緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

松下眞一作曲「黒い僧院」を聴く

2020-05-08 23:26:45 | 現代音楽
これ以上ないというほど暗く荒涼としていて、恐ろしく不気味で難解な現代音楽を探してきたが、暗さと荒涼さの要素は薄いが、恐ろしく不気味で難解な現代音楽を見つけた。

松下眞一作曲「黒い僧院」。
1959年作曲。
松下 眞一氏(1922ー1990)は幼い頃から音楽の教育を受け、13歳には交響曲も作曲していたと言われている。
作曲活動を行う一方で、数学者として1965年から1980年までドイツの大学の教授として教鞭をとっていた。
数学者として、エルランゲン大学で特別講義を行うなど、位相解析学の世界的権威]としても知られる(Wikipediaより)。

ピアノ独奏曲のほか様々な編成での現代音楽を残し、私もいくつか聴いてみたが、どれもが難解な理解不能な音楽ばかりである。
初めて聴いたのは多分ピアノ曲だったと思う。

「黒い僧院」は第1楽章:朝、第2楽章:午後、第3楽章:真夜中の3部で構成されており、電子音は超越者を、具体音は周囲(僧院)の環境を、人声は人間存在の深層心理を展開するとされている(Youtubeの解説より)。
グレゴリオ聖歌が挿入されているが、かなり変性されている。

楽譜を見ると理解困難な図形、図面が記載されており、演奏は作曲家の指示がないと不可能と思われる。

Youtubeの音源を下記に貼り付けさせていただく。
あらかじめ断っておくが、現代音楽が嫌いな人や拒絶反応を示す方は絶対に聴かないほうがいい。
(夜眠れなくなるかも?)

日本の電子音楽 松下真一《黒い僧院》Shinichi MATSUSHITA
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静かな夜に(12)-ヴァイオリンソナタより1曲-

2020-05-08 21:16:57 | バイオリン
バッハのヴァイオリンソナタやパルティータの聴き比べをするようになって3、4年になるが、ヴァイオリンという楽器(チェロもそうかもしれない)やバッハという作曲家の音楽が自分にとってなかなかなじまなく、さまざまな演奏家の録音を聴いてもなかなかその違いや良さというものが識別できなかった。
バッハの音楽は聴いても強烈な感情刺激が得られないので、自分にとってはちょっと物足りなさを感じていたのかもしれない。
しかしバッハの音楽を繰り返し聴くようになってみると、別の側面、例えば、音楽の構成美、構築力の深さだとか、優雅さ、至福感とか、そういうものを感じる楽しみ方もあるのだな、ということが分かってきた。

バッハのヴァイオリンソナタやパルティータのみならず、原曲はチェンバロなのであろうが、現在ではピアノで演奏される6つのパルティータやイギリス組曲なども、同様な感じ方だ。
これらの曲は単に鑑賞という楽しみ方だけでなく、音楽を深めるためのテキストの役割も持つものだと思う。
バッハのヴァイオリンソナタやパルティータの聴き比べを繰り返していくうち、だんだんと今まで分からなかった奏者の違いが分かるようになってきたのは、何か新しいことを得られたような感覚を覚える。

このバッハのヴァイオリンソナタやパルティータはこれまでかなりの数の録音を聴いてきたが、最も心に響いてきた奏者は潮田益子とヨハンナ・マルツイの2人だ。
潮田益子の場合は、1970年代と1990年代の2回、全曲録音をしているが、私が好きな演奏は1970年代初めに録音されたものだ。

演奏が心に響いてくる程度を確かめる方法として、人にはあまりお勧めできないが、同時に何かをしながら(読書、インターネットなど音の混じらないもの)、演奏を流してみるというのがある。
昨日、今日とこの方法で、何人かの奏者のヴァイオリンソナタとパルティータを通しで聴いてみたが、やはり潮田益子とヨハンナ・マルツイの演奏に対し、自然と注意がいってしまう。
つまり同時に行っていることよりも聴こえてくる演奏の方に自然に注意が引き寄せられてしまうということなのだ。

潮田益子の演奏のなかでは、ソナタ第2番イ短調BWV.1003が好きだ。
ヴァイオリンソナタとパルティータ全曲のうち、私はこのソナタ第2番が最も好きなのであるが、この曲の魅力に気付かせてくれたのは彼女の演奏だった。
潮田益子の演奏の特徴って一言で言えば何であろう。
すごく清冽で生気に溢れ瑞々しく、淀みのない純粋な音並びに演奏、というところか(一言どころでなくなってしまった)。
彼女の演奏ってすごく真面目なんだけど、その真面目は悪い意味での真面目ではなく、何か、音楽に対し「真摯」に向き合っているその精神性が他の奏者よりもずっと強く感じられる、そういう「真面目さ」なのだ。
だから自分に妥協を許さない厳しさのようなものも伝わってくる(ヨハンナ・マルツイも同様)。

音楽の演奏に、何か野心とか、邪心のようなものがあり、その気持ちのためにあれこれと頭で考えて音楽を組み立て表現していると、聴き手の無意識にそのことが何となく感じ取られてしまうものだと思う。
作曲家の作った音楽を演奏するって本当に難しいことだと思うのだけど、楽譜に書かれていることを頭でいろいろ考えているレベルでは本当の意味で聴き手を感動させることは無理だと思う。
音楽は結局のところ作曲者という人間が作ったわけであり、その作曲者の人間としての感情や気持ちが動機になっている。
だから、楽譜に書かれていることをいろいろ分析したり解釈したりする作業は、確かに作曲者の感情を読み取っていく作業に他ならないのであるが、ただ多くの演奏は、表面的に読み取るだけで終わってしまい、生の感情にまで完全に「同化」するレベルまで到達できないのだと思う。
その曲が持つ「感情」と同化するには、どうしても演奏者の感情的豊かさ、感受性の強さ、鋭さがが必要であり、そのような能力を先天的、あるいは後天的であっても普段の日常から培っていないと、無理なのではないかと思う。

よく合唱演奏でそのようなことを感じる。
繰り返し聴く同じ合唱演奏をしつこいように何度か記事にすることがあるが、コンクールであれば賞に関係なく、演奏される曲の生の感情に「同化」した演奏は聴き手の感情の深いところまで浸透するし、眠っている感情を呼び覚ます。
そのくらい強い感情エネルギーが放出されている。
だから思うに、このような演奏は、表面的なレベルでの曲の解釈や構築という作業を超越して、曲そのものに同化、一体化するところまで行きついた演奏なのだと言えるのではないかと思うのである。

聴くと同時に何か他の作業をしていたけど、どうしようもなく、その音楽の演奏に引き寄せられ、他の作業をしていられなくなったならば、その演奏は本物である可能性は高いと思う。
それはその演奏から放出される感情エネルギーが聴き手の心の奥底まで浸透されたことを示すからである。
これはひとつのバロメーターと言える。

だいぶ横道に反れたが、潮田益子の1971年の録音で、ソナタ第2番イ短調BWV.1003の第3楽章:アンダンテを下記に貼り付けた。
私の最も好きな楽章でもある。
(Youtubeには音源がありませんでした)

【潮田益子 1971年 バッハ、ソナタ第2番イ短調BWV.1003の第3楽章:アンダンテ】





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