緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

高橋和巳 「散華」を読む

2015-01-25 21:53:33 | 読書
古本で高橋和巳の全集を買ったが、なかなか読み進められない。今3巻の途中までいったが、20巻以上もあるので、このペースだと完読するのに後7年間はかかるだろう。
高橋和巳は私の親と同世代。生きていれば80代半ばである。
第二次世界大戦の終戦の時は10代半ばであった。高橋和巳の父親は大阪釜ヶ崎に隣接した地域で町工場を経営していたが、第1回の大阪大空襲の際に家屋・工場が焼失。焼け跡を彷徨う(高橋和巳略年譜、編・太田代志朗を引用)。
この時の体験が元で、処女作「捨子物語」が書かれた。
釜ヶ崎と言えば、数年前に大阪へ小旅行をしたときに、何も知らなかった私は千円で泊まれる宿があるからと、旅費を浮かせるためにここに3泊したことがある。
この地域は日雇い労働者の町で、この宿は労働者がその日暮らしをするための簡易宿泊所であった。
朝から労働者が道端で酒を飲んでいるような町であったが、高橋和巳はこの貧民街の近隣で育ち、決して裕福ではなかった貧しい暮らしぶりが「捨子物語」から読み取ることができる。
「捨子物語」は全体に暗く、最終章の大空襲の様は物凄くリアルで悲しい。これを読んだ時、実際に体験した人でないと書けないと思った。
次に読んだ彼の代表作「悲の器」も暗く、しかも考え方が難解で、一気に読むことなど不可能であり、しばし読解を中断させられた。

今日紹介する「散華」という小説も暗く難解な小説である。
「捨子物語」や「悲の器」を読んだ後がそうであったように、この「散華」(さんげ)も何度も意味を考えさせられる内容であった。
第二次世界大戦での特攻隊の生き残りであった主人公の大家は、電力会社で用地買収の仕事をしていたが、四国と本州を結ぶ高圧海上架線を建設するために、瀬戸内海の小さな孤島を買収する仕事を命じられる。
この孤島には、かつて国家主義者として戦時中の青年達に「散華の精神」を説き、終戦と同時に世の中との関わりを一切拒絶し隠遁した、中津という名の老人が独り住んでいた。
「散華の精神」とは、個を自覚的に捨て、民族の運命に殉ずることを求め、特攻隊などによる死を美化、正当化する思想、論理のことである。
中津は国家主義者として多くの若者にこの精神を説きながらも、彼らとともに運命を共にしなかったことに責任を感じ、一切の社会的交流から隔絶する生き方を選んだ。
そして戦争に死んだ青年たちを祭る神棚に位牌を置き、自ら彫った仏像に読経することで、自分の罪を償う生活をしていた。
「しかし私は、自分の方から助けを求めたことはなかった。わたしはいつ死んでもよかったのだ。ただ自分で自分の命を絶つべき理由はみつからなかった。(中略)しかしわたしの苦痛は他者の同情によって癒えはしない。それがどんな苦痛であろうと、わたしの苦痛でありかぎり、わたしはそれを大事にするだろう。」
大家はこの老人を立ち退きさせるために何度かこの孤島を訪れるが、強固に拒否される。
しかしこの中津という老人と、食糧のための小蟹を取ったり、美しい自然に触れていくつれ、次第に中津に親近感を抱くようになる。
ある時大家は孤島の海岸で泳いでいるときに、潮の流れにさらわれ溺れてしまう。気が付いた時には、中津の家で介抱を受けていた。中津に命を救われたのである。
中津も大家に対し次第に心を開いていくが、大家はついに会社の命令のために中津に会いにきていることを切り出した。
大家の真意にこれまで気付かなかった中津は激怒し、なおも立ち退きのための交渉を進めようとする大家に対し、日本刀を抜き、振りかざした。しかし中津は本当に大家を斬るつもりはなかった。
大家はこの対決で、特攻隊の苦しみを吐露する。回天という人間魚雷の中でじっとうずくまって出撃を待っているときの気持ちを。
「おれはいまは一介の俗物にすぎない。しかし、それゆえに、一人高しとして孤独を守る人間を本質的に信じないんだ。あなたには解るか。やがて死んでゆかねばならぬ人間が、自己の存在の痕跡を残したいと痛切に思う気持ちが。」
中津は外に出て刀を捨て、失っては餓死してしまうかもしれない作物の植えられた畑の上でのたうち回り、号泣する。
それから月日が経ち、いよいよ夢の高圧架線を建設するために測量班がこの孤島に上陸したが、倒壊寸前の小屋の中で、半ばミイラ化した老人の死体が発見される。しかもその死体の腹部には刀剣が突き刺さっていた。
中津は自殺したのだ。
大家は中津と対決した後、総務部へ異動になり、用地買収とは関係ない立場になっていた。
「老人が何を考え、何を苦しんだとしても、それはもう大家には関係のないことであった。」

大家は冷徹にも会社の任務を忠実に実行しようとした。そこには相手の苦しみや悲しみを切り捨てる冷酷さが感じられる。
大家は、この老人の、死ぬまで自分の罪を悔い、懺悔したいとする生き方を奪った。
恐らく中津は自分の罪に気付き懺悔する機会も持たぬまま直ぐに死を選択したり、裁判で裁きを受けるという選択ではなく、誰とも交流を絶ち、過酷な自然環境の中で、死ぬまで命を落とした青年達の供養をしようと決心したに違いない。
大家は中津に命を助けられ、島で病気をしたときも介抱を受けた。
大家は命の恩人を、会社の命令に背いてまでもそっとしておいてあげようとしなかった。
中津はあの対決で特攻隊の生き残りの一人として大家に言われた一言で、自分の罪の深さに耐えられなくなり、自殺したのであろう。
大家のこの一言は、まだ将来のある若かった自分を「散華」という精神のもとに死に追いやろうとしたことに対する真実の怒りでもあり、会社のエリートとしての地位の保身のために出たものでもあるように思える。

この小説で高橋和巳が何を言いたかったのか、正直まだ分からない。
日本をかつてない悲劇に向かわせた思想、精神と、それを信じ、犠牲となった多くの若者たちの気持ちを表したかったとも受け止められるが、戦後日本が急速に回復し、高度経済成長へ突入し、物質的豊かさを求めて人々の精神が徐々に変遷、純粋さを失っていくことを暗示させているようにも感じられる。

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C.O.ラッタ 「英雄葬送曲」を聴く

2015-01-18 00:57:38 | マンドリン合奏
隠れた名曲という言葉があるが、その言葉にふさわしい名曲として、C.O.ラッタ作曲の「英雄葬送曲」という曲がある。イタリアのマンドリン・オーケストラのオリジナル曲だ。
この曲も学生時代の定期演奏会で、先週紹介した鈴木静一の交響譚詩「火の山」とともに弾いた思い出の曲である。
海外の作曲家、とくにイタリアの作曲家の曲もかなりの数を弾いたのであるが、今一つなじめなかった。
理由は海外の曲は優雅であるが、感情的に訴えるものに乏しかったからであろうか。
しかしこのC.O.ラッタ 「英雄葬送曲」は私が弾いたマンドリン・オーケストラ曲の中でも強く記憶に残る曲であった。
晩秋に開催された定期演奏会の少し前に行われた秋合宿で、合宿所の窓から差し込む黄色の西日を受けながら、この曲のギター・パートを弾いて、その素晴らしさに酔いしれたことを思い出す。
この曲をこの正月休みに30年ぶりに聴いた。
きっかけは12月に聴いた立教大学の定期演奏会のプログラムに掲載されていた過去のプログラムの曲目のなかで、この「英雄葬送曲」が頻繁に出てきたからである。会場で売られていたCDにこの曲があった。
プログラムで頻繁に取り上げられるということは、その曲が素晴らしい曲であることを表している。演奏する人に非常に高い精神的な喜びをもたらすからである。
この「英雄葬送曲」は聴いても大きな感動を得られるが、演奏する方がもっと強い精神的な高まりを経験できる。

C.O.ラッタのことをインターネットで調べてみた。
カルロ・オテッロ・ラッタ(1888~1945)はイタリア生まれの作曲家で、「英雄葬送曲」は、第二次世界大戦中の1941年に催されたファシスト党国家機関O.D.Nの主催によるシエナの第2回マンドリン作曲コンクールにおいて、第2位に入賞した曲とのことである(Orchestra “Plettro”のホームページから引用)。
「葬送曲」とは、人の死を悼む曲である。「英雄葬送曲」は第2次世界大戦で連合国からの激しい攻撃を受けて死んだ多くの兵士達に捧げられた曲である。
曲は前半と後半に分かれる。前半のニ短調は悲痛な重々しい曲想であり、戦争で犠牲となった兵士たちの死を嘆き悲しむ気持ちや戦時中の激動の時代の雰囲気が伝わってくる。
葬送曲や挽歌の多くは短調で終わるが、この曲は後半が明るい壮大な曲想に変化する。この前半と後半の対比は見事と言うほかない。
この後半のニ長調が実に素晴らしく、マンドリン・オーケストラ曲の中だけでなく、クラシック曲全体の中でも隠れた名曲だと感じさせる所以なのである。
このニ長調の後半の出だし(Andante Cantabile)は、すべての精神的、肉体的苦しみから解放された、何も心配することのないやすらぎと幸福感の中に浸っているように感じられる。それは楽しかった過去の思い出、とくに多感な思春期のころを回想しているようにも思える。この部分を聴くと、何か強い感情的高まりが感じられないだろうか。



そしてAnimandoから一層感情的に高まり、生に対する強いエネルギー、幸福感の極致を感じさせる部分に移るが、イ長調からホ短調、ロ短調と移り変わるギター・パートのアルペジオが素晴らしく、この部分を学生時代に何度弾いたかわからない。



Grandiosoからト長調に転調し、最後のSolenneでは力強い華やかなニ長調の行進曲が奏でられ、曲を閉じる。

このC.O.ラッタという人は、戦時中にこの曲を渾身の力を持って書き上げたに違いない。
この曲は戦争の犠牲になった兵士を悲しむと共に、彼らをこれ以上ないというくらい最大限讃える気持ちに満ち溢れている。
後半の幸福感に満ちた音楽は、亡くなった兵士たちの死後の世界での幸福でやすらかな生活を願う気持ちが強く伝わってくる。
C.O.ラッタは第2次世界大戦が終わった年に57歳で生涯を閉じた。

この曲の演奏で良かったのは、立教大学マンドリンクラブの第31回(1997年)定期演奏会の録音と、Youtubeで聴いた中で印象に残った下記の録音である。





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タチアナ・ニコラーエワ演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第32番を聴く

2015-01-12 22:09:03 | ピアノ
ロシアにタチアナ・ニコラーエワ(1924~1993)というピアニストがいた。
ピアノ愛好家であればたいてい知っているピアニストであるが、J.S.バッハやショスタコーヴィチの演奏でかなりの録音が残っている。とくにバッハの演奏は評価が高い。
私がニコラーエワの存在を知ったのは、2年前にベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べを始めてからまもない頃で、1984年にモスクワで行われたベートーヴェン・ピアノソナタの全曲演奏会のライブ録音のCDを手に入れてからであった。



しかしそのライブ演奏はあまり出来が良くなく、いささかがっかりしたものである。
その後バッハの平均律クラヴィーア集のCDを買ったが真剣に聴くことなく時が過ぎた。
先日、東京御茶ノ水にある老舗の某中古レコード店でCDやレコードを物色していたら、ニコラーエワの1987年のライブ録音のCDが見つかった。彼女が63歳の時のザルツブルグ音楽祭でのライブ録音であった。



CDの帯に、ゴットフリート・クラウスという音楽評論家(?)が「感動の一夜」と評していおり、演奏曲目の中に私の好きなベートーヴェンのピアノソナタ第32番があり、帯の宣伝の中に「風格の大きさで感動の極み。まさに”神品”と称するに値する一枚」と記されていたことから、買って聴いてみることにした。
このような宣伝文句を信じて聴いてみたら期待外れ、ということも無きにしもあらずであるが、今回の買い物は期待を裏切らないものであったばかりではなく、今後何度でも聴き続けるであろう、とても素晴らしい内容の演奏であったのだ。
バッハのフランス組曲の第1曲目「アルマンド」を聴いて驚いた。音が何とも暖かいのだ。しかも優しい音。聴き手が「何も構えなくていい」、「そのまますーっと心に落ちていく」ような音、タッチなのだ。
そして終曲「ジーグ」では極めて難しい技巧を、「音楽の自然な要求から生まれたもの」として何の強調もなく、流れるように弾くのである。こんなバッハを聴いたのは初めてであった。
そしてこのライブの最後の曲が、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番(Op.111)であった。
ニコラーエワはバッハやショスタコーヴィチだけでなく、ベートーヴェンに対しても特別な思い入れを持っていると思われる。
1983年と1984年にそれぞれモスクワでピアノソナタ全曲演奏会を行っており、そのライブ演奏はCD化された。
冒頭に述べたように1984年のライブ演奏でがっかりした経験からか、もしかして良くないのでは、という気持ちが一瞬よぎったが、聴いてみたら1984年の演奏とはかなり違っていた。
1984年の時は力みがあり、無理やり余分な力で持って弾いているとういう印象であったが、この音楽祭のライブ演奏は余計な力みは全く無かった。
鍵盤を強く叩かなくても力強い音が出ているのが分かるのである。文章では上手く形容できないが、ピアノの最大限の性能を無駄な力を入れずに引き出しているだけでなく、引き出した物理的な音に、感情エネルギーがたくさん付加されて聴こえてくるのである。
だからそれほど強く鍵盤を叩いていないのに音が会場全体に響きわたっているのである。
この第32番はベートーヴェンのピアノソナタの中で最後の曲であり、彼の晩年の作である。
この第32番はベートーヴェンの人生そのもの、彼の人生の縮図である。ベートーヴェンのもがき苦しんだ人生と、その苦悩を乗り越えて晩年に辿り着いた心境と、それでもなおも過酷だった過去への回想とが交錯する極めて演奏表現の難しい曲である。
以前、ベートーヴェンのピアノソナタの名盤選出の第1回目として、この第32番をブログで取り上げたが、30以上の録音を聴いても2種類の名盤しか選出できなかった。1つはマリヤ・グリンベルクの1961年の録音、もう1つはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの1988年のライブ録音であった。
その後も継続してこの2人に匹敵する名演奏を求めて、探し続けてきたがなかなか見出すことができなかった。
しかし今回このニコラーエワのライブ演奏を聴いてやっと3人目の名盤に出会うことができた。
この第32番は、表面的な上手さでは全く歯が立たない。技巧は何の役にもたたない。奏者の全人格そのものが演奏に出てこないと、聴き手を本当に感動させることはできない。ベートーヴェンの苦悩を心底身を持って理解できた奏者だけが真に聴き手を感動させられるといっても過言ではない。
このニコラーエワの演奏を聴いているときミケランジェリやグリンベルクの演奏を聴いているときと同じような感じを受けているのに気付くことがある。もしかするとニコラーエワがグリンベルクの演奏を聴いて感銘してその影響を受けたのではないか、とか、ミケランジェリは前年のこの音楽祭のニコラーエワのライブを聴いて感動し、その影響で翌年に自分もコンサートで弾いたのではないかとか。
もちろんそんな可能性は極めて低いのであるが、この3人の演奏には共通した感情を感じることができる。
この3人の演奏を聴き終えると大変なエネルギーを消耗していることに気付く。夏などに聴くと汗だくになる。
ニコラーエワのこの第32番の演奏は技術的な破たんがかなりあり、こういう破綻が気になる人には薦められない。しかしこのしばし出てくる破綻が殆ど気にならないほど音楽の表現の骨格が大きいのである。
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鈴木静一作曲 交響譚詩「火の山」を聴く

2015-01-11 22:26:57 | マンドリン合奏
クラシック音楽界の片隅に、マイナーで目立たないが、マンドリン・オーケストラという分野がある。
マンドリンそのものの歴史は古く、17世紀に遡るが、19世紀から20世紀初頭のクラシック音楽が隆盛を極めた年代にイタリアを除き殆ど顧みられることはなかった。
イタリアで盛んに作曲された曲はあまり今日では演奏されていないようだ。
日本でのマンドリン音楽の歴史は20世紀初めからであり、身近な存在では、その草分け的な活動の記録として、作家の萩原朔太郎の全集にマンドリン奏法の解説をしたものを見ることができる。
少し遅れて1920年代半ばにイタリアのカラーチェという作曲家が来日し、そのマンドリン音楽に影響を受けた作曲家が鈴木静一(1901~1980)や中野二郎らであった。
中野二郎はクラシック・ギター界でも有名な存在であったが、主にイタリアのマネンテやアマディといった作曲家の管弦楽や吹奏楽をマンドリン・オーケストラ用に編曲したのに対し、鈴木静一は日本独自のモチーフを主題にしたマンドリン・オーケストラのオリジナル曲を自ら作曲した。
このような発展を辿ったマンドリン・オーケストラの最盛期は、1960年代から1980年代前半くらいまでで、この間に多くの大学でマンドリンクラブが生まれ、鈴木静一や藤掛廣幸を含む何人かの作曲家が大学のマンドリン・オーケストラのためにオリジナル曲を作曲した。
この時代のオリジナル曲は、マンドリン・ギターだけでなく、金管、木管楽器、打楽器、ピアノ等も加えた、総勢60~70名ほどで構成される大規模で本格的なものであった。
私も1980年代前半にこれらのオリジナル曲を演奏する機会に恵まれた。
今日紹介する交響譚詩「火の山」は、鈴木静一の曲の中で最も好きな曲であり、大学の定期演奏会で完全燃焼するまで弾いた思い出のある曲である。
この交響譚詩「火の山」の素晴らしいところは、日本陰旋法をメインに使用し、古代から脈々と消滅することなく続いてきた、日本的情緒を聴く者に強く想起させるモチーフをふんだんに取り入れていることである。
日本陰旋法とは、作曲家の小船幸次郎氏によれば日本独自の旋法であり、外国の音楽に聴くことは皆無である。
この暗く、もの悲しい旋律を生む旋法は、古くから厳しい身分制度のもとで抑圧された日本の庶民の気持ち、また貧しく質素な暮らしを強いられながらも、四季折々の豊かで素朴な美しい自然の中で生活する人々の心情から生まれたものではないだろうか。
このような日本独自の旋法を用いた作曲家は極めて少ないが、有名なのは伊福部昭(1914~2006)であり、「交響譚詩」や「日本狂詩曲」、「ピアノ組曲」などの一部のフレーズで日本陰旋法を聴くことができる。
鈴木静一は伊福部昭よりも13年先に生まれており、伊福部昭が10歳の頃には既に組曲「山の印象」を作曲している。
大正時代に思春期から青年時代初期を過ごしており、この時代に庶民の間では、日本陰旋法による音楽が身近なものとして、日常、盛んに流れていたのではないかと思うのである。
この「火の山」の途中で日本の子守唄で有名な「五木の子守唄」のモチーフが現れるが、このモチーフを使用したいきさつを鈴木静一は次のように述べている。
「私は日本に残る素朴な子守唄を、その主要主題にしたいとはじめから考えていた。私の最も好きなのは「中国地方の子守唄」であった。しかし、中国地方は火山を持たない。それで、その次に好きな人吉の五木のそれを取り上げた。」
偶然であるが、私も日本の子守唄が大好きで、特に中国地方の子守唄と五木の子守唄は最も好きである。これらの子守唄は中川信隆やドメニコーニの編曲でギターでも弾いた。日本陰旋法が極めて凝縮されたような、日本が世界に誇れる名曲である。
「火の山」は冒頭の壮大なロ長調の主題のあと、不気味な地響きやざわめきを形容したマンド・セロやギターの低音の響きで、近くマグマが噴火することを予感させる。そしてこの地響きは次第に大きく激しくなり、Vivaceで噴火が炸裂する。



このロ短調のVivaceの部分を何度練習したかわからない。札幌のヤマハセンターでクラシックギターの展示即売会が丁度この曲を練習しているときにあったのだが、若かった私は、当時200万以上もするヘルマン・ハウザーを、人目も気にせず大音量でこのVivaceの部分を弾きまくったものである。
そしてこのVivaceが終り速度が緩まり、この曲の最大の主題とも言うべき美しい旋律が流れるが、この部分の旋律が物凄く心に刻まれるのである。この旋律を聴いて日本陰旋法に目覚めたといっていい。
下記はギターパートによる伴奏部。



ギター・パートではこの旋律は弾かず伴奏のみで、まだ他のパートの演奏まで聴けていない頃であったのだが、ある時、古い木造の建物の中にあった部室から練習のために数人からなる各パートで、この部分の旋律を弾くのが聴こえてきたのである。この時のことは今でも鮮明に覚えているのだが、思わず立ち止まって耳を澄まして聴くほど感動する素晴らしい旋律であった。
この体験がもとで、その後長い間伊福部昭などの日本的なギター曲を探し続けることになった。
この美しい主題の後にギターの暗い6連符のもとにマンドラの何とも暗く寂しい響きが聴こえてくる。火山の噴火が沈静化したが、作曲者の言葉を借りれば「火山の暴虐がおさまった後に残った冷酷な寂寥」を表現している。
そしてこの後、ニ短調、ハ短調、ト短調と転調を繰り返していくが、先の「五木の子守唄」のモチーフが挿入されるト短調に入る前までの部分が聴きものなのだ。
この部分はまず、下記のようなギターの暗く悲しい伴奏で始まるが、噴火で肉親や家を失った人々の悲しみや嘆きを表現しているのである。この部分はかなり長く続き、暗く悲しいのであるがとても美しい。時にチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第1楽章の暗いフレーズが思い浮かぶ。



ハ短調に転調する際に、フルートのソロでとても日本的な美しい旋律が挿入される。季節は秋を感じる。そして下記のギターの暗い伴奏が続き、オーボエが奏でられる。冬の寒い時、雪が静寂の中でしんしんと降り続くような旋律だ。



そして次第に「五木の子守唄」を連想させる部分に移る。この部分のピアノのト短調のアルペジオがとてもきれいで、私はギターでこの部分をよく弾いたものである。
ピアノの美しいアルペジオが終るや激しい三連符のもとに「五木の子守唄」が奏でられる。この三連符のラスゲアードを学生時代、若かった私は待っていたといわんばかりに激しく弾いたものである。



この「五木の子守唄」の挿入のさせかたか実に上手い。鈴木静一の才能がとても高かったことがわかる。
この後、曲想ががらっとり変わり、暗く悲しい生活から抜け出し、春の訪れを思わせるようなピアノの旋律が流れ、緑の芽吹きが感じられる。そして生命感あふれる躍動的なリズムが繰り返される。その躍動的なリズムがロ短調へ変調し激しさを増していき、突然ニ長調の華やかな踊りを舞うような曲想に変わる。これは噴火の被害から立ち直り、人々が明るさを取り戻し、以前の活気のある生活、祭りや盆踊りで束の間の非日常を楽しんでいた頃に戻っていく様を表している。
しかし曲はここでは終わらない。再び冒頭の不気味な地響きを形容するセロやベースの低音が鳴り響き、再び噴火を繰り返す。
作曲者は「だが忘れない!」と警告している。「間をおいて起こる爆発の前駆、鳴動にも慣れ警戒を怠る-そんな人間を恐れるかのように山はまた爆発を繰り返し惨禍をまき散らす。」
折しも昨年、御嶽山で噴火が突然起き、多くの人の命が奪われたが、山の恐ろしさや人々への訓戒を交響譚詩という形式で見事に表現した曲だと思う。
鈴木静一の曲の中では、交響詩「失われた都」が最も人気があるようだが、曲の構成力、旋律の美しさ、主題をの曲想へ転換する表現力、展開の上手さなど、私はこの「火の山」の方が一段優れていると感じる。

さてこの曲で、今まで市販のCDで聴けたのは長い間、フォンテックから出ていた中央大学マンドリン倶楽部の演奏だけであったが、一般の団体であるコムラード・マンドリン・アンサンブルの演奏もCDも通信販売で買えるようになった。



また先月、立教大学マンドリン・クラブの定期演奏会を聴いた時に会場で販売されていたCDでも聴くことができた。



Youbeでは一般の団体では下記の演奏が素晴らしい。特にフルートや木管楽器の演奏がとても上手く、感動的だ。



また学生オーケストラでは下記の録音が良かった。1971年の録音で古く、雑音も多く、Vivaceや「五木の子守唄」の部分が速すぎて、演奏者がついていけてないという問題があるものの、演奏者達の渾身のエネルギーとこの曲に賭ける情熱が伝わってくる素晴らしいものである。


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今年の抱負(2015)

2015-01-04 01:43:53 | 音楽一般
このブログを始めて3年半になろうか。こうして気楽に音楽を聴いたり語ったりできることにまず感謝したい。
日本経済は財政危機や、かつて繁栄を誇ったものづくりの基盤の衰退、弱体化からまさに分岐点に立たされており、こうして趣味の音楽にお金や時間を投資することも、これからはだんだんと厳しくなっていくかもしれない。
このブログも1週間に約1回のペースで続けてこれた。公開型の日記であるが、自分のこれまでに好きな音楽で得たもの、感動したものを紹介することで誰か読んでくれる方に役立ってもらえるならば、とういう動機で始めたわけである。
読んでくれる方は決して多くはないが、定期的に読んで下さる方やコメントを下さる方には、大変感謝している。
自己満足的な文章も多々あるが、今後も継続して読んでいただけるなら嬉しく思う。
今年もピアノ、合唱曲、ギターを中心に感じたことを思うがままに書いていきたい。
以下、ジャンル毎に昨年の活動を振り返りつつ今年の抱負を述べていきたい。

1.ピアノ

昨年の初めはベートーヴェンのピアノ協奏曲の聴き比べをしようと思い立ったが、マリヤ・グリンベルクやアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジエリ、園田高弘などの演奏を聴いただけで終わってしまった。
2年前から始めたベートーヴェンのピアノソナタの名盤選出も確か6曲を目標に掲げたが、1、2曲程度で終わってしまった。
理由は初夏の頃からフランツ・リストのピアノソナタロ短調の聴き比べに熱中してしまい、ベートーヴェンを聴く時間がとれなくなってしまったからだ。今第2番を聴いているが、とにかく演奏時間が長いので聴き比べをするのは膨大な時間を要する。
昨年の収穫の1つは何と言ってもリストのピアノソナタロ短調を徹底的に聴き込んだことである。
丁度1年前にマリヤ・グリンベルクの1950年代前半、彼女が技術的に最盛期の頃の力みなぎる演奏を聴いたことがきっかけとなった。音源は上野の東京文化会館音楽資料室で聴いたが、ベートーヴェンのピアノソナタ第32番の1961年の録音を初めて聴いた時以来の衝撃を受けた。
Youtubeでユジャ・ワンの映像を見て、この曲の超絶技巧の凄さに驚いたが、マリヤ・グリンベルクの強い芯のあるタッチでこの難曲を弾いているのをこのユジャ・ワンの映像と重ね合わせて想像するに、グリンベルクの若い時代の技巧がいかに物凄かったことが分かる。
グリンベルク以外の演奏では、フランスのジャン・ラフォルジュ(Jean Laforge)、同じくフランスの有名なアルフレッド・コルトーが素晴らしかった。
ラフォルジュはインターネットで音源が公開されているサイトで聴いていたが、後でフランスからLPを取り寄せることができた。



ラフォルジュはテクニックはやや甘いが、芯のある音はまさにピアノらしい魅力のある音であり、とても惹き込まれた。音楽性も解釈も素晴らしい。
ピアノ界は、こういう名前は殆ど知られていない忘れられた過去のピアニストであるが、高い実力、それも曲によっては高名な巨匠以上の演奏をする人がたくさんいることにまず驚く。
層が厚いというより、実力者がうじゃうじゃいて、たまたま宣伝の力に乗った人が巨匠と呼ばれたり、有名になったりするように思われるのだ。
宣伝力に恵まれなかったり、国家の旧体制により活動を制限されたことで近年まで殆ど知られていなかったピアニストはたくさんいる。私が出会ったピアニストでは、フランスのジャン・ミコー、旧ソ連のマリヤ・グリンベルク、アナトリー・ヴェデルニコフ、グリゴリー・ギンズブルグなどである。
ジャン・ミコーは別として、旧ソ連時代の上記3人の録音は、2000年前後にデンオンやトリトンと言った日本のレーベルが、残された録音を発掘して、シリーズものとしてCDを発売したが、現在は廃盤である。
国内レーベルは2000年くらいまで、このような企画をやるだけの力があったが、CDの需要の衰退とYoutubeによりレーベルの音源が無数のように投稿されるに至って、過去の埋もれた価値ある音源を発掘、あるいは再発することは無くなってしまった。
Youtubeでも投稿されていない録音、たとえばアリーヌ・バレンツェンが残したと言われているベートーヴェンのピアノソナタ全曲などの発掘などは、国内レーベルがまず実行することは無いであろう。
もし仮に莫大な費用をかけてCD化を実現、発売しても、Youtubeですぐに投稿されてしまっては商売にならないからだ。
その点海外のマイナーレーベルは、過去の埋もれた録音で優れた貴重な音源のCD化に積極的である。
下のCDはアリーヌ・バレンツェンのベートーヴェンのピアノソナタ2曲(LP時代の録音)が収録されたもので、昨年メロ(melo)というレーベルから発売されたものであるが、かつての廃盤となったLPレコードでは希少のためか高値が付いていた。
しかし残念なことにピアノソナタ「熱情」が収められていなかった。



下はモニク・アースの若いころのライブ録音であるが、とにかくノーミスに近い演奏でよく難曲を何曲も一度のリサイタルで弾けるものなのかと驚かされる演奏。



横道にそれたが、昨年の第二の収穫は、ドイツのペーター・レーゼルのコンサートを聴いたことである。
クラシックのコンサートは殆どが平日、しかも東京都内の有名なホールでやるので、聴きに行くことはまず出来ない。しかし11月に行われたペーター・レーゼルのコンサートは運よく土曜日の昼間であった。
ペーター・レーゼルは以前からCDでその地味でありながら細かいところまで表現できる高い能力に感心していたが、実際生の演奏を聴いて驚いたのはその音の豊かさ、音の美しさである。
レーゼルの音の表現はとて繊細なので、CDで聴くとやや細く聴こえるのであるが、生で聴いた音はCDとは全く別物であったことにびっくりした。低音は最初、パイプオルガンの重厚な音を聴いているように感じられた。そして高音がとても柔らかくかつ芯があり美しかったのだ。
レーゼルのような繊細さを表現できるピアニストは録音で損をしていると思った。残念ながら現代の進歩した録音技術を持ってしても、レーゼルの真実の音は再現できないであろう。レーゼルを聴くのであれば生演奏でなければその真価に触れることはできない。しかしレーゼルも今年70歳だろうか。現代のギタリストであれば引退する年齢であるが、レーゼルの神髄を感じさせる演奏を今後も聴かせてくれることを願いたい。
さてピアノ音楽についての今年の抱負であるが、ベートーヴェンのピアノソナタの名盤選出をまず続けていきたい。そして次に目論んでいるのは、バッハの平均律クラヴィーア曲集の聴き比べである。
平均律クラヴィーア曲集とは、24の機能調性による前奏曲とフーガの組み合わせを曲集にしたものであるが、単に音楽を楽しむだけでなく、機能調性が生まれた根源的な意味合いや、フーガの理論的構成などもこの曲集を教材にして勉強していきたいと思っている。
バッハの平均律クラヴィーア曲集の録音としてはこれまで、スヴャトスラフ・リヒテル、タチアナ・ニコラーエナ、マリヤ・ユージナ、園田高弘、ミェチスワフ・ホルショフスキを聴いてきたが、何度聴いてもあまり心に残ることはなかった。
しかしこの正月休みにミェチスワフ・ホルショフスキの演奏を聴いてかなりこの曲の良さに気付き始めている。



バッハを理解するためには膨大な録音を聴く必要があろうが、まずこの平均律クラヴィーア曲集の聴き比べを徹底してやりたいと考えている。
同時に、24の機能調性による前奏曲とフーガを作曲した、日本の作曲家、原博(1933~2002)の「ピアノのための24の前奏曲とフーガ」も合わせて聴き込むことにする。



この曲も3年くらい前から聴き始めたが、なかなか奥の深い名曲と言えるものである。
原博はギター独奏曲を2曲、「ギターのための挽歌」と「オフランド」という優れた曲を作曲したが、現在この曲を演奏会や録音で聴くことは殆ど無い。「ギターのための挽歌」は過去に、東京国際ギターコンクールの本選課題曲にもなった。
原博についてはこのブログで何度か紹介したが、現代音楽を徹底的に批判した作曲家である。彼は機能調性こそが真の音楽であると主張し、とくにバッハやモーツァルトの音楽を強く理想としていた。
彼は「無視された聴衆」という著作で、これでもかというくらい現代音楽の無意味性、弊害、音楽を破壊した罪などを述べたが、その主張は筋金入りである。私はこの主張は好きではないし、反論もあるが、彼のこの主張は尊敬に値するレベルのものであると思った。これほど真摯に自らの信念でもって音楽と対峙した作曲家は極めて少ないのではないか。
先の「ピアノのための24の前奏曲とフーガ」は1980年代の初め、現代音楽が衰退し始めた頃に作曲され、オフランドもその直後に作曲された。
現代音楽は衰退し調性音楽が復活したが、音楽界は原博に積極的に曲作りを求めなかった。これは何故なのだろう。不思議に思うが、原博が敬愛したバッハやモーツァルトの音楽様式は古くて、バブル時代の音楽に適さないと感じたからではないか。クラシック・ギター界も「オフランド」以降はギタリストが原博に作曲を依頼したという話は聴かない。これは実に勿体ないことだ。前衛時代はその時代の最先端の曲を求め、その前衛音楽も廃れると今度は平和なバブル時代にふさわしい軽い聴きやすい曲を求める。しかし前衛時代の終焉以降で後世に残っていくようなクラシック曲がいくつあるだろうか。
反面、前衛時代の無調音楽でも非常に聴き応えのある曲がある。指揮者の山田和樹さんが、現代音楽について、「私が今、生きている証明になる、地面をはいつくばっている音。この落差こそ人間の生そのものと思いませんか」と言っているが、私もまさにそう思う。無調音楽といっても調性音楽と同様ピンからキリまであるが、機能調性では表現しえない人間の心の闇、苦しみ、葛藤、ぞっとするような触れたくない心の底の荒涼とした感情、このような人間の感情や、また哲学的思考を表現した曲も探せばあるのである。
ただしこのような感情や思考を大抵の人は音楽に求めないから、誰も関心を寄せない結果、傑作と言える曲も埋没してしまっているのである。
小説や映画では、人間の負の感情を描くことが普通に許容されているし、表現することも音楽ほどには難しくないであろう。しかし音楽でこのような負の感情を表現することは至難なことではないだろうか。負の感情を持つに至る人生体験と表現能力が無いと無理である。まして人が通常聴きたくない感情を描いたものを作品として発表することはかなりの覚悟がいるだろうし、その作品から収入を得ることは期待できない。
作曲家も生きていく以上は収入が必要だから、自分の求める感性に反していても時代の流れに合わせて、妥協して曲を作るのかもしれない。それはそれで否定するつもりはないが、現代音楽にしても調性音楽にしても、作曲家の筋金入りの信念と感性で作られた曲は、聴く者に強い影響力をもたらすことは間違いない。

2.合唱曲

昨年はNHK全国学校音楽コンクール(Nコン)高等学校の部の、地区ブロック大会と全国大会の両方の生演奏を幸運にも聴くことができた。その演奏の感想などの以前のブログで紹介させてもらった。
ブロック大会や全国大会の録音はNHKのホームページで聴くことができるが、私はさらにフォンテックから出ているCDを買って更に細かいところまで鑑賞してみた。



Nコンを聴いていつも思うのは、よく1回限り聴いただけで、金賞、銀賞などの順位が付けられるな、ということである。
Nコンで不利な演奏は、一見地味であるが、奏者の気持ち=感情が繊細に表現されている学校の演奏であろう。
このような演奏は注意深く何度も聴かないとその良さがなかなか聴き手に理解されないものである。
今回フォンテックのCDを清聴して細かいところまで聴き入った結果、演奏順位1番目の福島県の高校が実に繊細な感情を伝えていたことに気が付いた。
思うに審査に有利にするには、声を均一にし、完全なハーモニーでスケールの大きい演奏が求められる。
確かにこのような演奏も素晴らしく上手い、と感じるのであるが、私には何か物足りなさを感じる。それはこのような演奏法は繊細な極めて微妙な感情的表現を出すことが困難だからではないだろうか。審査員にインパクトを与え、聴衆にも上手い、素晴らしいと感じさせるような演奏でも、何度も聴きたいか、と言われると必ずしもそうではないこともある。
何度も聴きたい演奏とは、聴き手に感情的変化をもたらす演奏である。感情的変化といっても、上手い、素晴らしいというような表層的なものではなく、もっと深く聴き手の奥底で眠っている根源的な感情を掘り起こして、その感情を引き出すような演奏である。
聴き手の根源的な感情を引き出すためには、賞を得ようというような野心から解放され、純粋に音楽の基になっている感情そのものを無心で表現出来ていないとならない。いわゆる本物の気持ち、感情である。
金賞をとってやろう、とか、聴き手に素晴らしい演奏を聴かせて注目されたい、といった気持ちが入り込むと、聴き手は意識していなくても無意識のうちにそれを感じるものである。だから何となく、何度も聴きたいと感じないのではないか。
私は過去のNコンの演奏でとりわけ素晴らしいものをいくつか紹介してきたが、その中でも平成21年度と平成12年度の全国大会でのある高校の演奏に物凄く強い根源的感情が引き出されるのを感じた。その演奏は極めて集中力の高い、演奏することにこれ以上ないというくらいの強い喜びが伝わってくるのである。喜びといっても、嬉しいとか楽しいとかいう次元とは全く異なる、何というかその演奏する音楽の基になっている感情そのものが、他の何も入り混じることなく、聴き手にストレートに伝わってくるというような演奏なのだ。
過去のNコンの演奏でも賞の結果に関係なく、非常に少ないがこのような演奏に出会うことがあり、このような演奏は一生聴き続けられるものである。
コンクールの順位で演奏の良し悪しを決めるのは無意味である。審査員だって全く正反対の評価を出すことは多々ある。
だから演奏する学校には、順位の結果で自分たちの演奏の価値を決めつけないでほしいのである。
私がNコンが終っていつも残念に思うのはこの点である。自分たちの演奏の出来を自分達で客観的に評価できるようになってもらいたいと思うのである。そのためにも多くの音楽を聴いて、感性を養い、聴き手に音楽を聴かせる原点を常に問うようになってもらいたいと思う。

3.ギター

クラシック音楽のジャンルの中で最も好きなのがこのギターなのだが、鑑賞という点では、年々その比重は低下してきている。逆にピアノ曲のウェイトが増えてきた。
理由は魅力的な録音が少ないからであろう。東京の大手中古CDショップで、クラシックギターのCDコーナーに置いてあるCDの数は20~30枚程度であろうか。ピアノやバイオリンなどの器楽曲に比べれば圧倒的に少ない。
これらのクラシックギターのCDのタイトルや曲目を眺めていると、クラシックギターというジャンルは本当にクラシックなのか、という疑問が湧いてくる。
昔はそうでもなかったが、現在のクラシックギターのレパートリーはクラシックとポピュラーが半々という印象だ。
ギタリストの中にはポピュラー音楽、例えばビートルズや映画音楽などの編曲ものだけを集めたCDを製作した方が少なからずいる。もちろんクラシックギター愛好者でこのような編曲ものを聴きたいというニーズもあるだろうから、このような活動を完全に否定はしないが、しかしクラシックギター界の将来を思うとかなり懸念を感じるのは避けられない。
何が懸念かというと、現代の作曲家や、他ジャンルの音楽家たちから、クラシックギターという分野は一体クラシック音楽なのか、ポピュラー音楽なのか、一体どちらなのだろうかという認識を持たれるからである。その結果、優れたギター曲を作曲したり、ギタリストを海外の音楽祭に招いたりというような機会を失ってしまうのではないか、ということだ。
昔、イギリスのエジンバラ音楽祭で、セゴビアやブリームが招かれて素晴らしい演奏をしたライブ録音を聴いたが、現在、このようなことがあるのだろうか。
主要音楽大学にギター科が何故設置されないかという不満を何十年も前から聴いてきたが、いまだに実現されないのは、ここに原因があるのではないか。
ベートーヴェンやシューベルトが活躍した19世紀から、ドビュッシーやラベルの時代、またスペインでもアルベニスやグラナドスなど民族主義の作曲家たちからもついにギターのためのオリジナル曲は作曲されることはなかった。この間にソル、アグアド、タレガといった優れた演奏家兼作曲家が活躍していたにもかかわらずである。
この19世紀から20世紀初めまでの、クラシック音楽界で最も活発な活動がなされ、多くの名曲が生まれた時代に、これらの大作曲家たちが全くギターに関心を払うことなく曲を作らなかったことが、今のクラシックギター曲のレパートリ不足とそれを補完するかのようなポピュラー音楽への進出を招いているのではないか。
ピアノやバイオリンなどは、この19世紀から20世紀初めに作曲された優れた名曲を、一生かかっても録音できないほど豊富な曲数に恵まれている。この時代より前のモーツァルトやバッハの時代に遡れば更にその曲目数は増加する。
そしてこの有り余るほどの豊富な優れた曲を、膨大な数の実力者が演奏にしのぎを削ってきたのである。
この歴史上の事実はギターにとっては不幸であったが、この音量の乏しい、庶民的な楽器であるギターの宿命であったと思われる。
しかしこのような歴史を持つクラシックギター界で、大変な努力をしてギター音楽をピアノやバイオリンと遜色のないレベルまで引き上げてきたのが、アンドレス・セゴビアであり、その後に続いたナルシソ・イエペス、ジュリアン・ブリームである。
クラシック・ギター界で巨匠と言えるのはこの3人だけである。
この3人に共通しているのは、決してポピュラー音楽に手を出さなかった、ということである。セゴビアやブリームはバリオスでさえも手を出さなかった(イエペスは大聖堂のみ録音したが)。
これは何故なのか、ということを考えると、クラシックギターが常に他のクラシックのジャンルに引けをとらない、他のクラシックのジャンルの演奏家からも一目置かれることを常に念頭に置いて活動してきたからだと思う。つまり彼らはクラシック・ギターという楽器に対して並々ならぬ尊厳を抱き、決して安易な演奏活動はしない、というけじめとプライドを持っていたからである。
この3人は、20世紀初めまでのギターオリジナル曲の不足を、現代の作曲家に曲を作らせるという形で補完してきた。セゴビアはポンセやタンスマン、テデスコ、トローバ、モンポウ、ヴィラ・ロボスなどに、イエペスはオアナ、バカリーセ、アセンシオ、ルイス・ピポーなどに、ブリームはブリテン、バークリー、アーノルド、ブリンドルなど自国を中心にした作曲家に積極的に作曲させた。
しかし今のクラシックギター界はこの3人がせっかく築き上げてきた土台を崩すような動きを感じる。多分今のギタリストはポピュラー音楽も大好きなのであろう。別にそれはそれでいいのだが、プロのギタリストであれば何故現代の作曲家にちゃんとしたギター曲を作るよう働きかけないのか。日本にも優れた作曲家がたくさんいたが、その多くは近年亡くなっている。それらの作曲家は前衛時代にギター曲を少ないながらも作曲したが、前衛時代が終焉した後にギター曲を作ることは殆どなくなった。身近に曲を作る専門家がいたのに、ギター曲が生まれてこなかった。これはかなり不思議な現象だ。
また現代の作曲家がギタリストのために作曲したとしても、録音もせずたった1回の演奏会での初演で終わらせてしまうならば、もう2度とギター曲を書かないということになるのではないか。少なくても演奏家は自分のために書かれた曲を演奏会で何度も取り上げ、広める義務はあるだろう。
なお私はポピュラー音楽を聴くのであれば、その道のプロの演奏を聴きたい。チャーリー・バードやチック・コリアの曲をクラシックギターのど真面目な音で聴いて、本当にその曲を楽しめるのであろうか。
クラシック・ギターには、クラシック・ギターなりのふさわしい音楽というものがある。

さて昨年のギター曲の鑑賞と言えば、スペイン・ギター音楽コンクールと東京国際ギターコンクールを聴いたくらいか。CDは1枚も買わなかったと思う。
今年のスペイン・ギター音楽コンクールはレベルが低かった。全体的に音が汚かったし、演奏も雑だったと思う。
本選自由曲の選曲も同じような曲ばかりである。スペイン人の作曲家という制約があるが、もっと現代の難解な曲を聴いてみたい。
今の若い方は親しみやすい聴きやすい曲を好む傾向があるが、解釈が難解な曲にも挑戦してもらいたいものである。
その点、東京国際ギターコンクールの本選自由曲の選曲にも共通のものを感じる。バリオスを選曲するのは問題外であるが、例えば、1920年より前と後の選曲で、テデスコやアルベニスといった似た者同士の組み合わせではなく、難解な現代音楽を入れたらもっと聴き応えを感じられたと思う。昨年の課題曲は、伊福部昭の曲だったのでなおさらである。
毎年毎年各地で国際ギターコンクールが開催されるが、優勝者が音楽界で活躍しているという話題は伝わってこない。テクニック面ではセゴビア、イエペス以上の人が数多くいるが、肝心の音に魅力がない。一つは音量重視の楽器に頼って、楽器から音の魅力を引き出す努力を忘れているからではないかと思う。昨年の東京国際ギターコンクールの優勝者はひときわ大きな音量で強いインパクトのある楽器(サイモン・マーティ?)を使っていたが、ホールではなく、録音でじっくり何度も聴きたい音質だとは思えなかった。多分うるさい音だなー、と感じると思う。
またクラシックギター音楽だけにとどまり他のクラシックのジャンルの演奏を聴いていないのではないかと思われる。
クラシックギター奏者は、かつての私もそうであったが、内輪の音楽しか関心を示さない方が、他のジャンルの奏者に比べ多いように感じる。それはベートーヴェンがピアノもバイオリンも交響曲も作曲したように、同一の作曲家での横のつながりがギターでは無いことが原因だと思う。例えばピアノ奏者であれば、ある作曲家の曲を研究する際には、その作曲家の他の楽器の曲にも必然的に関心を示すからである。
ギターにはこのような独自性があるのだが、もしクラシックギター界をもっと活発のあるものにしよう考えるならば、ギター以外のクラシックの他ジャンルの曲の研究と、歴史的演奏家の音源の研究は欠かせないと思う。
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