緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

感動した合唱曲(NHK全国学校音楽コンクール:Nコン(11)

2014-05-31 23:33:06 | 合唱
このところ日中は真夏のような暑さだ。暑さに弱い私は仕事の疲れもあるのかパワーが落ちている。
しかし精神的には充実している。ピアノやギターや合唱曲が支えてくれているからだ。
最近も1日に何十回も繰り返し聴いてしまう合唱曲に出会えた。気に入った曲や演奏はもうとことん聴いてしまいます。
合唱曲を本格的に聴くようになって3年になろうか。合唱曲といっても高校生の演奏しか聴かない。
何故高校生の合唱なのか自分でもよく分からないが、とにかく聴くのが好きだ。
これまでNコンや全日本合唱コンクールの演奏をたくさん聴いてきた。
Nコンは過去3年間の演奏はホームページで聴けるが、それよりも古い年度の演奏は聴くことができない。
全国大会の録音はフォンテックから出ているが、平成20年以前のものは廃盤である。
結構まめに探して苦労して平成14年度を除く平成13年度までのCDを集めてきた。
今日紹介するのは平成15年度(第70回)Nコン全国大会高等学校の部の課題曲、「あしたはどこから」、作詞:平峯千晶、作曲:三枝成彰である。
まず詩を読んでみる。
鋭い感性を感じる。人の借り物ではない、自分自身の真の気持ちから発せられた強いメッセージだと思う。
人生には人にもよるが、暗く、長い闇のトンネルをさまよい続けることがある。
地獄のように苦しくて苦しくても生きること選択した。しかし自分にあるだけの渾身の力を振り絞っても、答えは出てこない。もがき苦しんでもトンネルの先に光は見えない。あしたがくる、という感覚がない。時間が過ぎていくという感覚がない。
眠りのない夜が永遠に続くように感じる。世界で自分がたった独りぼっちという苦しさ。
この詩の作者は実際にこのような体験をしたのであろうか。
闇のトンネルの先にわずかな光が見え始めた。答えは意外なところにあった。
人は自然に逆らうことはできない。自らの自然に従って生きればよいのだ。自分本来の自然に従えば、おのずと周囲も自然に調和する。
トンネルの出口に来た時、自分の周囲の視界が広くなったことに気付く。自分の周囲半径50cmしか視界が届かなかった自分が、もっと遠くのものを見渡すことができることを実感する。
私はかつての自分の体験からこの詩をこのように解釈してみたが、とても重要なメッセージを持った素晴らしい詩だと思う。
さて、演奏を聴いてもっとも感動したのは、東北ブロック代表、福島県立橘高等学校である(女声4部)。
この詩のメッセージや気持ちを強く感じさせる演奏だ。とくに後半、長調に転調してからの演奏が凄い。
ソプラノとアルトの掛け合いのフレーズが現れるが、このアルトの歌声が素晴らしい。
「春の声が」から最後まで続くエネルギーは自然であり、無心そのものだ。
統一された均一な美しい歌声で歌うには、感情エネルギーを抑制しなければならないように感じる。でもこの高校の歌い方は心の底の感情を表現することを重視していると思う。このような歌い方が最も困難で努力を要するものなのだと思う。
コンクールである以上、トップを目指すことも強いモチベーションにつながり、その効用は否定できない。
しかし私は、すべての野心的なものから解放された、真に音楽の素晴らしさを伝えることに全力を注いでいる演奏に最も心打たれる。
このような演奏は時が過ぎ去っても、価値を失うことなく、埋没することなく、決して多くの人たちに対してではないかもしれないが、演奏に出会った人々に必ず喜びをもたらすものであると確信する。



【追記(20150822)】

この福島県立橘高等学校のNコン全国大会でのライブ映像を偶然Youtubeで見つけました。
やはり想像していたとおりの高校でした。
久しぶりに改めて聴きましたが、とても感動しました。素晴らしい演奏です。
この学校の指揮者は、今、郡山高等学校の指揮をしておられるのですね。


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リスト ピアノソナタロ短調 を聴く (序)

2014-05-24 23:47:34 | ピアノ
今日は朝から夜遅くまで仕事であった。ちょと面倒な仕事でこのところ休みつぶれることが多かったが、今日でピークは過ぎ、少し気持ちが和らいだ。
仕事が忙しいと好きなことが出来なくなるが、そこは我慢だ。働いて稼ぎを得ないと欲しいCDやレコードも買えないわけだし、逆に時間を無駄にしなくなるので、かえっていいのかもしれない。
このところリストのピアノソナタロ短調を聴いている。切れ目のない1楽章のソナタで演奏時間は30分にも及ぶが、素晴らしい曲だと思う。何十年もの年月にわたる人生ドラマを感じさせてくれる曲だ。
一人の人生のプロセスにおける、平和と混乱、不幸のどん底と幸福の絶頂、あこがれと失望、逃避と渇望、苦痛と快楽、平安と死に対する恐怖、など、人間心理における2つの対立した感情の葛藤と統合。これらの様々な感情が交錯しながら人生を歩んでいく人間の様と、歩んできた人生に対する回想を見事に表現した曲なのではないかと思う。
この曲を本格的に聴くようになってから1か月足らずであるが、心に刻み込まれたフレーズが折に触れて何度も浮かんでくる。
この曲の演奏をいくつか聴いてみたが、意外に録音している人が少ない。まずとてもつもなく体力、気力を要する曲だ。この曲を編集録音などしないで、通しで弾ける人が一体何人いるであろうか。全力で全て弾き切った後では体重が何キロも減るのではないか。マラソンを何十キロ走り続けるのと同じであろう。生半可な取り組みでは決して人前では弾けない。
それに強い音の出せる人でないと話にならない。軽いタッチでは弾けない曲なのだ。軽いタッチで綺麗に弾いたらとても聴いていられない。人間の根源的な素の部分をあからさまに吐き出すかのようなエネルギーが伝わってこないととても聴いていられない。紳士、淑女ぶって弾くような曲ではない。
そういうエネルギーをこれまでの人生体験から既に得ていて、余すことなくストレートに表現できる演奏家がこの曲の真価を聴き手に伝えられるのではないかと思う。
この曲のことを本当にわかるにはまだ時間が必要だが、何度聴いても新たな発見がある。。
何か月後になるかわからないが、いつかきっとこの曲の聴き比べの結果を紹介したい。
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リスト作曲 3つの演奏会用練習曲より「ため息」を聴く

2014-05-18 22:08:36 | ピアノ
こんにちは。
今日はよく晴れて乾燥した気持ちのいい1日だった。
昨日は1日仕事だったので、今日はゆっくりと家で過ごした。部屋の湿気が抜けるとギターの鳴りも良くなる。
楽器の音をベストコンディションにするためには、湿度は重要な要素だと改めて思った。
さて先週に引き続き、今日も素晴らしいピアノ曲に出会った。
ピアノ曲は素晴らしい曲が無限のようにあると感じてしまう。そして演奏家もそうだ。故人となり忘れ去られた演奏家でも、時にものすごい演奏に出会うことがある。
このような出会いもまた楽しい。
今日出会った曲はフランツ・リストの曲である。リストは誰もが知っているとおり、ショパンと並ぶ偉大なピアニスト兼・作曲家である。
リストはショパンより1歳遅れで生まれており(1811年)、シューマンやメンデルスゾーンとほぼ同じ時期に生まれている。ロマン派の最盛期に生きた作曲家である。
私はリストは今まで聴かず嫌いというのか、華やかで技巧に偏った音楽というイメージを持っていたので、リストのピアノ曲は殆ど聴いてこなかった。
1年半くらい前であろうか。キューバ出身でリスト弾きとして有名なホルヘ・ボレットのカーネギー・ホールでのライブ録音を聴いて、リストに関心をもつようになり、ボレットのリスト全集も買ったが、ほとんど聴かず終わってしまっていた。
しかし、去年の12月に東京文化会館音楽資料室で聴かせてもらったマリヤ・グリンベルクの演奏する、「ピアノソナタ・ロ短調」に驚愕し、それ以来、このピアノソナタロ短調の聴き比べをするようになってしまった。
このピアノソナタロ短調はリストの最高傑作であり、ピアノ曲ではベートーヴェンのピアノソナタ第32番と双璧をなす素晴らしい曲である。
このピアノソナタロ短調は意外に録音が少ない。何故少ないか考えてみたが、一楽章のソナタともいえる長大な曲で演奏時間は30分近くを要し、ノンストップでこの曲を弾き切れる奏者は限定されるからだと思う。
この曲は編集録音で継ぎ接ぎでもしたら、価値が下がると思う。多少破たんがあってもいいから、一発録りでないとこの曲の真価は理解できない。
今日聴いたリストの曲は、「3つの演奏会用練習曲」(S144)より、「ため息」である。
演奏者はハンガリーの女流ピアニストのアニー・フィッシャー(1914~1995)で、1961年のライブ録音。



ピアノに詳しい方ならご存知でしょうが、フィッシャーはベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音したが、本人が発売を許可せずお蔵入りとなっていたという話がある。この録音は彼女の死後発売されたようだが、中古でもなかなか出てこない。数枚手に入れてあるが、女性とは思えない、力強い演奏をするピアニストだ。
1961年のイギリス・エジンバラでのライブ録音での「ため息」は、ミスタッチによる破綻が多少あるが、そんなミスは全然関係ないくらい大きな演奏である。何が大きいかと言えば、スケールの大きさではなく、精神や感情の強さ、感情の自然な流れが大きいのである。
具体的には実際に聴いてみないとわからないが、聴いていて脳が覚醒してきて、心の内側から力が沸き起こってくるのが分かる。生きる気力を失った時、この曲、この演奏を聴いたとしたら、救われるのでなないか。大げさではなく本当にそう思う。そのくらい大きな力を持った感情の流れが伝わってくる。
「ため息」と題するこの曲。リストはこの曲を作った時、何を見、何を聴いて、何を体験して、感じたのでのあろうか。
リストという人は並外れた感受性と音楽表現力を持った作曲家だと思う。人生でこれだけ強い感情を感じることは稀であろう。リストという人物がどんな人生を送ったのか興味のあるところである。
リストが決して技巧に偏って曲を作ったわけではないことがこのアニー・フィッシャーのライブ録音を聴けば分かる。リストは自分の中に抑えきれないほどの強い感情を持っていたと思う。そしてその強い感情を音にする必然性から、独特の演奏技法を取るに至ったのではないか。技法が先ではなく後である。感じたことの表現の必然的な結果である。
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フォーレ 月の光 を聴く

2014-05-11 22:04:53 | ピアノ
こんにちは。
夜でも部屋の中は少し暑さを感じるくらいの季節がやってきた。
今日、部屋の中で段積みされているCDの中から、10年くらい前に買って、しばらく聴いていなかったCDが出てきた。



ガブリエル・フォーレのピアノ曲の演奏で知られている女流ピアニスト、エンマ・ボワネ(1891~1974)の録音だった。このCDの曲目の中に「月の光 Op.46-2」という曲があったのだが、フォーレのピアノ曲にこんな名前の曲はないはずなので、ジャケットの解説を読むと、フォーレの歌曲であることがわかった。
手持ちの歌曲のCDの中にこの曲がなかったため確認できないが、ピアノ伴奏部をそのまま弾いているのであろうか。しかし聴いてみると独奏曲そのものだ。しかも美しい抒情を湛えた、とてもいい曲だ。
この曲を聴くとフォーレのピアノ曲は短いながらも、さまざまな感情や情景の変化がたくさん凝縮されていることがわかる。同じフランスのピアノ曲でもドビュッシーやラベルが対象を外に向けているのに対し、フォーレは内面に向かっている。
フォーレのピアノ曲は、巨匠と呼ばれるピアニストは殆ど取り上げていない。フォーレと親交のあったコルトーも膨大な録音の中にフォーレのピアノ独奏曲はわずかである。
フォーレのピアノ曲の中には一般受けしないものがある。特に後期の夜想曲などがそうだ。暗く陰鬱で、ひたすら内側の孤独な領域に気持ちが向かっている。しかしフォーレは聴衆に迎合するような作曲をしなかった。
ここがフォーレの素晴らしいところだと思う。
フォーレの生きた時代も20世紀に入ると、音楽はどんどん速いテンポで新しい試みがなされていったが、どんなに周りがそのような流れに勢いづいていようとも、フォーレは自分独自の音楽を通すことに集中した。強い信念だと思う。だからフォーレの後期の曲は一般受けしないけれど、深い聴きごたえがあるのだ。それはドビュッシーやラベルの比ではない。
この月の光はフォーレの40代前半の曲で、初期から中期にかけてに作曲された曲であるから、まだ親しみやすい方である。
スペインの作曲家、フェデリコ・モンポウ(1893~1987)は、フォーレのピアノ五重奏曲Op.89をフォーレ自身が演奏するのを聴いて作曲家を志したと言われている。
モンポウは彼独自の独特な個性あるピアノ曲をたくさん残したが、モンポウがフォーレのピアノ曲に強い影響を受けたことは間違いないと思う。フォーレもモンポウもピアノ曲でソナタのような大作は殆どなく、短い曲ばかりであるが、曲数は多いうえに、外側に見えるものの印象を主題とするよりも、内面の自らの心情に向かった曲づくりに共通性を見出すことができる。
フォーレのピアノ曲を取り上げた演奏家として有名なのは、ジャン・ドワイアン、ジャン・フィリップ・コラール、ジャン・ユボー、ジェルメーヌ・ティッサン・ヴァランタンの4人が有名であるが、いずれもフランスのピアニストである。
今回聴いた エンマ・ボワネはフォーレから直接指導を受けるなど、フォーレ直系のピアニストであるが、録音が少ない。SP時代の録音で復刻されたのは、今回のCD(舟歌第1番~第6番を含む)のほか、夜想曲第1番~第7番のCDしか知らない。



ボワネが舟歌や夜想曲の後期の作品を録音したかどうかは不明だが、もしかするとあまり取り上げなかったのかもしれない。だとすると少し残念だ。
ボワネの他にイヴリン・クロシェというフランスの女流ピアニストもフォーレのピアノ作品集を残したが、なかなかの演奏であり最近注目している。
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室井摩耶子 ベートーヴェン ピアノソナタ を聴く

2014-05-03 23:26:03 | ピアノ
コールデンウィークも残りあと半分になった。明日は本来休みであるが午後から仕事だ。
今日は日中は真夏に近い暑さだった。車でクーラーを入れるもののリレースイッチがいかれているのか、ついたりつかなかったりだ。暇を見て修理しなければ。
一昨日、御茶ノ水の中古CDショップで古いLPレコードが500円以下で大量のダンボールに入れられているのを見て、疲労、苦痛と戦いながら1枚1枚何かいいレコードがないかと探しまくった。
その中で見つけたのが、室井摩耶子という女流ピアニストが録音した ベートーヴェンのピアノソナタ第32番と第27番、6つの変奏曲Op.34のレコードだった。



初めて見るピアニストの名前であった。
家に帰って早速聴いてみた。第32番の最初の和音の響きはよく引き出していると思った。炸裂するようなパワーはないが、ピアノの音が多彩で繊細なのだ。日本人演奏家でピアノの音の魅力を引き出している人は園田高弘の他は殆どいないと思っていたが、室井氏の演奏からまぎれもなくピアノらしい、ピアノそのものが持つ音の魅力が伝わってくる。
第2楽章はより繊細であり、エネルギッシュであり、神秘的であり、ベートーヴェンの心情に深く迫った演奏だと感じた。この第32番の解釈は本質を突いていると思う。とくに第2楽章はそう思う。
ベートーヴェンのピアノソナタのこの32番は数多くの演奏を聴いてきた。中には軽いタッチで流麗な演奏ではあるが、音がモノトーン、ピンピン、ペンペンとした音しか聴こえず、右から左へとただ通り過ぎていくだけで、聴き終わった後しばらくしてはたしてどんな演奏だっただろうと、思い出せない演奏もあることは事実である。スッキリとしていてテクニックもあるが、肝心のピアノの音の魅力が全然伝わってこない。これはとてももったいないことだ。ピアノの音というのは実に多層的で、多種多様な音が聴こえてくる楽器なのだ。
こういう楽器特有の魅力に気付かずに均一で軽快な演奏を求めている演奏家は多い。とくにここ20、30年の間に演奏スタイルが変わったのではないかと思う。クラシックギターも同じだ。現在のギタリストで音の魅力を引き出している人を探し出すのは難しい。
変わったというと録音方法もである。この室井摩耶子のレコードは1979年の録音(58歳)であるが、録音場所は船橋市民文化センターとの記録がジャケットに記載されていた。おそらく地域の住民が利用するホールでの録音だと思われるが、実にいい録音なのだ。何がいいかというと生の音が忠実に再現されているからだ。ホールでのピアノの音が何の加工もされず、その場に響いていた音をそのままに録音されている。全く自然な音だ。この録音を聴くと、録音はホールの良し悪しではなくて、録音技術で決まるといっても過言ではないと感じる。
1970年代まではこういう録音方法に技術者たちはしのぎを削っていたのではないかと思う。この録音は私にとっては理想である。
それに比べて近年の録音は自然さが失われている。録音した音を後で電気処理、加工処理しているからだ。注意深く聴くとそれがわかる。心地良い響きになるよう調整されている。しかし本当の生の音は完全に失われている。なぜこのような小細工をするようになったのか。多分、楽器特有の音の魅力を引き出せるようなタッチが出来なくなった、演奏者の感情エネルギーがもともと希薄で、生の音だと無表情で聴いていられないから、味付けが必要とされるからではないか。つまり生の音で勝負しようする信念が薄れ、増幅装置に頼ってしまうようになってしまったからではないか。
このような電気処理はyoutubeなどの録音で顕著である。貧弱な音でも加工の技術でそれなりに聴こえが良くなる。音の傷が目立ちにくい。
話が横道に反れたが、このレコードのもう一つのピアノソナタである第27番は素晴らしい演奏だ。私は以前ブログで、ベートーヴェンのピアノソナタの名盤紹介で第27番を取り上げ、最も感動した録音をいくつか紹介したが、この後で聴いた室井氏のこの第27番はそれらの演奏よりももっと聴きごたえがあった。音の魅力もさることながら、ベートーヴェンの気持ちが本当に伝わってくるような演奏だ。こんな演奏、なかなかない。埋もれたままにしておくのは絶対にもったいない。
第1楽章途中で、フレーズの切り替えの表現が難しい箇所が出てくるが、彼女のこの部分の演奏は見事だ。
室井氏の演奏は、音や感情を重視するけれど決してくどい演奏なしない。そこが凄いところだし、このレコードをこれから何度も聴きたくなる理由なのだ。
偶然の発見であったが、また一人素晴らしい演奏家を知ることができた。

【室井摩耶子さんについて】
1921年生まれ。1941年東京音楽学校(現・東京芸大)を首席で卒業。
1956年、モーツァルト「生誕200年記念祭」に日本代表としてウィーンに派遣される。ベルリン音楽大学に留学。ベルリンを拠点に、ハウザー教授、ロロフ教授、ケンプ教授に師事し研鑽を積む。
ドイツで出版の『世界150人のピアニスト』として紹介される。
(以上Wikipediaより抜粋)
80歳を超えてもコンサートをするなど活躍されているとのこと。
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