遊煩悩林

住職のつぶやき

人間回復

2006年01月20日 | ブログ

昨晩、特別伝道の発会式が多気町の法受寺にて開催された。「特別伝道」は、先日もお伝えした「推進員教習」に充当する研修会である。

常照寺が所属する南勢一組では、本年度が特伝の準備年度にあたる。4カ年で三重教区を一周するこの「特伝」は今回で第8次を数える。この第8次では、特伝の本講座を来年度に控え、特にその前年度を準備年度として、スタッフの学習会を開催することになった。スタッフとは各寺の住職や坊守などのこと。
いきなり門信徒を集めて講座を開く前に、そのお手伝いをする我々がまず率先して法を聞き、意思統一をはかっていこうという趣旨で開かれる。
これから3ヶ年にわたる特伝の出発式が昨晩の「発会式」になる。
講師として指導くださるのは、同朋大学教授である尾畑文正師。
昨晩も多忙の中、わざわざ丁寧なレジメを作成して、特伝の意義と真宗大谷派が展開する真宗同朋会運動について、そしてこれから学んでいく「観経」についてのお話をいただいた。

今回の特伝のテーマとして先生から「人間回復」といった課題が挙げられた。
「回復」ということは、私たちは人間の本来性を見失っているという指摘である。そう考えると「私は人間です」と胸を張っていえるだろうか。何を根拠にして私は人間であるのか。
「そもそも人間とは何なのか」「何を回復しなければならないのか」など、これから毎月の学習会の中で学んでいきたいと思う。第1回目の学習会は来月、常照寺を会場に開催される。楽しみだ。

「お寺で仏教を学ぶ楽しみ」というと、あまりピンと来ない人が多いかもしれない。「説教」的なイメージが強いせいだろうか。それとも特定の「宗教」を信仰することへの社会的な警戒感からであろうか。
「無宗教」という人が最近は多いというが、無宗教では根本的なところで生きることの意味がない、というか生きることの喜びの基準がないということのように思う。
「仏教を学ぶというは自己を学ぶ」ともいわれる。つまり仏陀の教えに「私」を聞いていくのだ。
誰しも自分の本当の姿は聞きたくないのかもしれない。自分にとって都合のいい自分像は納得がいくが、自分が認めたくない自分像は誰からも指摘されたくないものである。
しかし、他人が私を評価するのではない。「私」を仏に照らし合わせた時にどう映るのかということを確認する、それが仏教だと思う。「人」が「人」を問うのではなく、私の第三の目、すなわち心に問われるのである。「仏教を学ぶ楽しみ」は心眼を養うところにあるのかもしれない。

真宗では仏の教えに触れることを、「聞法」(もんぼう・もんぽう)という。触れるということはただ単に説教を聞くことだけではない。聞くこと、見ること、生活の全般にいたるまで仏のはたらきに出会うことが「聞法」と表現されている。熱心な真宗の門徒は聞法の楽しみを知っている。

さて、特伝のテキストになる「現代の聖典」は「観無量寿経」という経典の序文が描かれている。あるインドの王宮で起きた親殺しの話である。そこから私たちの人間性を学んでいくことになる。同時に聞法の生活を学んでいくのである。

本講座は来年開催。本講座に関心のある方はお気軽にメールなどお寄せください。

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