緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

技巧練習を考える

2016-06-25 23:29:46 | ギター
ギターの基礎を習得するための技巧練習として、音階、スラー、アルペジオなどがある。
ギターを始めた当初は、これらの技巧練習を行わないと上達していかないことは当然であるが、基礎を卒業した後、キャリアを20年、30年と積み重ねていき、年齢も40、50過ぎにまで達した段階で、これらの技巧練習の有用性と効果の有無を考えてみた。

だいぶ昔であったが、現代ギター誌で、「技巧練習は10代までにやっておくことであり、年をとってからはやるものではない」ということをギタリストが言っていたのを憶えている。
たしか、マリア・エステル・グスマンだったと思うが、他にもそのような意見を目にしたことがあった。

この意見の趣旨は、「ギターを始めた10代の、まだ手や指が柔軟で、筋肉や神経が老化していない段階で、技巧練習をたくさん行い、強靭なメカニックの土台作りをしないと、あとで難曲を弾くときに大きな障害となる」、ということだと思う。
もう一つは、年齢ともに筋力や神経組織が老化していくので、40代、50代で技巧練習をやると指を壊してしまうから、無理にやってはいけない」ということでもある。

前者は至極当然のことである。
自分の経験からも、10代の頃までに右手、左手のフォームや指の動き、柔軟性等の基礎的な土台を作っておかないと、後で難しい曲を弾くことが出来なくなるし、悪い弾き方を身につけると指を壊しかねないことは理解できる。
しかし後者の見方は全面的に正しいとは思えない。
そこで40代、50代で筋力や神経が衰えてきた年齢での技巧法の必要性と効果について考えてみた。

そもそも技巧法とは「指を鍛える」ためにあるのか、ということだ。
技巧練習は、どんな難曲にも通用する指の力と俊敏な動きを身につけるためにあるのだろうか。
私も昔はそのように考えていたが、40を過ぎた頃から、技巧練習に対する考え方を変えた。
今では技巧練習の目的を次のように考えている。

①無駄な力を排除する習慣を身につけるため。
②出来るだけ、少ない力で弾く習慣を身につけるため。
③左手、右手のフォームを安定させるため。
④神経組織の反応を良くするため。
⑤難しい押さえや、速いパッセージを弾いて指を壊さないため。
⑥各指の独立性を獲得し、アンバランスな指の動きを矯正するため。
⑦無駄な力が入る原因が、下記のメンタル面に起因していることに気が付くため。
 ・技巧練習が指を鍛えるという先入観
 ・「間違ってはいけない」という無意識のプレッシャー
 ・「上手く弾かなければならない」、というプレッシャー
 ・「上手く弾いてやろう」という思い上がり
 ・「この押さえ、指の動きは力を入れないと出来ない」という思い込み

つまり、いかに少ない力で、無駄な動きをせず、バランスを保ち、指を動かせられるようにするために、技巧練習を活用する、という考え方なのだ。

技巧練習は、「指を鍛えるため」という先入観で行っていた時代、ギターを始めて間もない頃は効果があったにしても、或る程度基礎が確立した後では、あまりその効果を実感できなかった。
力を入れることで逆に動きが鈍く感じておかしいと気付いたこともあった。
しかし50を超えた今では、技巧練習の目的を変えることで、その効果を高く実感している。

それにしてもメカニックに限定して、技巧法を身につけるための教材は意外に少ないようだ。
私が現在持っている教材をとりあえず紹介する。

①フランシスコ・タレガ 完全技巧練習 カール・シャイト著 Universal Edition



②ギターの奏法の原理 第3巻 エミリオ・プジョール著 音楽之友社



③演奏家のための基礎技法 鈴木巌著 全音楽譜出版社



④クラシックギターの技巧法 京本輔矩著 国際楽譜出版社



⑤ギターのための技巧集(Serie Didactica para guitarra) アベル・カルレバーロ著 全4巻 Editores exclusivos barry



⑥ホセ・ルイス・ゴンサレス ギター・テクニック・ノート ホセ・ルイス・ゴンサレス著 現代ギター社



一番使用頻度が高いのは①。
この教材から次の練習を選び、毎回の練習に利用している。(A)








(バリエーションあり)

次に②は全3巻からなる大著かつ名著であるが、第3巻の技巧編は課題が豊富過ぎ。
以下の課題はシンプルながら、3指と4指の拡張、ハイポジションでの左手、左指の安定の獲得に有用でこれも毎回の練習に取り入れている。(B)



③は出版年が1976年と古く、現在絶版であるが、著者オリジナルの非常に有益な課題を網羅した力作。
現在、このような教本が無いのが残念。
以下の課題を毎回の練習に取り入れる。(C)



④は練習曲も掲載されているが、スラーの練習が物足りない。下記の練習は初心者の頃に非常に有益だった。
(⑥のホセ・ルイス・ゴンサレス ギター・テクニック・ノートでも取り上げられている)



⑤は持っているものの一度の使用したことはない。課題が豊富過ぎ。時間に制約のある社会人にはなかなか腰をすえて取り組めるものではない。
定年退職してからやろうと思う。
⑥は伝統的な技巧練習が中心で、特別斬新な練習法が掲載されているものではないが、下記の練習はたまにやることがある。(D)



結局、私が毎回の練習で行う技巧練習をまとめると次のようになる。

①ホ長調のローポジションでの音階を2回繰り返し。
②半音階を6弦開放から1弦12Fまでの上昇・下降を2回繰り返し。
③メトロノームを使って、阿部保夫著「現代奏法によるカルカッシ・ギター教則本」の65ページ、「半音階によるポジションの移動練習」を、速度76と84の2種類で行う。



④上記「ギターの奏法の原理 第3巻」の左指拡張練習(A)。
⑤上記「フランシスコ・タレガ 完全技巧練習」の音階練習とスラー(B)。
⑥上記「演奏家のための基礎技法」の音階練習©
⑦セゴビアの音階練習より1音階(毎回変える)
⑥ロドリーゴの「サパテアード」の下記スケールを3種類の速度で練習。





⑦ビラ・ロボスの練習曲第1番の下記部分を4、5回繰り返し。





以下、練習曲として、
⑧タレガの練習曲ホ長調



⑨カルカッシ25の練習曲から1曲
⑩アルペジオの練習として、カルカッシ25の練習曲の第19番
⑪アルペジオの練習として、ビラ・ロボスの練習曲第1番

①から⑪を休日の2時間練習の際に毎回行っている。1時間近くかけてやっている。
これはもう15年くらい繰り返しており、この練習を行ってから曲の練習に入るようにしている。

たまに以下の練習をすることもある。
⑫上記「ホセ・ルイス・ゴンサレス ギター・テクニック・ノート」の左手強化練習(36ページ)(D)
⑬左指独立性の獲得練習。現代ギター1983年10月号の53ページ。



ここで繰り返しとなるが、この練習の最大の目的は、無駄な力を排除し、最も少ない力で確実にできるようになること。特に下記の原因で指に力が入っていないか、意識的にチェック、点検すること。
力を抜いた後と抜く前の指の動きにどう変化が現れたかを認識することにある。

これを高齢になっても続けていこうと思う。
演奏家で70歳、80歳過ぎても驚くほどの技巧を保持している人(ギターでいえばセゴビア、ピアノでいえばホルショフスキやチッコリーニ)がいるが、恐らく、基礎技巧練習を最後まで徹底して行ったのではないか。

【追記】
ギターの技巧練習の教材はあまりいいものがない。
その理由の一つは、課題が豊富すぎ。あれもこれも掲載されては長続きしない。
「これだけやれば十分にして、効果は最大」という課題のみを抽出して、各種技巧毎に配備されたものが欲しい。
次の理由が、「考えさせる課題が無い」ということ。
この課題の目的は、効果は、これをやることでどんなメリットがるのか等、解説が必要。
また書かれている運指にただ漫然と従うだけでなく、自分で運指を考え、探し出せる訓練を課す練習が必要。
その意味で、「演奏家のための基礎技法 鈴木巌著」の下記の練習などは非常に優れていると思う。





こういう課題も同時に載せ、出来れば詳しい解答を巻末に載せて欲しい。

【追記20160626】

Tommy様

コメント欄で紹介した教則本の写真を下記に掲載します。

①現代奏法による カルカッシ・ギター教則本 阿部保夫編著 全音楽譜出版社



②セゴビア奏法による ギター新教本 阿部保夫編著 全音楽譜出版社



③演奏家を志す人のための クラシック・ギター教本 鈴木巌著 全音楽譜出版社



④最も教えよく、最も学びやすい カルカッシ・ギター教則本 溝淵浩五郎編著 全音楽譜出版社


(装丁は現在、変わっているようです)

⑥合理的・統合的・斬新的な タルレガ・ギター教則本 溝淵浩五郎編著 全音楽譜出版社



⑦アグアド ギター教本 アグアド著 音楽之友社



Tommyさんのブログを拝見させていただきます。
いつかコメントを差し上げたいと思っていながら、出来ずじまいでした。


コメント (4)

武満徹作曲「ピアノのためのロマンス」を聴く

2016-06-19 21:52:24 | ピアノ
武満徹(1930~1996)の初期のピアノ作品を聴いた。
「ピアノのためのロマンス(Romance, for piano)」(1949年作曲、1998年初演)。
先日聴いたピーター・ゼルキン演奏の武満徹ピアノ作品集には収録されていなかった。
この作品集が発売されたころには、未だこの「ピアノのためのロマンス」が初演されていなかったからであろう。
作曲者の死後、発見されたのかもしれない。

武満徹が18か19歳、現東京芸術大学を受験した頃の作品で、前衛音楽の影響を受けない、シンプルで素朴な曲だ。
日本古来の陰旋法をベースにしながらも、新しい和音の響きも聴こえてくる。

とても美しい曲だ。
陰旋法の好きな人であれば、必ず聴き入るに違いない。
和声の使い方がとても上手い。

はかなさ、むなしさ、どうすることもできない悲しさ。
何かを強く求めながら、ついに実現出来なかったときの、激しい嘆き、無念さ。
四季の美しさに満ちた静かな日本の奥ゆかしさ。
抑圧的体制から生まれる庶民の気持ち。
質素なぎりぎりの生活の中でも、ささやかな美しさを感じ取った日本古来の人々。
この音楽を聴くと、人々のさまざまな気持ちが伝わってこないだろうか。

このような音楽は、決して、優雅な階級の人々の暮らしから生まれるものではない。


今の時代にこのような日本的情緒に満ちた音楽を聴くことは難しい。
日本古来の伝統楽器による音楽を電子楽器とコラボして満足している演奏家や聴衆たち。

世界に比類のない日本独自のこの美しい調べは、大切に引き継いでいかなければならないことを痛感する。

コメント (2)

八村義夫作曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」を聴く

2016-06-18 22:58:56 | 現代音楽
前々回の記事で、八村義夫作曲の「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」という曲を紹介したが、その後、八村義夫氏(以下敬称略)が高校生の時に作曲した言われる、「ピアノのためのインプロヴィゼーション」(Op.1 1957年作曲)を聴いた。

この曲は、八村義夫が駒場高校時代に断片的に作曲した15曲のピアノ曲から選び、手を加えて5曲にまとめたものである。

完全な無調の、暗く不気味で、理解困難な厳しい音楽である。
このような音楽は、合わせ物やオーケストラではなく、単一の楽器、それも和声のあるピアノやギターで聴いた方がよりその独特の音楽の特性を際立たせることができるように思う。

現代音楽にも色々あるが、八村義夫の音楽は、内面の深い闇から聴こえてくる音を手繰り寄せて作られたように思える。
聴いていて、音の組み合わせの形式的な効果というものが全く感じられない。
現代音楽の中には、表層的な奇抜さや斬新さで聴き手を驚かすようなタイプのものが多々あるが、彼の音楽はそのようなものとは思えない。
調性音楽や古典的形式に関心を示さない音楽の作り手は、人間の心理のもっと深い、複雑なものに目を向けているのではないか。
人間の深層心理に堆積する複雑な感情、「闇」に代表されるそれらの感情は決して綺麗な清らかなものではなく、人間が自ら目を背けているものである。
音楽で喜怒哀楽を表現することはそう難しいことではない。
人々は理解しやすいそれらの感情を表す音楽に共感し酔いしれる。
非日常的な感情を疑似体験し、満足感を得る。
しかし人間の深層心理に巣食う闇の感情を意識下まで昇らせ、かつ音に変換し、芸術的領域にまで昇華させることは極めて難しい仕事である。

八村義夫の音楽がそのような種類の音楽かどうかは分からない。
しかし、この「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の最後の恐ろしい和音を聴くと、意識せずとも寒気が引き起こされる。
この和音の意図するものが分かるような気がする。
何か深い精神的なものを表現したかったに違いないと私は思う。

この曲を収録したCDの解説文の中に、八村義夫自身の言葉が掲載されていた。

「私は、音を、或る昂揚した、ひとつの生命体として捉えたい。呼吸し、起立し、燃焼する音の行く末を追っていきたい。」



【追記】
八村義夫氏のピアノ曲を聴いて、共通性を感じたのが作曲家の野呂武男氏である。
野呂武男氏はギター独奏曲を4曲、ギター2重奏曲を1曲、ギターと弦楽との合わせものを1曲書いたが、メインは弦楽四重奏曲やピアノ曲である。
ギター独奏曲は「コンポジションⅠ 永遠回帰」と「コンポジションⅡ 離と合」の2曲が出版され、「コンポジションⅠ 永遠回帰」は1964年パリ放送局国際コンクールで第2位を受賞した。
しかし彼のギター曲は「コンポジションⅡ 離と合」の方が圧倒的に優れている。
この曲の作曲年が1960年であるから、八村義夫氏のピアノ曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の年代と同時代である。
「コンポジションⅡ 離と合」は恐ろしく暗く不気味で、理解し難い難解な曲であるが、これほどのギター曲を書ける作曲家は、後にも先にも彼だけであろう。
野呂武男氏は極めて高い才能がありながら42歳の若さで自らの命を絶った。

(下の譜面は「合」の一部)



【追記20170920】

「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の楽譜の一部を下記に掲載します。




コメント

信長貴富作曲、大江健三郎作詞 合唱曲「新しい人」を聴く

2016-06-17 23:44:56 | 合唱
この2週刊程、平成16年度、Nコン全国大会のCDの演奏の聴き比べをしていた。
このCDは2、3年前に中古で買ったのだが、1、2回聴いたのみであった。

平成16年と言えば、一番パワフルに仕事をしていた頃だ。
今も忙しいがこの時は連日夜中まで仕事をしていても疲れ知らずだった。
今振り返ると、毎日時間をつぶすのに苦労した時代もあれば、時間がいくらあっても足りないと感じる時代もあった。
窓際も経験した。
周りが忙しいのに、自分だけが仕事の無い苦しみは身に染みて感じる。

平成16年度、Nコン全国大会の課題曲は、信長貴富作曲、大江健三郎作詞の、「新しい人」という曲であった。

信長貴富氏は私よりも年はずっと上だと思っていたが、調べてみると、私よりもかなり下だったので驚いた。
信長貴富氏は作曲は独学だそうだ。
これも驚きだ。
今度本格的に聴いてみようと思っている。
「青春譜」が有名だが、私は今回紹介する「新しい人」の方が優れていると思う。
また「ねがいごと」という曲もいい曲だ。

信長貴富氏の曲は、シンプルな構成であるが聴く者に強い感情を起こさせる。
感じた気持ちを、それも素朴で飾らない手法で音にしていく。
この「新しい人」の詩の内容もとても強く、聞き流すことは出来ない。

全10校の課題曲の演奏を何度も再生する。
最も強く感動したのは、福岡県の西南女学院高等学校の演奏であった。
まず歌い方が自然であること。
今の高校生である自分たちの歌声に逆らっていない。
そして全員が無理に声を均一にしようとしていない。

声を理想的な均一な音にし、計算されコントロールされた演奏は、特に意識せずとも必ずそれが聴き手に伝わる。
しかしこのような演奏が高い賞を取っているのが現状のコンクールだ。
高校生のコンクールの賞の結果で、演奏の良し悪しをを結論づけることは最も危険だ。
もっと幅広く、数多く聴いてあげなければならないと思う。

西南女学院高等学校の演奏を初めて聴いた時には、地味だと思った。
しかし何か惹かれるものがあった。
その後何度も聴いてその素晴らしさが理解できた。

歌い手がどんな人か、歌声の奥や、裏にあるものから感じられる。
欲が無く、無心で清らかなのか、野心的なのか、指導者にコントロールされ、個を失っているのか。

歌い手が意識せずとも、歌い手の本当の気持ちが高次元で「自然に」引き出された演奏が、最も素晴らしいと感じる。
もちろん高い技巧に支えられていることは言うまでもないが。

かなり抽象的な言い方になったが、実際に演奏を聴いて判断してもらう他はない。
頭や心を真空状態にして先入観を消し、そして演奏を聴いて、何か強い感情が引き起こされたならば、本物の演奏の可能性が高いのではないか。


コメント (2)

八村義夫「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」を聴く

2016-06-12 20:42:46 | 現代音楽
八村義夫氏(1938~1985、以下敬称略)の音楽を初めて聴いたのは、今から4,5年前。
上野の東京文化会館音楽資料室で毛利蔵人の録音を探していたところ、吉原すみれの演奏するCDの中に毛利蔵人の曲とともに彼の曲があった。
「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」という曲であった。



この曲をこの後、Youtubeで投稿されているのを知り、もう一度聴いたが、あまり印象に残ることなく、彼の名前も忘れてしまっていたが、先日、「民音現代作曲音楽祭’79-’88」と題するCDを手に入れ、八村義夫の名前を再び目にした。
収録されていた曲は「錯乱の論理」と言う、ピアノとオーケストラのための曲であった。
1楽章の10分程度の曲であったが、いろんな感情が凝縮されて詰まっているような、激しい、厳しい曲であった。



そしてもっと彼の曲を聴いてみたいという気持ちが起きた。
そこでピアノ独奏曲を見つけた。
「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)(1969年作曲)」という曲だった。



今までに聴いた現代音楽の中のどの曲よりも、激しく、衝撃的な曲であった。
この曲は桐朋学園の「子供のための音楽教室」で、子供に現代音楽になじませる目的で委嘱を受け、作曲されたとのことであるが、作曲者自身が後で述べているように、その範囲を大幅に逸脱してしまっている。
八村義夫は、「この曲で意図しているのは、或る-透明で不吉な予感である」と言っている。

CDの解説文によると、「彼岸花は、(中略)見る者に、一種の予兆的な、あたりの空気のうごきを麻痺させるような印象をあたえる。私は小さいころ、長野県の上田で出会った時の、その鮮烈な感動を忘れることはできない。”子供のための曲”ということから、私は、彼岸花を想い、子供のころを想い、そして少しずつ音を置いていった...」。
このコメントはこの曲の理解の助けになるものだ。

冒頭の3音の下降する単音が、不吉な不気味さを予兆させる。
そして次第に、また突然激しい不協和音の連続と交錯する。
激しい執拗な強い不協和音とトリルが繰り返されると、不吉な静を感じさせる中に、また激しい不協和音と不気味なトリルが連続する。
そして動と静が繰り返され、しばらく静の状態となるが、冒頭の単音の3音が再現され、連続する不協和音は強さと激しさを増したところで、突然遠くの方から意表をつくニ長調の美しい調べが流れてくる。
しかし、その調性音楽も長くは続かず、また元の不気味な曲想に戻り、最後は静かに終わる。

とても具体的に曲のイメージを表せられるものではない。
この曲をどう感じるかは聴く人の感覚に頼るしかない。
不協和音に耳を塞ぎたくなる人が殆どではないか。
しかし、現代音楽に慣れている方であれば、ピアノの現代音楽で、これほど鮮烈な感覚を感じられる曲はないと思うのではないか。
私は武満徹のピアノ曲を聴いた時よりも衝撃的だった。
(武満徹と全く性格の異なる曲ではあるが)

八村義夫は46歳で早世したが、わずか16曲しか残さなかったと言われている。
これは作曲専門の音楽家にしては少ない数であるが、彼は1曲、1曲を妥協することなく、完璧なまでの仕上がりに到達するまでは発表しなかったそうだ。
だからすさまじいほどのエネルギーが宿っている。

彼の録音は比較的手に入りやすい。
Youtubeでも、この「彼岸花の幻想」、「錯乱の論理」、「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」など数曲を聴くことができる。
またYoutubeではないが、ある動画サイトで、めずらしい彼の合唱曲を見つけた。
「混声合唱のための アウトサイダー第一番〜愛の園」という曲だ。
これも難解な曲。



【追記】

八村義夫のことを調べていったら、彼の妻が内藤明美氏であることが分かり驚いた。
内藤明美氏は、「ギターのためのシークレット・ソング op.2(1979年)」 の作曲で、1982年に武井賞を受賞した。
この「ギターのためのシークレット・ソング」は、佐藤紀雄氏の演奏で「コタ」というCDで録音されている。



楽譜もどこかの音楽雑誌の付録に、自筆譜で掲載されているのを見たことがある。
シークレット・ソング というタイトルから、甘い曲想を連想するが、とんでもない、無調の激しい曲だ。
この曲も現在は埋没してしまっているが、彼女が20代前半で書きあげたこの曲は、どういう経緯で作られたのか興味のあるところだ。
内藤明美氏は作曲家で、現在はニューヨーク在住らしい。
恐らく1980年代初めに八村義夫に出会い、彼から強い影響を受けたに違いない。

また、ある方のブログで、八村義夫はベートーヴェンのソナタ(これはピアノソナタに違いないと思うのだが)を徹底的に分析したとのことである。
古典的形式に無縁だと思っていたのに、これは意外だ。
彼はベートーヴェンのピアノソナタから何を学ぼうとしていたのか。

【追記20170920】

「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」の楽譜の一部を掲載します。
春秋社発行の「こどものための現代ピアノ曲集 Ⅱ」の中に収められていました。
こどものための教材なのに、完全に場違いで、宙に浮いています。
しかし譜面の形を見ているだけでも興味をそそられますね。





コメント (3)