遊煩悩林

住職のつぶやき

どんな私が救われるのか

2008年08月27日 | ブログ

宗教に救いを求める
というとどんなイメージでしょうか。
にっちもさっちもいかなくなって宗教の世界に逃げ込むといったニュアンスが一般的な感覚にあるのでしょう。弱者が助けを求める世界であるかのようなイメージです。
「にっちもさっちもいかなくなって」も、ここでいう「弱者」も、いわゆる「世間的」なところでのことです。「世間」というところでの「にっちもさっちも」は金策が尽き果てたような、「弱者」はいわゆる「勝ち組」「負け組」でいうところの「負け組」のような、そんなイメージでしょうか。
韓国で有数の教会の牧師が「仏教国はみな貧しい」と発言し物議をかもしています。背景には李明博大統領のキリスト教への偏重があるといいます。
あからさまに「仏教国はみな貧しい」というような牧師はイエスの教えをどのように受けとめて信仰しているのでしょうか。キリスト教国には貧しいものはいない?というのでしょうか。それとも貧しいものは救われないというのでしょうか。「イエスを信じれば金持ちになれますよ」といってるみたいなものです。教会に真に身を寄せる信者が最も悲しんでいることでしょう。他国の話ではありますが、笑ってはいられない話題です。「商売繁盛」「家内安全」を宗教に頼む私たちなのですから・・・。
貧しいものであっても救われていくのが真なる宗教です。
「貧しいものであっても」という表現は真宗的ではないのでそれを言い換えるとすれば「貧しいものとともに(裕福なものが)」救われるのです。
貧しかろうが裕福であろうが平等に救われる、それが「世間」を超えたところの真実の宗教なのでしょう。
そもそも宗教的な救いに「貧富」を持ち込むからおかしくなってくるわけです。
こころが貧しいとか信仰に富むというときの「貧富」であれば話は違うのでしょうが、そのときの「貧富」も人間は裁くことができません。人間のものさしを超えた「真実の教え」によって裁かれてくる、懺悔されてくるところのものでしょう。その基準は「貧富」ではなく「真偽」であります。

私が救われる。
私こそが救われる。
私みたいなものでも救われる。
私だからこそ救われる。

救いを求める様々な視点があります。
「私が救われる」貧しい私でもなく、裕福な私でもなく、信仰深い私でも、迷信深い私でもありません。すべての「私」です。
「私こそ」となると、誰かとの比較のようなニュアンスがあります。
「私みたいなもの」には控えめな、逆に「私だからこそ」には思い上がったような態度を感じます。
どの私が救われるということではありません。救いは平等なのですから。ただ、平等な救いが疑うことなくいただければ「私みたいなもの」という卑下も、「私だからこそ」という威張りもいりません。逆に「私こそ」「私だからこそ」に懺悔の念が伴えば、「このような罪深い私(だから)こそ」救われる、とも展開できます。世間的な基準でなく、真実の道理によれば「私こそ救われなければならない」存在として見出されてくるのです。
寺に足も運ばず、お供えもしないようなアイツは救われず、お寺にせっせと通い、お供えを包んでいる私こそ救われなくてはならないのではなく、そんなアイツとともに救われていくのが真実です。アイツを救われないものにして「私」が救われなければならないと思っていた「私」こそが、救われなければならない罪深い存在なのでありましょう。
ただ、お供えはとにかく、まずお寺に足を運び真実の教えに触れることがなければ、世間的な迷いから抜け出すことはできません。ましてや自分を救われなければならないような存在にすること自体に大きな抵抗を感じるのでしょう。しかしそこから「罪深い私」に気づかされることがなければ「救われなければならない私」さえ見出すことはできません。

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