ここ2、3週間ほど、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ、パルティータの全曲録音の聴き比べをしていた。
もとよりヴァイオリンはあまり自分の好みに合わないので、今まで本格的に聴き比べをするまでに至らなかったが、どういうわけか、いつの間にかバッハのヴァイオリン曲を聴き続けていた。
聴いた演奏家は、ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン、ヨーゼフ・シゲティ、ギドン・クレーメル、ヘンリク・シェリング、ヤッシャ・ハイフェッツ、ジョルジュ・エネスコ、ヨーゼフ・スーク。
それぞれに個性があり、同じ曲でも演奏表現はかなり異なっていたのが印象的だった。
ヴァイオリンはここで意見を述べるほど聴き込んでいないので、どれがお勧めなど言えないが、私の好みとしては、曲にもよるが全体的にはヨーゼフ・スーク、 ヘンリク・シェリングが良かった。
もう少し聴きこんでから、感想などを書きたいと思う。
このバッハの無伴奏ヴァイオリン曲を聴いてから、30年以上前の学生時代によく聴いた録音を思い出した。
大学最終学年の時、就職が内定し、卒業論文に取り掛かっていたころ、夜寝る前によく聴いた録音だ。
兄がFMラジオからデープに録音した、佐藤豊彦演奏 バッハ作曲、ヴァイオリンソナタ第1番(リュート編曲版)であった。
そしてこの曲のあとに、決まってセルシェルの弾く、バッハのリュート組曲第2番を聴くのが定番だった。
社会人になり、20年以上経過してから、この時に聴いた録音でもう一度聴きたくなってCDを探したのは、 佐藤豊彦の演奏の方であった。
昨日、今日と久しぶりに録音(ヴァイオリンソナタ第1番、佐藤氏自身によるリュート編曲版)を聴いたが、先に挙げたヴァイオリンの巨匠達の演奏に比べ、誇張の一切ない、一見地味とも思える自然な演奏だった。
もちろん音域の広い撥弦楽器であるリュートという楽器の性質のせいもあるかもしれないが、それでも佐藤豊彦の演奏は、学生時代に何度も繰り返し聴いたように魅力を感じるものであった。
この佐藤豊彦の弾くリュート編曲版の演奏を聴いた直後に、 ヘンリク・シェリングの格調高い演奏を聴くと、シェリングの演奏が何故かうるさく感じてしまう。
例えはよくないが、日本酒に例えると、シェリングの演奏は華やかで芳醇な大吟醸酒、佐藤豊彦の演奏は何年も熟成を重ねた地味であはるが、味わい深い古酒という感じ。
やはり何度も聴きたくなったり、10年、20年経ってまた聴きたいと思う演奏は、何か秘めているものがある。
具体的にその理由ははっきり分からないが、何故か惹き付けられて記憶に長く残り続ける演奏というものがある。
佐藤豊彦はギター愛好家の多くが知っているように、世界的なリュート奏者であり、オランダを拠点に演奏活動や教授活動をしていた。
今回聴いた ヴァイオリンソナタ第1番ト短調は佐藤豊彦自身の編曲であるが、第2曲の「フーガ」はリュート編曲版があり、多くのギタリストのレパートリーにもなっている。
今回、所有のCDでホプキンソン・スミスの演奏するリュート編曲版のフーガ(BWV1000)を聴いてみたが、やはり佐藤豊彦の弾く原曲ヴァイオリンからの編曲版の演奏の方が数段優れていると感じた。
ちなみにこのリュート編曲版のフーガは、バッハ自身が編曲したものか、その弟子が自分が演奏するためにリュート用に編曲したものなのか、定かではないようだ。
しかしこのヴァイオリンの名曲を音域の広い撥弦楽器に編曲することで、原曲とは異なる、また別次元の音楽を楽しむことができる。
それを最も感じられるのは、とても低く深い低音と、弦数が多いことからくる倍音の独特の優雅な響きが聴こえてくることである。
またリュートという、おとなしく繊細な楽器であるが故の、誇張のない古風な抑制された音もまた魅力だ。
一昔前、バッハのリュート組曲のギター編曲版を演奏会や録音に取り上げることが流行ったが、私はこのリュート曲をギターへ編曲して演奏するのを聴くのはあまり好きではない。
11弦ギターもしかり。
先に述べたリュート独特の魅力が全くというほど、ギターでは演奏不可能だからだ。
イエペスがドイツ・グラモフォンにバッハのリュート曲のギター編曲版を録音したのと合わせて、アルヒーフにリュートでの演奏の全曲録音を残したのは、そのためではないかと思う。
ブリームもルネッサンス時代のリュート曲を、リュートそのもので膨大な録音を残したが、ルネッサンスやバロック期のオリジナル曲はやはりその時代の楽器で演奏したものを聴きたいし、その方が魅力を感じる。

もとよりヴァイオリンはあまり自分の好みに合わないので、今まで本格的に聴き比べをするまでに至らなかったが、どういうわけか、いつの間にかバッハのヴァイオリン曲を聴き続けていた。
聴いた演奏家は、ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン、ヨーゼフ・シゲティ、ギドン・クレーメル、ヘンリク・シェリング、ヤッシャ・ハイフェッツ、ジョルジュ・エネスコ、ヨーゼフ・スーク。
それぞれに個性があり、同じ曲でも演奏表現はかなり異なっていたのが印象的だった。
ヴァイオリンはここで意見を述べるほど聴き込んでいないので、どれがお勧めなど言えないが、私の好みとしては、曲にもよるが全体的にはヨーゼフ・スーク、 ヘンリク・シェリングが良かった。
もう少し聴きこんでから、感想などを書きたいと思う。
このバッハの無伴奏ヴァイオリン曲を聴いてから、30年以上前の学生時代によく聴いた録音を思い出した。
大学最終学年の時、就職が内定し、卒業論文に取り掛かっていたころ、夜寝る前によく聴いた録音だ。
兄がFMラジオからデープに録音した、佐藤豊彦演奏 バッハ作曲、ヴァイオリンソナタ第1番(リュート編曲版)であった。
そしてこの曲のあとに、決まってセルシェルの弾く、バッハのリュート組曲第2番を聴くのが定番だった。
社会人になり、20年以上経過してから、この時に聴いた録音でもう一度聴きたくなってCDを探したのは、 佐藤豊彦の演奏の方であった。
昨日、今日と久しぶりに録音(ヴァイオリンソナタ第1番、佐藤氏自身によるリュート編曲版)を聴いたが、先に挙げたヴァイオリンの巨匠達の演奏に比べ、誇張の一切ない、一見地味とも思える自然な演奏だった。
もちろん音域の広い撥弦楽器であるリュートという楽器の性質のせいもあるかもしれないが、それでも佐藤豊彦の演奏は、学生時代に何度も繰り返し聴いたように魅力を感じるものであった。
この佐藤豊彦の弾くリュート編曲版の演奏を聴いた直後に、 ヘンリク・シェリングの格調高い演奏を聴くと、シェリングの演奏が何故かうるさく感じてしまう。
例えはよくないが、日本酒に例えると、シェリングの演奏は華やかで芳醇な大吟醸酒、佐藤豊彦の演奏は何年も熟成を重ねた地味であはるが、味わい深い古酒という感じ。
やはり何度も聴きたくなったり、10年、20年経ってまた聴きたいと思う演奏は、何か秘めているものがある。
具体的にその理由ははっきり分からないが、何故か惹き付けられて記憶に長く残り続ける演奏というものがある。
佐藤豊彦はギター愛好家の多くが知っているように、世界的なリュート奏者であり、オランダを拠点に演奏活動や教授活動をしていた。
今回聴いた ヴァイオリンソナタ第1番ト短調は佐藤豊彦自身の編曲であるが、第2曲の「フーガ」はリュート編曲版があり、多くのギタリストのレパートリーにもなっている。
今回、所有のCDでホプキンソン・スミスの演奏するリュート編曲版のフーガ(BWV1000)を聴いてみたが、やはり佐藤豊彦の弾く原曲ヴァイオリンからの編曲版の演奏の方が数段優れていると感じた。
ちなみにこのリュート編曲版のフーガは、バッハ自身が編曲したものか、その弟子が自分が演奏するためにリュート用に編曲したものなのか、定かではないようだ。
しかしこのヴァイオリンの名曲を音域の広い撥弦楽器に編曲することで、原曲とは異なる、また別次元の音楽を楽しむことができる。
それを最も感じられるのは、とても低く深い低音と、弦数が多いことからくる倍音の独特の優雅な響きが聴こえてくることである。
またリュートという、おとなしく繊細な楽器であるが故の、誇張のない古風な抑制された音もまた魅力だ。
一昔前、バッハのリュート組曲のギター編曲版を演奏会や録音に取り上げることが流行ったが、私はこのリュート曲をギターへ編曲して演奏するのを聴くのはあまり好きではない。
11弦ギターもしかり。
先に述べたリュート独特の魅力が全くというほど、ギターでは演奏不可能だからだ。
イエペスがドイツ・グラモフォンにバッハのリュート曲のギター編曲版を録音したのと合わせて、アルヒーフにリュートでの演奏の全曲録音を残したのは、そのためではないかと思う。
ブリームもルネッサンス時代のリュート曲を、リュートそのもので膨大な録音を残したが、ルネッサンスやバロック期のオリジナル曲はやはりその時代の楽器で演奏したものを聴きたいし、その方が魅力を感じる。
