遊煩悩林

住職のつぶやき

為政者の論理を洗い落とす

2011年03月15日 | ブログ

今回の震災に対する「天罰」発言は為政者のことばです。それは政治的なテクニックです。
地震を「罰」と受けとめることは、それに遭ったのは何らかの行為に対する「報い」ということですが、要は被災者を「犠牲者」にしたいのです。「報い」に対する「犠牲」。まだ生存者を捜索している最中に・・・です。
地震に対してその被害にあった人を「震災の犠牲者」というのは一見普通なようですが、国やその為政者が用いる場合には注意が必要です。
「犠牲」は「いけにえ」的なニュアンスをはらんでいます。「目的達成のための損失」ということです。
都知事の「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。」という発言でいえば、被災者は「日本人の我欲を洗い流すための『犠牲』」ということです。
同時にこのことばは地震を神化させていくものです。天罰を与えるのは誰か?
我欲を洗い落とすための天の仕業だと。しかもそれを「うまく利用して」というのですから、自ら津波を神化させておきながら、その神を利用するという。皮肉なことですが、それほど自己中心的な我欲はないでしょう。
「犠牲」という表現はプラスティックワード(さまざまにカタチをかえることば)ですから、今後、被災者を犠牲者と表現することは増えていくかもしれません。
それは被災地が復興され、そこに暮らす人々が安心してしあわせを感じられることを想定し、「いまの幸せはあの時の犠牲のおかげだ」などと言わせていく為政者のテクニックなわけです。未来の幸福のために今このような犠牲を被っているという論理です。
どこかでそれに似た違和感を感覚された人もあるのではないかと思います。
多くの人が指摘しているとおり、このような「犠牲の論理」は国をまとめあげていく、国民を一定の方向に向かわせたいときに用いられます。
この論理で日本は戦争をやってきました。しかも原子爆弾を「天罰」と呼んだのです。
さらにその「天罰」によって終戦を決断した「神」は「象徴」として生き残った。
日本は戦後この論理でやってきたのですから、それを正当化する意味でもこのようなことばが出てくるのだと思います。
人間の欲に応えるために人間が作り出した「原子爆弾」を天罰と呼び、再びその原子力の脅威をともなうことになった震災を「天罰」としていく発想。
そして事のなりゆき次第では、被災者の想いとは裏腹な「おことば」が述べられて、今回の被災を「尊い犠牲」として慰めを装ってごまかそうとする発想。
物質的な復興は時間とともにすすんでいくのかもしれませんが、このような考え方こそ洗い落とされていく時なのではないでしょうか。

被災地の救援に向かった東本願寺の僧侶のメールが転送されてきました。
http://www.facebook.com/album.

今朝から陸前高田にて救援活動を開始し、今無事にベースキャンプの寺に戻りました。
お寺も民家も、何もかも津波にさらわれ、想像を超絶する惨状に、適切な表現ができかねます。
海岸から6キロ地点の河口まで、瓦礫の山で、遺体収容も間に合っていません。
瓦礫の山から次々と遺体が見つかっている状況です。
体がバラバラになってしまったお姿、苦しみもがいたであろうお姿、数えきれないご遺体の前で、家族を探し泣いている声、ただ唖然と言葉なく立ち尽くす姿、言葉になりません。
私の眼前のこの光景の中にも、足下にもまだ無数のご遺体があるのでしょう。
避難所では、一度に一瞬にして多くの家族を亡くし、また家族の安否がわからない不安と悲しみの中、少ない物資を分け合いながら助け合っておられます。
今朝から10リッター規制での部分給油が始まり、関係者の安否と物資を自ら求めに行こうと、スタンドに長蛇の列が作られてます。
多くの命を失いながらも、必死に生きる命の姿がたくさんあります。
子どもが無邪気に遊ぶ姿に、余計に胸が痛みます。
この惨状は現実であり、誰にも起こり得ることです。
一日一日・一瞬一瞬を大事に生きることの大切さを痛感しています。
物が足りません。
ここに物を運び届ける燃料が足りません。
一人一人の1秒の節電とか応援の言葉で、救われる命が、救わなければならない命がここにあります。生きようとする命があります。
全力で、全力で支えましょう。
復興したこの街の姿を、またいつか必ずや見れますように。

今春から東京勤務になった後輩からはこのような内容のメールも。

前任地の富山県から東京の転居先へ移動中、ガソリンが底をつきました。神奈川のスタンドはどこも長蛇の列、2時間待って10リッターの規制給油。
あと何回、スタンドにならぶんだろう。いつ着くんだろう?

伊勢市内でガソリンスタンドを経営する友人によれば、出荷制限で6~7割の入荷状況でもまだマシな方だとか。

被災者の救援、救急、消防、避難、物資の輸送が最優先であることは誰もが認識しているんでしょう。
それでもまず自分たちの分を確保したくなる。
それが都知事のいう我欲。それでも自分の身と都合を優先する「我」と、決して洗い流すことができない「欲」を自覚し、「全力で支えましょう」と現地で叫ぶ仲間の声に耳を傾け、つぶやきをもって応えたいと思います。

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