緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

JR和田山駅でのひととき

2023-10-01 22:21:29 | 鉄道
9月24日から26日の間、北陸から姫路、大阪方面のローカル線の旅に出かけてきた。
1年前(2年前も)の旅行記もまだ書き終えていないので、今回の小旅行の記録も記事にあげるのはだいぶ先になってしまうかもしれない(数年後?)。

今回の旅行で、最終日に播但線(姫路・和田山間)というローカル線(正確ににはローカルの範囲は寺前・和田山間)に乗ってきたのだが、終点の和田山駅で何か懐かしい、というか、さびれているけど風情のある、何とも言えない鉄道に関係する景観を目にした。



まずは駅のホームから見えた、廃墟のような建物。







横浜にある赤レンガ倉庫のような建物だが、屋根が一部無くなっている。骨組みだけがむき出しになっている。
側面まで見えたところで、この建物の正体が分かった。
それは昔の機関車か列車の車庫であった。
入り口がアーチ状になっている。

次に目に入ってきたのが、円筒形の不思議な建物。側面にJRという文字が塗装されている。



壁にツタが生えている。一体何のための建物なのだろう。鉄のはしごが側面に付いていて天井に昇ることが出来るようだ。

当然、これらの建造物は現役ではないであろう。しかし、残してある。何故?。
何故、残しているのだろうか。解体、撤去費用の予算がないから?。そういう理由ではない。
私は残した理由がなんとなくわかるような気がする。

もう30年以上も前だが、北海道の小樽築港駅の構内に、雑草に覆われた広大なスペースの中に、昔の蒸気機関車の古い車庫が残されていた。
すでに何十年も使用されることない廃墟であったが、威厳のある存在感を醸し出していた。
この地がバブルの金儲け主義の悪影響を被る前の、この町らしい風情のある景観を大切に保っていた時代のことだ。
この風景が目に焼き付いており、今でも時々思い出す。
この風情のある素晴らし景観は2度と目にすることは無くなった。

次に別の、貴重なものを目にした。
それは数年前に全車廃止となったはずのDD51型ディーゼル機関車だった。









まさか駅のホームで目にするとは思わなかった。
レール運搬車両が連結されていた。現役として運行されているのか?。
だとしたら、廃止されたとは言え、例外なのか。





こんなにまじかにDD51型ディーゼル機関車を目にするのは何十年ぶりだろう。
これ以上ないというくらい均整のとれた美しいデサインの車体。シンプルでありながら完成度の高い、究極の形状だ。カラーも朱と白と灰色の絶妙な配色だ。
もうこれ以上のデサインの機関車が製造されることはないだろう。
北海道でDD51にとって代わったあのディーゼル機関車、型式も全然覚える気すらしないが、あの中年太りしたメタボ腹の機関車をデザインした方は、どんな形状でもいいと思ったのだろうか。


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ローカル線廃止の危機に思う

2022-09-28 21:04:30 | 鉄道
今年は鉄道開業150年ということもあっては、新聞に鉄道関係の記事が多い。
中でもローカル線の記事が多いが、9月24日の新聞に「鉄路1万6700キロ 曲がり角」というタイトルの記事に目が止まった。



この記事に「輸送密度200人未満の主なローカル線」として、以下の路線があげられていた。

・宗谷線
・留萌線 ※
・根室線
・津軽線 ※
・五能線 ※
・花輪線 ※
・北上線 ※
・山田線 ※
・陸羽東線 ※
・陸羽西線 ※
・米坂線 ※
・水郡線 ※
・只見線 ※
・久留里線
・飯山線 ※
・大糸線 ※
・名松線
・木次(きすぎ)線 ※
・因美線 ※
・芸備線 ※
・姫新線 ※
・福塩線 ※
・牟岐線
・筑肥線
・予土線
・豊肥線
・日南線

※印は全区間乗車実績のある路線。

記事によると例えば陸羽東線の鳴子温泉・最上間の輸送密度(1キロ当たりの1日平均乗客数)は約40人。100円の収入を得るために2万2149円かかる計算だという。
24日に乗車した芸備線(広島県)の備後庄原(びんごしょうばら)・備後落合(びんごおちあい)間も同様の状態だと、備後落合駅でボランティア活動をしている元機関士の方から話を聞いた(上記の新聞記事にも厳しい赤字区間の一つだと記載されている)。
新聞記事ではこのような路線は「不採算路線でも必要な社会基盤」だと指摘しているが、こういうローカル線には社会基盤のみならず、もっと都会の人を観光で呼び込む何らかの手段での魅力発信が必要だと思う。
私の学生時代には青春18きっぷを使って、小汚い身なりで貧乏旅行する学生がたくさんいたが、昨今は夏休みでもあまりこういう学生は見かけない。
むしろ多いのは中高年の根っからの鉄道旅行好きの単独行の男性客だ。

観光目的で地方のローカル線に乗車するにはかなりのお金がかかることが観光客を呼びこめない最大の要因だと思う。
ローカル線の出発地まで移動するのに大変の時間とお金を要することが多い。
ローカル線でもただ乗るだけではつまらないという人もいる。

昔、既成の周遊券があったし、旅行会社でオーダーメイドの周遊券を作ってもらうことが出来たが、だいぶ以前に廃止された。
私はどちらも利用したことがあったが、すごく金銭面で助かったし、既成の周遊券は重複して同じ路線を何度でも利用できたから使い勝手が良かった。
コロナで収益が悪化した鉄道各社は、次々とローカル線の廃止対象候補を発表している。

鉄道旅行は乗客の多い路線では旅愁というものは感じにくい。
唯一、このような路線でも旅愁が感じられたのが寝台夜行列車だった。
しかしこの寝台、もしくは座席の夜行列車はそのほとんどすべてが廃止されてしまった。

ローカル線の中には走行困難な難所を、歩くような速度で走行する路線がある。大糸線や木次線などの一部の区間だ。
早く目的地に着きたいと考える人からするとじれったいことであるが、これがまたローカル線の魅力であり醍醐味なのだ。
気に入った路線であれば、四季折々のタイミングで乗車したいと思うに違いない。車窓から見る景色はそれぞれに異なった感動を与えてくれるだろう。
そして途中駅で降車して、駅周辺を歩いてみる。その土地に存在するものを五感をフルに使って感じてみる。
次の列車が来るまでの時間はたっぷりある。
昔、北海道の路線でこういうのをやったことがあった。小沢とか追分で降りたときだ。
そして意外にも思わぬ面白いものに出会ったことがある。

有名な観光地に行くと、人がうじゃうじゃいて、観光スポットも金儲け丸出しのものであふれかえり、上塗りされ、うんざりすることがある。
今回行った出雲大社がそうだった。
ローカル線沿線にはそのようなものは無い。

この10年の間でも北海道の路線を中心にいくつかのローカル線が廃止されたが、これから数年の間にさらに加速されていくであろう。
何とも寂しい話だ。
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さようなら DD51

2021-02-12 21:37:47 | 鉄道
2月3日の新聞に残念な記事が載っていた。
それは1960年代から1980年代にかけて、非電化区間で一世を風靡したディーゼル機関車「DD51」型が廃止されるというものだった。



1962年以来、計約650両製造されたという。
私が高校時代だった1970年代終わりから大学を卒業する1980年代半ば過ぎまで、北海道ではよくこの機関車を見かけたものだった。
この機関車を意識したのは高校2年生のとき。
鉄道に熱中していたころで、実家から自転車で15分程のところにある踏切まで行って、昼でも夜中でも見に行ったものだった。
下の写真はその時に撮影したものだ。



上の写真では分かりにくいが、この機関車のデザインは究極とも言える。
シンプルな形状、色使いであるが、それ故にこの機関車にあかがれを感じた方は私だけではないであろう。
当時高校生だった、デザインのことなど全く分からなかったその私でさえ、この機関車の美しさにほれぼれしたものだった。
当時通学にバスを利用していたのだが、途中、バスが国鉄某駅に朝8時20分に到着すると必ず貨物列車を牽引したこの「DD51」が駅に停車していた。時間待ちをするためであろう。
そしてこの停車中のDD51見たさにこのバスに乗って通学していたのであるが、このバスの時間だと、高校近くの停留所からダッシュしなければ始業時間に間に合わなかった。
時々始業時間に間に合わないことがあり、朝のホームルームが始まっている最中にそっとドアを開けて教室に忍び込んだが、大抵は先生に見つかり、出席簿で頭を猛烈に叩かれたものだった。

DD51に最も惹かれるところは、シンプルでありながらも、これ以上ないというくらいの完成度の高いバランス感覚を持った形状だと思う。
前後対象の運転室、フロントガラスの傾斜の確度、運転室の大きさ、など全てが素晴らしい。
デザインだけではない。
独特の汽笛の音がまた素晴らしいのだ。
この汽笛は運転室の天井から吊りさげされた引手を引いて慣らすものなのだが、結構大きな音がしたものだった。
大学時代、卒論を書いていた頃、札幌駅ホームで、札幌駅23時ちょうど発の稚内行きの夜行急行「利尻」が出発する時の、大きく、ちょっと長い時間慣らす汽笛の音とその時のシーンは今でも憶えている。

北海道は私が高校2年生の途中までは、電化されていたのは旭川・小樽間だけだった。
そして高校2年生の途中から札幌・室蘭間が電化された。
この時に走っていた普通列車や特急列車はこんな感じだった。





今はもしかすると学園都市線の途中まで電化されたかもしれないが、おそらくそんなもんだ。昔とあまり変わっていない。
1980年代まではとにかくこのDD51をしょっちゅう見た。
貨物列車の牽引が多かったが、1980年代前半まで走っていた、旭川・函館間の普通列車(蒸気機関車時代に牽引していた、こげ茶色もしくは紺色の古い車両、木の椅子、床が板で天井がアーチ状になったやつ。夜走るものは夜行だった。)の非電化区間を牽引することもあった(電化区間は電気機関車のED76型が牽引していた)。
この時代は電化区間でも並行してまだまだディーゼルの客車が走っていた。
朱色一色や朱色とクリーム色の2色の車両のディーゼル列車だ。小樽・歌志内間、札幌・小樽(蘭越)間、札幌・南千歳間などだ。

高校時代、本気で将来国鉄職員になろうと考えていた時期があったが、のんびりとゆっくり貨物を牽引して走るDD51の機関士になってみたいと何度も思ったものだった。
この想い出深いDD51を今後見れなくなってしまうのは実に寂しい。

このDD51は1990年代に入ってから上野・札幌間の寝台特急「北斗星」や「エルム」の函館・札幌間の牽引用として重連で使用されていたことがあったが、この寝台特急用のDD51は朱色、灰色、白の標準色ではなく、青と白に塗り替えられてしまった。
これはあまり好きになれなかった。
やはりDD51は標準色が一番似合っている。

【おまけ】

高校2年生の時、京都、奈良、東京方面の修学旅行で乗ったときの鉄道、上野駅などで停車中の車両を撮影した写真が残っていた。

特急北斗。函館まで乗った。



北斗の運転席。



青森までは青函連絡船。
青森から寝台特急「日本海」。



翌朝、日本海沿線のどこかの駅で機関車交換した時のシーン。



上野駅で撮った、電気機関車EF64。たしか寝台特急「北陸」だったはずだ(当時はヘッドマークの取り付けが省略されていた)。



帰りに乗った寝台特急「ゆうづる」(常磐線経由の青森行き。寝台特急としてはいち早く廃止になったのではなかったか?)。





あとはどこの駅で撮ったか分からないが、ディーゼル機関車2種類。
2枚目はDE10であろう。これも頻繁に見かけた。




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コラム「啄木が愛した石狩の海」を読む

2020-05-16 16:37:11 | 鉄道
今日の新聞に、「歴史のダイヤグラム」という連載コラムで、「啄木が愛した石狩の海」と題する記事が掲載されていた。
啄木とは誰もが名前を聞いたことある詩人、小説家である石川啄木である。
啄木は岩手県の生まれのようだが、後に北海道へ渡って函館、札幌、小樽などで新聞記者などをしていたようだ。

先のコラムでは、啄木が現、函館本線の小樽から札幌までの鉄道で何度か移動した際の印象が書かれてあった。
コラムを順に読んでいくと、冒頭、「1880(明治13)年11月28日、北海道で初めての鉄道が小樽に近い手宮(現在は廃止)と札幌の間に開通した。」とある。
「手宮」。懐かしい地名が思わぬところで出てきた。
手宮線というのが昔あったのだ。
南小樽駅と小樽駅の間を列車の窓(小樽方面に向かって右側)を見ていると、単線の使われていない線路が残っているのが見えたものだった(現在、残っているか不明)。
これが手宮線の廃線跡だ。
それと手宮というともう一つ思い出がある。
大学2年生の12月だった。
当時、常勤のアルバイトで家庭教師をしていたのだが、教え子の子供の家から12月分の給料を今は払えないと言われて実家に帰省する金が無くなってしまったのだ。
払えないと言われるまで、近くのタバコ屋からあんドーナツ1個買って、それで何とか1日をしのいでいたが、いよいよ給料をもらえないと分かると、アルバイトを探すしかなく、大学の学生課の紹介で手宮で新装オープンしたパチンコ屋の駐車場の警備員(自動車の誘導係)の仕事を見つけた。たしか3日間の単発のアルバイトだったと思う。
仕事の初日に、警備会社の事務所に行き、制服、制帽、誘導棒などを受け取り、ワゴン車でその新装開店のパチンコ屋に向かった。
そしてパチンコ屋の駐車場で誘導を始めたのだが(初めての体験)、開店初日にものすごい数の車が押し寄せ、大雪の中、駐車場の入り口付近の道路が大渋滞を起こし、近所の住人から「おめえの誘導の仕方が悪いから、家に入れないじゃないか。何やってんだ、バカヤロー、責任者呼んでこい!」と怒鳴られたのである。
酷い目に合わされたものである。
しかし1日1万円くらいだったかの給料をもらって無事、実家で正月を過ごせたのはよかったのは束の間、正月明け早々に家庭教師をクビになってしまった。
後から聞いた話だと、給料をもらえないと困ります、とその家の奥さんに言ったことが彼女の逆鱗に触れたようだった。
この体験はすごくショックで、その後、落ち込んで、何もする気になれなくなり、丁度大学の後期試験の時だったのであるが、勉強をほとんどせずに試験を受けるはめになってしまった。
その後は思い出したくない。

この「手宮」というキーワードで変な記憶が蘇ってきたが、北海道で初めて開業した、この手宮ー札幌間の鉄道が、日本で初めて開通した鉄道である新橋-横浜間の開業からわすか8年後のことだったのは意外だった。

コラムはこう続く。
「鉄道が開業して100年も経てば、沿線の風景はすっかり一変している。新橋-横浜間で鉄道が開業した時の車窓風景を眺めることなど、もうえきるはずもない。しかし現在の函館本線に当たる小樽-札幌間には。それができる区間が残っている」
「函館本線の列車は小樽を出ると、左手に日本海に属する石狩湾が現れる。右手は山が急傾斜で湾に落ちている。列車は朝里(あさり)から銭函(ぜにばこ)まで約8キロにわたり、山と湾の間に築かれた低い護岸に沿って走る。人家や道路は全く見えない。地形が幸いして奇蹟的に開発を免れてきたのだ。」

上の文章では、小樽から出発して札幌方面の方角に向かう列車での車窓からの風景を描写している。
この路線に乗った最初の記憶は多分幼稚園の頃だったと思うが、当時はまだ蒸気機関車の時代で、札幌からこの蒸気機関車で小樽を超え、父の実家のあった岩内という漁村の近くにある雷電海岸というところに泊りがけの海水浴に行った経験だった。
この時、小樽を過ぎたあとで車内で「トンネル餅」という小さな甘い餅菓子を母が買って食べさせてくれたのを覚えている。
あとの記憶は、多分張碓トンネルに入った後に機関車の煙が窓から入ってきたので、乗客がいっせいに窓を閉めた光景だ。
真夏だといっても冷房など無い時代だ。
それに車両も木の椅子、壁、床で天井はアーチ状になっているあの紺やチョコレート色の客車である。

次の記憶が大学時代。
入った大学がこの路線内にあり、実家から片道2時間半もかかるのだが、最初の3か月は家から通ったのである。
その後は大学のある町に住民票を移し、大学近くの下宿やアパートで暮らした。
大学の入学式の当日、この路線の中間地点にある張碓トンネル近くで崩落事故があり、やむなく高速バスで向かったっことがあった。
その数日後路線が復旧し、入試の時以来でこの路線に再び乗ったのであるが、確か札幌駅7:35発だった思う。
短い3両編成の超おんぼろ気動車(電気ではなく軽油が燃料で走るデーィゼル列車)で、肌色と朱色の二色の車両と朱色だけの車両が混在した列車だった。
のろくて、青い煙いを吐いて(けっこうこの臭い好きだけど)、汽笛も途中でしょぼんでしまうような情けない音のする列車だったのだが、初めてこの気動車に乗ったら、何と混んでいたのだ。
悪い予感が頭をよぎった。
当時私は、高校時代に勉強ばかりしていたせいで、いつ貧血で倒れてもおかしくないほどの青白い顔をした貧弱な坊やになってしまっていたのである。
悪い予感は的中した。
手稲を過ぎ、確か銭函を出た頃だったと思う。
次第に気分が悪くなり、冷や汗をかきだしたのである。
そして目の前が真っ暗になり、貧血を起こしたのだ。
そして吐き気がしてきてどうにもならなくなり、トイレの方に向かった。
幸いにもトイレの向かいの洗面所が空いていて、そこに壁伝いに手探りでたどり着き窓を開け、そこの床に座りこんで、血液が頭まで登ってくるのを待ち続けた。
幸いにもゲロを吐かなくて済んだが、この体験はトラウマになり、その後この3両編成の超おんぼろ気動車に乗って通学することは2度となくなった。
この列車を避けるとなると、その次の列車は大学のある町に9時ちょっと前に着く列車だ。
この列車は編成が長かった。
あの蒸気機関車時代の古い木の内装の紺とチョコレート色の木造の客車だ。8両編成くらいの長さがあり、朝里駅ではホームをはみ出して、前の車両に移らないと降りれなかったというものだ。
この時代は未だ、この古い車両の列車が、旭川-函館間で1日3往復くらい走っていた。
あと旭川-小樽間は電化されていたが、気動車もたくさん走っていた。
小樽から歌志内とか追分に行く列車もあった。
客車の場合、牽引はED76という型式の赤色一色の電気機関車だった。

大学のある町に着いたら歩きでは授業に間に合わないので、駅のタクシー乗り場に駆け込み、相乗りで大学まで行くのである。
しかしこの列車に乗るのも、実家を朝早く出なければならないので、だんだんしんどくなっていき、次第に昼から授業に出るようになっていった。
それで、このままではやばいと思うようになり、6月の末から大学近くに住むようになったのである。
(しかし大学近くに住むようになったからと言って、朝の授業に真面目に出るような生活を送ることはついに無かった)

かなり横道に反れたが、コラムでは銭函-小樽間の車窓からの景観を小樽から銭函に向かう方向で解説しているが、私は、逆方向に、銭函から小樽方面に向かう方角から見ていった方がより景色を鮮明に感じ取れるのではないかと思っている。
それは、この区間を通るためにはたいてい札幌から出発するからであり、札幌から銭函までの、都心→競馬場→住宅街→工場という景色の流れ、変化を前段として見ておいた方が、より一層、銭函からのあの日本海の独特の風景を楽しむことが出来るからである。

函館本線の札幌-小樽間は私の大学時代、札幌→桑園→琴似→手稲→銭函→張碓(夏の僅かの期間のみ一部の列車で臨時停車)→朝里→小樽築港→南小樽→小樽、という停車駅で構成されていた。
私が大学を卒業する2年くらい前に、手稲と銭函の間に、「星置」という新しい駅が出来た。
その後、札幌寄りにさらに駅が増えたようだ。

函館本線の札幌-小樽間は、今こそ全て高速の電車が走っているが、当時はのろまな気動車(ディーゼル)、客車を牽引した電気機関車(これものろい)、色は違うけど関東地方で昔オレンジと深緑色の2色のデザインで走っていた電車と同じような電車(これはちょっとのろい)の3種類が走っていた。
スピードが遅かったから、それが幸いして景色をじっくりと味わうことができた。
ゆっくりしててもよかった、古き良き時代だったのだ。
札幌を出るとしばらくは都心の景観が続くが、琴似近くから手稲まで住宅地ばかりが広がる。
そして手稲を過ぎると、広大な土地に工場が点在してくる。
確か古い記憶では、北海製罐とか、新宮商行(木材屋)といった工場が建っていたような気がする。
新宮商行(字は合っているかな?)の近くに大きな煙突があり、建物は古くて、一部は木造だったような気がする。

この新宮商行を過ぎるとすぐ、銭函駅に着く。
小さな駅だが、駅のホームに木製の銭函が本当に吊り下げられていた。
そしてこの銭函駅を過ぎると、今までとは全く異なる別世界の景観が広がり、初めてこの路線に乗った人はまず、驚く。
しかしこの景観の突然の変化を楽しむには列車の進行方向に向かって右側の対面式ボックス席に座る必要がある。
(今は横長椅子の電車も走っているようで、このタイプの電車だと景色は楽しめない)
銭函から広がる日本海の海の景色は確かに単なる景色ではない。
何か人の心を惹き付けるものがある。
穏やかな波は殆ど無い。
冬は多くの日が、どんよりとした黒い雲空に覆われ、波は荒々しい。
春、夏は穏やかなときもあるが、波は強かったように思う。そして海鳥が飛んでいるのが見えた。
船は殆ど見たことが無い。

昔の列車は窓を開けることが出来たから、音と臭いも楽しむことができた。
北の海の独特の臭いと波の音。
この海の景色は、この路線を頻繁に利用している人でも毎回、ボーっとして、何も考えずに見ていても飽きなかったのではないか。
なにか、この海岸の景色は、人の心をボーっとさせる、思考を中断、麻痺させる何らかの作用を持っているように思われた。
(少なくても私はそのように感じていた)
東京から観光で来たであろう、若いOL風の女性たちが、この銭函を過ぎて突然視界に現れた日本海の海の景色に歓声を上げているのが、たまに聞こえてくることがあった。

この銭函を過ぎてから小樽築港駅の手前までが、このコラムでいう100年経っても変わらない景色だというのである。
確かに朝里までは海の反対側は切り立った崖で平地は無い。
反対側も浜が短い石または砂の海岸なので、開拓をする余地が無いのである。
銭函を過ぎてしばらくすると、張碓という無人駅を通過する。
ここは夏の間の僅かの間だけ、海水浴客のために臨時停車する小さな無人駅だ。
この張碓あたりの景色が一番良かったように思う。
しかし5年くらい前に、母校マンドリンクラブの定期演奏会を聴くためにここを通ったときには、何故かこの張碓駅の看板が無かった。

張碓駅を通過するとすぐにトンネルに入る。張碓トンネルだ。
このトンネルは面白かった。
中は暗く、途中に海側の壁がアーチ状にいくつかくり抜いてあって、その付近を通ると、カー、カー、カーと、カラスの鳴き声のような音がするのである。
この音を初めて聴いたのが、大学に入学して初めてこの路線に乗った、札幌駅7:35発の超おんぼろ3両編成気動車に乗ったときだった。
車内で貧血を起こし、トイレ向かいの洗面室に窓を開けて座りこみ、吐き気と戦いながら血が頭に登ってくるのをひたすら待っていた時だった。
徐々に目の前が真っ暗だった視界が取り戻されてくるのを感じながら、このカラスの音がおぼろげながら聴こえてきたのを今でも憶えている。

張碓トンネルを過ぎ、朝里駅を出ると進行方向に向かって左側の切り立った崖は途切れ、平地が見えてくる。
そして海岸線はゆるやかなカーブを描いた砂浜に変わる。
大学時代に、先輩や同期の数人(マンドリンクラブではない)とこの朝里駅の近くで一度だけ海水浴をしたことがあった。
そうだ、この朝里駅から歩いて20分くらいのところに、マンドリンクラブの後輩が住んでいて、卒業演奏会の練習でこの朝里の彼の家で先輩と3人で練習したことがあった。ごちそうまで出してくれて。
(この時は、グラナドスのオリエンタルとか、ファリャの粉屋の踊りを三重奏に編曲して弾いた)
この後輩とは、2年前の夏の母校マンドリンクラブ50周年記念演奏会が開催されたとき、終演後のロビーで30数年振りで会った。
彼は学生時代は武道もやっていて、硬派な顔立ちだったが、30数年振りに会った時はかなり柔和な表情に変わっていた。
でも雰囲気は当時と全然変わっていなかった。安心した。
私も学生時代そっち系のスポーツをやっていたので、後輩の中では一番気があった。
あと朝里と言えば、朝里川温泉という温泉が朝里町の山奥にあり、この山奥の終点に青年の家のような施設があった。
その青年の家でマンドリンクラブの春合宿と秋合宿をやったのである。
(因みに夏合宿もあったが、それは道内の地方でやった)

朝里駅の次は小樽築港駅だ。
小樽築港駅は海岸線の終焉である小さな短いトンネルを出た直後にある。
私が大学時代には、この駅の周辺に素晴らしい景色、それは寂れているが素朴な風情のある、この町に最もふさわしいことに相違ない景色が存在していた。
その景色とは、昔の蒸気機関車の車庫、それは機関車5台くらいを収納する、昔、苗穂駅にもあったような扇状のかたちをした使用されなくなってもそのまま遺跡のように残っていた車庫であった。
その扇状の蒸気機関車の車庫の入口に向かって錆びた線路がいくつも延びていて、その錆びた線路に緑の丈の低い雑草が無数に生い茂っていたのである。
今思い返してみても、それは素晴らしい景色だった。
静かで穏やかで。昔に帰ったような。

しかしバブル時代にとんでもないことが起きた。
何と、この風情のある素晴らしい景色を破壊し、その代わりに金儲けのための巨大なショッピングモールを建設したのである。
このことくらい、この町を駄目にしてしまったものは無い。
ショッピンモールなど、日本全国どこでもあるつまらない建造物だ。
この巨大なショッピングモールで金儲けをするために、二度と再生不可能な、あの風情のある、この町の象徴とも言うべき誇るべき美しい景観をぶち壊してしまったのである。
こういうことを平気でするのが信じられない。
この素晴らしい景観はもう2度と戻ってこない。
貧しい心が招いた悲劇である。


南小樽に着くと、左手に古い旅館が見えていた。
今でもあるのであろうか。
畳の部屋で静かな旅館であろう。
今でもあるのか。
あるんだったら是非泊りたい。

終着は小樽駅だ。
ここから先は電化されていない。
電気機関車に牽引された客車は、ここでDD51という型式のディーゼル機関車に交換される。
小樽から俱知安方面は当時はローカル線で単線となる。
乗客もぐっと少なくなる。
当時は小樽から倶知安、倶知安から伊達紋別(現在は廃止)は過疎地帯だった。
せいぜい、冬の間、ニセコに行く人で若干増えるくらいだ。
しかしこのニセコも今ではとんでもないことになっているらしい。
金儲けのことしか考えていない奴らのために、どれほど美しいものを失ったか。
その代償の本当の意味が分かる人も現在では少なくなってきているのではないか。
なんか寂しい気持ちになってくる。



石川啄木の全集。
10年くらい前に古本で買ったが、最初の数ページしか読んでいない(勿体ない)。
今はギターケースの陰になって置かれていて、ケースをよけたら埃まみれでひどいことになっていた。

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新型特急「ラビュー」のデザイン・レビュー

2020-02-15 21:41:07 | 鉄道
今日の新聞に、西武鉄道の新型特急Laview(ラビュー)が、世界的に権威のあるデザイン賞である「iFデザイン賞2020」を受賞したという記事が載っていた。
この「ラビュー」を写真で初めて見たのが、2019年10月の新聞記事だった。
1980年代以降の鉄道のデザインにはどれも失望させられていたが、この「ラビュー」のデザインは違うと思った。
そこでこの記事を切り抜いてスクラップしておいたのである。



その後ももしかしたら1回は新聞で写真を見たかもしれないが、1週間前の新聞にまたこの「ラビュー」の記事が掲載されていた。



池袋・西武秩父間の特急が全てラビューなるとの情報だった。

そして今日の朝刊の記事である。

このラビューのデザインのどこに惹かれたのか。
まず、車体形状のバランス感覚が優れていると感じたこと。
JRの茨城方面に行く、思わず笑ってしまうような特急列車ような形状ではなく、均整のとれた無駄のない形状と、大きさである。
そしてシンプルであることだ。
窓の長方形の形状、フロントの連結部カバーの形状がそれを示している。
シンプル・イズ・ベストという言葉を聞いたことがあるが、まさにそれを体現したデザインだと思う。

最も特徴的なのは、フロントの流線形、窓の斬新な形状だ。
これも斬新なようでシンプルさを感じる。
何となく生物を模したような感じもしないではない。

昔、1960年代のバスに、背面が4分の1円の左右対称の2つ窓で、上部が女性のなで肩のような美しさを感じるバスがあったが、私がこれまで見たバスの中で最も美しいデザインだと思っている。
このバスもその流線形の角度や丸みや形状のバランスが完璧だと思われるほどのデザインだった。

下の写真は、高校時代に札幌駅で撮った、当時の国鉄の特急車両「北斗」であるが、気動車でありながら特急列車のデザインとしては最高のものだと思う。
1970年代がこの車両の特急列車の全盛期だった。



この車両のデザインもシンプルながらバランス感覚に優れている。

カメラのデザインも、初代のニコンFやキャノンF-1のデザインが、一番均整の取れた美しい形状をしていたが、その後モデルチェンジした機種は出るたびに変なデザインになっていった。
多分、いろんな機能を付けすぎるからだと思う。
コンビニみたいになんでもありの、いろんな機能を付ければいいというものではないと思う。
最近の車がそれをやって、中年太りのような車体になってしまった。

ラビューを間近でみたことは未だ無いが、2週間くらい前に西武新宿駅に止まっているのを、JR線の電車の窓越しに見た。
カラーがどんなだったかははっきり見えなかったが、いつかは間近で確かめてみたい。

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