緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

外出自粛期間にやりたいこと決めた

2020-04-18 21:27:12 | 学問
コロナ感染が収まる気配が全然ないが、感染防止対策として政府や自治体が表明した5/6までの外出自粛期間内は要請どおり家にこもっていようかと思う。
(1日くらいは深夜の首都高ドライブにでもでかけるかな)
この外出自粛期間内はチャンスと言えばチャンスだ。
普段できないことができるからだ。
明後日から1週間は在宅&サテライト勤務なので通勤時間が大幅に短縮され、普段出来ないことに時間を当てることができる。

そこで明日から5/6までにやることを決めた。

1.勉強

①高梨健吉著「総解英文法」(美誠社、1970年初版)の学習
 
この学習参考書は、高校1年生の冬休みに入る直前に札幌の紀伊国屋で買ったものである。





嫌な高校にしか入れず、中学時代とは180度違うガリ勉にすっかり生まれ変わった私は、別人のように猛烈に勉強をするようになったが、中学時代の不勉強のせいで、しばらくは中学2年生程度のレベルしかなかった英語だったのだが、この本を読み始めて飛躍的に向上した。
この時の体験は強烈だった。
この本との出会いが無かったならば、卒業した大学に入れなかったと思う。
10年くらい前からこの本をもう一度、高校時代の頃を懐かしみながら勉強しようと思い立ったが、なかなか実現に至らなかったが、今回、これを機会に最初から再読することにした。

英語は一生役にたつものだと思う。
私の場合は、会話よりも英文学や英語雑誌を読んでみたい。
たしかイギリスだったかな、「ギター・レビュー」というクラシックギターの専門誌が出ているので、これを読んでみたいとも思っている。

②H.T.ジョンソン、R.S.キャプラン著、鳥居宏史訳「レレバンス・ロスト-管理会計の盛衰ー」(白桃書房、1992年初版)



この本は昨年秋ごろから読み始めたが、年明けから中断していた。
自分の仕事に関連する内容であるが、学問の立場と実務の立場の違いを念頭に、この本の提示する論点や技法を検証してみたい。
感想も続きを継続して記事に取り上げていきたい。

③久野光朗著「アメリカ簿記史-アメリカ会計史序説-」(同文館、1985年初版)



この本を買ったのは、今から27、8年くらい前だったであろうか。
簿記学という学問は、財務会計のみならず原価計算や管理会計においても基礎となる学問であり、その歴史、生成過程を研究することは興味深いところである。
買ったけど一度も目を通さなかった本であり、これを機会に是非完読したい。
精読するという読み方ではなく、分からないところが出てきても、そのままかまわず読み進める読み方をしようと思う。
その為に用意したのが、赤と青の鉛筆と鉛筆削り。





重要だと感じた箇所には赤線を引き、分からない箇所、疑問に感じる箇所には青線を引くのである。
そして次に読み返す時には、この赤線を意識して読むようにし、青線部は他の書物などを探して参考にしながら解決するようにする。
こうすると勉強も楽しくなる。
ちなみに鉛筆削りは5年くらい前に札幌の大丸藤井で買ったものだ。
アルミ製。
中学時代に使っていたものよりか、いくぶん粗末なように感じるが、今ではなかなか手に入らない代物だ。

2.文学

原民喜全集、全3巻(青土社、1978年初版)





日本文学が好きだ。
これも7、8年前に買ったはいいけど、最初の数十ページ読んだきりで止めてしまったもの。
原民喜はあまり知られていない。確か、結城信一の著作を読んでいた時に、原民喜を評価する文面に出会い、彼の全集を買ったのだと思う。
東京、神保町の古書店(店の名前は忘れた)で購入。

3.ギター独奏

これは先日の記事でも触れたが、阿部保夫編集の「現代奏法によるカルカッシギター教則本」(全音出版社、初版年記載無)の第三部、50の漸進的練習曲を38年ぶりに再練習する。
50曲念入りにやっていたら時間が足りないので、初見能力向上を目的に、ざっと通すような進め方をしてみたい。

あと考えているのは、鈴木巌著「演奏家を志す人のための クラシック・ギター教本」第2巻、第3巻をじっくりやってみること。



この教則本は、カルカッシ、アグアド、ジュリアーニ、コスト、カルリなど、ギターの黄金時代と呼ばれた19世紀のギタリスト兼作曲家たちが教育目的に作曲した優れた練習曲を豊富に取り上げ、また詳細で丁寧な左手及び右手の運指を記載した非常に優れた教材である。
この教則本を今後、少しずつ、またじっくりとトライしていきたいと思っているのである。


いろいろやりたいことを挙げてみたが、欲張りすぎている感じがしないでもない。
欲張ると途中で挫折してしまう。
かなり強い意志が必要だが、漫然と目標もなくダラダラと過ごすよりかはいいと思う。

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漢字練習

2020-02-10 10:24:15 | 学問
平日の昼間に記事を書くなんて初めてだろうか。
今日は仕事が休みなのである。
営業日であるが休暇を取った。
工場勤務時代は休暇など殆ど取ったことがなかった。
休日出勤も多くかったが、長時間労働対象者としてリストアップされ、本社に呼び出されて、叱責されるのである。
叱責されるだけでなく、嫌味や皮肉も言われる。
私が工場時代の前職場を去った後に、その職場は増員されたが、そもそも管理者が長時間労働を強いられる環境に置いているという認識が、本社の人には全く無いと思ったものである。
数字だけで判断されることが評価の対象となる今の成果主義の弊害だろう。

今の職場はほぼ定時で終わるので、それまでの忙しさからすると気が抜けるが、その反面、気持ちに余裕が出てきて、いろいろなことに目を向けられるようになった。
人生過程や日々の生活も、プラスやマイナスだけということはなく、プラス、マイナス=ゼロで、相殺されるものであることが実感として感じられるようになってきた。
だからちまたに氾濫している、成功法則だの引き寄せの法則などに飛びついても、無駄なのである。
得をしようとするといつかは足元をすくわれるものである。

最近、「漢字筆順ハンドブック」なるものを買った。



このハンドブックで、漢字のおさらいをしようというわけだ。
きっかけは、手書きで漢字を書く機会がめっきり減ったことで、漢字を正しく書けないことが出てきたからだ。
1985年頃にワープロが普及し始め、パソコンで文字を打ち込むのが当たり前になるようになってから、手書きで文章を書く機会が著しく減った。
思えば、1985年頃に家庭用のワープロが発売された時、電子機器音痴の私でもこれに飛びついた。
東芝の「ルポ」という製品を買った。当時の価格で10万円以上だったと思う。
きっかけは、ワープロが出る前までの日本語のタイプライターの印字に関心があったからだ。
印刷屋に頼まなくても、自分で操作して活字を打てるということが凄いな、と思ったのである。
しかし難しい字はときおり手書きされていることがあって、そこだけが違和感を感じた。
しかしワープロは簡単に活字を打てるし、登録されていない難しい漢字も作ることができる。
当時アルバイトとして熟講師をやっていたので、教材はこのワープロで作った。
1987年に就職したときは、勤め先の会社でやっとワープロ、それもワープロだけしかできない大きな筐体のものが導入されたばかりの頃だった。
今でいうパソコンは無かった。
この時代はまだ手書きが主流だった。
手書きが主流だったから、目にする文書を見て、人による筆跡の個性が多様で面白いと言えば面白く感じたものである。
人の筆跡とその人の性格の関連性というのは、或る程度はあるものだと思う。
工場時代に管理部門のある方の字が、みみずがくねったようなひどく崩れたものだったが、その方の性格もなんかずるくて意地悪なところがあった。
また同じく工場の製造部門の方に、ちょっとこういう字を書く人は他にいないのではないかと思うほど、力の入った、剛直かつ、先端が特徴的に跳ねるような個性的な字を書く人がいたが、その方の若い時は物凄く怖い人だった。

じゃ自分の書く字はどうなのか、というと、わりに几帳面な字ではないかと思う。
これには親父の影響がある。
小学3年生の頃だったけど、ある時、親父の字を初めて注目して見たことがあって、その字体がとても几帳面だったのだ。
それまでの私は、その頃の同年代の子供たちに比べて字は下手な方だった。
しかし親父の字を見て感心したのであった。
こういう字を書いてみたいな、と思って、それから親父の字をまねるようになったんですね。
親父は根っからの几帳面人間だったけど、私は親父に似ず、生来のずぼら人間だったから、性格はそのままで、字だけが几帳面になった、という感じかな。
その後、小学4年生の時に近所の習字教室に通うようになったが、この時の女性の先生がとても優しくて、出来上がりを持っていくと、いつも笑顔で褒めてくれたのだ。
それまで学校の先生に褒められるどころか、ダメな子供としてしか扱われていなかった私が、この体験で字に関してはすごく自信を持てるようになったんですね(昔の小学校低学年時代の通信簿を実家で見つけて見たことがあったが、先生のコメント欄に、積極性がなくて困るとか、やる気の見られないお子さんですね、とかひどいことが書かれていた。先生から絶賛されていた姉とは全く対照的)。
しかしこの体験がきっかけで、運動なども得意になっていった。

子供を褒める、ということは絶対に大切なことだ。
それも優しく、本心から褒めてあげることだ。
私は子供時代のこの体験から、これがこの年代にとって最も重要なことだと確信している。
大人になって生きづらい人生を送るはめになったとしても、小さいときにわずかでも、こういう体験があったならば、立ち直れる可能性が高い。
子供時代に褒められることなく、いつもお前はダメなやつだと言われ続けていると、間違いなくその子は、生涯、自分が本当にダメな人間で、人の迷惑になっている悪い人間なんだ、と現実と全く異なる想念に苛まれて人生を終えることになってしまうであろう。

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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(5)

2019-12-27 22:25:55 | 学問
次に、「②管理会計システムが正確な製品原価を提供していない」という著者の指摘について、もう少し考えてみたい。
正確な原価計算を達成できない要因として、固定費の配賦方法が単純、標準原価計算における原価差額の全てが最上位の製品にまで積み上がらない、組織間の政策的な目的による品目間の原価の付け替え、標準原価の恣意的な設定に伴う原価差額調整での歪、などの問題点をあげてきたが、それよりももっと大きな問題がある。
これは、生産管理システムが正確で詳細な原価情報を作成を可能にする体制になっていないということだ。
製品を構成する全品目が製番引当となるような製品ではなく、製番を持たない、同一仕様の見込生産品の場合、各工程、中間品毎の多階層の構成を持つBOM(Bills of materials、部品構成表)が無いか、あっても不完全(すなわち手配重視の構成)であったならば、正確な原価は計算出来ない。
しかしこれは原価計算が基幹システムに組み込まれている場合のことだ。
原価計算システムが基幹系システムに組み込まれていなかった時代、また完全な手計算だった時代に、見込生産品の原価を個々の品目ごとに正確に計算可能とする条件とは何か。
特定の製品の原価を積み上げ計算するためのキーとなるもの(製番、オーダー番号等)がなければ、その製品の原価をどのように計算したらよいのか。
1つの特定の製品を、この製品だけを生産する工程しかない場合、実際原価計算だとしたら、例えばA工程で生産される中間品の当月完成原価は、「月初仕掛品原価+当月投入原価-月末仕掛品原価」で計算されるであろう。
仕掛品原価をどのように計算するかがキーとなるが、いずれにしても月末仕掛品原価が決まれば上式で完成品原価が求まる。
そしてA工程の完成中間品がB工程、C工程へと振り替えられていき、最終製品にまで同様な計算が繰り返される。
製品の種類が少なく、1製品毎に専用の工程で区切られているのであれば、手計算で特定製品の原価は計算可能と思う。
しかしもし、同一工程で複数の製品、それも種類の異なる製品を生産するような場合、手計算で製品別の正確な計算がどこまでできるであろうか。
例えば、同一の機械加工工程において、4‘×8’サイズの定尺の鋼板をレーザー加工機を使って、X製品の加工部品αを30ケ、Y製品の加工部品βを70ケ、抜いた場合、X製品の部品αの消費実績とY製品の部品βの材料消費実績とそれぞれの機械時間実績を手作業でどこまで記録できるか、である。
このような事例の種類や頻度が膨大となった場合、人の作業ではもはや生産実績記録を整備することはコストが増大するため、厳密に行いえないのではないか。
実際の実務では、上例の場合、4‘×8’サイズの定尺の鋼板をX製品とY製品とに分けずに、この機械加工工程で1カ月、何枚消費したか、というとらまえかたしか出来ないのではないかと思う(膨大な人材を投入すれば可能かもしれないが)。
そしてこのグロスでの消費実績を、X製品に一括して記録したならば、この生産実績に基づく原価計算結果はどのような結果になるかは容易に想像できるであろう。
つまり、原価計算は理論上は、材料消費にしても、工数実績にしても、配賦率設定単位(工程)など、いくら細かいレベルの実績収集形態を採っていたとしても、ものづくりの実態どおりに正確に計算できるものなのである。
しかし、原価計算の理論に関係なく、1企業の採用している、生産管理の実務運用が、ものづくりの実態通りの実績を記録できる体制にまで整備されていなかった場合、原価計算はその目的を達成できない。
仮に原価計算の実務担当者をいくら増強してもそれは達成できない。
また逆に、生産管理の実務運用がものづくりの実態を正確に詳細に記録できるまでに整備されていたとした場合、原価計算を行う体制が、その生産実績記録をそのままのレベルで計算できるまでに整備されていなければ、正しく、かつ個々の品目や製番毎の原価は計算できないのである。
原価計算が誕生した19世紀後半から20世紀前半は製品数も生産数も少なく、また戦後の日本の高度経済成長時代にみられるような生産形態は小品種大量生産であり、1つの工場で数種類というレベルの製品を大量に生産していたような時代は、生産管理と原価計算がシステム化されていなくても、ある程度の正確な品目別原価計算が達成できていたと考えられるが、現代のように1カ月数千種類もの製品を生産・販売するような企業の場合は、基幹システムによる運用を実施しないと無理である。
現代の基幹システムによる生産管理や原価計算システムも、その構成要素は個々の膨大な実績収集、計算業務の積み重ねである。その構成要素や計算ロジックを分解していけば、手作業でも膨大な時間と労力をかければ実現可能と思う。
こう考えてみると、著者が指摘する問題点「②管理会計システムが正確な製品原価を提供していない」とは、原価計算の理論とは無関係であり、むしろ多品種少量生産など時代のニーズの変化に応じて、正確な製品原価を提供可能な生産管理及び原価計算システムの規模と精緻さを発展させていくことができなかったことにあるのではないかと思うのである。
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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(4)

2019-12-21 21:07:33 | 学問
前回からの続き。

【はじめに】
著者が読者に考察を要求することとして、「過去半世紀の間に管理会計システム上の革新がなぜほとんど起きなかったかの理由」があげられているが、その理由の一つの側面として次のようなことを考えてみた。
それは、管理会計という学問が長い間発展しなかった原因が、管理会計という学問の研究者が実際に実務を経験していないことにあるのではないか、ということだ。
大学には、管理会計のみならず経営に関する学問、例えば経営管理論、経営組織論等、種々の講義があるが、そこで学生に教えている先生や研究者の中には、企業から転身した方は別として、一度も経営という実務に携わった経験がないと思われる。
「経営」に関する学問は、他の学問と比べると根本的に異なる側面がある。
医学や科学、工学などの実践的学問分野は、研究者は医療や実験という実体験をすることで、研究成果を得られるし、文系でも例えば「文学」であれば、文学作品そのものを研究対象にすることで成果が得られるが、「実践」という側面が最も重視される「経営」に関する学問については、研究を行う身が研究対象である「経営」に対してそのような実体験を得る機会はごく稀である(企業から転身した人は別)。しかし経営学の研究が、「経営」という実務を全く経験せずして成果をあげられるのだろうか。「経営」という実務を経験したことのない人が、果たして「経営」を語れるのであろうか。これは今更ながら大きな疑問を感じる。

管理会計という学問分野は、理論的枠組みや研究対象が固定、限定されず、実務体験から得られたニーズや直面した課題を解決することを目的としているので、その解決手段、対象範囲は流動的で限定的、固定的ではない。
研究する側がまさに現場の第一線で、このような課題に直面するという体験なしに、あるいは研究者たちが積極的に現場の実態にアプローチすることなく、理論や手法等を発展させようと企図しても、おのずと限界を感じたり、研究者の独断による的外れな結果や机上の空論に終わる可能性があり、このことが長いこと、管理会計の発展の本質的な阻害要因になってきたのではないかと思うのである。
実際、1970年代に見られた隣接諸科学を採用した管理会計の領域拡張の動きにおいて、その実例をみることができる(これについていつか記事にしたい)。


本題に戻るが、何故、製品相互間で原価の付け替えを行うのか。
これは組織の評価と、従業員のモチベーションに関連していると思われる。
企業は全体としての利益を確保していても、常に黒字の製品だけを販売しているわけではなく、製品構成をみると黒字製品もあれば赤字製品もあり、その各々でも個々の製品の利益幅は様々である。
販売、生産組織を構築する基準としては、顧客別、製品群別(本体、地方拠点共)に分類されることが一般的である。
従って、顧客、製品群の採算性の相違により部門の業績に差異が生じることは避けられず、「数値」、しかも「利益」という単一の尺度で組織の評価がなされるならば、当然、有利、不利が生じる(それを回避するために対予算、対中計という評価体制ももちろんあるが)。
赤字製品をたくさん抱えている組織は、部門長の評価のみならず、組織の存続にかかわるため、不採算部門として注目されることを嫌うであろう。
そして実際は赤字だけれど見かけ上、数値の操作により利益が出ていることを望むことはありうる。
会社組織が横割り組織の場合、このような事態になったとしたら、どのような策がとられるであろうか。
この企業が標準原価計算制度を採用しており、「標準原価」の定義や運用ルールが厳密に規定されていない場合、標準原価が営業と工場間の「仕切り価格」として設定される可能性がある。
ここで「仕切り価格」とは一般的な業界用語とは異なり、企業の内部で使われる言葉である。
それは、実態を表す原価でも標準原価でもなく、組織間の政策的な交渉の結果設定され、組織の評価の手段となる原価のことを示し、「振替原価」とも呼ばれる。
「仕切り価格」あるいは「振替原価」は、組織間(一般的に営業部門と工場部門)の交渉の結果設定されるが、両者の思惑がからんだ政策的できわめて恣意的な設定がなされる。
すなわち営業部門は赤字でも、売価は競合があっての市場価格だから、これ以上上げるわけにいかず、利益が出ないのは工場側の責任であるとして、売価よりも低い金額で原価設定を要求する。
一方工場側は、あらゆる施策を投入しても現状の実力ではこれが限界であり、中・長期的な目標原価としての位置づけならまだしも、現状の業績を評価するための仕切りとしては実際原価よりも大きく下回るレベルで設定されることに全面的に賛同できないと考える。
そこで営業・工場間で互いに交渉して、一致点の見られた金額が仕切り価格として決定される。
そして速報収支や、個別製品の採算性などの報告が、この仕切り価格による原価で計算された結果で報告される。
この仕切り価格の設定根拠が知らされないまま利用されるリスクが生じる。
これは、営業・工場間だけでなく、事業部組織を採用している場合、ある事業本部が別の事業本部に生産品を提供して販売されるような形態の場合でも採用されるであろう。

「標準原価」の定義や運用ルールが厳密に規定されておらず、「仕切り価格」や「振替原価」といった原価を標準原価の代わりとして標準原価計算機構に組み込み、なおかつ、その標準原価計算機構の機能が簡素化、精緻さに欠けるということが重なったとき、製品群または品種、販売部門等で報告される収支は著しく実態からかけ離れた信ぴょう性に欠けるものとなる。
すなわち、政策的に歪められた標準原価を使用した場合、原価差額が多額に発生するが、その原価差額を、売上原価と棚卸資産への配分を全体一律で、また売上原価に配分された原価差額を品種等の売上高比率で配分というような、精緻さに欠ける差額調整処理を行ったならば、その結果として得られる品種や部門等の収支はもはや実態に即したものとは言えないレベルとなることは明白であろう。
赤字製品の仕切り価格を実際よりも大きく引き下げて設定された場合、その製品で発生した原価差額は原価差額調整のプロセスで分散し、更にこの製品と無関係の売上高比率の大きな製品で負担されることになるからである。
財務会計において実際原価計算制度ではなく、標準原価計算制度を採用している場合、しかもその標準原価計算機構(システム)が精緻さに欠ける場合、冒頭で指摘した「極度に単純かつ恣意的」な計算を提供するリスクが大きく、これは現代でも起こりうることだと思う。

このような原価計算の恣意的な歪を生じさせず、組織間の評価制度を達成させるために、仕切り価格を原価計算システムから切り離し、原価計算システムから得られる原価(実際原価または適正な標準原価)と仕切り価格との差額を計算し、組織間の業績評価に利用する運用方法もある。
それは原価計算システムの機構外において、仕切り価格を設定する。
仕切り価格の設定は前述のように組織間の合意の上であれば、組織の思惑を反映した政策的、恣意的なものであっても構わない。というか、仕切り価格はそのために設定するものである。
この場合、収支計算上、組織間の評価はどのように反映されるか。
横割り組織であれば、仕切り価格対象製品を販売する販売部門の収支表においては、対象製品の売上原価は仕切り価格で計上するが、売上原価の内訳項目に「振替差額」等の項目を設けて、仕切り価格と実際原価又は標準原価との差額を計上する。そして振替差額を加味する前段階の売上原価でもって一旦、社内業績評価上の利益を算出し、その次の段階で振替差額を含めた売上原価で実態に即した利益を算出する。
事業部制のような縦割り組織において、仕切り価格対象製品の販売事業本部と生産事業本部とが異なる場合は、販売側は収支表において売上原価を仕切り価格で計上し収支を計算し、生産側は仕切り価格と実際原価又は標準原価との差額を収支表上で「振替損益」等の収支項目で計上する。
以上の方法によると、財務会計に組み込まれた標準原価計算制度における原価差額調整計算による歪の影響を受けずに、組織間の思惑を満たしたうえでの利益と、実態に即した利益とが同時に分離されて計上することが可能となる。

また原価の付け替えというものでは無いが、一部の原価を、例えば間接部門費などの固定費を個別製品に配賦せず、製品群単位で計上したり、個別製品との関連性の薄い工場発生費用を製造原価外の費用へ振り替えることにより、見かけ上製品原価を低く計算するような恣意的な計算方法もある。
いずれにしても原価計算の精度は、組織の評価との関わりの中で政策的、恣意的にゆがめられる可能性をはらんでいる。

(この続きは次回にします)
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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(3)

2019-12-13 21:26:53 | 学問
【はじめに】

この著作についての考察メモを投稿して3回目。
ページはなかなか進んでいかない。
しかし1文、1文の意味をじっくり考えながら読み進めることは時間はかかるが、文字を追うだけで素通りするような読み方で完読するよりもずっと、ためになるし意外にも楽しい。
昔の若い人は哲学書などの難解な書物を常に持ち歩いて読んだという。
学生時代にマックス・ウェーバーの「理解社会学のカテゴリー」という本をレポートを書く課題のために読んだことがあるが、非常に難解で、わずか2、3行読むにも歯が立たず、苦痛を感じながら読み進めていった記憶がある。
しかし大雪に埋まりながら、漕ぐように歩き進んだり、山登りで荒い呼吸と共に歩くのと同じような感覚で、完了したときにはきっと何か大きな達成感を感じるのではないかと期待している。

【考察】

(前回からの続き)

「品群配賦」とは、間接部門費を直接部門へ1次配賦するのではなく、設定した複数の「製品群」に対する間接部門の「業務提供割合」、「業務関連割合」などの基準でもって各製品群へ1次配賦し、1次配賦された間接部門費を、製品群を構成する各品目の製造原価などの基準で2次配賦する手法である。
要するに部門を経由して製品に配賦するのではなく、「品群」を経由して配賦する方法である。
この配賦方法の利点の一つは、間接部門の業務と製品との連関性を伝統的な直接部門への配賦方法よりも高めることができることである。
間接部門の業務が、直接部門という「部門」に対する連関性が強いのか、部門ではなく「製品群」に対する連関性の方が強いのか。
それは間接部門が持つ業務の性格によるだろうが、生産管理、品質保証といった部門の業務は、部門よりも「製品群」の方が結び付きが強いのではないだろうか。
資材購買部門は、製品群別に担当を置く場合と、部材の種類別に担当を置く場合とがあるが、製品群別に担当を置くのであれば、製品群に対する業務関連度が強いと言える。
一方、業務管理部門(工場内の総務、営繕などの業務を行う部門)は、製品群に対するサービスの提供というより、部門に対してのサービスという関連性の方が強いと考えられる(業務管理部門は厳密には直接部門だけではなく、他の間接部門にもサービスを提供しているので、部門配賦の場合、直接部門のみならず他の間接部門にも配賦する考え方もあるが、この場合、間接部門費の製品への配賦は3段階の配賦となり、やや煩雑となる)。
生産管理、品質管理、資材購買などの現業系間接部門の費用は品群配賦、業務管理部門のような純間接的な業務を担う間接部門の費用は部門配賦と、部門により異なる配賦方法を選択することも実務的には可能であろうが、配賦率の設定が煩雑となり、基幹システム上でいったんマスタ設定し、自動計算させるのであれば最初の計算だけ負荷がかかるが、基幹システムを離れて、見積業務や机上のシミュレーション計算を行う際にはかなり不便を感じるであろう。
従って、全ての部門について実態に即したベストな配賦方法、配賦基準を満たした配賦計算を採用することはなかなか現実には難しく、実務上の負荷とのバランスを図って決定される必要がある。
品群配賦の2つ目のメリットは、直接部門に間接部門費が配賦されないことにより、直接部門のレートが、直接部門自身の費用に限定してレートを計算することが出来る、ということにある。
すなわち直接部門のレートに自部門以外の間接部門の費用が混在しないことにより、直接部門自体の操業の変動を、例えば対予算、対前月比等により測定、評価できるのである。
部門配賦においても、直接部門分と間接部門分とに分解して、配賦基準が直接工数であれば、それぞれの1H当りのレートを算出することは可能となるが、予算レートにしても実際レートにしても管理目的のために両者を分けてレートを出し直すことは手間となる。
次に間接部門費の2次配賦における配賦基準であるが、品群配賦を行う場合、品群を構成する品目の直接工数よりも、品目の製造原価(間接部門費配賦前)で配賦を行うことは、直接工数の発生しない品目に対する配賦を可能とすることで、配賦の偏りを回避し、原価計算の適正化に貢献する。
直接工数の発生しない製品にはどのようなものがあるか。例えば、過去に納入した製品について、顧客側で品質を確保可能であることを前提に、顧客で実施する修理作業に必要な補修部品の提供、顧客の仕様、設計で製作する製品の金型で、金型自体は製作の委託を受けたメーカーが使用して製品を製作するが、金型の所有権は顧客持ちとするために、金型を売上するようなケースである。
このような場合であっても、生産管理、資材購買、品質保証などの間接部門は、E-BOMの作成や工程表作成、手配、発注、検収、受入検査等の業務を行うため、これらの間接部門費が全く配賦されない配賦方法(工数配賦など)は、正しい製造実態を表さない原価計算方法と言える。
ただし間接部門費の配賦は、直接部門費の配賦に比べ、配賦対象に対し、高い関連性を確保できる配賦方法を選択することは、事務作業のボリュームとの兼ね合いでかなり困難であると言える。
著者はこの本の後半で活動基準による間接費配賦方法を提唱しているようだが、これをどの程度実務で実現できるかは疑問だ。
間接費の製品に対する関連性を極力実態に即したものにするために、膨大で、煩雑な計算量、事務作業量を必要とした場合、原価計算や予算編成の遅延につながり、予算実績進捗管理上も不都合が生じると思われる。
勤め先で経験した日本最大手のベンダー2社に、この活動基準原価計算を採用している会社の実績があるか問い合わせしたことがあるが、2社とも過去に採用された事例は皆無とのことであった。

次に著者が言う指摘「極度の恣意的」とはどういうことだろうか。
著者は著作の中でその事例として「製品相互間で巨額な原価の内部補助(付け替え)をしていることになってしまうのが通常である」としているが、これは具体的にどういうことなのか。
著者はそれ以上のことは説明していないが、恐らく次のようなことであると思われる。
それは、企業の中で採算の良い製品と悪い製品があった場合、悪い製品の採算性を見かけ上良く見せることを目的に、製番間、品目間の原価振替を行う、あるいは間接部門費の配賦基準値に意図的な係数をセットとして、配賦結果が意図したとおりとなるように配賦マスタを設定するなどの手段をとることである。

(この続きは次回)
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