緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

最近のニュースを見て感じたこと

2023-12-21 20:35:46 | 時事
だいぶ冬らしい寒さになってきた。
最近見たテレビニュースで気になったテーマで久しぶりに時事関係の記事を書くことにした。

1.メーカーの検査不正 ものつくり大国は完全に凋落 失われた技術立国のプライド

またも世界的に名を知られた某自動車メーカーで検査不正が発覚した。
かつて世界市場を席巻した日本の製造業の大企業が次々と不正検査やデータ捏造などを長期間行っていたという事実が明るみにされている。
こういう事実が公表される会社は氷山の一角で、恐らく同様のことを行ってきたメーカーは膨大な数に及ぶのではないかと思う。

この自動車メーカーは記録を遡ると1989年から不正を行っていたという。
そして不正を行った原因は、短期間の開発スケジュールが強く推進されたことに開発要員が追従出来なかったことらしい。
世界市場での熾烈な競争に勝ち抜くためには、開発期間を出来るだけ短縮して量産品を市場投入しなければならない。
しかし安全で高品質な製品を世に出すためには、相応の品質基準をクリアしなければならず、そのために開発段階から量産化の過程でさまざまな試験、検査、品質レビューのプロセスが設けられている。
また量産化以降も当然、出荷検査や定期検査をクリアしなければ出荷することが出来ない。

開発スケジュールが過密だったというのは表向きの言い訳であろう。
もっと根本的な原因をさかのぼれば、このメーカーの社長が言っていたように、「自分さえよければ他人はどうなってもいい、という自己中心的な社風、組織風土があった」、「失敗やミスを叱責する」、「声を上げずらい雰囲気があった」ことなどが土台となり、不正に発展したものと思われる。
思えば私が社会人となった1987年の頃は日本の製造業は頂点を迎えていた頃であり、製造業の生産の殆どを国内でまかなっていた。
そして工場の末端の現場を中心に、草の根の小集団活動による品質管理運動が徹底して行われていた。
すなわち、現場で何か問題が起きたり、課題を感じたりすると、それを個人ではなく、職場みんなの問題として共有し、全員で解決に取り組んでいこうとする精神が浸透していた。誰が悪いとか誰に責任があるとかなど問わず、関係なく、みんなで知恵を絞って解決していこうという雰囲気が醸成されていて活気にあふれていた。
1980年代半ばに、「日本的経営」という分野で研究がなされていたことがあったが、恐らくその1つにこの草の根の品質管理運動の成果が論じられていたに違いない。
しかしバブル経済が崩壊し、日本の製造業は大きな転換を迫られた。価格破壊が起き、多くのメーカーはコスト削減のために製造拠点を人件費の安い中国などに移転した。
そのため日本の高度経済成長を支え続け、その後の世界への躍進に貢献した多くの中小企業が倒産に追い込まれ、その中小企業の優れた製造ノウハウや金型などが中国などに流出した。
そして国内では人件費の変動費化が促進され派遣労働が拡大し、国内技術力の衰退につながっていった。
人事評価制度もそれまでの年功序列、終身雇用形態が崩壊し、人材の流動化が一層促進されるとともに、欧米流の評価制度、すなわち個人別目標管理制度や年俸制などが急速に広まり採用された。
先に述べた「自分さえよければ他人はどうなってもいい、という自己中心的な社風、組織風土」はこのようなプロセスを経て徐々に形成されてきたと考えられる。

検査不正、不適切検査、検査データ改ざんといったものは、上からの指示ではなく、末端の作業者が行ったことが原因とされ、内部告発などで発覚することが多いようだ。
末端の作業者や設計担当者が自らの判断で行ったということは、企業倫理の掟を破ってまでも実行せざるを得ない背景があった可能性のウェイトが高いのではないかと思う。
その背景として考えられるのが、短納期での開発、設計、生産であり、問題の責任の所在、人事評価を個人に求める企業体質から来ていることだ。
近年、働き方改革関連法が施行され、時間外労働の上限が定められたが、「時短目標の達成が評価の対象」とされたことから、いわゆる「隠れ残業」が常態化し、帰宅後に深夜まで持ちかえって仕事を行っていた社員が自殺するなどの労災が社会問題として露呈した。
残業時間を削減する具体的な方策を組織内で講じることなく残業するな、と強制する行為、いわゆる「ジタハラ(時短ハラスメント」が社会問題としてクローズアップされ、先日のNHKのドキュメンタリーでこのハラスメントで犠牲となり自ら命を絶った中堅管理職の悲劇が放映されていた。
幼い子供を残して死んでいったこの社員はどれほど追い詰められ、苦しんだであろうか。「声を上げられない」のは、声を上げたことによる報復措置、すなわち役職解任、減給、配置転換、左遷などが暗に用意されているからである。利益至上主義の行き過ぎた企業が取る方策であり、従業員が生身の人間であることを度外視している結果が引き起こしたことと言わざるを得ない。
しかし、「失われた命は2度と戻ってこない」。そのことの重みを理解出来ないようでは、検査不正問題の解決も含め、日本の製造業の将来は無いと言わざるを得ない。
日本の製造業は評価制度の転換が迫られている。個人から組織レベルでの責任体制、評価体制に移行するとともに、徹底して若い世代の技術職の教育が求められる。
「日本の先進国からの脱落」は今すぐそこに来ているという実感がある。若い世代の人口減少が著しいが、それを補完するためにも高い技術力を習得できる教育に力を入れていかないと、日本という国は昔はちょっと経済大国で豊かだったこともあったらしいけど今は観光名所やカジノで成り立っている取るに足らない小国として見られるようになることは間違いないと思っている。

2.札幌市の中学校で中1女子生徒が自殺

昨日のニュースでまた痛ましい出来事を知った。
札幌市の中学1年生がいじめを苦にして自殺したというニュースだった。
この女子生徒は小学校低学年までは明るい活発な子だったというが、高学年からいじめを受け始め、中学1年生でもいじめが継続し、自殺に至ったという。
死んでいったこの子はどんなに辛かったであろうか。どんなにか生き地獄を日々味わったであろう。
驚くべきことに、定期的ないじめ調査でいじめがあることを記載し、何度も報告しているのに何の対策もなされなかったという。
何故対策を取ろうとしないのか。ことを荒立てたくないからであろう。
自分の身にやっかいなことが降りかかってくることを避けたかったためであろう。出来るだけ表に出さず、穏便に済ませたいというずるさがあったに違いない。
この自殺した少女は、そのことに対する怒りを自らの死を持って代弁したのである。
その怒りの感情の強さを最大限に厳粛に受け止める必要がある。
でなければ、普通に生きていればもっと素晴らしい人生を経験できたあろうこの少女の無念の気持ちが浮かばれない。
自ら死を選択するということは究極の決断である。しかもこんな幼い年齢で。これ以上の決断は存在しない。
その究極の決断をせざるを得ないほどの心理状態に追い込まれた、という事実を真剣に考えることの出来る教育関係者はどれほどいるのだろうか。




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悲しみの極み クリニック火災

2021-12-18 22:20:35 | 時事
大阪の雑居ビルのクリニックで起きた火災。
普段、こういう内容の記事は書いたことはないが、あまりに悲痛なのでかかざるを得なかった。

このクリニックの院長が火災に巻き込まれ、今でも安否不明だと言うが、多くの患者から慕われ信頼されていたという。
それだけでなく、「自分の人生で大きな存在だった」、「先生は自分の人生を変えてくれた」、「先生がいなくなって心に穴があいた」など、多くの声が寄せられているという。

このクリニックは心の病を抱えながらも耐えながら働いている人のために、夜10時まで診療していたという。
ある関係者は、彼が一体いつ寝ているのだろうか、と不思議に思うほど働いていたという。
また、院長は復職に向けたサポートに問題意識を持っており、「リワークプログラム」と呼ばれる講座を開いたり、職場に近い環境に慣れるためのグループワークも行っていたという。

私も遠い昔、鬱病を患い、薬物療法を受けたことがあった。
その時の診療時間、2,3分。
症状のみならず薬の副作用で苦しめられた。
結局で薬で治らず、その後数年間どん底の極致を味わった

その時のクリニックは多くの患者が流れ作業のように入れ替わり立ち代わり出入りしていた。
精神科医ほど堕落した心の専門家はいないと、それ以来確信していた。

心の専門家には誠実な人もいれば、狡猾で弱い人を食い物にして金儲けしか考えていない人もいる。
内科、外科などの医学とは天と地ほどの差がある。
それは心の療法に確立された明確な客観性が無いからである。
実力が無くても、非誠実でも淘汰されないのが現実。
実際、誠実な人の方が少ない。悔しいけどこれが現実だ。

心の専門家は、人間性、人間力で決まる。人間性に欠陥があるとまずクライアントの問題に真正面から向き合うことすら出来ない。
安否が分かっていないこの事件に巻き込まれた院長の無事を心から祈らずにはいられない。

【追記202112202248】

ニュースでこのクリニックの院長が亡くなられたことを知りました。
とても無念です。
最近このような事件が多いです。
加害者はかつてとても優秀な板金工であったと聞いています。
何が彼の人生を狂わせたのか。そこを追求していかないとまた同様の事件が繰り返されるでしょう。
加害者だって生まれながらにして悪人ではないのです。
私は弱い立場の人、傷を負った人に平然と冷たい仕打ちをする人間環境や価値観が背後にあるように思えてなりません。
一旦その渦に入ってしまうと、どんどん悪い方向に向かっていくような気がします。人間全てを敵とみなすようになっていきます。
院長をはじめ、亡くなられた方々の冥福を祈ります。
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新聞を読んで思うこと(11)

2021-09-17 23:38:57 | 時事
明日から9連休なのだ。
お盆の時期に休まないでためていた計画年休をここに来て使うことにした。
(昨年も同様だった)
どう過ごすか。もう決めてある。
最初の2日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間:小旅行(あまりおおっぴらにはできないが)
最後の3日間:マンドリン合奏猛練習
中4日間は鉄道を乗りながら仕事も何もかも忘れてボーっとゆっくりと過ごすつもりだ。
(ルートは山陰⇒山陽⇒関西)

今日久しぶりに新聞の読者投稿の中から印象に残ったものについての所感を書いてみようという気になった。
以下最近読んだ投稿で考えさせれた投稿3件をあげさせていただく。

1.SNSでの批判目的の批判について

女子大学生が書いたこの投稿を読んで、全く同感だなと思った。
SNSで書き込まれる、過ちを犯した人物への批判が目立つようになった。最近は批判それ自体が目的となってしまっている批判を多く目にすると指摘している。
「謝罪しているのにその後も必要以上に糾弾を続けたら、そこには目的がない。社会的に悪者と認められた存在を安全圏からたたくのは、正義感に浸ってストレスを発散しているようにしか見えない」

実はSNSだけでなく、新聞の読者投稿欄にもこの種の投稿は毎日のように見られる。
批判の対象は首相個人や政府(自民党)であるが、文面から非常に強い怒りや憎しみが伝わってくる。
正義正論を手段として批判しているので、一見正しい主張のように見えるが、その真の動機はその人に恒常的に起きている、癒し難い不快感情、すなわち憎しみや怒り、不満といったマイナス感情の一時的解消である。
このような行為を「正義中毒」というらしいが、これも最も安全で吐き出し甲斐のある人物(首相など)をターゲットとした「批判目的の批判」の一形態と見るべきであろう。

この女子学生は投稿で「画面に向かって行き過ぎた正義を振りかざす行為が大人として適切なものか考え直す必要がある」と結んでいるが、この「大人として適切なものか考え直す」必要があるかどうかについても自覚できないのが、批判する人の特徴でもある。
つまり自分の心の奥底に堆積されてことあるごとに意識に上がってくる抑圧された不快感情の元になっている原因に向き合おうとしていない人たちでもある。
外見は大人として振舞っているが、内面は大人になりきっていない未熟な段階にあると自覚できていない。
そして自覚できないまま年を重ね、おさまらない恒常的な不快感情を持て余すようになってしまい、その感情の発散を、自分が傷つかない手段で行っているというのが現実と思われる。

こういう「批判目的の批判」を行う人物とは極力、距離を置くべきだ。
絡まれるとメンタルを必ずやられる。
自分が強い怒りや憎しみを、その感情とは無関係の人間に向けていることに気付かず、批判をしていることに疑いも持っていないがために、徹底して気の済むまで攻撃されるのである。それも自分のやっていることの真実に気が付くまで永遠に。

マイナス感情の解消を目的とした批判以外に、ある特定の人物を執拗に批判する目的として、批判を向ける対象者と批判する人物とが同一の人間的性質を有している場合ががある。
わかりやすく言うと、批判する人が例えばいい加減で怠けることを許せなく、自分にも厳しく律しているような場合、他人にそのような性質を認めたとき、その他人を激しく責めたくなるという心理が働くということだ。
完璧主義者、努力家などに多くみられるが、人間である以上宿命的に有している不完全さ、怠ける、ずるい、不誠実、卑怯、といった人間の特質を許すことができずに、徹底してそのような性質を憎み、排除しようとしたことで、潜在意識に追いやられたその認めがたい自分の性質を他人に見出すと、無性に怒りが湧いてきて責めたくなるということである。
その性質を自分が徹底して憎み排除した人間が、他人が見せるその性質を許せるわけがないのである。

このような正義中毒や批判中毒から脱するためには、自分のやっていることの真の動機は一体、何なんだろうということにまずは気が付くことだ。
絶えず人を批判していないではいられないこの自分の心理状態は変なんではないか、とまずは疑うことだと思う。
そして次のステップに進むと、その不快感情に向き合う作業となるが、これは程度の差はあるが、その不快感情の発生源である元に辿り着き、その発生原因を身を持って理解し、本質的解消に向けて自分と向き合っていくためには、相当の年月を要するであろう。

2.自分の頭で考える教育の必要性

次の記事は熟経営者からの投稿で、文部科学省の1人1代端末環境のプロモーション動画を見て、動画の小学生が「タブレットがないと自分で全部頭で考えないといけないが、これがあると問題を間違っても解説があるからどんどん進んでいける」と言っているのを見て、疑問に感じたというもの。
「最も大事にしているのは、いかに自分の頭で考えさせるということだ。間違ってもいいから自分で考えさせ、ときに試行錯誤を重ねさせる。つまずかないように手取り足取り教えるよりも、自分で苦労して習得した方が、時間はかかっても確実に身になるのだ」と言っている。

これはまさにそのとおりだと思う。
私の経験からしても、答えを与えず、何日も考えたり、試行錯誤を重ねたりしてやっと解決策に辿り着いた方が、達成感や探求することの喜びが感じられるし、そこで得られた答えは容易に忘れることなく記憶に残り続けるし、その体験で得た忍耐力や探求心といったものは次の問題に対しても助けとなってくれるものである。
とくに社会に出て仕事であたらしいものを作り上げていくような場合、答えや解決策を提示してくれる人や機会を得ることはなかなか無い。
とにかく粘り強く、逃げないで取り組んでいかないと前に進んでいかないので、ときにしんどいと感じることもあるが、その取り組みが成功に終っても失敗に終っても、そのプロセスで自らが悩み考え抜いた体験は無駄にはならず必ず次に生きてくるものだ。

ギターなどの音楽への取り組みも、基本は独学のほうが時間はかかっても蓄積されるものは多いと感じる。
よく教室の発表会での生徒さんの演奏を聴くと、どの生徒も先生のコピーになっているのを感じたことがある。
教師が全てだと思わない方がいい。
自分で疑問に思ったことや興味が湧いたことは、自分で足を運んで調べたり、いろんな人に訊いたり、現地に行ってみるなどした方が絶対面白いに決まっている。

3.「がんばって」という励ましの言葉の効用について

女子高校生の投稿。
スポーツや受験で「がんばれ」と言われれば嬉しく感じるけど、たくさん努力しても疲弊してきっているときや傷ついているときの「がんばれ」はとてもつらく感じる。
私たちはいつまでがんばらなければいけないのでしょうか。つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会になれればいいなと思う、という問題提起の投稿。

何気なく使われる「頑張って下さい」という言い方。
この言葉は安易に軽く使わない方がいいと考える。
この言葉を使うのは、相手は前向きな気持ち、自分の内面からの自発的な気持ちで行動し、しかもその気持ちが人の励ましによりさらに増幅されると期待される場合のみに限ったほうがいい。
この女子高校生が指摘するように、疲弊してきっているときや傷ついているときにこの言葉を使うと、言われた相手は逆につらくなるものだ。
何故辛くなるのかというと、疲弊している人は、自分の内面の自発的な感情に従って努力しているのではなく、人から責められるという恐怖から回避するという動機で自己否定することにより努力しているからだ。
恐怖を動機として自己否定し、責められない人間になろうと自分にムチを打っている人は遅かれ早かれ鬱病となり、最悪自殺する。
だから鬱病者に「がんばれ」は厳禁なのである。
鬱病者にがんばれと励ますことは、「もっと一生懸命自己否定しなさい」と言っていることに等しいのである。

ではこの女子高校生が最後に問題提起した「つらそうな人に、優しい言葉で接することのできる社会にする」ためにどんなことをしたらよいのだろうか。
私は、つらそうな人に、「もうこれ以上がんばらなくていいんだ。あなたは特別なことは何もしなくてもそのままで素晴らしい存在なんだ」と言ってあげたい。
人間はDNA的にはどんな人間も等しく素晴らしい存在で、人それぞれ特質の種類が違うだけなのだ。
それを画一的価値観で人を評価しようとするから、自分の特質を無視し、自ら否定し、全く別の人間になろうとするような悲劇が生れる。

そして自己否定に自己否定を重ねてボロボロになってしまっても、生きることを選択し決意した人に対しては、「よくここまで頑張ってきましたね」と言ってあげたい。
私は昔、ある人から「あなたはよくここまで頑張ってきましたね。これは並大抵のことではないんです。普通の人には出来ないことなんです」と言われて、心の奥から強い感情がとめどもなくこみ上げてきたことがあった。
そのように言ってくれた方も同様の体験をしたからこそ、出た言葉だったのではないかと思う。
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このままではまずいぞ、日本

2021-02-21 22:56:53 | 時事
先日、ある経済誌を読んでいたら次のような一文が目を引いた。
「いま、わが国は猛スピードで三流国に向けて転落中であると言って過言ではない。国民の貧困化は止まらないし、経済は成長せず、そのため税収も増えず、科学技術はイギリスの「ネイチャー」に科学大国からの没落を予言されているし、という調子なのだ。」

それを予期させる資料がある。
下図は京都大学大学院教授の藤井聡氏のツイッターから引用させてもらったものだが、1995年くらいまでの日本のGDPはアメリカに迫るほどの規模を誇っていたが、その後2010年頃までずっと横這いが続き、2010年以降は右肩下がりで下降している。



この動きとは全く逆に、中国が1990年代にははるかに小さかったGDPが、北京オリンピックの頃から急速に増大し、2010年の手前で日本を抜き去り、その後は勢いが止まらないほど急上昇している。そして2030年代前半にはアメリカを追い抜くというのだ。
1990年代に日本よりもはるかにうしろを走っていて、ある意味見下しさえしていた中国があっという間にここまでのし上がったのである。
これは日本にとって脅威以外の何物でもない。

たしかに1990年代半ば頃の日本はバブルが崩壊したものの、まだ経済大国という実感があった。
今は見る影もない秋葉原の電気街も、1980年代ほどではないにしても活気が残っていたし、今は無き石丸電気のCDソフト売り場もまだたくさんの客が来ていた。
この頃から高級品の価格破壊や100円ショップの台頭が見られるようになってきていたが、それを裏付けるように1990年代後半から日本の製造拠点を中国に移してコストを下げ、価格競争に打ち勝つという動きが加速した。
今考えればこの動きが日本の凋落を招いた分岐点だったと思う。
かつてものづくり大国と言われた日本は、国内に多くの製造拠点を持っていたが、バブル以降の人件費上昇、プラザ合意、消費者の低価格志向などからコスト削減を余儀なくされ、多くの企業が中国に製造拠点を移した。
その結果、日本で製造業を中心にリストラが進み、失業者や非正規雇用者が増大した。小泉政権のときだったと思う。
一方、安い人件費と豊富な労働力を有する中国は日本や欧米企業などの工場建設により、短期間で製造技術を習得し、巨大な生産国家、すなわち世界の工場と言われるほどにまで急速に発展し、GDPならずとも、経済、生産技術、科学技術、軍事、文化などあらゆる面で短期間に成長、拡大、膨張した。
ちなみに今ホームセンターや家電量販店などで買った商品の殆ど全てと言っていいくらい、Made in chainaだ。

こうして日本を抜き去り、なおも膨張し続ける中国の次の狙いは、アメリカを抜いて世界の超大国となることは間違いないであろう。
もしこの動きが着実に進んでいけば、現在はかろうじてアメリカやヨーロッパのパートナーは中国ではなく日本ということになっているのが、中国にとって代わられ、日本の地位は確実に失われていくことになるであろう。

日本は安倍政権までは世界の主要国の中でかろうじて大国としての地位を保てていたが、現政権以降は着実にその地位ははく奪されていくに違いない。

先述の藤井聡氏のメルマガに次のような記載があった。
「そんな日本の凋落を決定付けるのが、中国の「尖閣諸島」に対する侵略、すなわち、尖閣を巡る日中の争い、すなわち、紛争ないしは戦争における中国の勝利です。
この紛争・戦争において中国が日本に勝利をすれば、日清戦争で激しく傷付いた威信を、中国は完全に取り戻す事になります。
そして東アジアの覇権国の地位を、中国は日本から完全に奪い取ることに成功します。
そうなったとき、経済的にも外交的にも、日本は中国の圧倒的な劣等国家となり、中国に飲み込まれ、従属・隷属していく状況となるでしょう。
そして、日本は中国にあらゆるマーケットを奪われ資本を奪われ、日本の大企業の多くが中国系に買収されてしまうことになっていくでしょう。」

今日のニュースでも、中国の公船が尖閣諸島付近の日本の領海を2日連続侵入したという記事を見た。
中国は尖閣諸島を日本の領土だと決して認めていない。
だから実力で奪い返そうと日夜隙を伺っているのである。

既に北海道のニセコや富良野など土地が中国に買い占められていると聞く。
日本のお役所はお人よしだがら、中国の真の意図を見抜けず、やすやすと土地や建物を渡してしまう。
目先のことしか考えていないからこのようなことになり、中国への製造拠点移設と同じ様に、気付いたときにはもうなすすべが無い、という事態となってしまう。

私が日本がだんだんダメになってきているな、と感じるいくつかの兆候がある。
まず一つは、品質に対する意識が著しく薄らいでしまったことだ。
先日のニュースでも日本の自動車部品メーカーが20年前から検査データの改ざんや不良品の出荷があったということが報道されていたが、これはかつて世界を席捲した日本の有名企業でも起きている。
私が社会人になった1980年代の後半は、品質管理に対する意識や活動が非常に高レベルであった。
現場の末端にまでその意識や方針が徹底して浸透していた。
しかし1990年代後半から製造拠点が中国などに移管されてからは徐々に衰退していった。
ものづくりの現場が日本国内に無いのに、品質を徹底して向上させる意識を醸成させることは不可能であろう。
またものづくりの現場が日本に無いから、研究開発、設計力も育っていかない。
机上の設計だけで、高品質のものづくりが出来るわけがない。
中国の技術が発展したのは、ものづくりの拠点が自国内のすぐそばにあったからである。
電車の吊り革に、歯が浮くような摩擦音を出すものが結構あるが、このような品質のものを作っているのが現在の日本である。
去年の春に買った水筒、それは日本の有名メーカーのものであったが、製造場所はもちろん海外(どこだったか忘れたが発展途上国)、蓋との接点部の螺旋状の突起が短期間で摩耗し、ほどなくして蓋が密閉状態で閉められなくなってしまった。
あとはレンジ用の米、シールを剥がしたら破けてしまった。それも5個入りの米全てである。これも有名メーカーのものだ。



とにかく、こんな低品質のものを市場に出していても何の改善もしようとしない。
1980年代までの日本では考えられない。
これが日本が凋落した一つの姿である。

2つ目はマスコミの質が低下していること。
モリ・カケ問題という報道が大々的になされたことにより、安倍政権の首を取ろうとした野党の思惑とからんで、ずっと長きに渡って国会で時間とお金を浪費した。
モリ・カケ問題は結局、現政権の犯罪となるような結果は何も出てこなかった。
会計検査院で値引きの根拠があいまいだった、と指摘されただけに過ぎない。
これはマスコミが大スクープを報道したいという欲望とそれに乗っかって現政権を引きずり降ろしたいう野心から執拗に追求されたものであり、問題以前のものであろう。
こんな低レベルなことに数年間も国会が停滞し、もっともっと審議されなければならない重要問題がなおざりにされてしまったのである。
マスコミは将来の日本を見据えてもっと報道しなければならないことがたくさんあるだろう。
しかしそういう本当に日本にとって大切なことに目を向けないで、政治界の暗部を探り当てて白昼の下にさらすようなスクープ狙いのようなことに注力している。

3つ目は今の日本や国民が目標を失っているということだ。
日本が今後、どういう国になっていこうとしているのか、その進むべき目標や進路、ビジョンといったものが何も見えてきていない。
これは現政権だけでなく野党からでもある。
現政権は目の前のことに対応するだけに追われ、野党は現政権の足を引っ張ることしかしていない。
日本にとって、ものづくり大国とか技術立国というのは既に過去のものである。
もう現在の日本はそのような言葉を掲げられるような実力や市場での地位を失っている。
では将来、日本はどういう国家を目指していくのか、というものが見えてこない。
だから国民も日々の日常を維持していくことだけに精一杯となり、目標に向かって努力していく、という気持ちが全体的になくなりつつあるように感じる。
今の日本人はなんとなく元気が無く、パワーを失っているように感じる。
かつての1960年代から1970年代の頃の日本人の活気やパワーとは雲泥の差である。
やはり政権が日本のこれからの進むべき道や目標、夢と言ったものを国民に明確に示していく必要がある。
ちなみに中国では、習近平が打ち出した「中国の夢」という国家目標があり、国民の生活水準を上げる、世界の強国となる、アヘン戦争が起きた1840年以前の中国の国際的地位の復活、すなわち、中国のナショナリズムや歴史的尊厳の回復がうたわれているという。
中国が尖閣諸島を執拗に奪還しようとしているのもうなづける。
中国人は歴史をよく勉強しているが、日本はそうではない。
尖閣や竹島や北方領土など人が満足に住めないような島はどうでもいいではないかと思っている人もたくさんいるだろう。
これだけは言えるが、中国人は決して日本の過去の侵略を許していないし、古代の中国と日本との力関係、いわゆる日本を属国化することに回帰しようとしているのである。
中国は日清戦争や満州事変などで、かつて取るに足らない小国、属国の日本から領土を奪われ支配されたことを絶対に許せないと考えているのである。

このまま羅針盤を失った船のように日本は漂流していき、気が付いたときには世界に売るものも何もなく、作ることも出来なくなり、海外からものを買うだけの国となり、どうすることも出来ない身動きできない状態の国となってしまうのではないか。
これは個人的なネガティブな気持ちから出ていることではなく、新聞ではない、複数の雑誌や情報から得たものをもとにしている。
これからどうしたらこのような危機的状況を回避していかれるのであろうか。
自分なりに考えが煮詰まったらまた記事にしていきたい。
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新聞を読んで思うこと(10)

2020-10-26 13:21:01 | 時事
9月から始めた講習が思いのほか大変で、昨日は社会人マンドリンクラブの練習日であったのだが、朝から夜まで講習や実践ワークなどで時間を取られてしまい参加できなかった。次回の練習日も出席が危ういが、そろそろ顔を出さないといけないとも思う。

今日は年1回の人間ドック受診で午後は半休にした。
人間ドックでは胃カメラを飲んだ。
胃カメラを飲み始めてからもう10年になる。
今回の胃カメラは細いものに進化していたが、昔の胃カメラは、直径が人差し指くらい(1cmくらい)で、太く、黒く、かつ硬いものだった。
そしてその黒いチューブの先端にやけに明るい豆電球が付いているのである。
まず胃内視鏡検査は、のどの局部麻酔から始まる。
他の診療室に比べて暗く、不安をかき立てられるような部屋に連れていかれ、粗末な丸イスに座らせられる。
そして紙コップ4分の1ほどの量の乳白色をした変な味のする液体をゴクンと飲むように指示される。
次にのどを局部麻酔するための透明な液状のゼリーのようなものを注射器で口の中に注入される。
そしてそのヌメッとしたゼリーをしばらく口の中にとどめておくよう言われる。
口の中がだんだんとしびれてくる。
3分程たったらそのゼリーをゴクンと飲みこむ。
次に肩に注射される。刺された瞬間はさほどど痛くないが、次第にじんわりと突き刺すような痛みが襲ってくる。
そうして5分程たってから、看護婦から「すぐおわりますからね~」などとやさしく声をかけられると、ベットに横向きに寝かされ、口元にステンレス(アルマイト?)の楕円形をした器を置かれて、その上に紙が大量に敷かれる。
準備が整ったら、医者が部屋に入ってきて、前回の検査結果の確認やピロリ菌の除去の経験の有無などを聞かれる。
そしていよいよ1年で最も恐ろしい儀式(?)が始まる。
ぜりーをたっぷり塗られた樹脂製のマウスピースを口にはめられ、先端がやけにまぶしく、太く、硬いチューブが徐々に、ゆっくりと、ゆっくりと口の中に侵入していく。
チューブが口の中に半分ほど入ったところで吐き気が催してくる。
そして次に最も恐ろしい難関が待ち受けている。
口とのどは丁度直角、L字状になっているので、チューブの先端がまずのどの奥にぶつかる。
その瞬間、物凄い吐き気に襲われる。酒を飲み過ぎてゲロを吐くどころの苦しみなんてものでない。
次にのどにぶつかったチューブがのどをこするようにして、今度は食道方面に向かってL字状に折れ曲がり、胃方面に向かって進んで行く。
このL字状カーブを通過するときが最も苦しいのだ。
猛烈な吐き気と絶え間ない咳が出て、よだれや涙が垂れ流しになる。
悲しくて涙が出ているのはない。
ステンレス容器と大量の紙が顔の脇に置かれたのはそのためだ。
この難関を通り過ぎると少し楽になる。
チューブの側面が食道をこすりながらスイスイと胃に向かって進入していく。
このとき食道が荒れていたら、物凄い咳に襲われる。
しばらくすると弁のようなものが見え、そこを通ると壁がヒダヒダ状の空間となる。胃の中に入ったのだ。
異次元のような景観だ。
5年ほどまえから患者もいっしょにモニターを見ながら食道や胃の中を瞬時に見られるようになった。
苦しみにもがきながら私の胃や食堂を見ていくのである。
しかし苦しいけど自分の胃の中を見てみるのも結構面白いものだ。
そして医者がモニターを見ながら沈着冷静にいろいろと解説してくれる。
最後に十二指腸に入っていって観察が終ったら、今度はチューブをスルスルと引き抜いていくだけだ。

時間にして7,8分くらいか。
今まで10回ほど飲んだが、悪夢のような時間だ。
しかし今回、医者から意外なことを言われた。10年やってこんなことを言われたのは初めて。
「きれいな胃なので、胃液が逆流したら荒れやすい? ガンになりにくい胃の状態なので、次回は2年に1回でもいい」
本当か?。
コーヒーや酒を飲んだらチクチク痛むのに意外にもダメージは少なかったようだ。
もしかすると、かゆみ対策プロジェクトの代替案の一つとして、野菜スープを毎日食べたおかげか?。

家に帰ってきて久しぶりに平日休暇の午後を過ごす。
やっと記事を書ける時間ができたので、久しぶりに経済、政治分野へのぼやきでも書こうと思い立った。

1.貧困層への政府の対応について

ここ数年、非正規雇用者、シングルマザー、年金生活者などの貧困層(こういう言い方が正しいとは思わない)に対して、政府はもっと支援して手を差し伸べるべきだとする新聞への投稿を頻繁に目にするようになった。
中には富裕層からたくさんの税金を徴収し、それを貧困層に分配すべきだとする考え方をする方もいる。
このような投稿を読むと、富裕層はさほど努力もしないで要領よくやっていい思いをしているのに対し、富裕層は低賃金に耐えながらもあくせく真面目に働いているけど報われない、といった昔の貴族と奴隷、厳しい身分制度があった封建時代に見られた差別が投稿者の裏の考え方、前提条件としてあるのが透けて見えてくる。
では果たして富裕層など稼いでいる人は楽してお金を得ているのであろうか。貧困層は低収入だけど真面目に努力していると言えるのだろうか。
生活保護を受給しているのに、朝から酒を飲み、喫茶店でモーニングセットを食べパチンコをするような人もいる。
私は今の日本ほどに、生まれながらの身分制度など全くなく、自由で、機会均等で、努力した分だけ報われる国というのはそう無いと思っている。
小学校(旧制)しか出ていなくても総理大臣にまで上り詰めた人がいる。
学歴が無くても、生育過程が極貧であっても大富豪となった人はごまんといる。
同様に大学を出ていなくても弁護士や会計士などになった方もたくさんいる。
今の日本は、努力と強い意志があればいくらでも貧困から抜け出せるチャンス、機会が常に与えられている。
本当に努力している人は政府に不満を言わない。
不満を言う人の何倍も働いているし、それに見合う収入も得ている。
つまり、今の日本社会での労働収入というのは、努力に比例して得られる構造となっているのだ。
理不尽な身分制度があった時代とは違う。
不満を言う人はかなりの確率で努力していない。
自分で道を切り開く人は人に依存しないし、それ故に不平不満がない。
一方、政府のやれることには限界がある。
経済が落ち目になっているのに、諸先進諸国よりもはるかに低い消費税率でこれだけのサービスをしているのは正直言って驚異と言える。
その代償として1,000兆円を超える借金大国となってしまった。この借金をどうやって返していくのか。
不満を言う人は、政府が何でもできると錯覚している。
もし政府にものを申すのであれば、税金の使い方だ。
今、無駄と言わざるをえない公共事業に多額の国費が投入されている。リニア新幹線や北海道新幹線、それから今後カジノなどの建設にも投入されようとしている。費用体効果などない。
国防費もしかり。
この無駄な支出を止めて、まず財政の健全化に取り組むべきであろう。

2.日中の科学力

昨日の朝刊の社説「ノーベル賞と日中の科学力」を読んだ。
この社説によると、科学技術の分野での論文数がここ数年、中国において飛躍的に増加しており、米国と肩を並べるほどに躍進しているという。
また中国は大学や企業の研究費や、海外への留学生の数も急増しているという。
翻って日本はどうかというと、大学や公的機関の研究費は横ばい、留学生の送り出しは主要国で最も少ないという。
研究発表、研究論文も右肩下がりだという。
ここ数年のあいだに日本はノーベル賞で、日本としてはかなりの数の受賞があったが、これはかつて日本が世界で躍進し、主要国の仲間入りを果たした頃の研究がもとになっており、現在の日本の成果によるものではない。
ノーベル賞は業績をあげてから受賞するまで30年かかると言われている。
あと30年たったら中国人の受賞者であふれかえっているだろう。
そもそも中国は、鄧小平時代の政策により1980年代初めから日本などの企業の生産拠点を誘致し、その技術を学ばせてもらい、安価な労働力を背景に急成長してきた。
そしてバブルの崩壊がこの動きを一層加速させた。
日本がバブル崩壊後の債権処理に追われている間に、中国は着々と技術力を諸外国から取り入れ築き上げていった。
日本がやっと気づいたときには中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国にまでのしあがり、その後の勢いはとどまることは知らず、経済だけでなく、軍事、政治面においてもその強大となった力をふるい続けている。
かつて世界市場を席捲したソニー、松下、東芝、シャープなどの電気機器のブランド力が急速に低下している。
同時に、高い品質力を誇っていたこれらのブランド製品の品質が現在、著しく低下している。
生産拠点を海外に移したこと、コスト競争の激化が背景にあると思われるが、日本製品が高い品質力を誇っていた時代に行われていた品質管理活動(QC)などはバブル崩壊を境に衰退し、品質よりもコストを優先したものづくりにシフトしたことがブランド力の低下を招いたのではないかと思われる。
今日本人の検査に対する見方が昔と全然変わってきている。
すなわち、規定値から外れていても合格とする、検査データを改ざんする、検査項目の一部を省略する、といったことが平然と行われるようになった。
昔のものづくりの魂ともいう日本の誇るべきものが失われてしまっている。
鋳物の伝統で有名の某県のメーカーでも、コストを下げるために混ぜ物をするくらいにまで堕落した。
ソニー、パナソニックなどのブランド名も、あと10年、20年後には世の中で忘れ去られているかもしれない。

日本は通信、医療などの分野で後れをとっているし、製造業は自動車産業でなんとか維持できているようなもので、電気自動車の普及にともない自動車業界も今ほどの世界シェアは保てないと見ている。
そうなったとき、日本はどうなっているのか。
遅れを取り戻そうと思ってもどうすることもできないまで追い込まれているのではないか。
開発力もない、資源もない、外国に出稼ぎに行かないと収入を得られなくなる時代になっているかもしれない。

そうならないためにどうするのか。
さまざまな角度からのアプローチが必要であろうが、まずは今の子供たちの教育を強化することだ。
土曜日の授業の復活も必要だと思う。
あとは大学や研究機関への研究費の支援増だ。
短期的な無駄なことに国費を使わないで、もっと将来的に見据えてお金を投資していく。
だいたい今の日本に将来のビジョンがない。
どういう国にしていくか、という議論が全然ない。
与党を引きずり降ろすためと、スクープを報道して株を上げたいだけしか考えない人たちのために、モリ・カケ・サクラなど低レベルなことに莫大な時間を浪費してきたことを何とも思っていないのか、と疑ってしまう。

自分も将来、日本が駄目にならないようにするために、微力ではあるが、自分なりのあることを始動した。
今本気で考えないと、日本は間違いなく世界で置いてきぼりになってしまうと思う。



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