緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

合唱曲「小さな空」を聴く

2015-08-29 22:35:11 | 合唱
素朴だが感動する合唱曲を聴いた。
武満徹作詞、作曲、「小さな空」という曲である。
1970年代の少年時代を思い出す。夕暮れ時の家路につく頃、ススキの揺れる中をオレンジ色の日差しを浴びながら、開かれた窓から聴こえるピアノの音を聴きながら、土の道を歩いたっけ。

石炭ストーブから出る煙のにおいをかぎながら、暖かい家に急いで帰った雪道。

「青空みたら 綿のような雲が
  悲しみをのせて 飛んでいった」

どれほど悲しいことがあったのか。悲しい気持ちは人間らしい気持ちの証。

「夕空みたら 教会の窓の
  ステンドグラスが 真赤に燃えてた」

夕陽の美しさを見て、何を感じたのか。美しいものに見とれるのは、自分に執着していないから。

「夜空をみたら 小さな星が
  涙のように 光っていた」

星を見て涙だと思う。楽しいだけが幸せではない。

自分の感じる気持ちをそのまま受け入れていい。
いいこともつらいこともそのまま感じて、その気持ちを大切にしてあげたい。

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合唱曲「死んだ男の残したものは」を聴く

2015-08-22 22:48:05 | 合唱
作詞:谷川俊太郎、作曲:武満徹の反戦歌で、「死んだ男の残したものは」という曲がある。
反戦歌としては寺島尚彦作詞作曲の「さとうきび畑」とともに不朽の名曲といえる。
この曲は1964年にベトナム戦争反対の集会のために作られたという。
作詞した谷川俊太郎は武満徹に作曲を依頼したが、たった1日で作曲されたと言われている。武満徹が35歳ごろのことだ。

この詩も曲も聴くと心突き刺さってくるようだ。何度も聴くと大きな感情がストレートに伝わってくるに違いない。
しかし悲しい歌だ。
人類の歴史を振り返ると、平和と戦いの繰り返しである。今は平和でもいつかは戦いの時代になるのであろう。
戦いで失ったものに対する悲しみが風化し、人々は物質欲に支配され、領土や資源を我が物にしようとする。
物質欲に支配されている人間、人を傷つけ搾取しようとする人間は、例外なく、心が苦しい。心が虚しい。間違いなく幸せではない。

最近、新聞の読者投稿欄で、やたら安倍首相をサンドバックのごとく標的にして、集団的自衛権や、安全保障政策、戦後70年談話などを批判する意見が目立つ。
しかしこのような投稿者たちは、世界で軍事力を増強し、領土や資源の拡大を実行したり、武力を背景にした非道な行動に出ている国や集団に、そのふるまいの無意味さ、無益さ、巻き込まれた人々の悲しみを、決して直接問おうとしていない。

この「死んだ男の残したものは」は2人の若き男たちが、全身全霊で平和の尊さを願って世界の人々の心に届くよう作り上げたものに違いない。
それだけにこの詩も曲も普通の曲と比べ、桁違いに感情エネルギーに満ちている。

この曲は初め独唱曲として作曲され、伴奏などは無かったようだが、後で作曲家の林光がピアノ伴奏付の混声合唱曲に編曲した。
その後で武満徹自身が無伴奏の合唱曲に編曲した。

(作曲者自身の編曲による無伴奏合唱曲の演奏)



(林光編曲、ピアノ伴奏付合唱曲の演奏)



(独唱での演奏)

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POR-15塗布

2015-08-16 21:21:36 | 
車のワイパーのアームが経年の錆でひどい状態になってきたので、塗装することにした。
古い車に乗っていた方なら分かると思うが、車のボディ等に付いた錆は、塗料をはがし、完全に錆を除去しないと、いくらその上に塗料を塗り重ねても錆が拡大し、上に塗った塗料を押し上げてしまうのである。
錆がひどくなると鉄部の内部まで進行しているからグラインダーなどで相当削らなければならない。しかし削ると板厚が薄くなってしまう。
そこで今回は、錆を削り取らなくても錆の上にそのまま塗布することが出来、かつ2度と錆が発生しないという、優れものの塗料を使った
この塗料の名前をPOR-15という。



最初、ポル15と呼ぶのかと思っていたが、正式名称はピー・オー・アール15というらしい。
POR-15との出会いは今から15年くらい前だろうか。
当時今乗っている車の前の車、これも小型の4輪駆動車だったのだが、1981年(昭和56年)製のその当時ではもうめずらしくなっていた2サイクルエンジンを搭載した車体の軽い車であった。
2サイクルエンジンというと、昔の軽トラックに使われ、スクーターなどに使うCCISという消費型エンジンオイルを使うのである。このエンジンオイルを燃やして出てくる排気ガスのにおいと、バイクのようなエンジン音が独特で、気に入っていた。
しかしこの車、何せ古いので故障が多かった。買った当日に早くも故障した。中古車として購入し、販売店から乗って帰る途中でエンジンが止まってしまったのである。原因はガソリンタンク内の錆をキャブレターが吸ってしまって、ジェットと呼ばれる針穴ほどの穴が先に空いた管を塞いでしまったのである。
いつ走っている最中にエンジンが止まってしまうのではないかという恐怖と戦いながら、通勤を始め、毎日この車を運転した。
この恐怖の車でフェリーを利用して、帰省のために北海道まで行ったことがあった。北海道内をこの車で2泊3日くらい旅をしたが、中山峠という長い峠道を登った時にはエンジンが壊れてしまうのではないかと冷や汗をかいた。
この車、錆はガソリンタンクだけではなかった。
ある日、この車に乗っていたら、アクセルを踏んでいる足先に何か冷たいものがポタポタ当たるのを感じたのである。雨降りだったので雨漏りであることは間違いなかったが、どこから漏っているのかなかなか発見できなかった。
その後しばらくして雨漏りの原因はフロントガラスの枠にはめ込まれているゴムが経年劣化で硬化し、隙間から雨が入り込み、下に垂れていたことが分かった。
さすがに足がびしょびしょになるのは不愉快だったので、考えた挙句、「バスコック」という風呂場で使う目止め材を買ってきて、これを窓枠に沿って塗って隙間を埋めたのである。これで雨漏りはしなくなった。
しかし災難はこれだけではなかった。
先の雨漏りで運転席と助手席の足元がびしゃびしゃになったのだが、足元にしいてあったカバーをある時剥がしてみたら唖然とした。床の金属部に硬いゴムのようなものが付いていたのだが、そのゴムが蜘蛛の巣のようにひび割れており、そのひび割れたゴムを取り除いていくと信じられないことに地面が見えるではないか、何と床に穴が空いていたのある。
雨漏りの雨がそのカバーと床との間に乾燥せずそのまま滞留し続けて、鉄板を腐らせてしまったのである。
とにかくこのままではまずいので、このひび割れた硬いゴムを撤去し、鉄板に付いた錆を完全に除去し、空いた穴はパテで埋めて再塗装しようと考えた。
はじめ錆を除去するために錆転換剤のスプレーを使ったが、錆を完全に除去するこは出来なかった。
何かいい錆止め塗料がないかと色々調べたら、POR-15という塗料が非常に優れているという情報を得た。
そして東急ハンズでこの塗料を入手し、運転席と助手席の床面の腐食部分だけでなく、ほぼ全域を塗りまくった。
穴の空いた部分は、初めは普通のパテ、次に金属パテなど色々なパテで試したり、銅や真鍮の金網を当てがってパテを盛ったりしたが上手くいかず、最終的にはFRPの繊維の入った補修用の布をエポキシ系の強力な接着剤で貼り付け穴を埋め、その上を確かFRP繊維入りのパテを盛って固定した。
最後にその上を2種類の塗料を塗り重ねてこの作業は完了した。休日を利用して少しずつ試行錯誤を重ねながらやったので、2か月以上を要した。

これ以外にもこの車はとんでもない補修を余儀なくされる事態になったことがあったが、これについて別の機会に述べたいと思う。
結局この車はキャブレターがいかれてしまって、走行中にまたエンジンが止まってしまうなどトラブルが起きたたため、手放し、現在の車に至る。

(下の写真が前の車に付いていた、いかれたキャブレター)



今の車のワイパー・アームの錆を補修するために、15年前に使ったPOR-15を東急ハンズに買いに行ったら売っていなかった。そこでインターネットで購入した。
色はブラック、シルバー、クリアー(透明)の3色のみで、今回はブラックを選んだ(前回はクリアー)。
今日の夕方、暑さが和らいだのを見計らって作業に着手した。
3本入りの筆を100円ショップで購入し、一番太いものを使う。缶のふたを開けようとタガネでこじったが、なかなか開かない。ふたの淵が変形してやっと開いた。
取説を読むと、誤って飲んだら死ぬという。恐ろしい塗料だ。東急ハンズに売っていなかったのはこのためかもしれない。
塗料は別の容器に移し替えなさいと書いてあるが忘れた。車の荷台を物色したら、運よく空のスプレー缶のふたがあったので、これを利用することにした。
10CC程このふたに入れて、ワイパー・アームに筆で慎重に塗る。マスキング・テープも忘れてしまったので、垂れないように下に紙を添える。
摺動部は塗らないように気を付ける。塗ってしまったら、塗料が固まって動かなくなってしまうからだ。
元の缶のふたはすぐに閉めなければならない。開けたままだと塗料が硬化してしまうからだ。
ふたをするとき、サランラップをふたの下に敷いて閉めないと2度と開かなくなるそうだ。サランラップは忘れなかった。
ついでに全面、錆だらけだったフォグランプと、ボディの亀裂の入った部分に塗る。ボディの色と変わってしまうが、気にしない。

(塗料を塗る前の状態)





(塗料塗布後)





30分程で作業は終わった。
このPOR-15は錆の上から直接塗れるところがいい。ものぐさな私にはピッタリの塗料だ。
錆も付いていないツルツルの鋼板に塗ってもすぐ剥がれるようだ。
取説には、「硬化後は他に類を見ない耐衝撃性、耐水性、耐薬品性を持つ、高硬度、無気孔の塗膜が形成され、同時に、温度変化による金属の伸縮に十分に対応する柔軟性をも兼ね備えているので、長期にわたり錆の発生を防ぐ」と書いてある。
手に少しこの塗料が付いてしまったが、1週間は取れないそうだ。

今の車は昔の車に比べて鋼板の防錆(ぼうせい)力は格段に進歩している。昔の車は錆との闘いだったのである。

※危険な塗料なので、この記事を読んで使用を考える方は十分に注意してください。
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三善晃作曲「ヴァイオリン・ソナタ」を聴く

2015-08-16 00:19:54 | バイオリン
器楽から合唱曲に至るまでさまざまなクラシック音楽を作曲した、日本の代表的作曲家、故、三善晃の初期の作品である「ヴァイオリン・ソナタ」を聴いた。
録音は1969年、ヴァイオリン:黒沼ユリ子、ピアノ:三善晃。
このヴァイオリン・ソナタは三善晃がフランスのパリ音楽院へ留学する直前の1954年から1955年に書き上げられたという。彼がまだ20歳の頃だ。
三善晃の曲はこのヴァイオリン・ソナタの翌年1956年に作曲された「ピアノ・ソナタ」を始めとしてその後の主要な作品は難解な現代音楽が多い。
「ピアノ・ソナタ」や1960年代に作曲された弦楽四重奏曲や、ピアノやヴァイオリンの協奏曲を聴くと、とにかく音やリズムが激しく、また無調の理解し難い難解な音楽に構えてしまうことがある。
それはそれとして楽しみ方があるのであるが、この初期作品である「ヴァイオリン・ソナタ」を初めて聴いた時、3、4年くらい前だったか、いささか拍子抜けした記憶がある。これが三善晃の曲なのかと。
今日久しぶりに聴いてみたが、フランス音楽の雰囲気が漂った、若いエネルギーに満ちた鮮烈な曲であった。
第1楽章はフォーレの室内楽を彷彿させたが、旋律がすぐに覚えられるような親しみやすいものとは違い、美しさに満ちているのであるが、手が込んでいて単純ではなく、曲の核心を理解するのに聴き手にそれなりの長い時間を与えるような音楽なのだ。
若い時の三善晃は、聴き手にすぐに簡単に分かってもらえるような親しみやすい音楽ではなく、聴き手に音楽を理解するためには苦行とまではいかなくても、それなりの努力や学習、人生経験を求めていたように思える。
最近、メルロ・ポンティというフランスの哲学者の書物を何冊か購入して読み始めたが、最初のはじがきですら難解で何を言っているのか分からない。この哲学書を理解するためには何度も何度も読む必要があるし、関連する書物を読んだり、分からない部分は何日も熟考しなければ歯が立たないと痛感した。
哲学と音楽とを同列に並べ、音楽にも哲学のような努力が必ず必要だと説いたり、強要するつもりはないが、三善晃を始めとする現代音楽を理解するためにはそれなりの覚悟は必要だと思うのである。
もちろん現代音楽が好きだ、興味があるという気持ちがあることが大前提であるが。現代音楽に嫌悪感を感じるのであれば聴くまでもないことである。

第2楽章は静かで穏やかな音楽で始まる。深夜の静けさで聴くといいと思ったが、かなり強く激しくなる部分もあるので、やや落ち着かないかもしれない。
しかしこの音楽はやはり夜をイメージしていると思う。最後は冒頭のように静かに穏やかに終わる。
人間の純粋な感情に同調するようでしないところがこの音楽の特徴だと思う。美しいのであるが、根源的な感情を伴う美しさではない。日常的な生活環境で生まれてくるのではなく、異次元の世界で、あるいは夢の中で感じるような音楽に聴こえてくる。

第3楽章はロンド・ソナタ形式を持ち、曲想は他の楽章に比べやや難解になる。三善晃が翌年以降、無調の音楽を作るようになることを暗示しているかのようである。
終結部はかなり激しく、人によってはうるさく感じるかもしれない。しかし感じ方によっては鮮烈だとも言える。
展開部であろうか、途中、雰囲気が穏やかに一転する部分がある。旋律が神秘的で何となく日本的にも感じられる。
そしてやや長いピアノ独奏の後に主題が再現されてリズムや音の強さは一層増していき、ユニゾンのヴァイオリン独奏の後にややここも日本的とでもいうのか、そのような情感をわずかに感じられるフレーズが現れる。
その後クライマックスに向け激しさを増し、やや長いトリルの後、最高音に達し、最後は長調の和音で終結する。

聴き終えた感想は、よくこれだけの音楽を20歳で作ったということだ。これは音楽の技法だけでは全く作れない次元のものである。
普通、音楽を志す初期の作品は親しみやすい分かりやすい曲か、空虚な未熟な技法に偏った、あるいはそれに頼ったものであろう。しかしこの三善晃の作品は、まず独特の旋律から発せられるエネルギーの強さに圧倒される。
そのエネルギーとは感情エネルギーとも違うようだ。つまり聴いていて聴き手の根源的な感情を強く刺激するものではない。しかしこのエネルギーは別の意味で、聴き手に強い何かを残す。

三善晃の音楽は一部の合唱曲を除いて難解な曲が多くて、私自身も頻繁に愛聴しているわけではない。
しかし、聴いて心をゆさぶられる音楽だけが素晴らしいと考えるのは狭い見方ではないか。
文学というカテゴリーを広くとらえるとき、そこには狭義の文学や哲学、社会学なども含まれる。
音楽も同様にそのカテゴリーにはさまざまな音楽が属しているが、難解な現代音楽も音楽の重要な柱である。
ただ難解な故に、限られた人にしか関心を持たれていないだけであり、その芸術性に劣勢があるわけでない。
現代音楽を文学における哲学のようなものとみなすことはやや強引かもしれないが、イメージとしては哲学のような取り組み方が必要ではないかと思うのである。
その取り組みかたは文学小説を読むのと違って、関連知識や様々の経験を要するものであり、現代音楽が好きか、興味があるならば、音楽の聴き方に多くの幅や深みを与えてくれると感じるのである。

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合唱曲「海はなかった」を聴く

2015-08-14 22:06:30 | 合唱
Nコン(NHKが主催する全国学校音楽コンクール)のホームページで過去の課題曲を遡って聴いていった。
昭和時代の大会はCDが出ていないので、このホームページで限られた音源を聴くか、公共の音楽資料室でLPレコードを聴かせてもらうしかない。
しかし昭和の時代の合唱曲は現在と趣がかなり異なる。昭和20年代まで遡ってみたが、強く印象に残る曲は極めて少なかった。
その中でもとりわけ強く心に残ったのが、広瀬量平作曲、岩間芳樹作詞の「海はなかった」であった。
昭和61年度のNコン高等学校の部の課題曲で、演奏は東京都立八潮高等学校(混声合唱)。

まず冒頭の激しい不協和音に驚いた。Nコンの課題曲でこんな出だしで始まる曲は聴いたことが無い。
この不協和音は何を暗示しているのか。
密かに無調の現代音楽を予測したが、歌が始まると全く違っていた。寂しく悲しい歌であった。
しかしとてもいい歌だ。合唱曲の名曲といってもよいだろう。
こういう力強い合唱曲は少ない。最近の記憶では高田三郎作曲の「水のいのち」より「川」が思い出される。昭和時代の名曲中の名曲だ。
昨日からこの曲を聴き始めてもう何十回聴いたかわからない。ものすごく心を刺激してくる。歌も詩も。

海と鳥を主題とした詩だ。
前半部の「夏の旅びとの髪飾り  どの風待てば飛べるだろうか」と最後の「夏の旅びとの髪飾り  どの花添えて海をみようか」の部分はとても感情をゆさぶられる。演奏者の八潮高等学校の歌い方が素晴らしい。

この詩は、1960年代から1970年代に社会問題となった公害をテーマとしているのであろうか。
飛ぶ力を失った鳥たちの無念の気持ちが伝わってくる。

私の家のベランダには雀がたくさんやってくる。雀が巣を作ったこともあった。
雀を見ていると飛ぶことがとても楽しいのだと思える。鳥は意識してなくてもそう感じている。
飛ぶことが鳥の命。
飛ぶために生まれてきた鳥が、飛ぶことができない、それは実質死を意味する。
しかしそれは鳥だけでなく、どんな生き物でも、人間にだっていえるのではないか。



【追記(20150815)】

広瀬量平のクラシック曲として、1976年に作曲された「尺八とオーケストラのための協奏曲」を図書館から借りて聴いてみた。
無調の現代音楽で、ちゃんと調性のある聴きやすい曲になじんだ方だと嫌悪感を示すかもしれないが、なかなかの曲である。





広瀬量平だけでなく、三善晃を始めとして林光、平吉毅州(ひらよしたけくに)などの日本の現代音楽の作曲家が、1970年代に少なからず合唱曲も作曲していたことに気付くが、同じ時代に難解な現代音楽と美しい合唱曲とを並行して作曲していたことに驚く。
参考に下記は、平吉毅州が1970年に作曲した「ギターのためのプレリュードとファンタジア」の「ファンタジア」の冒頭部の譜面であるが、恐ろしく不気味な曲である。



【追記(20150815)】

Nコンのホームページで過去の課題曲のJuke Boxを見ていたら、昭和50年度大会(第42回)にもこの「海はなかった」の演奏がありました。
演奏者は昭和61年度大会の時と同じ東京都立八潮高等学校だったが、年度が違うので別の演奏かと思ったら、全く同じ演奏でした。
昭和61年度で聴けるこの曲の演奏はもしかすると昭和50年度大会の時の演奏かもしれません。
いずれにしてもこの演奏は名演だと思います。

【追記(20150816)】

この「海はなかった」は、混声合唱組曲「海の詩」の第1曲目なのですが、元々は単独の曲として、昭和50年(1975年)のNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲として作曲されたものだそうです。
この後に4曲が追加されて組曲となったとのことです。
昭和50年というと、オイルショックの直後であり、公害問題も日常のように取りあげられていました。
高度経済成長時代は終わりを告げましたが、私が今までの人生を振り返ると、この1970年代の日本が最もいい時代だったように思います。
この数年後に第2次オイルショックがありましたが、みんな節電に努めました。テレビも各局、夜11時以降の番組放映を取りやめましたから、東北大震災の時よりも節電意識が高かったと思います。
東京都立八潮高等学校のような歌い方が昭和の時代の主流だったのしょうか。彼らの歌を聴いてこの時代のことが思い出されます。
今は綺麗に美しく歌うことが主流なのかもしれません。
この演奏は粗削りさもやや感じますが、太い幹のようにしっかりと立っているような力強さと、歌い手の思いの強さを感じます。
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