緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ギターの塗装を考える

2015-10-24 23:39:32 | ギター
数日前の新聞に、「ニスを塗り重ねた回数 100万回」と題する記事が載っていた。



写真を見ると塗装作業中のクラシックギターである。興味が湧き、直ぐに読み始めた。
紹介されているのはヤマハで最高級のギター(恐らくGC70,71シリーズ)の塗装工程を担当されている山内栄吉さん(64)であった。
入社以来塗装一筋で49年。1千本ものギターで、ニスを塗り重ねた回数は100万回に及ぶという。
山内さんが行う塗装法は、セラックニスのタンポずり、というもので、ラックカイガラムシという昆虫の分泌液をエタノールで溶かし、木綿糸をくるんだ布にしみこませて塗り重ねていく方法だ。
セラックニスによる塗装はクラシックギターでは伝統的な塗装法であるとともに、現代の製作家の多くがこの方法を採用している。
山内さんによると、塗膜の厚さは0.02ミリで、この極薄のニスの衣の塗り重ねと研磨の繰り返しは200回に及ぶという。仕上がるまで約3か月かかるそうだ。
塗膜は薄く、ムラが無いほどいい音が出る。弦の振動が妨げられず、音が自然に伸びるからだという。
この塗装作業は「超」が付くほど根気が要るという。忍耐強い人でないと務まらない仕事だ。
だからこのセラック塗装による塗装作業を外注に出す製作家もいる。
あのアルカンヘル・フェルナンデスやパウリーノ・ベルナベなどの名工も、塗師と呼ばれる塗装専門の職人に依頼するという。
この時間を要する塗装作業まで含めて全ての工程を一人で行うならば、製作本数は非常に少ないものになってしまうであろう。
スペインの名工である故、イグナシオ・フレタ兄弟でさえも塗装工程を含めて行い、年間14,5本の製作数だったという。

ヤマハの最高級ギターを製作する職人に山内さんの他に、伊藤敏彦さん(木工担当)という方がいるが、今も現役かどうか分からないが、厚生労働省から「平成19年度の卓越した技能者」に選ばれたという。
ヤマハのGC70シリーズは表面板が松のものと杉のものの両方を弾かせてもらったことがあるが、昨今の軽く弾いただけで手元で大きく鳴るような楽器とは違い、強いしっかりとしたタッチでないと、その楽器本来の音を引き出せない部類の楽器である。いわゆる伝統的とも言える工法で製作された楽器であるが、弦の張力も強めである。

塗装が楽器に及ぼす影響について興味深い話があった。
それはスペインの名工で、ホセ・ラミレスⅢ世の著作の中にあった。
ラミレスが研究過程のある時期に、ニスがどんな風に音に影響するか調べたいと思い、最高級の材料を用いて丹念に1本のギターを製作した。
そのギターには塗装は施さず、弦を張って弾いてみたところ、その音は粗末で、全くひどいものだったという。
このギターに今度はセラック塗装を施してみたが、音は完全に変質し、すばらしい音で鳴ったという。
この事実でニスの重要性が証明され、ニスが上質であればあるほど、またそれが高密度であるほど、音質と音の強さにより大きな影響を及ぼす可能性が高いことが分かったという。

ヴァイオリンの塗装に使うニスはオイル基剤で、乾燥するのに3年かかるという。あのストラディヴァリウスのヴァイオリンを入手するのに3年待たなければならなかったのは、このオイル基剤のニスの乾燥に長期間を要したからである。
ラミレスもこのオイル基剤のニスをギターに試した。しかし乾燥が遅く、1年半経過して指で触っても指紋が付かないほどになった段階で、セゴビアにこの楽器を進呈したという。
約1か月後、セゴビアからそのオイルニスのギターが返却されてきた。ケースの中を開けてみると、楽器の側面にセゴビアの右腕の毛という毛がこびりついていたという。

このように乾燥にとても時間を要するためか、オイル基剤のニスを使用するギター製作家はいない。
現在ギターの塗装法は以下の4種類が主流である。

・セラック塗装
・ラッカー塗装
・ウレタン塗装
・カシュー塗装

現在はセラック塗装とウレタン塗装が多いように思われる。
このウレタン塗装はホセ・ラミレスⅢ世によって初めてクラシックギターに採用された。
ホセ・ラミレスⅢ世は伝統的なセラックニスによる塗装を評価していない。品質の低いニスだと断言している。
それは乾燥が速いが、殆ど結晶化しないためだと思われる。
ラミレスがユリア樹脂による塗装法を採用したのは1960年代の半ばであったと思われるが、彼の著書によるとこのニスを使用するにはコストがかかるという。
約14回のスプレー掛けが必要で、その度に前回の塗膜にサンドペーパーを掛けなくてはならず、3.5か月程度の工程となる。そして完全な乾燥に3年間ほどを要する。
これは意外である。何故ならば冒頭のヤマハのセラック塗装と同じくらいの日数を要し、完全な乾燥にはオイルニスと同じ期間が必要であるからだ。
しかしウレタン塗装はヤマハで行っているタンポずりによるセラック塗装のように200回も塗り重ねるほどの手間はないと思われる。
しかしウレタン塗装は結晶化するのでラミレスによると真に価値のある塗装法ということになる。

セラック塗装にしてもウレタン塗装にしても、製作者により塗り重ねる回数、研磨する回数、塗膜の厚み、原料の配合など様々であろう。
セラック塗装の中でも、仕上がりが光沢のあるものと光沢が無く、ざらざらしているものがある。
日本の製作家でいうと、冒頭のヤマハの最高級ギターは前者、星野良充氏による楽器は後者の仕上げ具合だ。
ホセ・ラミレスでもⅢ世の時代の楽器のウレタン塗装の塗膜は意外に薄い。
しかし現在のラミレスの高級機種、例えばエリートなどのウレタン塗装の塗膜は非常に厚く見える。
これはエリート、センテナリオなどの高級機種はプロの演奏家が使用するのではなく、コレクターが所有することが多いため、見栄えを良くするために塗膜を厚くしているのではないかと思える。

塗装が楽器の音に与える影響の大きさについて考えられる事実として、塗装を全面に渡って塗り替えてしまうと、音が変わってしまうことがあげられる。
私は以前ある楽器店でイグナシオ・フレタを弾かせてもらったことがあったが、その楽器はフレタの力強い音とはかけ離れた、小さな全くと言っていいほど異なる音に聴こえた。そのフレタは全面に渡って再塗装されていたのである。
その店にあった別のフレタと弾き比べてみても、その差は歴然としていた。
またフランスの名工ダニエル・フリードリシュの中古品をある楽器店で見た時、言葉を失うほど驚いた。
その楽器は、ラスゲアードを頻繁にしていたと思われるほどサウンドホール下部に、ひっかき傷が多数付いていたが、その傷をそのままにして、ということはオリジナルの塗装はそのままにして、その上に塗膜の厚いウレタン塗料を塗ったくってあったからだ。
何のためにこんな塗装をしたのであろうか。名器を台無しにされた一例である。
しかしオリジナルの塗装を全て剥離して、塗料を塗り直し、程度の良い中古品に見せかけて高価格で販売しているという話も聞く。
案外このような詐欺まがいに引っ掛かる人も多いというから注意すべきだ。

よく新作のギターは音が出にくいが、弾き込むにつれて鳴るようになっていくという話を聞く。
これは先述のラミレスⅢ世の話にあるように、塗装が完全に乾燥して結晶化し、振動が容易に伝わる状態になるまで時間を要するということであろう。
また現在では接着剤は速乾性のタイトボンドが主流となったが、伝統的な膠を使用している楽器も、膠が完全に乾燥するまでの間は音が出にくいと思っていい。
結局塗装と接着剤が完全に乾いて、その楽器本来の持つ実力としての音が出せるようになるということであろう。

ホセ・ラミレスⅢ世はセゴビアにギターを届けてから数か月後に弦高調整のために戻ってきた楽器を弾いてみて、音が比較にならない程向上していたと言っている。
塗料と接着材の乾燥は物理的なものであるが、弾き手が良い音を出す努力をすることは楽器に対する別次元の影響である。
ラミレスⅢ世は、「良い楽器とは二人の人間、それを作る人と、美しい音を求めて懸命にそれを弾く人の作業によって達成されるものである」と言っている。
だから製作家からすると自分の会心の作品を、良い音を出す一流の演奏家に使用してほしいと望むのは無理もないことである。いい楽器が下手な演奏者によって駄目にされたら努力が無になってしまうからだ。
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三木稔作曲 箏 譚詩集 第二集より「里曲」を聴く

2015-10-17 23:32:04 | 邦人作曲家
久しぶりに箏の曲を聴いた。
聴いたのは、三木稔作曲、箏 譚詩集 第二集より第4曲目の「里曲(さとわ)」である(1976年作曲)。
演奏は野坂恵子。



秋の静かな夜に聴くのにふさわしい、日本的情緒を最も強く感じるような曲だ。
この曲を初めて聴いたのが15年くらい前だったか。この譚詩集第二集の中でも印象に残った曲で、その後何度か聴いていた。
日本古来から伝わる五音音階陰旋法による曲であるが、このような寂しいけれど何とも言えない美しさを持つ音楽は日本以外の国において聴くことは無く、日本独自のものと言える。
日本のクラシック音楽の創成期の作曲家として、伊福部昭、そして伊福部昭よりも前に生まれ活動していた鈴木静一などの作曲家は、この五音音階陰旋法のモチーフを自らの曲にふんだんに取り入れている。
彼らの時代から考えると、明治から昭和の初期まではこの五音音階陰旋法による曲が庶民の身近な存在として流れていたのではないかと思うのである。
この音階を用いた曲はシンプルなほど心に染み入る。
この「里曲」は鈴木静一の曲に見られるような次の基本的音型を取っている。



現代の西洋かぶれし過ぎた日本では決して生まれてこない音楽だ。
この日本独自の音楽は、日本人よりも外国人の方が高く評価している。Youtubeで箏や尺八、篠笛などの日本古来の伝統楽器を用いた演奏に対する評価を示すコメントは外国のものが多い。

陰旋法はどのような環境から生まれて来たのか。
恐らく静かな忍ぶような暗い夜から生まれたに違いにない。
島国で外国との交流を絶ち、閉鎖的な国の中で、封建制度による厳しい生活と、貧しい庶民の質素な暮らしの中から生まれたに違いない。華やかで優雅で楽しい要素はどこにも無い。

日本には箏、尺八、篠笛などの固有な伝統楽器があるが、他の国に比べて自国の伝統楽器や伝統音楽をさかに演奏したり、世界に伝える動きは少ないように感じる。
クラシックにしてもポピュラーにしても西洋の音楽を演奏したり聴く人が殆どであるが、たまにはこのような日本の伝統音楽に触れてみるのもいい。
この「里曲」のような曲は日本の古い時代の庶民の気持ちが伝わってくる。はっきりとは分からないが、何か強いものである。先に乗せた写真の一節のような音型だ。
この陰旋法は子守唄や、「とうりゃんせ」のような子供の遊び唄にも用いられている。

この「里曲」を録音した野坂恵子の箏の音は素晴らしい。全身全霊で弾いたような音を出す。
ギターでもこのような音を出したいと思うほどだ。芯のとても強い感情の伴った音だ。

畳のあまり広くない日本の昔ながらの部屋で、静かな秋の夜に電気の無かった時代の照明にしてこのような曲を聴いてみたいし、いつか篠笛もやってみたいと思う。

この「里曲」をYoutubeで探したが無かった。三木稔の曲で比較的知られているのは、尺八と二十弦箏のための「秋の曲」という曲がある。

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2015年度(第33回)スペインギター音楽コンクールを聴く

2015-10-12 02:57:50 | ギター
今日(10月11日)、東京台東区のミレミアムホールで、第33回スペインギター音楽コンクールが開催されたので、聴きに行った。
このコンクールを初めて聴いたのは今から24年前の1991年のこと。
それ以来今日まで数回の抜けはあったが、ほぼ毎年聴いてきた。
若い時はコンクールの緊張感に興奮を感じたものだったが、20年以上も繰り返し聴いているといささか飽きを感じるのも無理はない。
曲目がスペイン音楽に限定していることもあろうが、毎年同じようなおなじみの曲ばかりが繰り返されるからだと思う。
協会の規定では本選の自由曲は「スペイン作曲家による作品」とあるので、もっと知られていない現代音楽を発掘して弾いてくれる方が現れないかと密かに期待しているのである。
今年から自由曲の持ち時間が5分延長され15分間となったが、単一の曲を選ぶにしても複数曲の組み合わせにするにしても、従来の選曲の傾向を打破して欲しいと願う。

第二次予選の課題曲がアルベニスの「グラナダ」で演奏時間が長かったせいか、本選の開催時間が遅れたのと、本選の持ち時間が延長されたことで帰宅時間が遅くなってしまった。
なのでこの記事を書き終えるのが1時を回ってしまうであろう。

会場に着いたのが午後2時過ぎで、第2次予選は半分ほど終わっていた。
今年の課題曲はアルベニスの「グラナダ」。スペイン組曲Op.47の第1曲目である。
アルベニスが死の床にあっても想いを馳せたと言われているグラナダの印象、とくに短調に転調してから主題に戻るまでのフレーズがとても美しい。これはセレナードとも言えるものであろう。
実際今日の出場者の演奏を聴いて、これまでのコンクールで聴くよりも心が安らかになれたのはこの曲の力によるものなのか。

この曲を初めて聴いたのは1976年頃だったであろうか。
荘村清志がNHKの「名曲アルバム」でアルハンブラの思い出を弾いていた時、冒頭にその一部のフレーズが流れていたのである。
私がクラシックギターを始めた頃であり、とにかくクラシックギターの曲であれば何でも感動していた頃だ。
その翌年に初めて買ったLPレコードで、イエペスの6弦時代の録音を聴いた。
このイエペスの演奏があまりにも強く印象に残りすぎて、他のグラナダの演奏を聴いてその良し悪しを判断する際の基準になっているのである。この演奏を何度聴いたことか。
今日帰宅して、この6弦時代のイエペスの録音、そしてジュリアン・ブリーム、マヌエル・バルエコの録音を聴いてみた。ブリームも素晴らしいがやはりイエペスの方がいい。バルエコはとても参考になるレベルとは言えない演奏だ。
ピアノの録音も聴こうと思ったが、時間がもう遅い。明日にしよう。

第2次予選は先述したように半分ほどしか聴いていないので、いい演奏がどのくらいあったが完全には分からないが、私が聴いた範囲ではバルエコ編の編曲を使用している方が殆どだったようだ。



阿部保夫編の旧版を使用されている方がいたが、短調に移調する直前のフレーズが原曲と異なっているうえに、グリッサンドが多用されており、かなり恣意的な編曲なので、同じ阿部保夫編でも阿部恭士氏との共編の方が良かった。





なおこの曲のギター編曲版にはイ長調によるもの(川井善晴編曲)がある。このイ長調による編曲もなかなかのものである。



今回のコンクールでもタッチを弦に対し45度くらの角度で弾いている方が少なからずいたが、このタッチで芯のある音を出せるのであろうか。この角度でラスゲアードはきつい。見ていて指の動きが自然にかなっていないように思える。
この角度だと必然的に爪の右半分で弦を弾くことになるので、輪郭のばやけた不明瞭な音にならざるを得ない。
今日の出場者でこの斜めの角度と、垂直か垂直に近い角度の奏者の音の違いを注意深く聴いてみたが、やはり大きな差を感じた。

さて本選であるが、選出されたのは以下の6名。6名の審査結果も合わせて示す(カッコ内は私が付けた順位)。
課題曲:椿姫の主題による幻想曲(タレガ又はアルカス編)

1.井本響太さん:第4位(第4位)  自由曲:ソナタ・ジョコーサ
2.杉田文さん:第6位(第5位) 自由曲:ソナタ・ジョコーサ
3.大沢美月さん:第5位(第6位) 自由曲:トゥリーナ「セヴィリアーナ」、タレガ「ベニスの謝肉祭による変奏曲」
4.山田唯雄さん:第1位(第2位) 自由曲:マネン「ファンタジア・ソナタ」
5.斎藤優貴さん:第2位(第1位) 自由曲:ホセ「ソナタより第1、2、4楽章」
6.長祐樹さん:第3位(第3位) 自由曲:アセンシオ「内なる思いよりⅠ、Ⅱ、Ⅳ、Ⅴ」

以下に各演奏者の演奏に対する感想を簡単にレポートしたい。
まず演奏順1番の 井本響太さんであるが、課題曲の出来は良かった。タッチが柔らかく静かであるが、繊細で独特の音作りに感心した。ただし、タッチの角度が先に述べたように弦に対し45度くらいに斜めにしており、音に芯が感じられなかった。やはり聴いていると音の輪郭がはっきり聞こえてこない。随所に強い直線的な芯のある音をがあるともっと素晴らしいと思った。自由曲はロドリーゴの難曲であったが、テクニックは申し分ない。特に左手の柔軟さは模範的でもある。惜しいことに途中で度忘れがあったために大きく減点されたのではないか。

2番手の杉田さんであるが、第2次予選の音に魅力を感じたが、本選ではちょっとイメージが違っていた。演奏がややこじんまりとした印象を感じた。もっと感情的な盛り上がりが欲しいと思った。音は透明感が高くかつ芯があるが、高音がメタリックな音になっていたのが残念。自由曲はテクニック面で精いっぱいという感じで、音楽表現にまで余裕が出ていない印象があった。第2楽章はもっと音を保持してたっぷりと歌っていい。テンポがやや性急に感じた。第3楽章はスペインの激しい歯切れのいいリスムを出してほしかった。祭り事のような華やかさ、楽しさが欲しい。ただ音を磨くことと、もっとパワーのある表現を身に着けていけばこの先期待できる奏者だと思う。

3番手の大沢美月さんであるが、課題曲はメロディ・ラインが細く硬い。トレモロの後の盛り上がりが欠けており、その後の感傷的なフレーズも音が単調で一本調子。最後の盛り上がりももっとパワーが欲しい。
自由曲のセヴィリアーナも音が細く、もっと太さと前面に出てくるようなパワーが欲しいと感じた。中間部の夜の静けさを感じさせる部分と激しい部分とのコントラストを感じさせて欲しいと思った。ベニスの謝肉祭は高音に硬さが目立ち、ギターの音の魅力をもっと引き出して欲しいと感じる。ユーモアを感じさせるフレーズは余裕のある気持ちで、思い切った表現をしても良いと思う。

4番手の山田唯雄さんは一昨年のコンクールでもお見かけした。その時よりも大きく成長されていた。
まず音が力強く、一昨年目立った雑音は皆無に近く、説得力のある力強い音であった。力強いだけでなく、繊細な弱音が出せていてその音の表現の多彩さが際立っていた。課題曲のトレモロの後の盛り上げかたも素晴らしく、その後の繊細な表現もよく出来ていた。落ち着いた自信に満ちた演奏であり、最後の難しいパッセージの連続では音のびりつきはあったが、力強い終わり方であった。
自由曲のマネンの曲はよほど上手く表現しないと聴き手を退屈させてしまう長大な曲であるが、楽器をフルに響かせ、幅のある表現でこの曲の欠点を良くカバーしていたと思う。しかし難しいパッセージでの1音1音がやや不明瞭になっているところがあり、音の明確性が欲しかった。

5番手の斎藤優貴さんも一昨年のコンクールでお見かけした。その時は6位であったが私は3位を付けた。音楽の流れがとても自然で、集中できたからだ。また昨年の東京国際ギターコンクールでも本選で出場を果たした。課題曲の伊福部昭の曲は本選出場者の中では最も聴き応えがあった。
今年の課題曲の演奏は素晴らしかった。この本選出場者の演奏の中で1番感動した。音楽の流れが自然なのである。それがこの人の良さだと思う。テンポ、音の強弱がその曲のが本来持っているであろう最も自然な流れを感じる。そして歌い回しが素晴らしい。歌っているのが聴こえてくる。
惜しいことに音がやや硬質で小さいので、審査員にとってはインパクトが足りなかったのかもしれない。しかし、音楽の捕らえ方に天性のものを感じる。その特性を今後伸ばしてもらいたい。期待している。
自由曲の完成度はとても高かった。今まで聴いたこの曲の出来では、数年前の東京国際ギターコンクールで聴いた外国人の奏者以来である。
この曲は1990年代前半のジュリアン・ブリームの東京公演で初めて聴いたが、このような本格的なギター曲が埋もれたままになっていたことに驚いた。ギター曲で最も欠けているのは、このようなソナタ形式の格調高い大曲に乏しいことである。技巧面でも音楽面での最高度のレベルを要する曲があまりにも少ないことが、クラシックギター界を停滞させていると思う。
斎藤さんの自由曲の演奏はほぼ完璧な演奏であり、派手さは無いが、しなやかや音の運び、音楽の流れが自然で無理が無く、速いパッセージでも1音1音が分離して聴こえ、またアルペジオでは音の「うねり」も感じることができた。
今回2位に終わったのが残念に思うが、まだ10代で若いのでこれからが楽しみである。

最後の奏者となった長祐樹さんも一昨年のコンクールで聴かせて頂いた。この方の演奏は大人の演奏だと思う。とても理知的なものを感じる。
課題曲はメロディラインが今一つ単調に感じた。演奏が慎重すぎるのかもしれない。もっと感情にまかせる部分があってもいいように思う。トレモロの後の盛り上がりが欲しかった。最後の天にまでかけ上っていくような嬉しい気持ちの盛り上がりを感じさせてくれても良いのだと思ったのだが、長さんの持ち味はこのような曲ではなく別の曲で感じさせてくれるように思う。一昨年聴いた古典曲が印象に残っていたからだ。
自由曲はⅠがやはり慎重な弾き方であったが、Ⅱの演奏が素晴らしかった。派手さはないが堅実な演奏で安定感を感じる。感情の盛り上がりにやや欠けるが大人の演奏だと感じた。

今年のコンクールは上位の方のレベルが非常に高かったと思う。
コンクールに入賞してもなかなか表舞台に出てこれない厳しさが今の音楽界にある。
一歩抜きんでるためには、やはりギター音楽の域にとどまらず、ギター以外のクラシックのジャンルに踏み出すことが必要だと確信する。
正直いって、ギター音楽界は例えばピアノ界から比べると雲泥の差がある。とても大きな差である。
ギターをやる方はギター界の外に出ていくことが少ない。かつてイエペスがしたようにギター音楽以外の純クラシックの音楽に触れ、またできればピアノやヴァオリンの第一人者に直接アドヴァイスしてもらえる機会を求めてもいいと思う。
作家だって出版社に10回以上断られてもめげずに自分の作品を見てもらい、後にその作品を高く評価されたことだってある。

コンクールは自分の存在を関係者に知ってもらう手段の一つに過ぎない。セゴビアやイエペス、ブリームが作曲家にコンタクトを取り、ギター曲を開拓していった時代が今日においても盛んになることを期待したい。

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2015年度 Nコン全国大会高等学校の部を聴きに行く

2015-10-11 00:17:22 | 合唱
今日、東京渋谷のNHKホールで、NHK全国学校音楽コンクール(略してNコン、合唱コンクール)があったので聴きに行った。
帰宅してからも鑑賞できるようビデオテープをセットする。
ビデオテープは店頭に販売されなくなったので、アマゾンで調達した。
NHKホールに行くと凄い人の数であった。合唱の好きな日本人がいかに多いか思い知らされる。
会場で整理券を受け取ると3階席の、といっても10列ほどであったが、真ん中くらいの席があてがわれた。
舞台からからかなりの距離だ。歌声が聴こえるかどうか心配したが、演奏が始まってそれが杞憂であることがわかった。

今年の課題曲は、作詞:穂村 弘、作曲:松本望、「メイプルシロップ」、テーマは「ピース」であった。
この「メイプルシロップ」という詩を読んで感じたことは今までの記事に書いてきたが、何故「ピース(平和)」というテーマが選ばれたか改めて考えてみる。
第二次世界大戦後、ここ数年前までは概ね世界は平和だった。
しかし世界情勢はここ数年危うくなってきた。第二次世界大戦までの動きのように、領土、資源拡大という流れを組むものもあるが、それとは異質の、人や物を何の直接的因果関係もなく破壊する勢力が拡大してきたことは見逃すことができなくなってきた。
この反社会勢力の根源には、平和で豊かな時代のなかで、精神的に虐げられてきた存在が少なからずあるのではないか。虐げられたきた者は執念深い。しかも心が冷酷なものにまで落ちてしまっている。
このような人たちが勢力を生み出し、世界各地で破壊行為を繰り返している。
このような勢力に武力で持って対抗、壊滅させる手段は本質的に有効と言えるのであろうか。
ある勢力が武力で制圧されても、根本的な問題が解決されない限り、今世界が直面しているような問題は繰り返される。
ピース「平和」の反対は「戦争」である。
「戦争」によって何を得、何を失うのか考えてみる必要があると思う。
他国固有の領土や資源を力でもって、人命を犠牲にしてまで奪って、何の価値があるのか。それによって獲得したもので自国の人々は豊かで幸福になれるのか。
破壊、殺戮行為で自己の悲惨で過酷な生い立ちから生じる負の感情を晴らすことで、自己は幸福になれるのか。

日本が平和で豊かだった1980年代から1990年代まで「平和」について語られることは殆ど無かった。
平和な時代に、何を今さら「平和」を語るのか、ということである。
しかし今、徐々に世界情勢は「平和」の維持、秩序が土台から崩れかけてきているように思う。

最近あることをきっかけに、第二次世界大戦を経験した作家の著作を数冊読む機会があった。
「戦争」を実際に体験した人が語るものには真実の思いがある。
先に述べたように、「戦争」によって何を得、何を失うのか、一度でも考えてみてもいい。

さて、今日のコンクールの演奏で、私が生演奏を聴いて特に印象に残った学校を演奏順に紹介させていただきたい。

まず演奏順位4番目の北海道プロック代表、北海道札幌旭丘高等学校である。
私は北海道出身なのでこの高校のことは知っているが、私が中学校時代の頃は成績の上位の者が行く学校であった。「ガオカ「と呼ばれていた高校である。私が卒業した学校とは非常に大きな差がある。
Nコンの全国大会に出場する学校は優秀な名門校が多いと聞くが、その通りだと認めざるを得ない。
ちょっと話が外れるが、底辺校の生徒を全国大会レベルにまで引き上げるのは、よほど優秀な指導者を得ても極めて至難なことである。底辺校の生徒がどのような生徒か分かっていればおのずと分かる。
今日の全国大会の高校生を見ていて正直いって羨ましかった。自分の高校時代が良くなかったからなおさらそのように思うのであるが、自分の高校時代にしたくても出来なかったことを感じさせてくれるだけも今は満足感を感じる。
札幌旭丘高等学校の演奏は、知性を感じさせる演奏だった。「メイプルシロップ」の演奏の解釈はとても深く考えられた結果としての表現だと感じた。全体的にパワーを前面に出すことはせず、表現の多彩さを重点に置いているように感じた。ソプラノの声が直線的な強さを持っているのが印象的だった。この歌い方は自由曲にも効果的に作用していたと思うが、中間部から後半にかけての各パートの交叉する部分とピアノ伴奏との音のずれと表現の分かりにくさがやや気になった。

次に演奏順位9番目の中国ブロック代表、島根県立松江北高等学校。
この高校は平成21年度、第76回全国大会のCDでその演奏を聴いたことがあった。その時の課題曲は「青のジャンプ」で、CDで聴き比べをしていた時に愛媛県立西条高等学校に次いで印象に残った学校であった。
今日の演奏も素朴な高校生らしい飾らない歌声を聴かせてくれて惹きこまれた。
技術的にやや粗削りな面があるが、この素朴な自然な歌声が好きだ。
他の学校のように力まない。賞を取ろうとして力を入れたり、背伸びをしたり、無理な歌い方が無い。
40人に満たない人数であったが、3階席まで十分に通る音量であった。
松江市と言えば、22年前に訪れたことがある。松江駅から歩いて数十分のところに宍道湖という比較的大きな湖がある。
その湖に石造りの地蔵が置いてあり、その地蔵の夕陽に映える姿をバックに写真を撮ったことがあった。

最後に演奏順位10番目の東北ブロック代表、福島県立郡山高等学校。
この高校は2年前の平成25年度全国大会で聴いた、高田三郎の水のいのちから「川」の演奏が強烈に印象に残っている。
この時の演奏もそうであったが、今日の演奏も自然体で無理がないが、随所でとても強い感情的な力が直線的にホールの奥まで突き抜けていくような力を感じた。
課題曲は他校のようにパワーを出し過ぎることなく、あくまで自然にかなった演奏だったと思う。
「メイプルシロップ」は感情表現を強調しすぎると、かえって聴きにくくなる難しい曲である。
この曲に対するアプローチは色々あると思うが、どのように曲作りをするか、それが一番難しかったのではないかと思う。
聴き手にとっては、詩と曲の整合が取れているとは感じにくく、詩の内容と曲想が連動しにくいので、「曲」を優先して、「曲」の自然の流れのなかで詩の内容を正確に伝えていくような歌い方に感じた。
いずれにしても歌い方、表現の仕方を相当苦労して仕上げてきたのではないかと思わせる演奏であった。
自由曲は鈴木輝昭の難解な曲であった。
ブロックコンクールでこの曲の演奏を聴いた時、ある意味で衝撃を受けた。
その意味とは難解な現代音楽の表現をどのようにするのか、ということであった。
この曲を歌っている時の生徒たちの「目」が印象的であった。
この演奏をきっかけに、鈴木輝昭の難解な現代曲、例えばオルガンとティンパニの重奏や、すでに聴いていたマンドリン・オーケストラ曲を聴いた。
このような難解な曲は感情に訴える要素よりも詩の内容と、作曲者の音の表現を、深く意味を考えながら鑑賞していく部類のものである。
それゆえに、一度だけの演奏でとうてい理解できるものではなく、何度も聴いてその意味することが徐々に石を積み上げるように、またからまった紐を解きほぐしていくかのうように時間をかけて理解を深めてゆくものであろう。
この自由曲も今日の演奏1回限りで終わらせるのは勿体ない。今後も継続して聴いてみたいと思う。

全ての演奏が終わった全体的な感想としては、音の大きさのコントロールが課題だと感じたことである。
パワーの大きさが必ずしもいいとは限らないと感じた。今日の演奏の中で、あまりにも力み過ぎて聴くのがかえってつらく感じるものもあった。3階席でも今日のどの高校の演奏も十分に歌声が届いていた。
全ての歌い手がパワー全開だと、かなりきつく聴こえる。そのパワーが意図的な強調したものであればなおさらである。
今日の演奏を聴いて、スポット的にではあるが、直線的なホールの一番後ろまで突き抜けていくような強い、均一的な音を感じる音を出している学校があった。その音は意図的ではなくあくまでも自然なものに感じた。
音量はわずかな差であっても、意図して力んで出したものと自然に出たものとはかなり異なって聴こえる。
これは器楽を鑑賞する時に共通して感じるものである。
また、3階席で聴いていると、「あら」が分かってしまうということだ。
1階席や2階席の前半で聴いていると目立たなくても、遠い3階席で聴くと、声の不透明さ、不揃い、乱れ等の「あら」が際立ってくる。
今日聴いて素晴らしいと感じた学校は、その「あら」が殆ど無かった。基礎的な修練の積み重ねに差を感じた。
しかしその「あら」が無く、素晴らしく均一な音を出している高校もあったが、私には物足りなく感じた。
もっと根源的な感情的なものが無いからである。音楽の目指すもの、方向が違うのではないか。

今日の演奏を聴いて、都会の学校と地方の学校とで演奏差が出ていることも感じた。
最後は指導者を含めて演奏者の心の状態、人間力である。
地方の学校の中でも素朴な学校ほど、自然な歌い方をするように思う。
指導者の人格、考え方にも大きく左右するが、生徒の心が出来るだけピュアになれるような環境づくりが必要だと思う。
歌うことに最大限の喜びを感じていることが伝わってくることが第一なのである。
指導者の解釈に従わせるやり方もあるが、歌い手の自主性を尊重し、全員で作り上げていくような演奏がいい。

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アナログ盤が注目されている

2015-10-03 21:50:24 | 音楽一般
今日の朝刊に、世界でアナログレコードが再評価されているという記事が載っていた。



アナログレコードは1980年代の半ば過ぎまで販売されていたが、CDが普及し始めてから徐々に姿を消し、80年代の終わりには新品で販売されているのを見ることは無くなった。
私が初めてCDを手にしたのは、就職して初めての冬のボーナスが出た時、秋葉原の石丸電気で当時15万円のコンポを買った時に店で貰ったCD無料引換券と交換した、アルディ・メオラというフュージョンのギタリストのCDであった。
この時買ったコンポにオプションでレコード・プレーヤーも付けてもらったので、レコードも買って聴いた。
当時クラシックギターの他、ジャズやフュージョンも聴いていたが、クラッシクギターに関しては、セゴビアがデッカに録音した音源が確か1988年頃にCDで復刻され、第2巻を除く全てのCDと、セゴビアの肉声が入った非売品のCDを手に入れた。学生時代に買えなかったレコードが、社会人となり収入を得ることでCDとして買えたことが嬉しかった。
しかしこのセゴビアのCDを聴いていささかがっかりしたのは、音源のマスターテープが経年ですっかり老朽化した状態でCD化されたので、肝心の音が干からびたような音で再現されており、レコードで聴いた音よりもはるかに劣っていたことである。
だからクラシックの中古CDショップで意外にアナログレコードコーナーでお客をたくさん見かけるのは、古い録音を、復刻されたCDで聴くのではなく、音源が録音された時期の直後(すなわち初回プレス品)か、そんなに年数の経過していない時期に発売されたレコードを買い求めるためだと思われる。
もっとも最近はデジタル・リマスターとか言う古い老朽化したマスターテープの音源をデジタル技術でもって、録音当時の音を想定して加工して再現する方法で復刻された盤もあるので、このような音加工した盤でもいいと思う人は古い音源でもCDを買うに違いない。
しかしいかに高度な技術を使ったとしても、オリジナルの音源の録音直後の音はマスターテープから既に失われてしまっている以上、再現された音は技術者の想定の音でしかない。
だからリマスターされた音といってもそれは当時の本物の音では無いということである。
映画でも、数年前に古い邦画のリマスター版を見た時、その色合いがやけに鮮やか過ぎて、異様な不自然さを感じたことがあった。
リマスターにあまり恣意的なものが入り込むと、オリジナルの音源から遠ざかることになる。
具体的な例では、ジョン・ウィリアムの弾くアランフェス協奏曲の最初の録音、これはユージン・オーマンディと共演した1960年代の録音で、この曲のベスト盤だと私は思っているのだが、10年ほど前に日本で発売されたリマスター盤はオリジナルの音とはかなりかけ離れた音に加工されてしまったものであったために、がっかりしてしまったことがあった。そのCDは結局1度しか聴いていない。至極勿体ない。
このジョン・ウィリアムスのアランフェスはレコードで2枚、CDで3枚手に入れたが、CDは500円のスタンドで買ったものがオリジナル通りの録音で、あとの2枚は先のリマスターと、音が小さ過ぎて話にならないものだった。
だから古い録音を聴くときには、当然レコードになるが、録音直後に発売されたものの方が断然いい場合もある。
下手に復刻されたCDを聴いてその録音のせいで、せっかくの名演が名演として聴き手に認識されないこともありうる。

さて冒頭の新聞記事で近年アナログレコードが世界的に再評価され、売上枚数が増加してきている理由を、「人々が、デジタルの音に疲れているからではないか」としている。
そしてアナログ派の人々は、CDの音に不自然さを感じているとしている。
それはCDが、人間の耳に聞き取れないとして22キロヘルツ以上の音をカットしているからではないかという。
実はこのカットされた高周波こそが、自然な響きや微妙な音色を醸し出し、人に心地よさを感じさせているそうだ。
そしてアナログ盤はCDではカットされているこの高周波がそのまま収められているので、再生音の響きが自然に感じられるのだという。
しかしこれは新たに録音する音源をCDとレコードにそれぞれ録音したと仮定して、感じられる音の違いであろう。
先に述べたように古い時代の録音は録音の新鮮度という観点ではレコードの音の方が断然いい場合があるし、逆に古い(といっても1970年代)録音でもCDで再発された録音のほうがいい場合もある。
私はゲザ・アンダのショパンのワルツ集の録音(1976年)をCDとレコードで両方もっているが、この場合はCDの音の方に軍配が上がる。1970年代以降にもなるとマスターテープの品質も向上しているだろうし、劣化も抑制されているに違いないからだ。

レコードは古い時代のものになると、溝にゴミが強固に付着し、傷が付いていないのに音飛びやプチプチ、チリチリ音に悩まされる。
この溝に付着したゴミやカビを完全に取り除くことは大変なことである。
だからいくら音源が新鮮、音の響きが自然だといっても、盤の状態が悪いと聴いていられないことがある。
音飛びが頻繁に起きるレコードよりも、干からびた音源で復刻したCDの方がましだ。

あとこれは別にアナログ盤、CDの違いに関係ないのだが、最近の録音、これはYoutubeの録音を含めてなのだが、やたら電気加工された録音が氾濫しており、一体この演奏者のオリジナルの音は何なんだと、感じることが多い。
電気技術の発達に伴い、録音された音を実際の生の音以上に良く聴こえるように後加工する編集技術を施すことがスタンダードになったようだ。
昔の録音をたくさん聴いてきた方であればすぐに分かるであろうが、この電気処理で後加工された音は実に不自然で、後味が悪い。
カラオケボックスのように下手な歌でもそれなりに聴こえるように残響が強く、音が別のものに変換されているように聴こえる。
たしかクラシックギターでは、1980年代初めにジョン・ウィリアムスがアルベニスのコルドバの一部のフレーズをこのような電気処理を施して録音したが、馬鹿げたことである。
こんな録音をするくらいなら、残響の強い床が石づくりの教会などで最初から終わりまで録音したほうがはるかにいい。
ジョン・ウィリアムスはバリオス作品集の2回目の録音でも電気処理を施していたが、これを聴いて落胆したのは私だけであろうか。

先日のシルバーウィークで新宿で買った若き荘村清志のLPレコードは1972年の録音であったが、電気処理などされていない時代の生の音で録音されたものであり、その自然な音の響きに新鮮さを感じた。



この時代までは、録音といえば生の音をいかに忠実に臨場感をもって再現するか、ということが録音技術者たちの目指す目標だったのではないかと感じられる。
だからいい録音にあたると、まるで生の演奏の奏者のすぐそばで聴いているように感じる。
こういう録音がもっとも優れている。
今の技術者はいかに聴き映えが良くなるかを目指して、色々人工的な手段を使って、生の音に味付けをし、その味付けの仕方を競っているように思われてならない。昔の目指す方向とは根本的に別の方向に行ってしまったようだ。
これは自分の素顔に自信が持てず、また自分の顔を実際以上に良く見せようとして厚化粧する女性のような奏者をたくさん生み出すだけである。
昔に比べ、巨匠と言われる音楽家がいなくなってしまったのも、また神技的な音を生みだす演奏家がいなくなってしまったのも、この録音方法の根本的変化と無関係ではないであろう。
究極の音作りをする努力をしなくても、録音技術がカバーしてくれるからだ。

アナログ盤への回帰もいいが、まずは生の音を忠実に再現する昔ながらの録音技術の復活を望みたい。
先にやるべきなのはこっちの方だと思う。

技術が進歩してもそれに反していいものが失われていくこともある。録音がその一つだと思う。
私自身、かなりアナログ派である。
車はマニュアル(MT)、パワステもパワーウィンドウも付いていない。
カメラはずっと長い間、機械式シャッター、マニュアル・フォーカス、手動露出のものを使ってきた。腕時計も機械式である。
スマホは使っていない。たぶん持っても使いこなせない。
不便だけどどうしても古い時代のものに目が行く。
古い時代のものが全ていいとは言わないが、古いものには味があるものが多いし、本質を出しているものが多い。
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