昨日(7/18)、神奈川県の関内小ホールで「太田キシュ道子ピアノリサイタル」が開催され、聴きに行ってきた。
太田キシュ道子さんの演奏を初めて聴いたのが、2017年6月、千葉市美浜文化ホールでのコンサートだった。
とくに誰かからコンサート情報を聞いたということではなく、ネットの音楽之友社のコンサート情報を見て、初めて目にするピアニストであったが、行ってみようと思い立ったのがきっかけであった。
会場の美浜文化ホールはとても小さなホールであったが、それが幸いした。
今までも少ないながらもピアノコンサートでピアノの生演奏に接したことはあったが、太田氏の演奏を聴いて、この時初めて、ピアノの生の音がこれほど美しいものなのか、と気づかされたのである。
この時以来、ピアノの演奏をCDやレコードで聴くことでは、真に演奏の価値を理解することは出来ないと思うようになった。
どんな楽器でもそうなのかもしれないが、ピアノに関して言えば、絶対に生の音、それも大ホールなどの大きなホールではなく、サロンのような小さいけど音響の良いホールで間近に聴くものに勝るものは無いと確信した。
再生装置に何百万円もお金をかける方も少なからずいるようだが、はっきり言ってこれはあまり意味のないことだと思う。
何故ならば、録音された時点で生の音とは別物に変換されてしまっているからだ。
ただピアノの生の音に対しそのように感じるに至ったのは、もちろん太田氏の音の魅力が大きかったことに尽きる。
太田氏の音の魅力とはなんだろう。
まず挙げられるのは、力強い重厚な低音だ。
大きな腕の動作をしていないのに、伝わってくる音は幾層にも織り重なり、深いところから力強く響いてくるように感じられる。
次に高音は芯のある、つき抜けていくような音だ。これも軽いタッチでは実現できないものなのだろう。
打鍵は強靭だが、物理的な強さではない。強い音でも不愉快な音もある。
昨日の演奏を聴きながら感じたのは、奏者の感情の強さと、楽器から最大限の音の魅力を引き出そうとする姿勢、その両者の相乗作用が、太田氏のあの音を実現させているのではないかということだった。
ピアノコンサートは殆ど行かないので分からないが、毎年聴きに行くギターコンクールなどで昨今の演奏家が発する生の音に物足りなさを感じるのはこの点が欠けているのはないかと思う。
楽器の性能向上により、やけに馬鹿でかい音を聴けるようになったが、これは長い間の修練により獲得された音量、音の強さとは別物である。
要は楽器の物理的な作用により大きく聞こえるのであって、奏者の音楽に対する感受性や感情エネルギーの強さ、楽器から最大限の魅力ある音を引き出すための長い年月をかけた絶え間ない修練の結果、生み出されたものとは次元が違うのである。
だからコンクールで聴いた演奏などは、その時は「上手い!」と感じても、また繰り返しこの演奏を聴きたい、またこの人のコンサートに行きたい、という気持ちになれないのである。
前置きが長くなったが、昨日のリサイタルのプログラムは下記のとおり。
・ピアノファンタジー 太田キシュ道子
・幻想曲風ソナタ作品27-2「月光」 ベートーヴェン
・幻想曲集 作品116 ブラームス
・幻想曲 作品17 シューマン
曲目全てが幻想曲であり、今年は「幻想曲」をテーマにしてきたことが伺われる。
「幻想曲」の一般的な定義は、「作曲者の自由な想像力に基づいて創作される器楽作品の名称」ということらしい。
ギター曲で幻想曲というと、フェルナンド・ソルのいくつかの曲が思い浮かぶが、ピアノではあまり浮かんでこない。
モーツァルトのK396などのいくつかの幻想曲、ショパンやリストの数曲といった感じか。
プログラム2曲目のベートーヴェンの「月光」はピアノソナタではあるが、楽譜には(Sonata quasi una Fantasia.)という副題が添えられており、幻想曲風のソナタということができる。
第1曲目は太田氏の短い自作曲だったが、古典形式のなかなか味わい深い曲だった。
現代における演奏者での自作というと、器楽奏者特有の楽器臭さが抜けない曲とか、親しみやすい曲想にした傾向のある曲が多いのではないかと思うのだが、太田氏の曲はあくまでもオリジナルのクラシック曲にこだわりを見せたものだという印象であった。
プログラムに三善晃などの作曲家に室内楽の師事をしたと書かれていたが、学びの過程で作曲も勉強されたのだと思う。
2曲目のベートーヴェンのピアノソナタ第14番は多くの人が知っている有名曲であり、無数の演奏があるが、それだけにさまざまな解釈を聴く事ができる。
第1楽章は終始三連符の連続し、静かに(ppで)繊細に演奏することが求められ、奏者のセンスが如実に現れる曲なのであるが、太田氏の演奏はやや速めのテンポでテンポを崩さず、作者の意図を忠実に表現した正攻法の演奏だと感じた。
第2楽章は一転、優雅で明るい曲想に変わるが、途中に現れる低音の和音の響きを違和感なく十分に響かせ、かつ持続させられるかがポイントだと思う。
第3楽章はプレストで激しい情熱感を表現することが求められるが、この楽章を聴くと、ベートーヴェンの心の葛藤というものが伝わってくる。
テクニックだけに溺れた奏者だと流暢な指裁きしか伝わってこないが、この楽章の意味するところは、ベートーヴェンが抱えていた苦悩と、それを何とかしたいという強い気持ちとの激しい葛藤だったのではないかと思う。
超絶技巧を絶え間なく要求されるこの楽章の中で、太田氏の演奏を聴きながら、この激しい心理的葛藤というものが頭に浮かんできた。
ブラームスとシューマンの幻想曲は多分初めて聴く曲だと思う。
高音よりというより、力強い低音が強調される曲であり、太田氏の持ち味が活かされた素晴らしい演奏であった。
しかしこれほどの力強い音、それも魅力の満ちた音というのは、なかなか聴けるものではない。
クラシック音楽の本場であるヨーロッパで、早くから研鑽を積み、当地で生活拠点を築きながら長年に渡り地道に活動を重ねて得られた「音の凄み」を感じさせるコンサートであった。
太田氏のコンサートはこれで4回目。
昨年はトークコンサートは聴けたものの、その1週間後の美浜ホールでのコンサート、シューベールトの死の直前に書かれたピアノソナタ第21番を聴き逃したのが痛かったが、来年もまた聴きに行くのが楽しみだ。
それにしても観客が少ないのが残念だ。
コロナ禍ということもあるが、これだけの実力者の演奏がごく少数の人々しか堪能できないのは勿体ないことだと思う。