遊煩悩林

住職のつぶやき

諸行無常

2009年09月02日 | ブログ

昨年9月のお寺の掲示板に
彼の岸は 浄土か 冥土か 天国か
と書き、その願いとするところを「遊煩悩林」2008.9.1にも記しました。
それを目に留めて下さっていた東本願寺出版部のSさんから6月に原稿の依頼をいただきました。出版部のお仕事にしては締切が急(気のせい?)だし、私のところになんか話がまわってくるなんて「これは何かあったのだろう」と疑いながらお引き受けし、ブログの内容に少し手を加えて原稿を提出しました。
先日それが出版されて手元に届きました。「真宗の生活」という小冊子です。2010年版ですのでご門徒の皆さんのお手元に届くのは年末になりますし、この冊子は毎月28日の「ご命日の集い」で読んでいますから、皆さんと読んで味わうのは来年の9月ということになります。
そこで少し気がかりになりました。昨年感じたことに手を加えて今年の言葉にしたのですが、改めて読んでみて自分自身の内面的なニュアンスが変わっていることにです。
与えられた文字数で表現した責任がありますから、内容について言い訳をしたいのではありません。その行間というか、書いた本人の受け止めが変化しているというのでしょうか。
具体的にいえば、昨年はどうも「死後の世界観」を全否定する気合いがあったような気がします。まずそこでの議論を封じる手段としてです。今年、生じた変化はその議論を封じてしまっては「そうではない(浄土は死後の世界ではない)」ことを伝える方途も失ってしまうのではないかという感覚です。とくに少なからず宗教にアレルギーのある?方々に浄土を示していくには、そこを切り口にしていった方が開けてくるのではないか。もちろん浄土を死後の世界として肯定することは私にはできません。これから「死」を引き受けていかなくてはならない私たちだからこそ無駄な議論でなく「本当のこと」を確かめあっていきたいわけですが、無駄な議論からしかはじまらないということもあるのではないかと思うのです。お伝えしたいことは死んだ人の問題ではなく「あなた」という私自身の問題なのですが、その「あなた」の問題が「私」のものになるまでは、やはり亡くなった「あの人」の問題にしかならないのですし、「あの人」の行方を問題にしている人に対して、「あの人」でなく「あなた」が問題だといったところで「ああそうですか」と、そうそう簡単に問題が転換されることはありません。必要なのは、死後の世界として浄土を受けとめたい人や死んだら何もなくなるという人に、それをいきなり否定してやることようなことではなくて、「どうしてそう受けとめたいのですか」また「どうしてそう受けとめたのですか」とその背景を辿っていく地道な作業ではないでしょうか。
そもそも私なんかは死んだ後の世界ではないといいながら、通夜や葬儀の現場で「浄土にお還りになりました」といっているのです。真宗を知らない一般の会葬者の前でです。その場でそれはこうこうこうで、こういうことなんですよと説明責任を果たして来ればいいのですが、私自身あやふやなものです。
自分自身で気になっているのが、理屈に合うことしか語ろうとしていないということです。仏教は生きている者のための教えである、生きるための教えであることを浄土真宗は強調しますし、私もその流れを理屈では理解し伝えようとしているつもりです。が、娑婆は、世間は、空気は、死んだ人のための教えを求めているのではないかという感覚があります。死んだ人のための教えを求めている人に対して、それはあなたの問題だということを伝えたいのですが、そういってしまうと問題をすり替えたようにしか受け取られません。私が理屈でいえるのは生きて浄土に往生するというところです。死んで浄土に往生するということも浄土真宗の教えにあるといいます。死後の世界観を肯定しているかのように受け取られてはならないと、私なんかは知らず知らずにその辺をタブー化していたようです。だからどうもそこがあやふやなのです。念仏を申す生き方をした人が亡くなることを往生ということ、についてもっと学びたいと思います。
そこが「わたしの問題」でありながら、「あの人の問題」にしないと考えることができない姿だと思うのです。
死んだ人の問題を問うているのに、死んだ人の問題ではないという坊さんに何か尋ねようというのは、僧侶と門徒の関係が水臭くなればなるほど困難ではないかと思います。まず、大切な「あの人の問題」からスタートしていってもいいんでないかと、昨年の文章を読んで思ったのでありました。
であれば、です。来年のご命日の集いでこの文章を読んだ時、そのニュアンスにどんな変化があるのか。楽しみでもあり、不安でもあります。

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