goo blog サービス終了のお知らせ 

緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

「ずべ公」と「優秀な刑事」

2025-07-04 22:46:10 | 心理

明日は休日だがちょっと早く起きて、マンドリン合奏のための個人練習をしようと思った。

寝る前に少しだけど書いておこう。

今日、ちょっと大きな仕事が片付いたのだが、久しぶりに上司や同僚と上手く、また気持ちよく連携して仕事が出来た。

何故かというとよく分からないのだが、今朝の通勤の電車の中で、自分の不完全さを受け入れられないと、その不完全さが鏡として映った他人(すなわち本当の自分)を責めたくなるのは辛い生き方だな、ということをあらためてふと思ったのである。

そして不完全でいい、不完全で当り前、みんな不完全、だから自分をもう責めなくていいんだ、という感覚になったのである。

不思議なことに完全、完璧を目指すと人は自信を失い、不完全でいいと思えるようになると人は自信を持つように出来ているようだ。まさにパラドックスの心理だ。

不完全であることを許し受け入れられるようになると、他人に対する親しみが強くなる、というのは人間の心の真理のようなものだと思う。

 

不完全であることを受け入れられれば、仲間と協力して最大限の効果をもたらすことが出来る、というのもこれも真理、というか心の法則のようなものだと思う。

「心理的安全性」と言う言葉を近年、職場の研修で聴くようになったが、「心理的安全性」とは「不完全であることを受け入れている」人たちの集まりで初めて実現可能な状態、環境であろう。

 

先ほどGメン75を見たが、「ずべ公」、「どぶねずみ」と見下げられた女性と優秀な男性刑事との心理描写の対比が描かれたストーリーであったが、前者の心の核心は純粋で人間の心を失っていなかったのに対し、後者の心は野心や出世欲にまみれた冷酷で狡猾なものであった。

前者の女性は初めはその外見や他人の証言により響刑事(Gメンの女性刑事)から人生の落伍者と蔑まされ、激しく叱責された。しかし、響刑事は最後にはこの女性の純粋な偽りの無い心に圧倒された。

「不完全さを受け入れる」こととこの「純粋な偽りの無い心」とは連関していると思う。

 

人間、どう生きようが自由であるが、どちらの生き方が幸せと言えるだろうか。

 

コメント

対人恐怖症の解決の糸口として簡単に実行出来ること

2025-06-27 22:48:24 | 心理

勤務先で最近、ある取り組みが行われている。

それは、とにかく挨拶すること、ほめること、そして、ありがとう、と感謝の気持ちを進んで表現しようというものである。

当たり前のことだと思われるかもしれないが、これが日常、自然に出来ていない人は結構いるのではないだろうか。

別に、嫌ならしなくてもいいのである。

しなかったと言っても責められる筋合いはない。

以前の自分はなかなかこの基本的なことが出来なかった。

何故かと言うと、言っても無視されるのではないかという恐怖があったからだ。

おはようございます、お疲れ様でした、と言っても何も返ってこなかったときの何とも言えない気持ちを感じたり、ありがというと言っても素気ない態度を取られた、など嫌な体験をしたからではないかと思う。ある意味トラウマだと思う。

実際に同じ職場、同じサークルでも、顔は知っている程度の人には挨拶をされてもしない人は少なからずいる。

以前は毎日同じ環境にいるのに何故この人は挨拶を返してくれないのか、私は挨拶もしてもらえないほど存在感の無い、無価値の人間なんだろうかと思い悩むこともあった。

でも相手が挨拶するかどうかはあくまでも相手が決めることなのである。それは相手の性格、価値観、習慣、人間に対する親近感の度合いによって差が現れる。こちらがコントロール出来るものでないし、コントロールするものではない。

単に挨拶しなかった人間はそういう種類の人間であったにすぎないということである。

しかし、中には、殆ど面識が無くても積極的に挨拶してくる人もいる。ドアを開けたときに先方から丁寧によけてくれたり、こちらが譲れば丁寧に感謝の意を表す方もいる。こういう方と接したときには自然と気持ちが嬉しくなる。

このような人は観察していると本質的に人間が好きで、警戒心が薄い人である。また人に対するマナーが若いときから鍛えられている人でもある。

今いる勤務先には同じフロアに大勢に人間がいるので、実に様々な人間がいることに気が付く。

本質的に人間が嫌いで、敵と感じている方はなかなか挨拶をしなかったり、ドアで鉢合わせになったり狭い通路ですれ違うときでも自分からよけようとしない。それは当たり前のことである。何故ならば、挨拶をしたり、譲ったりすれば「自分が負けた」、「自分の価値が下げられた」と認識するからである。

でも実はこのようなふるまいをすることでそのような人はますます、人間が嫌い、人間は敵だという無意識に定着した感じ方を強化しているのである。

一方、対人恐怖症に苦しんでいる人は殆どの場合、本当は人と親しくしたいのだけど、過去の人との恐怖体験から挨拶や感謝の気持ちを表現出来ない。

気持ちを表現して無視されたり、拒絶されたときの恐怖が身に染みているからである。

しかし、あえて言いたいのは、それでも本当に人と親しくなりたいという純粋な気持ちがあるのならば、思い切って挨拶したり、ありがとう、と言ってみてはいかがだろうか、ということだ。

10人のうちは半分は返ってくるかもしれない。そのうち、何も返ってこなくても何も感じなくなる。

挨拶をしてくれないのはその人の選択であり、自分に無関係であることが実感出来るようになるからである。

挨拶をするしない、感謝の気持ちを表現するしないは全く自由である。誰も咎めることは出来ない。

しかし、あえて言いたいのは、挨拶をする、感謝の気持ちを表現することで人間が好きだ、人間に親しみを感じるという感情が強まっていく効果があることは間違いないということだ。

「行動はその背後にある動機を強化する」、これは確かジョージ・ウェインバーグの言葉だったと思うが、自分の体験からもそのとおりだと思う。

 

コメント

最近得た気付き

2025-05-09 22:04:40 | 心理

昨日だったと思う。

ある重要な気付きがあった。

通勤電車の中でボーっと窓の景色を見ていたとき、こんなことが浮かんできた。

20代のころの、こんな自分では駄目だと思い、凄まじい努力をして自分を立派な人間に変えようとして、心を病んでしまったときの自分がふと浮かんできた。

そのときに、あの頃、結果的には間違った選択、すなわち自分を破壊する選択だったにしても、自分で正しいと信じて疑わずに一生懸命に、真剣に努力していたんだな、と心底思えたのである。

自分の心を自ら破壊する行為であったのにもかかわらず、自分なりに生きることにものすごく真剣で、誠実であったんだなと。

その真剣さ、誠実さというものが半端でなかったことに気が付いたのである。

 

間違った解決方法だったけど、一生懸命に頑張った自分がなんかいとおしく感じたんですね。

それから1つ大きな重しが取れたように感じられた。

自分を丸ごと受け入れる、ということがこういうことなのかな、という実感があった。

 

音楽でいうと、チャイコフスキーもベートーヴェンもシューベルトも最後には苦しかった人生を丸ごと受容する心境に至ったのではないかと思っている。

彼等の最後の方の音楽を聴くとそんな感じがする。

プラス、マイナス、ゼロ。

このマイナスを受容できるようになって初めて、ゼロ、すなわち、ものごとの価値に差が無いことが実感として分かってくるような気がするのである。

 

コメント (4)

生きる上で最も大事なこと「自分を駄目だと思う」理由は全く無いということだ

2025-03-09 00:40:27 | 心理
随分遅い時間となってしまった。一筆書いて寝ることにしたい。
今夜は講習会で親しくなった仙台と静岡の友人とオンライン飲み会をやった。
3時間ほど。いつもながら彼等との飲み会は楽しかった。

結構、深い話題が出た。
苦しみを抱えているときに、お互い支えることの出来る関係なのである。
自分は社会人となりメンタルを病んでから50代の前半まで仕事以外では人との交流を持つことが出来なかった。
仕事はあくまでも仕事での関係に過ぎない。
プライベートで人と親しくなることが極めて困難な状態だった。

5年前の彼らとの出会いが自分を変えた。
講習で受講生通しでセッションをやるのだが、そこで彼らと出会い、本音で自分をさらけ出した。
1回のセッションで5時間ぶっ通しで話し込んだことも何度もあった。そういうときは2時間しか寝ないで仕事に出かけるのである。

今日彼らは、私がここまで良くなったのは私がものすごい努力をしたからだと言ってくれた。
確かにそれもそのとおりだと自分でも思う。人間心理について長い間絶え間なく取り組んできた。

彼等との出会いは確かにものすごく大きい。
そして自分がみずからの努力で得た、最も大事なことは、「自分を駄目だと思う」理由は全く無いということだ。
「自分は駄目だ」、「自分は情けない」、「自分は至らない」など、自分を否定することを無意識に絶えず行なっていることに気が付くことが第一歩であった。

「自分は駄目だ」なんてことは全くあり得ないことなのだ。それは自らが作り出していることに過ぎない。
「自分は駄目だ」を測るモノサシなどは無いのである。
そのモノサシを与えた人物の言うことを受け入れたのである。受け入れざるを得なかったのである。そのことを責めてはいけない。
それ以来そのモノサシで自分を常に評価し続けてきた。

このモノサシを捨てることで対人恐怖が和らいでいった。

今年こそ3人で旅行に行こうという話になった。
9月下旬かな。お互いめったに合うことの出来ないところに住んでいるので、夜通し酒盛りになるだろうな。
コメント

否定的自己認識、否定的自己評価と傷つきやすさ

2025-01-26 21:41:15 | 心理
今日は東京某町で東京マンドリンクラブの合奏練習があった。
1週間後に大規模演奏会の練習も始まるため、こちらの練習もパラで開始しているが、なかなか十分に練習出来ない。
思い切って夜遅くにギター弾ける環境に変えるしかないかな(隣の床ドンばあさんとはさらばだ)。

練習後は反省会に参加。今日の反省会も楽しかった。
結構飲み食いしたが意外に料金は安かった(ものの値段は上がっているのに、居酒屋はわりに上がっていないのが不思議)。

居酒屋の近くでイチゴ大福が売っていたので思わず食べたくなったが、そこで買うのはやめて、家の近くのコンビニで見つけて買った。
ファミマ限定という紅白のイチゴ大福だった。寝る前にこんな甘いものをたくさん食べるのはよくないのだが欲望に負けて2つとも食べた。



さて、くつろいでから帰りの電車で思索していたことを記事にすることにした。
心の苦しみから解放されるための重要な気付きとして最近あらためて感じられたことをメモしておこうと思ったのである。それはこんなことだ。

他人から言われたことや他人の態度で心が反応するのは、自分のこれまでの人生で自らが下した自己認識、自己評価と、それらにリンクしている感情と密接な関連性があるということである。
これらの普段意識されずに、潜在的に内面化された自己認識、自己評価がマイナスの場合、例えば「自分は劣っている」、「自分は周りから嫌われている」、「自分は迷惑な人間だ」などといった否定的自己認識、否定的自己評価が内面化されている場合、他人から言われた何気ない一言や態度を契機として、その否定的自己認識、否定的自己評価が表面意識に浮上するとともに、それらとリンクしている悪感情(怒り、恐怖、悲しみ)が発生するということである。プラスの場合は逆の反応であろう。

他人の言動 ⇒ 反応 ⇒否定的自己認識、否定的自己評価との関連付け、認識、解釈 ⇒ マイナス感情(怒り、恐怖、悲しみなど)の発生

このマイナス感情は自分の人生プロセスでの様々な体験で味わった感情であり、否定的自己認識、否定的自己評価との関連付けが強固になっていると思われる。
よく逆切れとか、かっとなる、ということを聞くが、この心理状態はこのような心理メカニズムで起きていると思われる。

もし否定的自己認識、否定的自己評価が無いとしたら、他人の言動を「他人のもの」として受け止めるであろう。要は自分の価値や評価とは何ら関係ないと認識出来るわけだ。
他人の言動は自分とは関係無い他人のものとして客観視出来るわけである。

傷つきやすさはどれだけ否定的自己認識、否定的自己評価を持っているかに比例していると思う。
傷つきやすさから解放されるためには、傷ついた時に、自分の心の中のどんな否定的自己認識、否定的自己評価が反応したのかを自己観察する必要がある。
そしてその特定された否定的自己認識、否定的自己評価を持つに至った過去の体験を思い出してみる。
そして最も重要なことは、否定的自己認識、否定的自己評価を持つに至った自分を決して責めずに、そのまままるごと受け入れてあげることだ。
その作業を積み重ねることで否定的自己認識、否定的自己評価から徐々に徐々に解放されていくと感じている。

コメント