緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

感動した合唱曲 全日本合唱コンクール高等学校部門(5)

2015-12-29 13:40:01 | 合唱
全日本合唱連盟主催の合唱コンクール高等学校部門全国大会の演奏で、特別に大きく感動したものを紹介してきた。
自分で勝手にシリーズ化しているが、今回で5回目になる。
今回紹介するのは先日記事にした「きょうの陽に」(作詞:新井和江 作曲:嶋みどり)である。

この課題曲「きょうの陽に」は今から13年ほど前に、Nコン課題曲として採用されていたので既に聴いていたが、合唱曲の中でも感動度の高い素晴らしい曲だ。
今年の夏から2013年度(第66回)合唱コンクール高等学校部門全国大会で演奏された全ての学校の録音(16校)を聴き比べ、その中で最高に感動したものを選出した。
その演奏者とは、東京都共立女子高等学校音楽部(17名、指揮者1名、伴奏1名)である。
先日の記事(2015/12/20付け)でも紹介したが改めて取り上げさせていただきたい。
なお、詩の解釈等は先日の記事で書いたので、ここでは省略する。

この共立女子高等学校の演奏に最も惹かれた要素は何かと考えてみる。
多くの高校が、いわゆるコンクールに勝つための演奏をしているのに対し、この高校はそれと対極にある演奏をしていたからではないか。
初めて聴いた時、多くの学校の演奏法とは「何か違う。」と思った。
決して無理をしない。
力みが無い。自然体の演奏だ。勝つための演奏をしていないからそうなるのであろう。
しかし、強い表現を求められる部分は、力強い。
「わたしは今 あたらしい世界へ向かって走って行く」などの部分の低音パートがそうだ。
自然に適った力強さ。
この力強い低音と澄んだ高音との掛け合いから織りなすハーモニーがいい。
歌声の裏から、演奏者たちの、この年頃特有の清らかさ、優しさの気持ちが伝わってくる。
冒頭の出だしからその気持ちが伝わってくる。
中間部の「川の流れのように」の歌声で一層明瞭になる。
特に後半の無伴奏の「ほかならぬわたし自身になるために」の部分は圧巻!!。
素晴らしいの一言に尽きる。
だから何度でも繰り返し聴きたくなるし、実際に聴いてしまうのだ。
ここの表現が最大のポイント。
この部分をやたら速く、急き立てるような強い声で歌っている学校もあったが、折角の曲を壊してしまっている。
この部分を何故無伴奏にしたのか。その意味がわかれば、音の強さ、速度はおのずと決まるであろう。

この「きょうの陽に」という曲は、詩も曲も女性らしい感性に溢れている。
だからこの大会では「女声」のみの指定であった。混声バージョンもあるが、男声が入ると、繊細な感性を表現出来ないであろう。
未知の新しい世界へ旅立とうとしている一人の人間の、おそらく女性であろうが、未来に対する決意と希望に満ちた気持ちを歌った曲だ。

今回この「きょうの陽に」の全16校の演奏を聴き比べて感じるのは、高い賞を得るために意識された演奏が多いと感じたこと。
高校生らしさを絶った、成人女性のような声、しかも音質を均一にし、不必要に音量を強くする。
このような演奏を聴いても何も感じない。指導者により計算され、コントロールされているからだ。
力んだ声が怖い声にさえ聴こえてくる。演奏者たちから自然な感情が流れて来ない。繊細な感情が伝わってこない。
無理もない。意図的にあるべき声に従おうとすると、自然な感情が引き出されるわけがない。歌っている高校生たちが不憫にも感じられる。
しかし現実として、このような演奏が審査員から多くの得点を引き出しているのだと思う。

コンクールという場が、高い賞を取って名誉を勝ち取ることに意義を持たせているから、このような演奏が出てくる。
ここ数年コンクールの生演奏を何度か聴いたが、何故かあまりいい感じがしなかった。
今、その理由が何となく分かってきている。
ここ数年多くの合唱曲を聴いてきて、コンクールに勝つための演奏というものがあることが見えてきた。
しかし、プロになるための登竜門としてのコンクールでないのであれば、賞を意識する必要は全く無い。
賞を意識すると絶対に音楽が駄目になる。
金賞など取らない方がいい。
無名だった学校が、金賞を取って注目され、部員が増えて次第にその学校本来の良さが失われていくこともある。
注目されると、周りからの高い評価を維持するために余計な心理的負担を抱えることになる。
コンクールに勝つための演奏をして、毎年全国大会に出場して高い賞を取るよりも、聴き手に深く大きな感動をずっと長い間与えてくれるような演奏をして、全国大会に出場できなかった方がまだいい。
幸いNコンはブロック大会や都道府県大会の演奏も聴くこともできる。

案外合唱曲という枠の中だけにいると、何が本当にいい演奏なのか、というのが見えなくなるのではないか。
高校生の合唱曲はコンクール主体なので、余計そうなのかもしれない。
長く器楽をやってきた側からすると「え、なぜこの演奏が金賞?」と感じることもある。
しかし過去の音源に遡ると、今回の共立女子高等学校のような演奏をする学校に出会うことがある。
その数は少ないが、このブログでこれまで何校か紹介させていただいた。

結局いい演奏とは、聴き手の奥底にある感情を自然に引き出すことの出来る演奏だ。
演奏者自身の心持ちに依存するレベルの高い演奏法である。
表面的な上手さだけが突出する演奏とは根本的に違う。
器楽曲を長く聴いていると両者の演奏の区別はある程度出来るようになる。しかし合唱曲だけの世界にいればかえってわからなくなるかもしれない。
この共立女子高等学校の演奏スタイルが変わらないことを望む。

今後も長く何度も聴き続けることの出来るいい演奏を紹介していくつもりだ。
そして出来るだけ、コンクールだけでなく学校の定期演奏会にも足を運んでみたい。


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宇都宮大学マンドリンクラブ第45回定期演奏会を聴く

2015-12-27 01:08:32 | マンドリン合奏
今日(12月26日)、栃木県宇都宮市の総合文化センターで、宇都宮大学マンドリンクラブ第45回定期演奏会が開催されるので、聴きに行った。
宇都宮大学マンドリンクラブの存在を知ったのは今から1年半ほど前になる。
2014年8月10日付けの記事「西村 洋 ギターの芸術を聴く」でギタリストの西村洋氏の演奏を紹介したのだが、これをきっかけに西村氏が母校の宇都宮大学のマンドリンクラブで、常任指揮者を務めていることを知ったのである。
この記事の結びで、いつか宇都宮大学のマンドリンクラブの定期演奏会を聴きにいきたい、と書いていたが、今日、それが実現したわけだ。

宇都宮大学マンドリンクラブのホームページを見ると、宇都宮大学マンドリンクラブは西村氏が大学時代に設立したと書いている。最初はギター・パートだったが、後で指揮者となったようだ。
西村氏は宇都宮大学の音楽科を専攻している。
西村氏の演奏を初めて聴いたのが、今から27年ほど前。
伊福部昭の3つのギター曲を聴きたくて、西村氏の録音があることを知ったが、LPは既に廃盤になったと言われた。
しかし諦めずにやっと思いでLPレコードを探し当てた。
「箜篌歌(くごか)」と「ギターのためのトッカータ」は素晴らしい演奏だった。
そして次に中古LPで買ったソルの曲集も素晴らしかった。
とくに「わたしが羊歯だったら」による変奏曲」は大きな感動を与えてくれた。
私は西村氏の音の作り方、音楽性を理想としている。
特に音の作り方は長い間の研鑽と研究から生み出されたものだと感じさせられる。
昨今の貧弱なアルアイレ中心の音とは次元が違うのだ。

今日は天候に恵まれ暖かかったが、宇都宮駅周辺は意外に寂しく、活気は感じられなかった。
18時開演。
クラブ員の数は総勢25名程度か。少ない。マンドリン・アンサンブルの規模である。
プログラムは第一部がポピュラー音楽やクラシック小曲の編曲物、第二部が3年製のみの演奏で、ポピュラー音楽の編曲物、そして第3部は、丸本大悟作曲、組曲「杜の鼓動」より1楽章「欅の風景」、藤掛廣幸作曲「星空のコンチェルト」という構成であった。西村氏は第3部のみの指揮となる。
星空のコンチェルトの生演奏は今年で3回目になる。

さて演奏の感想であるが、最後の「星空のコンチェルト」以外の曲は練習の成果が表れたほどよく楽しめる演奏だったと思う。
「星空のコンチェルト」は正直に感じたことを言うと練習不足。致命的な音間違いはやはり最小限に抑えなくてはならない。
それと演奏している学生たちの表情が気になった。
音楽を演奏しているときの高揚感、情熱、喜び、若さ湧れるエネルギーといったものが、すくなくとも今日の私には感じられなかったのである。
私は今日寝不足だったので、そのように感じたのかもしれない。
しかし殆ど弾けていない1年生がいたのはどうかと思う。

大学のクラブは厳しいものから余興のようなものまで様々であるが、アマチュアである以上、その成果の発表については、極力厳しい評価はしないつもりだ。
しかし聴き手はやはり、厳しい練習を乗り越えて生みだした、最大限の成果を披露してくれる演奏に真に感動するものだ。
そのプロセスの中には、部員がまとまらなかったとか、人間関係の軋轢に苦しんだとか、難所に対する技術的な挫折など、人知れず苦労した事実が表に出ていなくても裏に見えているものである。

そうは言っても大学のサークルは、それぞれ現状の身の丈に合うレベルの中で制約や限界を感じながらも精一杯活動していることを認めなければならない。
今回の演奏会を聴いて色々なことを考えさせられた。
結果的に自分が主観的に望むレベルの演奏内容ではなかったとしても、彼らは、会場に聴きに来てくれる人に対し、プログラムの準備等のおもてなしをし、精一杯の努力の成果を聴かせてくれたことは事実なのである。
今日、聴き手のために努力を積み重ね、演奏を披露してくれた宇都宮大学のマンドリンクラブの方々に感謝したい。


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合唱曲「きょうの陽に」を聴く

2015-12-20 16:15:21 | 合唱
合唱曲「きょうの陽に」を聴いたのは今から12,3年前だったか。
東京高田馬場駅前にあったムトウ・レコード店に立ち寄り、邦人作曲家のCDを買いに行った際に、NHKの合唱コンクール全国大会のライブ録音のCDを見つけ興味本位で買ったのである。
平成13年度全国大会高等学校の部の録音であった。
このCDで高校生の合唱曲を初めて聴いたのである。
この年の課題曲は「きょうの陽に」(作詞:新川和江、作曲:高嶋みどり)という曲。
初めて聴いた時はあまり印象に残らなかったが、しばらく繰り返し聴いていると、じわりとこの曲の素晴らしが伝わってくる。歴代の課題曲の中でも、大会が終わっても埋没することなく、歌いつがれていくべき曲だ。
昔のNコンの課題曲はこのような奥の深い構成力のある歌に恵まれていたが、ここ数年の課題曲の多くは、新しい感覚をふんだんに取り入れているが、何度も繰り返し聴いてみたいと思うほどのものではない。
多分時間が経過すると記憶から薄れていくかもしれない。

「きょうの陽に」は平成13年度のNコン課題曲として作曲され、女声、混声両方のバージョンが用意された。
この曲は平成25(2013)年度第66回全日本合唱コンクールの課題曲にも選出されたが、この大会では女声のみの指定である。
この曲を演奏を聴き比べたくて、4枚ものCDを買ってしまった。
全日本合唱コンクールの録音CDは値段が高いので痛い出費だ。
この全日本のCDで13校、Youtubeで1校の録音を聴いた。
聴き比べて驚くのは、学校によって歌い方、音量、強弱、速度の選択、詩や曲の解釈に大きな差があることだ。
これは指導者の差でもあると言っていい。
この曲を終始かなり強い音で歌っていた学校があったが、この曲にはふさわしくないように思えた。
何故そんなに強く歌う?
繊細な曲だ。人数はせいぜい40人までが限度だと思う。
全日本合唱コンクールでは100人以上で参加する学校があるが、大人数でこの曲を歌われると、正直、「音の強さ」だけが耳に残ってしまう。
幸い全日本合唱コンクールではいくつかの課題曲が選択できるので、人数、音量に適した曲を選ぶことができるであろう。

明るく、繊細な優しさ、穏やかで、瑞々しい、希望に満ちた、女性の作者らしい曲だ。
暗さ、悲しさといった負の感情は一切無い。
詩の中に「レモン」という言葉がたくさんでてくる。
冒頭は「林檎」であるが、それが「レモン」に置き換わり、曲の雰囲気を変えた長い中間部の後の終結部に、「レモン」が再現される。
最初から「レモン」ではなく、「林檎」を前に置いたところが興味深い。
「神話のなかの林檎」とは北欧神話に出てくる「青春の林檎」を指しているのか。
「きょうの陽にかがやくレモン」がこの曲の主題だ。
高い梢で太陽の陽を浴びて輝くレモンを見て、作者は新しい世界に旅立つ際の、強い希望と高い志を感じている。やはり女性の感性から生まれる気持ちだ。
そしてこの前途に対する希望に満ちた気持ちに対し、曲が見事に応えている。それがこの曲の素晴らしいところ。

中間部から、次のような歌詞が出てくるのであるが、転載させていただく。

自分で自分を洗いながら
たゆまず流れる水のように
こころを磨き 走って行く
ほかならぬわたし自身になるために

この文章からはとても大事なことを改めて考えさせられるし、教えられることが多い。
ここでは「父母のはるかな川」、「なつかしい村」といった表現でなされる今までの自分はあるけれど、それを土台に新しい自分に向かって走っていきたいと言っている。
これは古い自分を洗い流して新しい自分に飛躍していくことだけを言っているのであろうか。
「自分で自分を洗う」。これは社会人になって世の中でもまれていく人生において、とても「重要なキーワード」だ。
社会に出ると「善悪」、「苦楽」様々なものに翻弄され、疲弊し、自分を見失い心を病む人もいる。
昨今はそのような傾向が増えてきている。情報文化の急速な発展に伴い、人間も変わり、人間社会が複雑になり、とらえどころが無くなってきているからだ。
常にきれいな水で流れる川のように、こころを浄化しかつ磨き、生きていくことは意外に難しい。
人のおいたちや、今いる人間関係の質にもよるが、心を平穏に保ち、元気で前向きな気持ちでいられるためには、やはり人が誰でも本来もっている根源的もの、表現するのがとても難しいが、「人が幸福に生きていくために本来生まれながらに備わっているこころの規範」といったものに気が付く必要があるのではないか。
愛されて育った人であればこれをあえて意識することはないであろう。
親をはじめ、いい人間関係からそれを授けられているからだ。
しかしそうでなかった人は、これに一生気が付くことなく、正道を踏み外し、あるいは自滅し、生涯を終える人もいる。
危ないのは、真面目で正直であるがゆえに競争環境の中で自己啓発、向上意識をはめ込まれ自分を追い込み、自ら苦しい生き方を強いてしまうことだ。
知らず知らずにこのような生き方を選択して、悪感情にさいなまれながら生きている人はたくさんいる。
「ほかならぬわたし自身になるために」とはもちろんこのような偽りの向上心によるものではない。もっと根源的な本当の自分の自発的な気持ちから生まれ出るものである。

「ほかならぬわたし自身になるために」「自分で自分を洗う」とは、結局、自分を自らを縛り、苦しめているものに気付き、それを洗い流し、本来自分が根源的に持っているもの、例えば能力や、自然な感情といったものが自然に浮き上がってこれるようにすることではないか。私はこの意味をこのように解釈した。

「自分で自分を洗う」手段として私には音楽があった。
音楽の自己浄化作用というものに初めて気付いたのは、20代の半ばで、私が精神的に最も苦しかった頃である。
この時に、チャイコフスキーの交響曲「悲愴」を何度も聴き続けていた。
何故この曲だったかわからないが、たまたま偶然の出会いでこの曲を知り、乾いた紙に水がしみこむように聴き入った。
その過程でさまざまな感情が放出された。そしてしばらくすると何かこころの重しが一つとれたように感じた。
次に経験したのは、今から5年くらい前である。
中学校時代の合唱大会で歌った曲が忘れられずに、その後10年、20年、それ以上たっても心にその旋律が蘇ってくることがあった。
その曲をもう一度聴きたいと何度か探したが、曲名を忘れてしまっていたので、インターネットが普及した後でもなかなか探し出すことが出来なかった。
5年前のある日、またこの曲の旋律が蘇ってきた。そして結構長い時間をかけてインターネットで探した。
そしてYoutubeでついにこの曲に再会したのである。
その曲は「木琴」という曲であった。
その日以来、2か月以上毎日、その曲をむさぼるように繰り返し聴き続けた。
その過程で、こころの中のいろいろなものが解放されるのを感じた。

心の中に堆積し解決されないで残ったものを開放し、また同時に、自分を自ら縛り上げ、苦しめているものに気付く必要がある。
以上、生きることが苦しいと感じている人が、この詩で言っている「ほかならぬわたし自身」を取り戻すために、自分の視点から何が必要か考えてみた。だからこの詩の真意から外れたかもしれない。

この曲を先の全日本合唱連盟主催のコンクール全国大会とNコン全国大会のライブ演奏の、計18校の演奏から、最も印象に残り、素晴らしい演奏だと感じたものを紹介したいと思う。

まず全日本合唱コンクールでは、東京都共立女子高等学校(17名)。
歌声の裏にある、演奏者たちの気持ちが自然で清らかなのだ。無理をしていない。
極めて高校生らしい歌い方であるが、歌声の裏側から聴こえてくるのは、この年頃特有の女性らしい優しさである。
とくに、無伴奏の「ほかならぬわたし自身になるために」の部分は圧巻。
このような歌い方をする学校は少なくなったと思うが、過去の演奏を探せばあるにはある。
私はこのような演奏が最も好きだ。
演奏者のこの曲に対し感じている純粋な気持ちを引き出す手法。この学校の指導者は、この曲が最も求めているものを表現しきったと思う。
ついでにこの学校のピアノ伴奏も素晴らしかった。

次にNコン全国大会の方であるが、福島県立安積黎明高等学校(40名)。
この学校の黄金期の演奏だ。まさに素晴らしい演奏。
聴く者の感情を強く揺さぶる演奏とは、この学校の演奏のことを言うのであろう。
頭で言ったことではない、本当の感情は相手の感情に変化をもたらす。
力強さを感じる歌声であるが、決して無理をしていない。
無伴奏の「ほかならぬわたし自身になるために」の部分と最後の「レモン」の再現部では、演奏者たちの本当の気持ちを聴きとることができた。

こうして考えてみると、いい演奏とは、賞や順位、名誉といったものから解放されたものなのだ。
詩や曲の素晴らしさに感動し、その気持ちが自然なかたちで表出される。
音を出す前にまず気持ちだと思う。

今回も素晴らしい曲、演奏に出会うこともできた。
こういう曲や演奏が記録として残されていく必要がある。
Youtubeは著作権の問題があるが、合唱コンクールの主催者は過去の音源を積極的に公開してほしい。
私も微力ではあるが、本当にいい演奏はこの記事で紹介し続けていくつもりだ。




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母校マンドリンクラブ第47回定期演奏会を聴く【後編】

2015-12-13 00:23:09 | マンドリン合奏
去る11月28日にめずらしくこの時期に一時帰省した。
母校のマンドリンクラブの定期演奏会を聴きに行くことにしたからだ。
演奏会の模様は【前編】で記事にした。
素晴らしい演奏会であった。はるばる遠方から来た甲斐があった。
2時間余りの演奏であったが、今年聴いたコンサートの中ではとても満足できる内容であった。
【後編】では演奏会の前日に自宅を出発してから北海道に到着し、学生時代に住んでいた大学周辺や大学を訪れたことを記したい。

出発日の28日は朝4時過ぎに起床し、空港のある成田に向かった。
羽田ではない。格安航空会社(LLC)の便を利用するためである。
この格安航空会社は日本で3社ほどあるが、時間帯で料金が異なる。一番安い料金であれば往復1万円ほどで購入可能だ。
手荷物を預けたり、座席を指定すれば追加料金を取られる。
今回私はJetStarという航空会社の便を利用した。往復で手数料込み15,500円。
成田空港発着なので空港までスカイライナーを利用すれば割高となる。
しかし成田空港・東京駅間1,000円の高速バスが出ているので、それを利用すればモノレールで羽田空港に行くのとくらべ料金の差はそんなに無い。高速バスだと約1時間だ。

格安航空会社のカウンターはJALやANAなどに比べ簡素だ。案内なども殆ど無い。従業員も最小限しか配置せず、コストを切り詰めている。



搭乗口も至って簡素で、飛行機まではバスで移動する。その分JALなどに比べて時間がかかる。





飛行機の大きさは小さい。機内も当然狭く、真ん中の通路の左右に3列、計6列の座席の配置で、隣、また前後の座席の間隔が非常に狭い。一応座席の背もたれはリクライニングでいくらか後ろに倒せるが、後ろの座席の人は不快感を感じるに違いない。
飲み物などの無料サービスは一切無いが、ワゴンで飲食物やグッツなどをキャビン・クルーと言われる乗組員が売りにくる。

飛行機の操縦も不安感を感じることなく、快適なフライトであった。幸い私は行きも帰りも窓側の席で、隣の座席が空席だったので、窮屈な思いはせずに済んだ。
窓側だったので、窓から色々な景色を楽しむことが出来た。



5,6年前から帰省の際には飛行機を利用しているが、行きも帰りも夜なので、景色を見ることもなかった。
昼間のフライトであれば、絶対に窓側に座った方がいい。
下の写真は行きの便の窓から富士山が見えたので撮ったもの。



乗車人数が少ないためか、着陸後の手荷物の受け取りも待たずに済むようだ(JALなどは繁忙期だと預けるのも受け取るのもとても長い時間待たされる)。
11時前に千歳空港に到着。JRに乗り、札幌から母校のある某地方都市方面の快速列車に乗り換える。
30年前は札幌とこの都市間の所要時間は45分であったが、今は30分程度で行けるようだ。
列車も随分変わった。
北海道で古くから電化されている区間は、旭川~小樽間であったが、昭和50年代半ばに札幌~室蘭間が次いで電化された。現在でも北海道で電化されているのはこの2区間のみのようだ。
私の学生時代は、この電化された区間でも、かなりの数の気動車(ディーゼル車)が走っていた。
電気の力ではなく、重油を燃料として走る列車で、今も非電化区間で走っている。
そして旭川~小樽間では当時、ED76という型式の電気機関車が、車体の色がこげ茶色もしくは紺色で、天井がアーチ状で高く、木製の椅子、板張りの床の古い客車を牽引している列車が、1日に数本走っていた。
蒸気機関車だった時代の客車である。もちろん冷房、空調など付いていない。
とにかく当時はこんな列車が頻繁に走っていたのである。

札幌駅を出るとしばらくは都心部を走るが、札幌市と隣の市の境にある駅を過ぎるとすぐに日本海側を右にして走ることになる。
ここからしばらく海の見える景色は30年前と変わっていなかった。
唯一変わったのは、トンネルの手前にあった「張碓」という無人駅が廃止されていたことだ。
これは驚きだった。何故なのだろう。この駅は夏の海水浴シーズンだけ臨時停車する駅であった。
冬のこの海岸は北国らしく波が高く、灰色の海だ。スピードが遅かった昔の鉄道から眺めるこの荒涼とした海は、荒々しいけれど何故か静かに感じたものだ。
張碓トンネルに入ると、しばらくしてトンネルの壁がアーチ状にくり抜かれている所を通るが、カーカーカーというカラスの鳴き声のような音を聞いたものだ。
この海の景色が終ると短いトンネルに入り、築港駅に着くが、ここが一番変わった所だ。
昔ここは古い、蒸気機関車の車庫があり、その前の敷地は使われていない線路がたくさん残り、雑草が生い茂った情緒のある、この町らしい風情のある景観を醸し出していたが、バブルの頃にこの美しい景色を破壊し、代わりに高層マンションやショッピング・モールを建設した。
このことくらい、この町を駄目にした行為はないであろう。
お金を儲けることしか考えない資本家は、残すべき景色に非常に鈍感である。というか自然そのものに関心が無い。
自然が人の心に与えてくれるものが理解できない。
儲けたお金でおいしい物や高級なものを貪ることが好きなのであろう。

終着駅に着いたのは1時頃であった。
ついに学生時代に住んでいた町に着く。
ここからまっさきに向かう所は既に決めてあった。学生時代によく通った食堂である。
この食堂は駅前通りから、大学へ向かう地獄坂と呼ばれる通りとの丁度角に面したところにあった。
この食堂はよく利用した。
学生時代の当時50歳くらいのおかみさんがこの食堂を切り盛りしていた。
旦那さんは個人タクシーの運転手、息子さんが時々店を手伝っていた。息子さんは昔楽器店に勤めていたと話してくれたことがあった。
狭い店内にL字形のカウンターと4人掛けのテーブル席が2つだったか。
きれいな店内とは言えなかったが、この店の雰囲気が好きだった。いかにも学生相手の食堂という感じ。
メニューで人気のあったのは、「焼肉定食(野菜混合)」と「チキン定食」。他に豚汁定食、トンカツ定食、焼き魚定食、野菜炒め定食などがあった。
ボリュームがあり、腹を空かした学生の食欲を満たすにのに十分であった。
店内に置いてあるマンガ本(少年ジャンプなど)を読みながら、一言も話さず黙々と食べるのである。
そして食べ終わり一息つくと「お愛想お願いします」と言って勘定を済ませた。
いつだったか、会計を済ませて店を出ようとした時、おかみさんが予期せずおにぎりを持たせてくれたことがあった。私がよほどわびしい貧乏学生に見えたのであろう。事実私はその頃金の無い貧乏学生だった。
今から7、8年前、青春18きっぷを使って帰省したことがあり、長万部から倶知安経由の路線で実家に帰る際に、途中で母校のある町で降りて、この懐かしい食堂に向かったことがあった。
20数年ぶりに行くのである。胸が躍った。
駅前通りから地獄坂へ行く道を行くと、はたしてその食堂はちゃんとあった。
昔と何ら変わらない店構え。しかし中に入ると照明が暗い。
昔よりも少し暗くなったように感じた。
店の中は学生時代と全く変わっていない。あのカウンター、あのテーブルだ。
入口を入ってすぐ右側のカウンター席に着く。
店にいたのは懐かしいおかみさん一人だった。年を取った。70代半ばであろうか。客は私の他にいない。
壁に貼っているメニューの紙を見ても昔と変わっていない。一番好きだった「焼肉定食(野菜混合)」を注文した。
この時少し驚いたのだが、年老いたおかみさんが、聞き返してきたのだ。耳がすっかり遠くなってしまっていた。
20数年という歳月の経過を感じた。
変わっていなかったのは、この店の雰囲気全てと、注文した定食の味だった。
「焼肉定食(野菜混合)」の味は学生時代と全く変わっていなかった。味噌汁を飲んだ時、この独特の味が蘇った。「全く変わっていない!!」。ごはんにかけるごま塩もある!。
おかみさんに何か話そうかと思ったが止めた。
何故か淋しさを感じながら店を後にした。
今回、母校のある町に着いてからまっさきにこの懐かしい食堂を目指した。この食堂で腹いっぱい食べるために朝食はセーブしておいた。
気温5℃もなかったであろうが寒くは感じなかった。
駅前通りをしばらく歩き、地獄坂に向かう曲り角を曲がった。その食堂の建物が目に入った。
しかし、その建物のどこをみても看板やのれんらしきものはかかっていなかった。
しばらくその近辺をうろうろした。道を間違ったのではないかと思い、次の通りまで行ってみたが店が見当たらない。
線路下の坂道にあるこの場所に間違いなかった。この懐かしい食堂は廃業していたのだ。
落胆と驚きの気持ちが交錯した。



後継者がいなかったのあろう。息子はどうしたのか。
幸いだったのは、この店が何も変わらず、ずっと近年まで存続してくれたことだ。
おそらくバブル以降の学生からは親しまれなかったかもしれない。
惜しむべきは卒業してから帰省した際に、この店にもっと行くべきだった。

結局昼飯は食わずじまいとなった。
次は、大学時代に住んでいた超おんぼろアパートを目指した。
大学時代の途中から住んだアパートだ。
大学へ向かう地獄坂の途中にある。この町の観光名所にもなっているカトリック教会の少し上にある。



このアパートも思い出深い。
鉄製の大きな観音扉の付いた蔵を増築して作ったと思われる、築50年以上は経過しているであろう、お化け屋敷のようなものすごく古い建物であった。アパートという外観ではない。
古い旅館といった感じか。
一応「〇〇荘」という名前があったが、玄関に看板などは一切ない。
引き戸の共同玄関を開けると、古い建物独特の匂いが立ち込めてくる。
1階の廊下は日光が全く入らない。20wくらいの裸電球が一つ吊り下がっているだけである。
いつかこの裸電球が切れていたことがあった。全くの暗闇となっていた。私の部屋は2階だったので、壁を手探りで行かないと歩けなかった。
床は長い年月で黒に染まった板の間。
1階の玄関の脇の部屋は、何年も留年している20代半ば過ぎの学生、その向かいが70過ぎの独り暮らしの気の強いおばあさん、その隣が80過ぎの穏やかなおばあさんが住んでいた。
その奥に行くと、廊下の左右に4部屋くらいが空き部屋となっていた
理由は陽が当たらないからだ。窓はあるが、屋根から落ちる雪でガラスが割れないように窓に板を張っているからである。
そして1階の一番奥に、わりに広い洗面所兼共同調理場がある。
ここに古い洗濯機が何台も置いてあった。動くのは1台のみ。
この中に昭和30年代に使われていたであろう、手回しハンドルで洗濯物を脱水する洗濯機が置いてあった。
2階へ行く階段の脇に鉄の観音扉の蔵の部屋があった。部屋に入るには1、2段登らなければならない。
この部屋には70過ぎと思われる、歯が全く無いおじいさんが住んでいた。窓に鉄格子がはまっていたと思う。
2階に上がるとすぐ右手が観音扉の部屋の上の部屋だったが、この部屋は普段人が住んでいなかった。しかしお金持ちと思われる学生が、マージャン部屋として借りていた。
時々夜遅くに学生たちがこの部屋でマージャン牌をかき混ぜる音が聞こえた。
ある時観音扉の住人である1階のおじいさんが、このマージャン牌の音に激怒し、2階の部屋を開けるなり「何やっているんだ。うるさくて眠れないだろ。警察を呼ぶぞ!!」と物凄い剣幕で怒鳴り込んできたことがあった。
私の部屋は階段を上った左の一番奥であった。
4畳半一間、家賃1万円。畳は信じられないくらい波打っており、外側の窓ガラスは割れていた。
陽当たりは悪い。朝早くに日光が入る。しかし港と海が見えるいい部屋であった。
戸は引き戸だが隙間が開いており、夏は汲み取り便所からの悪臭が、冬は凍るような冷気が入り込んできた。
真冬のこの部屋は氷点下になることもあった。
夜アルバイトから帰ってきて、反射式の小さな石油ストーブを点ける。部屋の温度を10℃上げるのに3時間かかった。その間ずっとその小さな石油ストーブにしがみついていなければならなかった。
汲み取り便所の脇に洗面所兼調理場があったが、誰も調理しているのを見たことがない。
しかし棚には古い鍋がたくさん置いてあった。その鍋の一つに、中がカビだらけのものがあった。
だれかが調理したあとで洗わないでそのままにしていたのであろう。何年も経過しているだろうが、誰も片付けようとはしない。そのままにしてあった。そういうアパートだった。
この2階が迷路のように感じられた。各部屋のドアは一つ一つ異なっていた。ノブのついたドアもあれば、引き戸もある。引き戸もそれぞれ異なる。
2階の中ほどに奥まった所に行く短い廊下があり、そこに2間の部屋があった。空き部屋であった。
大家に家賃を聴いたら1万3千円。そこに移ろうかと思ったが止めた。
このアパートの住人には世を捨てたような独り暮らしの老人と、留年した学生が多かった。

このアパートが取り壊されたのが私が大学を卒業して数年たったバブルの頃であった。
そういう話を後で聞いた。
しかし卒業してこのアパートのあった場所を訪れたことは無かった。
今回このアパートのあった場所を訪れた。大きな学生専用と思われるアパートが建っていた。
そのアパートもかなり古くなってはいたが、私が住んでいたアパートは全く別物。
このアパートの住人も、その昔この場所にお化け屋敷のようなアパートが建っていたことは知る由もないであろう。

次に向かったのが、先のアパートの前に住んでいた、まかない付きの下宿であった。
4畳半1間、土日含めて2食付きで確か月3万5千円くらいだったか。40半ばくらいの夫婦が経営していた。
最初の1年はまかない付きであったが、2年目は、おかみさんが入院したので間借り状態。
その時からあの懐かしい食堂に通い始めたのである。
この下宿は路線バスの終点から更に坂道を登った所にあった。この町で有名な上級者用スキー場のふもと近くにあった。
お化け屋敷アパート跡からバス路線をつたって歩いていく。
途中で「朝日湯」という銭湯があったはずだが、今回30年ぶりに通ったときには見当たらなかった。この銭湯にも随分通ったが、冬の帰り道は髪がパリパリに凍ったものである。
また「ポニーテール」という喫茶店があったはずだが、無かった。この喫茶店でスパゲティ・ミートソースをよく食べた。
バス通りを右折するとスキー場へ向かって上り坂になる。20分くらいあるくと路線バスの終点に着くが、昔あったバスの旋回場は空き地になっていた。路線が変わったのだ。この旋回場はバスの運転手にとってさぞ難所だったに違いない。
雪が降ってきた。しかし寒さは感じない。逆に汗が出るくらいだった。この町は坂が多い。しかも雪道は歩きにくく、坂道で滑るので神経と体力を使う。だから外を歩いても寒く感じないのだ。
バスの旋回場の向かいに昔タバコ屋さんがあった。今はもう無くなっていた。
学生時代私はタバコを吸っていたので、このタバコ屋を利用した。そしてここで揚げあんドーナツをよく買って食べた。金の無いときは当時1箱80円のエコーを買った。そしていよいよ金が無くなると1日あんドーナツ1個で我慢し、ため込んだのタバコの吸い殻の先をはさみでちょん切って吸ってしのいだ。

さてバスの旋回場から坂を登ると、あの下宿はあった。昔よりも増築し、やや立派になっていた。
しかし玄関は昔のまんまだった。



この玄関の前の雪だまりに酔っぱらった私は、ふざけた先輩たちに放り投げられたことがあったのを思い出す。
この下宿の裏手の家に住む中学生に数か月間家庭教師をしたことがあった。その家にも行ってみた。家は昔と変わらなかったが表札が別の名前になっていた。

この下宿を起点に、昔、大学まで通った道を辿ることにした。
坂を下り、バスの旋回場を過ぎて左手の砂利道に入る。



砂利道を少し下ると川沿いの道に出るが、そこで迷ってしまった。



左に曲がるのであるが、そこからの道のりが思い出せない。
その道のりは大学までの近道である。普通の道ではない。通称「けものみち」と呼ばれる道なき道、知る人ぞ知る道であった。
夏は笹をかき分け、冬はゴム長靴を履いて雪に埋まりながらその道を通った。
この道を行けば、普通のルートの半分以下の時間で学校まで行けた。
大学の教官の部屋のある棟の近くに出るのであった。
今回この「けものみち」を発見することは出来なかった。そこでこのけものみちを見つける前までに通っていたルートを辿ることにした。S字状の上り坂である。
この道はほどなく見つけることができた。
登り坂の途中でスキー場が見えた。



そして上り坂の頂上からはこの町の港を見下ろすことができた。



頂上からは直線で、地獄坂まで下ることが出来る。この下り坂だと大学まで随分回り道となる。



坂を下ると左手に看板が見えた。「大学関係者以外の立ち入りを禁じる」といった文字が書いてあった。
看板の奥に目をやると、何と階段があるではないか。



早速この階段を上ると、大学の教官の部屋のある棟の近くに出ることができた。
では「けものみちは」はどうなったのか?
「けものみち」の入り口に、何か記念碑のようなものが建っていた。その記念碑の裏に「けものみち」がある。
記念碑の裏に出た。笹が大量に生い茂っている。
しかしそこは柵で封鎖されていた。



「けものみちは」はもう無くなっていた。

久しぶりに訪れた大学の構内は殆ど人がいなかった。
昔は土曜日も授業があったし、土曜日の午後は部活動で賑わっていたが、この日は殆ど人を見かけなかった。
図書館に入る。外観は昔のままだ。
しかし中に入ると学生時代当時と全く変わっていた。
大きな書棚がいくつも並んでいたのが無い。蔵書は一体どこへ行ったのか。少ないながら本はあっても試験問題集の類である。
そして座席が、テーブルが殆ど無い。代わりにパソコンが置いてある机がいくつかあった。
昔の面影は全く無い。
懐かしい「ギルマン会計学」を手に取ることは出来なかった。
3階に自習室があったが、電気が消えており入ることが出来なかった。

図書館を出て学生控え室に入る。



昔ここでよくマンドリン・オーケストラの練習をしたものだ。
そして冬はここでよくココアを飲んだ。そしてタバコを吸って一服したものだ。
長椅子に腰かけていると学生が入ってきて、私を怪訝そうな目で見た。
次にサークルの部室や、マンドリン・オーケストラの練習場のあった学生会館に行く。
建物は昔と変わっていない。
しかし各部屋は部室でなくなっていた。各サークルの練習場に変わっていた。
それでは部室はどこにいったのか?

学生会館の後ろに綺麗な学生寮が建っていた。
私の学生時代は、閉鎖された古い学生寮がまだ残っていた。
その閉鎖された学生寮に出ていかない学生が数名いた。大学とトラブルになって、そのトラブルに巻き込まれた不運な教官がいたのを思い出した。
学生会館の近くに合宿所があったが、これも建て替えられていた。
昔の合宿所は恐ろしく汚かった。布団はカビの生えたゲロ布団が殆どだった。この布団で寝るのである。

母校のマンドリン・クラブがもしかすると練習しているかもしれないと、ひそかに期待していたが、彼らはいなかった。
人の殆どいないひっそりとした大学を小雪のちらつく中、何か満ち足りない気持ちを感じながら後にした。
昔痛めた左ひざをかばいながら、地獄坂をゆっくりと下った。
そしてあの懐かしい食堂が別の場所にあるのではないかと、もう一度探した。
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2015年度(第58回)東京国際ギターコンクールを聴く

2015-12-06 23:41:47 | ギター
今日(6日)、東京代々木八幡の白寿ホールで第58回東京国際ギターコンクールが開催された。
白寿ホールで開催するようになってから3年目。
収容人数が少ないので、今年も満席で、後から入ってきた観客の席の指定をするのに手間取っていた。
やはり長年使用されてきた東京文化会館小ホールの方が余裕があっていい。

さて今回の本選は非常にハイレベルであった。
今まで聴いたなかで1、2位を争うくらいレベルが高かったと思う。各演奏者の点数の差異は例年よりも小さいのではないか。
出場者は2名が日本人、4名が外国人であった。
演奏者と順位は下記のとおり(カッコ内は私が付けた順位)。

1.Davide Giovanni Tomasi (イタリア):5位(6位)
2.山田唯雄(日本):4位(3位)
3.小暮浩史(日本):3位(5位)
4.Cameron O'connor(アメリカ):6位(2位)
5.Damien Lmancelle(フランス):2位(4位)
6.Xavier Jara(アメリカ):1位(1位)

今年の課題曲は、原嘉寿子作曲の「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」。
この曲は今年惜しくも他界されたギタルラ社社長の青柳雄彦氏の勧めで作曲されたという。
10年ほど前の東京国際ギターコンクールの本選課題曲にもなったので、今回で2回目の選出であろう。
この曲を日本的情緒漂う曲だと期待すると肩透かしをくらう。
この曲は1972年に作曲されたが、前衛音楽全盛時代の無調の現代音楽である。
今回のコンクールでも、ブリテン、ノブレ、ボグダノヴィッチといった作曲家の現代音楽を聴けたが、この原嘉寿子の曲は彼ら外国人の作風とは根本的に異なっている。
まず特徴的なのは不気味な不協和音を多用していることである。
そして特徴あるリズムの連打と交錯。これは日本の祭りなどで聴く、笛や太鼓などの拍子がベースとなっているのではないか。この曲はヨーロッパの音楽の作風を採っているが、何故か日本的の感じもするのである。
プレリュードのリズムで下記のような部分はテンポを維持するのは非常に難しい。



アリアで奏でられる和音は恐ろしく不気味だ。
今日のコンクールではこの和音はさらっと弾いている奏者が多かったが、もっと不気味さを醸し出して欲しかった。
人間の負の感情、影の部分をあぶりだしたような音楽だ。下記のような箇所はこの曲の最も特徴的で聴き応えのある部分である。



そして予期せず突然現れるこの強い和音は、人の感情、例えば恐ろしさを伴った「驚愕」を表しているのか。



この和音を上手く表現していたのは、 山田唯雄さんと Xavier Jaraのみであった。
トッカータは速度を速め軽快なリズムに乗りながらも、難しいパッセージが随所に現れる。テンポ・プリモの少しあとクライマックスの直前に現れる重音の連続をXavier Jaraは非常に効果的な音で弾いていた。



Xavier Jaraの課題曲は音の弾き間違えがかなり散見された。プレリュード最後の和音の間違いは致命的。アリアでも音や和音を間違って覚えていると思われる箇所があった。しかし間違えは多かったが、表現が多彩で、説得力があり、この曲の本質を捉えているように感じた。これが優勝につながったと考える。
終末部の恐ろしい不協和音のラスゲアードは思いっきり激しく、最後のタンボーラはブリッジ近くで叩き、固い叩き方で響かせた方が良いと思う。Xavier Jaraはこの奏法を採っていた。
このような1960年代~1970年代の前衛時代に作曲された曲、例えば野呂武男、平吉毅州、林光などのギター曲は不気味であるが故に今日では演奏されることは皆無に近く、東京国際ギターコンクールで課題曲に選出されてやっと陽の目を見るという状況だ。
Cameron O'connorは唯一譜面の見ながらの演奏であったが、練習不足か弾けてない箇所、弾き直し、間違いがかなりあった。明らかに消化不足。これはかなり減点されたようだ。
今回の奏者の中では最もいい音を出しており、自由曲の出来が良かっただけに惜しまれる。

自由曲は小暮浩史さんの「プレリュード・フーガ・アレグロ」と、 Damien Lmancelleの「ヤナーチェク讃歌」が良かった。
Damien Lmancelleは8弦ギターを使用していたが、多弦ギターでの演奏は珍しい。
しかしこの8弦ギターを駆使して非常にいい演奏をしていた。
課題曲のトッカータはど忘れによる弾き直しがあったが、意外にも大きな減点とならなかったようだ。

今回の演奏会で印象的だったのは、音の作り方がこれまでに比べ、骨太、力強く、芯のあるものになってきたということ。これはいい傾向だ。
とくに Cameron O'connorの音は非常に良かった。マネンの幻想ソナタではセゴビアの音を彷彿させた。
Cameron O'connorの音はXavier Jaraよりも聴き応えがあった。

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