明日は休日だがちょっと早く起きて、マンドリン合奏のための個人練習をしようと思った。
寝る前に少しだけど書いておこう。
今日、ちょっと大きな仕事が片付いたのだが、久しぶりに上司や同僚と上手く、また気持ちよく連携して仕事が出来た。
何故かというとよく分からないのだが、今朝の通勤の電車の中で、自分の不完全さを受け入れられないと、その不完全さが鏡として映った他人(すなわち本当の自分)を責めたくなるのは辛い生き方だな、ということをあらためてふと思ったのである。
そして不完全でいい、不完全で当り前、みんな不完全、だから自分をもう責めなくていいんだ、という感覚になったのである。
不思議なことに完全、完璧を目指すと人は自信を失い、不完全でいいと思えるようになると人は自信を持つように出来ているようだ。まさにパラドックスの心理だ。
不完全であることを許し受け入れられるようになると、他人に対する親しみが強くなる、というのは人間の心の真理のようなものだと思う。
不完全であることを受け入れられれば、仲間と協力して最大限の効果をもたらすことが出来る、というのもこれも真理、というか心の法則のようなものだと思う。
「心理的安全性」と言う言葉を近年、職場の研修で聴くようになったが、「心理的安全性」とは「不完全であることを受け入れている」人たちの集まりで初めて実現可能な状態、環境であろう。
先ほどGメン75を見たが、「ずべ公」、「どぶねずみ」と見下げられた女性と優秀な男性刑事との心理描写の対比が描かれたストーリーであったが、前者の心の核心は純粋で人間の心を失っていなかったのに対し、後者の心は野心や出世欲にまみれた冷酷で狡猾なものであった。
前者の女性は初めはその外見や他人の証言により響刑事(Gメンの女性刑事)から人生の落伍者と蔑まされ、激しく叱責された。しかし、響刑事は最後にはこの女性の純粋な偽りの無い心に圧倒された。
「不完全さを受け入れる」こととこの「純粋な偽りの無い心」とは連関していると思う。
人間、どう生きようが自由であるが、どちらの生き方が幸せと言えるだろうか。