遊煩悩林

住職のつぶやき

おくりびととおくられびと

2008年09月28日 | ブログ

話題の「おくりびと」を観てきました。
泣きました。そしてその涙は何だったのかを考えさせられています。私を含め、多くの人は身近な人の死とダブらせてそこから知らされてきた大切なことに改めて気がつかされた涙であったのでないかと思います。

全国で大ヒット上映中とのことですでにご覧になった方も多いと思いますが、この映画は主演の本木雅弘が藤原新也氏の「メメント・モリ」という書物に出会ってインドに赴き、そして東本願寺出版部から「いのちのバトンタッチ(tomo-books)」を出版された青木新門氏の「納棺夫日記」に強く影響を受けたことから、企画を立ち上げ、映画化された異色の映画です。
藤原氏の著書がきっかけになったことはメディアが伝えるとおりですが、青木氏の経験に基づくところはあまり報道もされていません。実際に映画のエンドロールにもまったく登場はしませんが、青木氏の著書を読まれた方であれば「納棺夫(「納棺師」の表現は男女差別に配慮してのことか?)という特種な職業ということも踏まえて、間違いなくリンクしていることを感じるに違いありません。
わざわざそんなことを申し上げてよいのかどうかもわかりませんので、ここではとくにそのことには触れませんが、映画を見た感想をとどめておきたいと思います。ただ、藤原氏の著書や青木氏の経験を見聞きした人は数知れませんが、そこから感じたことをごまかさずにここまで表現されてきたことを思えば、本木雅弘という人間の根底のところに流れている「いのち」とその背景にも思いが至るところです。ここにこうして私たちの目に触れるようにまでして伝えなくてはならない何かが「いのち」として彼に流れているのでしょう。

私以外にも、涙し、すすり泣く声が劇場中に響いていました。それは、役者の芝居によることは間違いありませんが、その「間」によってなのだと思います。
まだご覧になっていない方もいらっしゃると思うので、内容には極力触れたくありませんが、なんとも台詞の少ない映画のひとつだと思います。
ですが、その台詞と台詞の「間」にいちばん大切なメッセージが込められてある。脚本中の「石ころ」がポイントのひとつですが、ことばでは伝え切ることができない事柄、もしくはことばで伝えるよりも伝えやすい事柄がそこに表現されてあるのだと思います。

印象的なのはおおまかに3点。
ひとつはワーキングプアという現代の問題。主人公はオーケストラのチェリストという仕事を干されるのですが、それは興行的なストーリー性への配慮でしょう。誰もがその道に入る可能性を示しています。
ふたつ目は、広末涼子演じる主人公の妻の台詞。亭主の仕事を知ってその手を振り払い「汚らわしい」と罵る場面。社会の縮図が描かれています。
そして、ある登場人物の棺のふたが閉じられるシーン。閉じて見送る立場ではなく、棺桶の中から閉じられる側の目線が挿入されていました。あなたは送るだけのひとではありません。送られる人なのですよ。これがメインテーマでもありましょう。
それ以外にも印象的な場面は数多いのですが、とくに記憶に残っているのは私の場合この3点です。
リストラされた男が田舎へ帰り、きっかけがあって職に就く。差別に耐えながらその仕事をまっとうしていく男の人生、それだけの映画ではないのでしょう。
私たちが一体何のために生まれて、何をやって生き、どうなっていくのか、またどうなりたいのかということを問わされる映画です。

ただ納棺師という仕事。この映画を話題にするメディアの方々が、肉親を亡くしたときにその現場に出会ったようなことをいっているのですが、どうなのでしょう?「納棺師」というプロに出会う現場は果たしてどれだけあるのか。
私の場合、父母と祖母の臨終を看てきましたが、2人は病院で亡くなりましたから病院で体をきれいにしてもらいましたし、1人は身内できれいにしました。いま、人の生命がほとんど病院で尽きていくとすれば、そこで最低限の処置はされるわけです。自宅やそれ以外の場所で亡くなったとしても、身内が湯灌すればいいわけです。よっぽどどこかの何とかという納棺師に頼みたいと遺書でも残しておかなければなかなかそんな現場には出会えないのではないかとも思うのです。
たとえば私が死んだときにはこんな納棺師さんにやってほしいなー、とかいう問題ではないのでしょう。映画中に「本来身内がやること」を他人がやっている「超隙間産業」とありました。その認識が大切なのです。
実際の現場では、身内を閉め出して行われている湯灌が一般的なのでしょう。さらには葬儀の一式が金銭化されて、何をしていいかわからないから葬儀社任せになっていく・・・、またそれに反抗しているわけではないのでしょうが、家族葬や直葬が流行する。私たちの生きている現代社会からはそんな経済的な観念、もしくは合理的な観念しか生まれてこないのかもしれません。
葬儀に際してどうしていいのかわからない。だから丸投げ。だから放棄。いろんな理屈をつけてそうやって時代に流されていく私たちなのでありましょうが、ただひとつだけでもはっきりしたいことは、亡き人を前にして自分はどうしたいのか、ということ。そして、いざ自分が送られるときはどうされたいのか。どうしたい、どうされたいと望んでもそれが実現できるかどうかはわからないところの話です。ですが、そのことをはっきりさせてそれを身近な誰かにどうやって伝えていくのか。それが私たちの人生なのではないでしょうか。
「おくりびと」ではそれが「石ころ」でありましたし、身近なところでは毎朝黙々とお内仏(お仏壇)に向かう祖母や父の背中なのでありました。

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