緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

印象に残った本(2017)

2017-12-28 22:00:14 | 読書
大の読書好きというわけではないが、本はほぼ継続して読む方だ。
今年に読んだ本で印象に残ったものを挙げてみたい。

まず読んだ本で主だったものとして、

①海市  福永武彦著
②風土  福永武彦著
③堕落  高橋和巳著
④もう一つの絆  高橋和巳著
⑤白く塗りたる墓  高橋和巳著
⑥死ぬほど読書  丹羽宇一郎著
⑦誘惑者  高橋たか子著
⑧帳簿組織  沼田嘉穂著
⑨定年後  楠木新著
⑩「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪  小川榮太郎著

この中で特に印象に残ったものは、次の3冊だった。

⑦誘惑者  高橋たか子著
⑧帳簿組織  沼田嘉穂著
⑩「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪  小川榮太郎著

⑦は物凄く暗く、なんとも後味の悪い本であった。



でも非常にインパクトのあった本。恐らくストーリーは一生忘れられないであろう。
著者の高橋たか子さんは高橋和巳の妻で作家でもあった。
高橋和巳ががんで亡くなるまで影で支えた。
彼女がどれだけ強い忍耐で夫を支えたかは、「高橋和巳の思い出」、「高橋和巳という人」という著作を読めば分かる。
高橋たか子が高橋和巳のことをどれだけ深く尊敬していたことも行間から伝わってくる。
高橋和巳の小説は暗いのだが、高橋たか子の著作はもっと暗い印象を持った。
その最たるものが「誘惑者」であろう。
主人公である京大の女子学生が、高等学校時代同級生だった2人の親友の自殺を幇助するのであるが、自殺しようとする親友が躊躇しているのに、自らが完全に実行に移すよう誘導していく主人公人身が、それまではっきりと意識できなかった自らの本質(=悪魔)が最後に浮き彫りにされ、自覚される。
人間の深層心理に潜む恐ろしさを描いた小説なので、多感な若い方には勧められない。

下の写真は結婚して間もない頃の高橋夫妻。



この表情からこの小説の内容をイメージし難いが、「誘惑者」はもっと後年、夫が亡くなってから書かれたものである。

次に⑧であるが、この本の感想は以前記事にした。



著者の学問に対する情熱を強く感じる名著。
大学の学者が企業における実務にここまで踏み込んで調査し、まとめ上げた学術書をこれまで読んだことはない。
企業に長年勤めて実務を経験しないと書けないほどの内容だ。
単なる帳票の紹介ではなく、当時は殆ど取り上げられなかったであろう内部統制制度を常に関連させて説明しているところが素晴らしい。
大きな会社では2008年からj-soxによる監査が義務付けられ、社内の監査部門による独立評価(内部監査)と公認会計士による外部監査が行われるようになったが、50年近く前の著作にもかかわらず、その制度の原型が読みとれる。

⑩は11月末のリフレッシュ休暇で九州から帰る時に空港での待ち時間でたまたま立ち読みした本で後で近くの書店で買って読んだ本。



ビジネス書など滅多に読まないが、これは結構面白かった。
モリ・カケ問題は今年前半に盛んに報道され、国会でも騒がれたが、今一つ分からなかった。
以前、購読してい新聞の読者投稿欄で、女子高校生がモリ・カケ問題を国会で審議するはおかしいのではないか、もっと政治家は他にやるべき大きなことがあるのに、こんなことに莫大な時間を消費してていいのか、と訴えいたのが強く記憶に残っている。
私も同じような感じを持っていた。
しかし後日、年輩の方がこの意見をたしなめるような投稿をしていたが、残念だ。
私はこの問題はずーっと変だなと感じていた。
何で報道関係者は事実を捻じ曲げてまでもスクープを出そうとするのか。
そんなに「賞」や「名誉」といったものが欲しいのだろうか。
「賞」に対する渇望、執念の凄まじさを感じさせられる。
自分に大きな価値を感じたいからであろう。
しかし正道を外れて得たものは、それ自身が身の破滅への入り口となる。
この本で徹底的に批判された新聞社が26日、著者を訴えるため裁判を起こしたようだ。
しかしこの新聞でこの訴えたという記事は今のところ目にした記憶は無い。
そもそもモリ・カケ問題すら、ずっと記事になっていない。
この著作の言っていることが偽りでれば堂々と記事で書けいいのに書いていないということは、オープンに出来ない理由があるのではないか。
コメント

斎藤秀雄の指揮法(タタキ)

2017-12-28 20:59:16 | マンドリン合奏
合奏の重要なポイントは当たり前と言われるかもしれないが「音のズレを無くす」、「押さえ間違いを無くす」の2つだと思う。
合奏の生演奏や録音を聴いて思うのは、いつもこの2つの重要性だ。
この2つを達成できていない演奏を聴くと、聴き手は演奏者の練習不足を意識的、無意識的に知覚する。
折角いい演奏をしていてもこれらが目立ってしまうとかなり興ざめしてしまうものだ。

「押さえ間違いを無くす」ためには個人の練習に依存するが、「音のズレを無くす」ためには個人の練習だけでは達成できない。
いくらリズムを正確に刻み、テンポを正確に測れる能力があっても、音楽は機械でコントロールしていくわけではなく、人間がコントロールしていくわけだから、作品をコントロールする役割を担う指揮者の存在と責任は大きい。

私が学生時代に所属していたマンドリンクラブの指揮は、リズムやテンポが分かりやすかった。
難しい入りやリズムの時には指揮者の指揮棒が唯一の頼りであった。
学生時代の演奏を思い出すと、とにかく良く指揮を見たものだ。
学生のような素人が指揮を見ずして音を合わせることはまず出来ない。
学生時代の指揮者の指揮の特色は「打点」が明確だったことだ。
指揮棒が振り下ろされ、そして振り下ろされた最も下の地点が視覚的に明確に分かる指揮法だった。

この指揮法が何というメソッドに基づいていることなど当時は全く関心が無かったが、今から5年ほど前に学生時代に演奏した時の大量の楽譜が実家の物置から偶然発見され、家に持ち帰って1つ1つ過去を懐かしみながら見ていった中に、当時の先輩が書いてくれた指揮法の簡単な解説が見つかった。
その資料を25年ぶりに見たが、学生時代のマンドリンクラブの指揮が「斎藤秀雄」の指揮法をベースとしていることが記載されていた。



ここで初めて斎藤秀雄のメソッドを知る。
そして彼の超ロングセラーである「指揮法教程」(音楽之友社、初版1956年)を古本で買った。





斎藤秀雄と言えば、クラシックファンなら誰でも知っている、小澤征爾、堤剛、秋山和慶などの大家を育てた指揮者、チェリスト、教育者である。
意外なことに最初に手にした楽器はマンドリンであり、マンドリンオーケストラを組織したこともあったという。
「サイトウ・キネン・オーケストラ」という楽団を聞いたことがある人は多いと思うが、小澤征爾、秋山和慶が中心になって、斎藤秀雄の教え子たちで結成されたオーケストラだ。

斎藤秀雄は教育者として大変厳しかったようだ。
購読している新聞で今、弟子の秋山和慶氏のエッセイが連載されているが、今日の記事では、斎藤秀雄の指揮法について触れていたので、一部紹介させていただく。
『そうして指揮の基本動作を七つに絞りました。有名なのが「タタキ」です。上から手を落とし、跳ね返らせる。その瞬間に生まれる「点」に、楽員たちが反応して音を出すわけです。皆の心をそろえるため、自ら「無心」になる。技術はそのためにある。先生の教えはこれにつきます。』
『小澤征爾さんが1959年、日本人で初めて仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝したとき、先生に「タタキ」は最大の武器である」って電報を打ってこられたのですが、先生、それはそれはうれしそうでした。』




「タタキ」が生み出す打点に演奏者たちが反応して音を出す、この瞬間の気持ちの高揚というのは、合奏経験者でないと分からないと思う。
何か目に見えない潜在的な不思議な力が生み出されて、その力に導かれるようにみんな物凄い高い集中力で音を合わせようとする。
人それぞれに芽生えたこの精神的エネルギーがきっと何倍にも増幅されて、聴き手の心の奥底まで貫くのだと思う。

学生マンドリンオーケストラの中には、この一生にそう何度もあるはずのない貴重な瞬間を体験する機会を創り出そうとしていない団体もあるように思う。
片手間にやるというスタンスであれば必然的にそうなるのであろうが、若い時に先に書いたような体験をしたことで、その後、何十年かの人生の重要な局面で救いの力を与えてくれることがあることをいいたい。
コメント

感動した合唱曲(NHK全国学校音楽コンクール:Nコン)(14)

2017-12-23 21:28:37 | 合唱
合唱曲を聴くようになって約7年。
その間、とくに感動した演奏についてNコンを中心に当ブログで紹介してきた。
7年前に聴き始めた時、なんでこの学校の演奏が金賞なのだろうと、首をかしげることが多かった。
長い間器楽を聴いてきたが、器楽の聴き方をとおして合唱曲の演奏を聴くと、聴き手の心の奥まで届き、動かすような演奏は意外に少ないと感じた。

どんな音楽でもそうだが、作った人の気持ちというものがある。合唱にはそれに詩が加わる。
詩は文字の構成体であるが、作った人の気持ち、感情の現れであることは言うまでもない。
作った人には、何か表現したい気持ちがある。伝えたい気持ちがある。
その気持ちを音の組み合わせ、文字の組み合わせにして、芸術というレベルにまで昇華させる。

作った人に託された演奏者は、作った人の気持ちに触れ、共感する。
作者の創造物の偉大さ、創造物を生み出す過程の痛み苦しみ、作者という人間の、その核となる部分に感動する。
そこで初めて、「その気持ちを伝えたい」という気持ちになる。
ゆえに演奏者は、作者の気持ち、感情と完全に同化しなければならない。
いや、必要性の問題ではなく、共感する能力があれば自然に同化するといっていい。

実はこの同化した気持ちを音楽で表現することが最も難しい。
それ以前に同化できる感受性がないと不可能だと思う。
しかし、音楽を演奏する以前に最も重要な、この「同化できる感受性」が現在、最もないがしろにされている。

はっきり言って、この感受性、人の感情、気持ちを理解できるものを持っていないと、どんなに表面的に美しく、上手く歌っても、聴き手を真に感動させることは出来ない。
淀みない立派なスピーチを聞いても、聞いた後には何も残っていない。上手いスピーチだった、としか記憶に残らない。それと同じことだ。

Nコンや全日本合唱コンの演奏を聴いていると、この淀みない立派なスピーチのような演奏が多い。
演奏を立派に、審査員を唸らせるほどの技術、音質で演奏することに、物凄い努力をしていることが伝わってくる。
曲の解釈、研究にも最大限のことをしている。
しかし聴いていて、「何か」が感じられない。「何か」が足りない。何度も何度も聴いても上手かった、としか記憶に残らない。

私は音楽を演奏するためには、気持ちが純粋になっていなければならないと思う。
競争心や野心、虚栄心に毒された心では絶対に聴き手の心を動かすことは出来ない。
だから、最も難易度が高い演奏法とは、聴き手の心の奥まで届き、聴き手の潜在的感情を引き出すことを目指す演奏法なのである。
演奏者の気持ちクリアーになっていないと不可能に近い。
全ての虚栄的なものから解放されていなければならない。
当然のこととして技術的土台の裏付けがあっての演奏である。

今年の10月始めにNコン全国大会高等学校の部が開催され、渋谷のNHKホールまで聴きに行ってきた。また録画しておいたビデオやNコンホームページで公開されている動画も何度も聴いた。
出場した全11校の演奏のうち、課題曲のみを順に聴いていった。
課題曲は、「君が君に歌う歌」(作詞:Elvis Woodstock(リリー・フランキー)、作曲: 大島 ミチル)。

NHKホールでは3階席の後ろであったが、生演奏で記憶に残った演奏は、島根県の高校と演奏順最後の東京都の高校であった。
とくに最後の東京都の高校の演奏はとても心に残った。
そして家に帰ってから録画したビデオや後で公開されたNHKの動画を聴いた。
この高校とは、東京都大妻中野高等学校であった。

冒頭の「傷つけていないか」のところで何か違うなと思った。
「それは君が相手の痛みをわかるようになったから」、「君は悲しんでいないかい? 誰かを悲しませていないかい?」、「君は見上げているかい? 誰かを見下ろしていないかい?」の部分は心を大きく動かされた。
まさに作者が語りかけているようだった。彼女たちが、「今」、「ここで」、聴き手に自分たちの気持ち(=作者の気持ち)を伝えているように感じた。
そして力みが無い。あくまでも自然の流れに沿っている。
力みが無いのは余計な野心が無いから。歌を歌うことそのものに集中しているから。
歌を歌うことが何よりも好きで、それ以上のことは求めていないから。
それだけで満足しているから。
はっきりいうと、他の多くの学校との歌いかたと違う。
分かる人には分かるかもしれないが、根本的な違いがある。

もしこの大会の録音、録画を聴く機会があったとしたら、出場全11校の全ての課題曲について順に聴いて欲しい。
学校名とか先入観抜きにして、気持ちを無にして聴いて欲しいと思う。
その上で、「最も感情を動かされた」演奏を探して欲しい。
上手いとか、迫力があるとか、表面的なものでなく、あくまでも「心を動かせられる」という観点で聴いて欲しい。

出場校の中には、不自然なほど力を入れたり、やたら声部の分離を強調している演奏があったが、聴いていて「あれっ?」って違和感を感じた。作為的であるからだ。
音楽の表現とは、結局のところ、作者の心をそのままに表すことに尽きるのではないか。
作者の心と同化できたならば、その心の表現はおのずと答えがでるのではないだろうか。

この大妻中野高等学校の演奏は今まで何度か記事にしたことがあったが、いい高校だと思う。
歌っている姿を見て、私の1970年代の頃を思い出す。
物凄く高い集中力、澄んだ輝いた目、歌うことが何よりも好きなんだという気持ち。
大都会の学校なのに、私にとっては一種信じがたい心境にさせられる。



【追記20171224】
音量には物理的パワーによるものと感情的パワーによるものとがあるが、大妻中野高等学校の演奏にはまさにこの感情的パワーを感じさせる。
感情的パワーといっても奏者の本当の「無心」の気持ちから出たものであり、かつ芸術的に高められたものである。
出場校の全ての演奏を何度も繰り返し聴いていれば、この大きな違いが分かってくる(分からない人もいるかもしれないが)。
物理的パワーによる音量は聴き手の深いところの感情を決して揺さぶることは出来ない。
コメント (2)

追悼 熊谷賢一氏

2017-12-17 21:12:40 | マンドリン合奏
マンドリンオーケストラ作品で知られる、熊谷賢一さんが10月9日に亡くなっていることを知った。
享年83。

熊谷賢一氏の作品は、私の学生時代に盛んに演奏されていた。1980年代前半のことだ。
私の手元に残っている学生時代の楽譜を見ると、次の5曲を演奏していることが分かる。

・マンドリンオーケストラのためのボカリーズNo.9-海原へ-
・群炎第6番-樹の詩-
・群炎Ⅰ
・マンドリンオーケストラのためのボカリーズNo.1-暁の歌-
・マンドリンオーケストラのためのボカリーズNo.2-街の歌-

私が卒業した年だったか、母校のマンドリンクラブの合宿に、熊谷賢一氏を招いて直接指導してもらったとの話を後輩から聴いた記憶がある。
熊谷氏の新曲だったと思う。
OBとして定期演奏会を聴きにいったが、斬新かつ難しい曲だった印象が残っている。

卒業してしばらくマンドリン音楽から遠ざかっていたが、30代後半になり、何かのきっかけで学生時代に弾いた鈴木静一や藤掛廣幸の作品を聴きたくなり、CDを手に入れて再びマンドリン音楽にのめり込むようになったが、何故か熊谷賢一の作品には関心が行かなかった。
その理由は恐らく、熊谷作品がフォークソング的要素があり、軽い音楽、という印象を抱いていたためであろう。
実際、学生時代に弾いた熊谷作品で印象に残っているのは初めて弾いた、ボカリーズNo.9-海原へ-と、その翌年に他大学とのジョイントで弾いた群炎第6番-樹の詩-以外はあまり印象に残っていない。

Youtubeで鈴木静一などマンドリンオーケストラ作品の実演が投稿され始めても、熊谷作品を目にすることは無かった。
私は愚かにも熊谷作品は人気が無いからだ、と勝手に解釈した。

昨年の11月の終わりだったと思う。
神奈川大学マンドリンアンサンブルの定期演奏会を聴きに行った。
この定期演奏会のプログラムで、熊谷賢一氏の作品を目にする。
マンドリンオーケストラのためのボカリーズ第5番「すばらしい明日のために」という曲だった。

プログラムの曲目解説を読んで絶句した。
「マンドリン合奏曲の作品に取り組み始めてからは、マンドリン音楽の新しい創造的な発展のために精力的に作品を生み出してこられましたが、学生団体の不作法や著作権処理の不備などを理由に、作者本人が1996年に斯界との絶縁を宣言し演奏が凍結されました。その後2000年に凍結は解除されましたが、マンドリン合奏曲の重要なレパートリーであり、すばらしい財産とも言える氏の作品が演奏される機会は激減し、特に学生の間で存在すら知られなくなってしまったことは残念なことです。」
これで熊谷作品の演奏が見つからなかった理由がわかった。

神奈川大学マンドリンアンサンブルの定期演奏会の感想を記事にしてからしばらくたったある日、この記事にコメントの投稿があった。
驚いたことに熊谷賢一氏のご子息からであった。
とても有難いことに、熊谷賢一作品の一覧が見られるホームページと、マンドリン作品の多くが聴けるYoutubeのアカウントを教えて下さった。
これをきっかけに、熊谷作品のいくつかを聴き始めた。
その中で、熊谷作品の真価、それは今までの見方を180度変えるきかっけとなった曲、演奏に出会ったのである。
それは学生時代の1984年の夏に、他大学とのジョイントコンサートで弾いた想い出の曲であり、熊谷作品では一番好きだった「群炎第6番-樹の詩-」、演奏はノートルダム清心女子短期大学マンドリンクラブによる初演(1983年)であった。

まず冒頭のギターパートの重奏の音に驚いた。今なかなか聴くことの出来ない、重厚な、芯のある強い音。そして他パートが加わり音楽が展開されていくうちに、この曲が物凄い力を秘めていることに気付かされた。
そして何度も何度もYoutubeの演奏を聴いた。
人間を始め、全ての根源的な生命力、廃墟、苦難のどん底から這い上がっていく力強いパワー、決して後戻りしない決意を感じさせる強固な再生力、人間に対する信頼、優しさなど、人間を初めてとする生物や自然の根本的なありかたを問う、スケールの非常に大きな曲であることが分かった。
マンドリンオーケストラ曲の最高傑作の1つであると確信している。

曲や演奏の感想は以前の記事で書いたので、もしよかったら読んでいただけると嬉しい。

http://blog.goo.ne.jp/ryokuyoh/e/14765116d0e3c5e1b801678a44378829

Youtubuで、初演者であるノートルダム清心女子短期大学マンドリンクラブの実演が聴けるが、是非聴いて欲しい。
聴いて下さるなら、演奏時間7:25あたりから17:50当たりを注意して聴いて欲しい。
そして、特に12:02から13:00あたりを更に注意して聴いて欲しい。
この部分の音楽、そして演奏が物凄いのだ。
何か強く感じるものがないだろうか。
我々が普段感じることを忘れている、いや感じることが出来なくなっている、人間の根源的な何かが。

この演奏によって、学生時代に弾いたこの曲が実は凄い素晴らしい音楽であることに今さらながら気づいた。
気付くのに実に33年を要した。

熊谷賢一さんの音楽を通して私は50を過ぎて、とても大切なものを学ばせていただいた。
熊谷さん、ありがとう。

【追記201712182332】
文中、私が母校のマンドリンクラブのOBとなった最初の年に、母校の合宿に熊谷さんを招いて指導を受けたという話を聞いたことを書いたが、この時の曲が、マンドリンオーケストラのためのバラード第4番「河の詩」という曲であることが分かりました。

【追記20171224】
NHKでかつて放映されていた「中学生日記」という番組の1970年代前半のテーマ曲が聴きたくなり探していた。
1975年からの風間先生(湯浅実)の前の時代だ。
いろいろ調べていたら、1970年代前半のあの忘れられないテーマ曲の作者が、熊谷賢一らしいことが分かった。
音源を探しているが、今現在見つけられていない。
(NHKアーカイブスにもこの時代のものは残っていないとのこと。しかし何とか聴きたい)

【追記20171224】
NHK大好き人間だった両親のもと、しかたなく見ていた「銀河テレビ小説」。
「銀河テレビ小説」で見た番組で、最も古い記憶で鮮明に覚えているのが「黄色い涙」だった。1974年のこと。
そしてその翌年1975年に放映されたのが「青春のいたみ」だった。
このタイトルを何故覚えていたかというと、この時代に見ていた銀河テレビ小説で何が一番良かった?、と当時兄と話していて、私が「青春のいたみ」だ!、と話したのを今でも覚えているからだ。
この「青春のいたみ」のテーマ曲の作者が何と熊谷賢一だった。
この「青春のいたみ」のテーマ曲も現在探しているが、見つけられないでいる。

【追記20180211】
【追記201712182332】で記載したマンドリンオーケストラのためのバラード第4番「河の詩」のプログラムが見つかった。
OB1年目の時に聴きに行った1986年11月の母校第18回定期演奏会のプログラムに載っていた。



【201808250141】
1:09からを聴くと、20代の頃を思い出す。
苦しみと再生。
強固な強い意志。
2:49から。日本人でしか書けない、日本人でしか感じられない。
日本人の感性って、すごい。
この感じ方、もっと大切にしたい。

コメント

静岡大学マンドリンクラブ第54回定期演奏会を聴く

2017-12-16 23:40:57 | マンドリン合奏
今日(16日)静岡駅近くのしずぎんホールユーフォニアで、静岡大学マンドリンクラブ第54回定期演奏会が開催され、聴きに行ってきた。
11月下旬のリフレッシュ休暇の途中でひいたたちの悪い風邪がよくならず、体調も今一つであったが、プログラムに「細川ガラシャ」と「星空のコンチェルト」あるので何としてでも行きたかった。
静岡といっても自宅からは遠い。しかしちょっといつもより早く起きれば当日日帰りで行ける距離。前日は勤務先の忘年会であったが、酒は殆ど飲まずに早く切り上げた。
静岡大学マンドリンクラブのTwitterに、「星コンやります! ガラシャやります!」、「東京から静岡まで東海道本線で三時間と少し。小旅行気分で静岡大聴きに来て欲しい。」と書いてあったが、この言葉、熱意に引き寄せられたか.

静岡には30年くらい前に行ったことがあるが、殆ど訪れる機会のない所。駅前でも人通りは多くなく、綺麗でいい町という印象を持った。
ホールは小ホールだが、音響はなかなかのもの。音の小さいギターも十分に響いていた。

大学のマンドリンクラブの演奏を聴き始めて、4、5年は経つが、正直、当たり外れが大きかった。
厳しい練習を重ね、聴き手に大きな感動を与えてくれる団体もあれば、下を向いてばかりで、未熟で、残念ながら何の感動も感じさせてくれなかった団体もある。
どの団体がすばらしいのか、はっきり言うと、聴いてみないと全く分からない。
しかしはっきり言えるのは、いい団体とは、「この一生に一度しかない感情共有の場」に対して、「これ以上ない最大限の準備をして、聴き手と最高の出会いと感動を分かち合いたい」という気持ちをメンバー全員が強く持っている、ということである。そこにメンバーが強く意識し、価値を抱いているか、ということである。

結論から先に言うと、静岡大学マンドリンクラブの演奏はとてもすばらしかった。
この4、5年かなりの数の団体の演奏を聴いたが、満足度では今まで聴いた中でトップクラスと言っていい。
総勢25名ほどの小所帯。管楽器やパーッカションはもちろん、OB、OGなどの賛助も無い。
しかし技巧レベルが非常に高かった。
1年生を含めたトータルでもレベルが高い。
伝統的に基礎技巧を徹底的に練習に取り入れていることが分かる。
曲よりも基礎練習。これがもっとも大切。フォームの確立、左手、右手の脱力、音階、半音階、ピッキング、ハイポジションの安定、確実な芯のある弾弦、ぶれないトレモロ、等々、基礎技巧をまずは徹底して叩き込むことが何よりも必要なことだ。
オープニングの小曲を聴いて、この団体の技巧レベルが高いことがすぐに分かった。

さて今日のプログラムは以下のとおり。

Ⅰ部
教会に眠るねこ  作曲 湯淺 隆 吉田 剛士

劇的序楽「細川ガラシャ」  作曲 鈴木 静一

Ⅱ部
アンサンブルステージ
Back to the Future  作曲 Alan Silvestri
虹  作曲  森山直太朗  御徒町凪
運命の人  作曲  草野正宗
Friend Like Me  作曲 Alan Menken
ひまわり  作曲 葉加瀬太郎

合奏ステージ
HIGHLIGHTE FROM HARRY POTTER  作曲 J.Wiliams
学園天国  作曲 井上忠夫

Ⅲ部

組曲「降誕祭の夜」  作曲 A.Amadei

外洋へ向かって  作曲  E.F.Braein

星空のコンチェルト  作曲 藤掛廣幸


第Ⅰ部1曲目の「教会に眠るねこ」は、ややリズムの刻みの難しい出だしで始まった。
伴奏のギターのアルペジオの音が良く抑制されていて、それでいて美しい。
1年生を除く人数での演奏。各メンバーがソロのようなものだ。しかしどのメンバーもミスが殆ど無く上手い。
音量のコントロールとバランスが良く考えられている。ppとffのレンジがとても広い。
マンドリンの単音の強音の芯がとても強い。

2曲目は鈴木静一の「細川ガラシャ」。
この曲は私も学生時代に弾いたが、ギターの箏の奏法を彷彿させる非常に美しい日本的情緒を感じさせる人気曲である。
この4、5年で学生団体の演奏会でも3、4回は聴いた。
出だしは激しいかき鳴らしで始まるがすぐに難しいパッセージが続く。このパッセージの弾き具合で、演奏する団体のだいたいの実力が分かるものだ。
静岡大学マンドリンクラブははたして完璧な演奏であった。
技巧だけではない。アクセントの付け方、強弱のバランスも見事だ。
この強弱の付け方が人数の少なさを補っている。
ギターの音もいい。
中間部のあの極めて美しい、ギターの悲しい伴奏が奏でられる部分。素晴らしかった。





そして聴くうちにあることに気付いた。
コンサートミストレスが物凄く上手いのだ。確実な安定した技巧。ポルタメント。音の流れ、美しさ。本当に素晴らしい。この部分の旋律を聴いて、お恥ずかしことであるが自然に涙が溢れてしまった。こんなことは滅多にないが。
それにしても何と悲しい旋律であろうか。ガラシャの悲痛な無念の気持ちが強く感じ取れた。

第Ⅱ部の前半は4年生だけのアンサンブル。
マンドリン、ドラ、セロ、ギター、ベースの各1名、5名だけの小アンサンブルであったが、みんなとても上手い。
とくにギター(女性)はとても上手い。この奏者のレベルも今まで聴いたなかでもトップレベルと言えよう。
2曲目はNコン中学校の部課題曲からの編曲。
最後の「ひまわり」は4年生が1年生のときに演奏したという想い出の曲。
マンドリンのリズムの強い刻みに4年間の凝縮した気持ちを十分に感じた。

第Ⅱ部は、卒業していく4年生が主役のステージ。
後半は1年生も含めての合奏。
しかしその前に4年生のギター(女性)とセロパートの4年生のギターとの2重奏が挿入された。
これがまた良かった。
2人ともとても上手い。男性の方はセロパートなのによくここまで弾けるものだと大いに感動した。
この男性のギターの音が柔らかくとても良かった。
このあと4年生3名が仮装でちょっとした余興があったが面白かった。卒業していく4年生を大切にしているんだなあ、と感心した(自分の学生時代には無かった)。
合奏ステージは指揮者の予期しない仮装が聴衆の笑いを誘っていたが、曲も楽しめた。

第Ⅲ部1曲目はアマディの「降誕祭の夜」。
アマディの曲は1週間前の立教大学の定期演奏会でも聴いたが、青空の海を連想させる明るい曲。
第1楽章は激しいリスムの刻みがあるが、綺麗な響きに持っていくのは難しい。
第2楽章も明るい曲想。波のゆらぎ。マンドリンのppとffの表現がとてもいい。
第3楽章は祭りらしく、華やか。イタリア人との国民性の違いを如実に感じさせる。

第二曲目「外洋へ向かって」は恐らくはじめて聴くだろうが、ノルウェーの作曲家の曲。

さて最後の曲は、藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」。
この曲を初めて聴いたのが今から15年くらい前の30代後半の頃。藤掛廣幸の事務所から直接買ったCDで聴いたときであった。
生演奏では2年前に母校の定期演奏会で聴いた。
冒頭の2stマンドリンソロから1stマンドリンに引き継がれる旋律があまりにも美しく、この部分を何回繰り返し聴いた分からない。





人の心の核を通す旋律。理屈で生みだせる旋律ではない。いろんな人生の積み重ねから生まれ出る音楽。
ここでもコンサートミストレスの音が美しかった。

それにしてもこんな少ない人数でここまで強い音を良く出せると思う。
もう少しベースの音が強く欲しいとは思ったが。
中間部のフーガの技巧を要する部分、ドラの超絶技巧も決まっていたし、マンドリンも殆ど破綻がなかった。速度の選定は難しかったに違いにない。
ギターのかき鳴らしの音も硬くなくていい。ギターの音質と音量はとても考えられている。
終結部の長調への転調部のマンドリンの音の揃った音には感動した。

静岡大学マンドリンクラブの今日の定期演奏会を聴いて、学生時代の母校の演奏との共通点をいくつか感じた。
まず、演奏に対して真面目で誠実であるということ。いい加減なものは無い。これは母校以上。
基礎技巧の確実性をまず感じたし、何よりも聴衆との一体感を前提に、最高の演奏をしたいという強い気持ちを感じた。
演奏者たちが地味で学生らしいということ。特段何も見返りを期待しない、ひたすら自分たちのベストを尽くすという、地方の国立大学らしさを感じた。
彼ら自身は特に意識せず当たり前のことをしたと恐らく思っているかしれないが、そこが大切。
影でとても感動している聴き手もいることも分かってもらえればなお嬉しい。
この4、5年でいろいろな学生団体の演奏を聴いたが、この団体には、なにか自分にとって同類というか、とても共感するものを感じた。

指揮は母校のものを彷彿させた。
打点を常に明確にする指揮。だから演奏者たちが指揮をよく見ていた。そこに強く感動した。
ひたむきな気持ち。
冒頭に、大学のマンドリンクラブの実力は聴いてみないと分からないと書いたが、この静岡大学マンドリンクラブの演奏はまさにそれを感じさせる演奏であり、マンドリン音楽鑑賞の素晴らしさを拡げてくれるものであり、彼らには真に感謝してやまない。


コメント (4)