緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

田中希代子演奏 モーツァルト「ピアノソナタ第12番ヘ長調K.332」を聴く

2014-09-26 23:17:17 | ピアノ
今日はいつもより早く帰宅できた。といっても9時過ぎである。好きな音楽を聴こうと思ったら毎日受験生並の睡眠時間となってしまう。
しかし明日、あさってはは久しぶりに連休だ。存分に休みたい。
金木犀の甘い香りがただよういい季節になってきた。今日は天気がすこぶる良く、こんな日は仕事を休んで、海辺か森の中の静かなところで何もせずにボーと過ごせたらいいなと思った。
今日普段めったに聴かないモーツァルトのピアノ曲を聴いた。 ピアノソナタ第12番ヘ長調K.332だ。
演奏者は田中希代子(1932~1996)。
田中希代子は日本人としては初めてショパン・コンクールに入賞したピアニストとして知られており、ロン・ティボーやジュネーブの国際コンクールにも入賞歴がある。
作曲家の宍戸睦郎氏(ギター曲では名曲「ギターのためのプレリュードとトッカータ」がある)と結婚していたとのことだ。弟はあのヴァイオリンで有名な故・田中千香士氏で、彼は数年前まで東京国際ギターコンクールの審査員を務めていた。
モーツァルトの曲はもともと自分の感性に合わないので殆ど聴かないのであるが、モーツァルトのピアノ曲で強く印象に残っているのは1年ほど前に聴いたマリヤ・グリンベルクの弾く「幻想曲ハ短調K.396」である。
以前紹介したことがあったが、素晴らしい演奏である。
今日聴いた田中希代子の弾くピアノソナタ第12番ヘ長調K.332も実に素晴らしかった。モーツァルトのピアノソナタは今年の正月休みにペルルミュテールの演奏で全曲聴いたのであるが、この12番の印象は全く残っていない。しかし田中希代子の演奏は初めて聴いた時から強く私の心に残った。そして繰り返し聴きたい気持ちにさせてくれた。
芯のあるしっかりしたタッチである。本当にピアノらしい音がする。このタッチによる音はギター演奏にも大きな示唆を与えてくれる。特に第3楽章の音などは数多く聴いてきたピアノの音の中でも最も楽器の良さを引き出したものだと思う。
こういう音ってどうしたら出てくるのだろう。ただ強く弾くだけでは出せない。何か違う力が働いているのに違いない。きっと感情が持つエネルギー、「気」というものなのかもしれないが、そういうエネルギーが楽器が出す物理的な音に力を加えているんだと思う。そしてそういう音を生みだす奏者が、ピアノの音で、最高の音が何であるか本能的に知っているのではないか。
同じ曲でも奏者により全く心に残らなかったり、たった1回でも強く心に残る演奏がある。
その違いは今まで何度も書いてきたのでここでは言わないことにする。
田中希代子は30歳代後半に膠原病を発病し、以来演奏活動をすることが出来なくった。これだけの高い実力、音楽性をもっていたのに、とても不運な運命であった。外国のピアニストではソロモン・カットナーも同様だが、彼の場合は50歳代半ばであった。
しかしピアニストは実に隠れた実力者がいるものであることを痛感する。マスコミや評論家などから多数紹介や評論されているピアニストだけが凄いとは全然言えない。
ピアノ音楽って、素晴らしい演奏や曲が地中のあちこちに眠っているんだと思う。

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リスト「ピアノソナタロ短調」の名盤

2014-09-21 21:17:01 | ピアノ
今日の日中は久しぶりの暑さが戻ってきた。しかし部屋の中は窓を閉めていても暑くはない。もう本格的な秋に入ろうとしている。
久しぶりにピアノ音楽のことを書くことにした。
ピアノの話題から遠ざかっていたが、ピアノ曲を聴いていなかったわけではなく、現在聴き比べをしている曲の演奏時間が約30分と長いため、感動する演奏を選び出すのに時間を要したからである。
このピアノ曲とはフランツ・リストの傑作「ピアノソナタ ロ短調」である。



数か月前のブログでこの曲のことをわずかに触れたが、ここにきて聴き比べした演奏がかなりの数にのぼったので、感動に値する名演を自分なりに選び出し、紹介することにした。
リストのピアノソナタロ短調を初めて聴いたのは、手元のメモ帖の記録では2013年12月14日となっている。上野の東京文化会館音楽資料室である女流ピアニストの録音を聴いたのが恐らく初めてではないかと思う。それよりも前にもしかすると、ハンガリー出身のピアニスト、ゲザ・アンダのものを聴いているかもしれないが、はっきりとした記憶がない。
いずれにしてもこの東京文化会館音楽資料室で聴かせてもらったCDの演奏に大きな衝撃を受けた。それ以来、この曲の最高の演奏を求めて今日までの間、何人もの演奏を時間を許す限り聴いてきた。
このピアノソナタは作曲者がこれまでの人生で体験し味わった様々な感情の変遷を辿り、表現したものだと感じた。恐れと平安、幸福感と絶望感、無念さと喜び、弱さと強さ、むなしさと躍動、無情と優しさ、虚構と真実、脚光と挫折、といった対立する感情が何度も交錯する。そして種々の対立感情が時系列で織りなすように互いに連関しながら描写され、最後に統合されていく過程、すなわち一人の人間の長い人生の過程で否応なしに味わった体験を表現したものではないかと感じる。つまりこの曲は「人間」という様々な感情を持つ存在をテーマとして、作曲者が実際に味わった体験をもとに描いたものではないかと思うのである。
このピアノソナタは一楽章形式を取る。何故複数の楽章に分けなかったのか。ソナタを複数の楽章に分ける場合、各楽章の曲想、形式はかなり異なるものになるのが普通である。しかしあえて一楽章にしたのは、上記の人生行路での様々な体験から味わった感情の変遷をひとつのストーリーのように表したかったからではないかと思う。
曲の出だしは、静かな2つの和音で始まる。そしてやや暗い不気味な響きを漂わせながら和音が下降していく。次にこの音型が再び繰り返されるが、最初の響きよりもさらに何か不安なものを暗示させる。



この音型は終結部直前まで、何度か現れる。つまりこの音型が作者のこの曲に込めた気持ちを最も強く集約していると思われる。
Allegro energisoに移り、一転激しく強い曲想に変化するが、この部分から次第にクレッシェンドして、フォルティシモに至るまでの弾き方でこの曲を本当に表現できる技量を持っているかどうかの分け目となるように感じる。



この部分をどんなに強く弾いても、ちゃちにしか聴こえない演奏が多い。物凄く強く鍵盤を叩いているのだけど、ピシャンといった軽い音で、凄みがないのである。この部分の低音はドスの効いた深い地の底から響いてくるような音でなければ聴くに堪えない。
軽い音は近年のピアニストの演奏に多い傾向だが、速いスピードで弾けるように鍵盤を軽く調整しているのであろうか。やたら指は回るけど、音が貧弱な奏者が多いのも気になった。
流れるようなアルペジオの後にアクセントの付いた強いユニゾンの繰り返しが現れるが、ここは指や腕の強さではなく、感情エネルギーの強さがないと十分に表現できない。



Grandiosoに移り、人生の絶頂感、華やかさを表すような力強い和音が連続するが、直後にわずかであるが翳りを垣間見せるフレーズが現れる。そしてすぐにロマンティックな甘美な旋律に移る。





人生の青春期で感じるであろう幸福感に満ちたメロディだ。しかし感傷的でもあり悩みがあることも感じられる。その甘美な表現はすぐに終わりまた翳りのようなフレーズに変わり、再度この感傷的な旋律が繰り返される。
そして美しいトリルの連続から流れるような下降、上昇音階を経て激しい、躍動するような、人生で最も充実した幸福感に向けて階段を駆け上がるようなフレーズが現れる。





この部分が、この曲の第一のキーとなる箇所だと思う。しかしこの激しく上昇するような幸福感の絶頂もすぐに綻びを感じさせるような不安、落ち目、堕落といったものに移り変わっていく。
そしてRecltativoの直前から絶望感を表現したような強い和音が打たれ、Recltativoでは聴く者に悲壮感を感じるさせるような暗いどん底にいるような曲想になる。どこまでもどこまでも地の底まで落ちていくような。



しかしこの後に、何か苦しい体験を乗り越えた時に感じるであろう、平安な気持ち、穏やかな気持ちを感じる部分に移る。そして同時に幸福感から一転どん底まで転落した時に味わった体験からくるであろう、苦しい叫びが聴こえてくる。この苦しい感情からくる葛藤との戦いの後に得られるような、非常に強い、脳を覚醒させるような、気持ちが奮い立つような、この曲の第二のキーとなる部分が現れる。この部分が作曲者の最も強い感情エネルギーが伝わる部分でもある。



恐らく人生における天国と地獄の両方を味わってきた者が達するであろう心境を表現したのではないか。少々極端な解釈かもしれないが、すくなくとも私にはそのように感じられたのである。
Allegro energisoに入り、リズムや音量が徐々に激しさを増してくる。何かに追われるような激しさだ。しかし前に出てきたような不安さ、絶望感を予感させるものではない。そしてこの激しいフレーズは長くは続かず、幸福感を感じていた時のような感情に変わる。あの冒頭のロマンティックな甘美な旋律が再現される。しかし前半部と違うのは翳りや絶望につながるような曲想に変化するのではなく、その代わりに強く前進するような非常に強い前向きな感情に移り変わっていくことである。前半部と後半部の、この心情の変化が重要なポイントである。
そして下記のフレーズによって、苦しかった時代の気持ちを再現し、感傷的になるものの、2度と転落することのない強く穏やかな気持ちを表現しながら、冒頭のフレーズを再現し、最後は静かな和音で終わる。



まさに人生体験の移り変わりとそれに伴う感情の変遷、真の幸福感に達するまでの道のりを表現したものである。

さて随分長々と言いたいことを書いてしまったが、これまでにこの曲を聴いた録音は下記となる。

アルフレッド・コルトー(1929年、スタジオ録音)
スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音、アメリカ)
スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音、モスクワ?)
スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音、場所不明)※
スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音、アメリカ)
エミール・ギレリス(1964年、スタジオ録音)
マリヤ・グリンベルク(1952年、スタジオ録音)
クリフォード・カーゾン(1963年、スタジオ録音)
マルタ・アルゲリッチ(1971年、スタジオ録音)
マウリツィオ・ポリーニ(1989年、スタジオ録音)
アニー・フィッシャー(1953年、スタジオ録音)
ホルヘ・ボレット(198?年、スタジオ録音)
ホルヘ・ボレット(1960年、スタジオ録音)※
アリシア・デ・ラローチャ(1975年、スタジオ録音)
ゲザ・アンダ(1954年、スタジオ録音)
ゲザ・アンダ(1955年、スタジオ録音)
クラウディオ・アラウ(1970年、スタジオ録音)
クラウディオ・アラウ(1982年、ライブ録音)
クラウディオ・アラウ(1968年、ライブ録音)
クラウディオ・アラウ(1977年、ライブ録音)※
クラウディオ・アラウ(1976年、ライブ録音)※
ウラジミール・ホロヴィッツ(1932年、スタジオ録音)
ウラジミール・ホロヴィッツ(1977年、ライブ録音)
ウラジミール・ホロヴィッツ(1949年、ライブ録音)※
ウラジミール・ソフロニツキー(1951年、ライブ録音)
アンドレ・ワッツ(1985年、スタジオ録音)
クリスチャン・ツィメルマン(1991年、スタジオ録音)
アルトウール・ルービンシュタイン(録音年不明、スタジオ録音)
ラザール・ベルマン(1958年、スタジオ録音)
ラザール・ベルマン(1975年、スタジオ録音)
タマーシュ・ヴァーシャリ(1959年、スタジオ録音)※
ジャン・ラフォルジュ(1957年、スタジオ録音)
シューラ・チェルカシー(1954年、スタジオ録音)※
シューラ・チェルカシー(1971年、ライブ録音)※
シューラ・チェルカシー(1985年、ライブ録音)※
アレクサンドル・ユニンスキー(1953年、スタジオ録音)※
アンドレ・ラプランテ(録音年不明、スタジオ録音)※
ユジャ・ワン(録音年不明、ライブ録音)※
レオン・フレイジャー(1959年、スタジオ録音)※
アルフレッド・ブレンデル(1951年、スタジオ録音)
ブルーノ・レオナルド・ゲルバー(1977年、スタジオ録音)
野島稔(1986年、スタジオ録音)※
シプリアン・カツァリス(1973年、ライブ録音)※
サンソン・フランソワ(1965年、ライブ録音)
シモン・グライヒー(2015年、スタジオ録音)※


※はYoutubeで聴いた演奏。

この中で最も感動した演奏で、名盤と言えるものは以下の4つであった。
まず第一は、旧ソ連のピアニスト、マリヤ・グリンベルクのものである。



最初に上野の音楽資料室で聴いて衝撃を受けたピアニストである。
1952年の演奏であるから、彼女が44歳頃の演奏であろう。技術的にも体力的にも最も充実していた頃の演奏である。Youtubeでこの曲のユジャ・ワンのライブ演奏を見たが、物凄い超絶技巧を要する曲である。この映像を見て、グリンベルクの若い頃の技巧が恐るべきものであったのが分かる。
物凄いエネルギーに満ちた演奏だ。そして音が素晴らしい。冒頭のAllegro energisoの低音の響きと、迫りくるようなエネルギーの強さは誰にも出せないであろう。
グリンベルクはある対談でこう言っている。「私は注意深く、演奏作品の全ての版本にわたる楽譜を勉強していきます。そしてそのあと実際に演奏する時には、全てを振り払うのです。」
それは譜面から頭で色々解釈して、解釈したことを演奏で実行に移すのではなく、人前で演奏するまでに、作曲者の心情と同一化するためにあらゆる努力を払い、自分の心と作曲者の心情とが融合して初めて楽器を通して表現されるものであることが音楽の本質であることをわきまえているからであろう。
楽譜をいろいろ頭で解釈して実行に移すだけの演奏はどんなに完璧な技巧、どんなに美しい音であっても、人を何度も聴かせるまでに至らない。技巧や音や解釈は手段に過ぎない。演奏家の人間性、音楽に対する感受性、人生体験の深さから来る作曲者の心情に対する理解度と、曲が表す感情との自然な一体化が、聴くものが意識していなくても強烈に心に刻みこませるのである。

第二は、フランスのピアニスト、ジャン・ラフォルジュ(jean laforge)である。



ジャン・ラフォルジュについては殆ど情報が無い。1950年代から60年代に活躍したであろうピアニストでリストのアルバムもLPで何枚か出していることから、リストの曲を得意としていたのであろう。
テクニックはやや甘いが音が素晴らしい。特に高音は、この音こそピアノの理想と言いたくなるような芯のある美しい音である。例えば次の箇所で出すメロディ部分の音は実に素晴らしい。心に喰い込んでくるような音だ。



音だけでなく、グリンベルクと同様、体の芯から出た演奏である。
この演奏はあるサイトからダウンロードして得たが、Youtubeでも公開されている(後日、写真のLPを入手)。
くせのある演奏であるが、作曲者を良く理解した名演である。単なる技巧だけの演奏と聴き比べるとその違いが明瞭になるであろう。

第三は誰でもが知っている、フランスのアルフレッド・コルトーである。



1929年の古い録音であるが、音は古い割にはそう悪くない。一発録りなので破綻が随所にあるが、そんなことは全然関係が無いくらい骨格の太い演奏だ。驚いたのは、下記の部分の低音の響き。こんな響きをピアノで出せるのであろうか。





コルトーの録音で強く印象に残っているのは、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」である。この演奏もSPレコード時代の破綻のある演奏であるが、この曲のどの演奏よりも強く心に残る演奏であった。
コルトーはロマンティシズムの強い表現をするが、感情を誇張することなく、極めて自然な音楽の流れを作る。
感情を誇張するとは、人の意識の入った作為的なものである。その感情により聴き手の気持ちを惹きたいということであり、野心的な演奏でもある。ここが自然な感情の流れに従った演奏と全く異なるわけであり、逆に言えば、作曲者の心情に同一化できれば、その演奏は必然的に自然な感情の流れに従うことができるということであろうか。


第四はスペインのピアニスト、アリシア・デ・ラローチャである。恐らくラローチャが最盛期の頃、50歳代前半の頃の録音であろう。



ラローチャはスペインものの第一人者と言われ、モーツァルトのピアノ曲などの録音もあるが、リストのピアノソナタの録音を見つけた時はこんな曲も弾くのかと、意外感を感じた。
聴く前はあまり期待しなかったが、結果は素晴らしい演奏であった。音はグリンベルグほどの力強さ、ラフォルジュほどの音の芯の強さはやや欠けるが、感情表現の繊細さは抜きん出ている。とくに下記のクライマックスの部分などは震えてくるほどだ。



同じ女性ピアニストでもグリンベルクとは対照的な演奏である。グリンベルクが男性的だとすればラローチャは女声的な表現である。この2人の奏者の演奏を聴き比べてみるのも面白い。

なお、この4人の奏者に共通しているのは、人が評価しようがしまいが、これが自分のたどり着いた演奏なんだ、という強い確信、信念を感じることである。聴衆がどう反応するかなど全く恐れていないことである。

このリストのピアノソナタは聴き始めた頃、意外に録音が少ないと思ったが、それは有名な世界的ピアニストの中でも録音を残した人が限られていたということだろう。奏者を選ぶ曲だと思う。
しかし後でYoutubeでこの曲を検索したら、かなりの数を聴くことできた。テクニックの完璧さが際立っている奏者の再生回数が多いようであるが、再生回数が少なくてもいい演奏はある。
有名な演奏家の演奏だけが素晴らしいとは感じない。名高い評論家が推薦する録音が感動に値するとは限らない。結局、その演奏から自分が何を感じるかである。自分が気に入った曲は、出来るだけ多くの演奏を聴いて、生涯何度でも聴き続けられるような演奏に出会った時の嬉しさは格別のものである。

【追記201910182321】

その後鑑賞したピアニストの録音を追記した。

ブルーノ・レオナルド・ゲルバー(1977年、スタジオ録音)
野島稔(1986年、スタジオ録音)※
シプリアン・カツァリス(1973年、ライブ録音)※
サンソン・フランソワ(1965年、ライブ録音)

フランソワの演奏は非常に個性的。
他のピアニストの演奏とは一線を画している。
聴き手を選ぶであろうが、私は心に残る深い演奏だと評価する。

【追記202003102138】

シモン・グライヒー(2015年、スタジオ録音)を追加。
レバノンとメキシコの血を引くピアニストで、パリで活動。フォーレ弾きのジャン・フィリップ・コラールのマスター・クラスに参加。
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モンポウ 「歌と踊り 第13番」を聴く

2014-09-15 23:32:09 | ギター
数か月ぶりに長袖を着た。半袖で過ごすには肌寒い季節になりつつある。
このところの忙しさから来る疲れからか今日は1日何度も眠気に襲われた。
今日、久しぶりにモンポウの「歌と踊り第13番」を弾いた。





スペインの作曲家、フェデリコ・モンポウ(1893~1987)は殆どをピアノ曲の作曲に人生を捧げたが、アンドレス・セゴビアやナルシソ・イエペスといったスペイン人のギタリストであり、クラシックギターの巨匠から委託されてわずかながらもギター曲を残した。
モンポウの「歌と踊り」は全部で15曲あるが、この第13番はイエペスの依頼によって書かれたギター曲、最後の第15番はオルガンの曲であり、残り13曲は全てピアノ独奏曲である。
カタロニアなどのスペインの民謡などを素材とした短い曲であるが、素朴な構成でありながら、作曲者独特の和声が聴くものに何とも表現できない魅力を感じさせてくれる。
ピアノ曲の録音はスペインの女流ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャのものが有名であるが、私は作曲者自身が80歳を過ぎて録音した自作自演集が好きだ。とくにモンポウ自身の弾く第2番の「踊り」は、人にもよるだろうが、凍てついた心をも溶かすほどの力を持っていると感じた。
さてギター曲として作曲された第13番であるが、チェロのカザルスの編曲で有名になったカタロニア民謡「鳥の歌」を「歌」の素材にしている。暗く悲しい曲であるが世界中から愛されている曲でもある。今は無くなったが御茶ノ水のカザルスホールの開演を知らせるオルゴールもこの曲であった。
冒頭はあのtrillでなく、やや重々しい和音による前奏で始まり、主題に入るが、この和声が独特であり演奏も難しい。左手の押さえが大変なうえに、和声の音を持続させることは至難だ。この13番は最後まで和音の押さえがとても難しく、音を切らさずに持続させることは極めて難しい。



いかにもピアノの作曲家が作ったギター曲という感じがするが、イエペスは10弦ギター用に曲を部分的に変更して弾いている。10弦を必要としていない下記の箇所のような部分も原曲を変更しているが、作曲者に対しこの変更を行った訳をどのように説明したのか興味を覚える。






私は原曲もイエペスの変更版もどちらも好きであるが、原曲の方はもっと和声を豊かにしてピアノ曲として作曲した方が良かったのではないかと思う。この独特の和声を是非ピアノで聴いてみたかった。
イエペスの変更版で特色があるのは、「踊り」の中間部でやや寂しい旋律から激しい曲想に移る部分で、高音と中低音の二声が強く対比を成す部分であり、この対比の表現が凄い。ギターとは思えない突き刺すような音が聴こえてくる。まさに超名演と言える。



また「歌」の後半でメロディが低音に移行する下記箇所の独特の暗い和音と、イエペスの弾く低音の旋律が凄い。「歌」のキーとなる部分。



のどかな自然豊かで静かな場所で感じるであろう「踊り」の軽快で明るい音楽の流れが、やや崩れて不思議な感覚を感じる箇所がある。この部分の最後の2小節の最後の音をイエペスはハーモニックスで弾いている。最初のラ#のハーモニックスは自然ハーモニックスであると思われるが、6弦ギターでは出せない。明るい曲想が次第に崩れて感傷的、それも何かいつもと違う風景、たとえば美しい何か、夕陽、虹、未知の場所を見た時に感じた心境を表現したのであろうか。リタルダントするホ調の和声が何か、ふとしたもの出会って感動した後のとてもすがすがしい気持ちの良さを感じさせてくれる。





「踊り」の終結部は静かな和音で終わる。この和音が実にいい。この和音を弾くととても穏やかな気持ちになれる。ギターという楽器の持つ最大の魅力であろう。
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「おとなと子ども」を聴く

2014-09-13 22:52:16 | その他の音楽
今年の9月は残暑という感じがない。もう秋が来たことを感じる1日だった。
ここ2週間ほど、ちょっと大きな仕事があり、睡眠時間4、5時間の日々が続いたが、それも昨日でやっと片付いた。
しかし明日は休み明けの会議の資料作成のため、仕事に出かけなければならなくなった。
今日は1日家でゆっくり過ごした。久しぶりの晴れで空気が乾燥しているためか、ギターの鳴りも調子がいい。
今日、今から40年近く前、中学1年生で音楽に目覚めた頃に聴いた曲が、何故か心の中で何度も流れているのに気付いた。
その曲は「おとなと子ども」という曲であった。
この曲は、あの名曲「さとうびき畑」を作曲した寺島尚彦氏がリーダーとなり1960年代に活動していた「寺島尚彦とリズムシャンソネット」というグループが1枚のレコードに録音したものである。
このレコードを聴いて私は少年時代を過ごしたが、音楽を聴くどころかステレオのそばで飛び跳ねて遊んでいたので、レコードはその衝撃で傷だらけとなった。このレコードは親から譲り受け今でも大切にしている。
このレコードの最初の曲が「禁じられた遊び」で、クラシックギターやヴァイオリンなど複数の楽器で演奏されていたのだが、中学1年生の時、このレコードのクラシックギターの音色に衝撃を受けギターを始めるきっかけとなった。このへんのいきさつは以前に書いた。
この「おとなと子ども」という曲は、軽音楽であるが悲しくも哀愁のある曲だ。季節でいうと秋をイメージする。悲しいというよりも何かさみしいという感じかもしれない。フランスのシャンソンの1曲なのだろうか。作曲者はレコードのジャケットには「W.サンクリン、R. ローツァンド」とある。
インターネットで検索したが、全くヒットしない。これは意外だった。この美しい曲がもしかして人々から忘れられ、埋没してしまっているのだろうか。
5分にも満たない短い曲であるが、私にとっては強烈に心に刻まれた曲である。中学1年生の頃、何度もこの曲を聴いた。今日久しぶりにこの曲を聴いたが、キーも合っていた。
今日この曲が何故40年ぶりに蘇ってきたのかはよくわからないが、仕事を終え、安堵感を感じながらも何か虚しさも感じたからではないか。
会社や他人のため、家族のために自分を犠牲にして大きなエネルギーを費やさなければならないことがあるが、それが自分にとって満足感に至らないことが多々ある。しかし何か大きなことを達成した充実感、達成感からくる喜びばかりがいいものとは思わない。何か満たされなかった気持ちからこのような音楽が生まれてくるのかもしれない。

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2014年度 Nコン 高等学校の部 ブロックコンクールを聴きに行く

2014-09-06 23:23:23 | 合唱
毎年NHKが主催する小・中・高校生のための合唱コンクールとして、「Nコン」という全国規模のコンクールがある。
10月初めに行われる全国大会に先駆け地区毎に行われるブロック・コンクールがあるのだが、運よく入場整理券を手にすることができた。今日は仕事の予定が入っていたため、行けないと半ば諦めていたが、直前になり変更された。前から楽しみにしていたので、本当に良かった。
ブロックコンクールのブロックとは関東甲信越で高等学校の部である。丁度1年前の今頃もこの関東甲信越ブロックのライブを直接聴いた。
会場は前回と同じ大宮ソニック・シティ、大ホールである。
今年も満席状態であった。座席は一番後ろから2番目であったが、歌声は十分に伝わってきた。やはり動画やCDで聴くよりも生演奏の方がはるかにいい。
今年の課題曲は、作詞:小林香 作曲:横山潤子 「共演者」。
暗さや悩みを一切寄せ付けない、強固な明るさを持つ曲だ。色をイメージすると水色だ。それもとても明るく鮮やかな水色を想像する。あるいは暖かい白といったものだろうか。
明るいといったのは単に軽い陽気な明るさということではなく、明るい太陽に照らし出された健全な明るさ、自分自身や他人の暗いものや、淋しさ、悲しみといったものを自然にプラスに転化させてしまう、本来人が誰でも生まれながらにしてもっている強い、核となる気持ちのことである。
人が長い人生を生きていくうえで、絶対に必要な基本的な土台となる気持ちをを作者は伝えようとしているのではないか。今回のライブを聴いてそんな感じがしてきた。
前置きはこのくらいにして、今回の地区ブロック大会に参加した14校の中で最も聴き応えのあった学校であるが、
まず最も感動したのは、演奏順10番目の東京都代表のO高校。
課題曲の演奏は14校の中で最も素晴らしかった。この課題曲は混声よりも女声合唱で歌う方が難しいと感じたが、O高校の演奏はとても心に響いてきた。力みが取れ、自然な感情の流れに乗った音楽の流れを感じさせる。
心に響いてきたのは、この音楽を作った人の気持ちに同一化しているからであろう。
高校生らしい、高校生にしか出せない自然な歌声で、このような心の奥の気持ちを表現した演奏が好きだ。このような演奏法はとても難しいのだろうが。
この高校は以前私のブログで、Nコンで感動した演奏を2回取り上げたことがあった。平成17年度と平成23年度だったと思う。いい高校だ。
次に感動したのは、演奏順第4番目の群馬県のT高校。
この高校も女声合唱であったが、課題曲は歌詞がとてもはっきりと聴こえてきた。独特の歌い方で評者を選ぶ傾向を感じたが、私にはとても響くものがあった。課題曲は若干声のずれがあったが、十分に伝わるものがあった。

今回のライブ演奏を聴いて感じたのは、作者が曲に託した気持ち、メッセージを聴き手に、聴き手が意識していなくても伝えられるような演奏をしている学校が少なかったことである。
コンクールには賞というものがあるが、毎年出場するいわゆる常連校よりも、5年や10年に1回出てきて、素晴らしい演奏を残して去っていく高校の方が好きだ。
このような学校は、何年かに1回の頻度で、自分たちの目指すオリジナリティーが正に時機を得たように最大限に活かされ、発揮され、歴史に残るような演奏をする。
賞を目指さず、野心とは無縁な純粋な演奏に心を打たれる。
もちろん技巧的な裏付け、豊富な練習量が伴っていることが前提である。
全国大会で、このような演奏に出会えることを楽しみにしている。



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