教は生きる人間を救いとるはたらきです。
人間を世間から解放するのが宗教かもしれません。世間の中で独立させるといってもいいのではないでしょうか。それに対していえば、人間を孤立させるのが世間です。
ちゃんと宗教しないと、宗教でも何でもないもの(世間)に振り回され続けて人生が終わっていきます。ちゃんと宗教するというのは、ちゃんと私が救われる者になっていくということです。
亡くなったおばあちゃんから、孫を縁にして、お母さんに発露した宗教心の芽生えです。ともに悩みながら育てられたいと思います。

数年前にもこんな記事を書きました。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20060116
いつの時代も、親の子を思う心はかわりません。
勝手なことをつぶやいていますが、「喪中の宮参り」が、いいとか悪いとかではなく、そこから問われ続けるということが大切なのでしょう。

世間にもこんな記事が
http://allabout.co.jp/gm/gc/67475/2/
坊主のつぶやきよりも「説得力」があります。

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