緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ワイセンベルク演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ「悲愴」を聴く

2017-08-27 22:05:05 | ピアノ
アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg、1929-2012)の弾くベートーヴェンの三大ピアノソナタの感想を記事にしてきた。
今回は「悲愴」の感想を書きたい。

ワイセンベルクの弾く悲愴ソナタはいわゆる聴かせどころを強調するようなことはしていない。
第1楽章や第3楽章は速度がかなり速いので初めて聴いた時はあっけなく感じるかもしれない。
彼はいろいろ頭で考え、ここはこのような情感の音で、とかこの音は音を切ってとか、細かく組み立てるような演奏ではない。
ワイセンベルクの演奏は表面的に変化が少ないように思える。
しかし何度聴いているうちに、その演奏が内面から湧き出るエネルギーや繊細な感受性から導き出されたものであることが分かる。
ワイセンベルクの演奏を一言で評価するならば、私は「誠実」という言葉が思い浮かぶ。
とてもまじめなのだ。一本気と言ってもいい。
彼はコンクール優勝後、10年間のブランクがあった。
その間きっとじっと孤独に耐えながら、研鑽を積み重ねてきたに違いない。
第3楽章の終わり近くのフレーズを聴くと、この時代に表に出すことを封印してきたピアノ演奏に対する凄まじいほどの情熱を感じる。

このソナタの第2楽章も数えきれないほど聴いたが、奏者により大きく解釈が異なることが分かる。
ワイセンベルクはいろいろ音をいじったり、変化を付けたりしないので、さらりと聴こえてしまうかもしれない。
しかし全然そうではないのだ。
私はこの有名な、傷んだ人の気持ちを癒す楽章を、ワイセンベルクが素直に、ベートーヴェンが感じたであろう感情のままに表現しているものと確信する。
今回、改めて過去に聴いてきたいろいろな奏者の演奏と聴き比べしてみたが、ワイセンベルクの演奏が最も心に染みた。
意識していなくても音に優しさ、繊細さが感じ取れる。
このような精神性の強い曲は、奏者の感受性がストレートに出る。
奏者によってはいろいろ表面的な味付けをして、聴き映えを良くしているが、そんなものはすぐに見破られる。


4、5年前に園田高広が1960年代終わりに録音したベートーヴェンのピアノソナタ全集の中の「悲愴」を初めて聴いた時、その純粋な誇張の無い素直な演奏にとても新鮮な感動を覚えたことが思い出される。

ワイセンベルクの演奏を、単なる冷淡なテクニックを強調するのみだ、と評するのは的外れだと思う。

若い世代の演奏家が、テクニックは格段に進歩したが聴き手の心に深くとどかない、と言われる原因のひとつに感受性が開花されていないことがあると思う。
感受性を鈍化させるもののひとつにテレビなどの騒音、スマホなどのゲームの電子音がある。
私はもう殆どテレビを見なくなったが、うるさく無意味で少しもおかしくない空虚な笑い声の氾濫している番組が多すぎる。
こんな番組を惰性で見続けていれば、感受性は確実に麻痺していく。
うるさいだけで何も残らないものに時間を浪費するのであれば、静かなところで秋の虫の鳴き声をいつまでも聴いていたほうがずっといい。
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モーツァルト作曲 ピアノソナタイ短調 K.310を聴く

2017-08-20 21:31:26 | ピアノ
6月に聴いた太田キシュ道子のコンサート会場で買った彼女のCDの中に収録されていた、モーツァルトのピアノソナタイ短調 K.310がとてもいい曲だったので、しばらく繰り返し聴いていた。
モーツァルトのピアノソナタは3、4年前に、ヴラド・ペルルミュテールやリリー・クラウスの全曲録音を聴いていたが、正直、トルコ行進曲や幼い頃に姉の弾いていたわずかな曲を除いて記憶に残るものは無かった。
これは以前ゲザ・アンダが弾き振りしたモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いた時もそうだった。
理由は恐らくベートーヴェンのピアノソナタのように深く強く精神に作用するものが少ないからなのかもしれない。

しかしこのピアノソナタK.310は好きになれる。
是非聴いて欲しいと思う曲だ。
典型的なソナタ形式の曲で、構成も比較的簡素であるが、素朴な旋律が何とも美しい。
古典派音楽の美の粋のようなものを感じる。

この曲がお盆休みに出かけたCDショップでかかっていたのを聴いて、太田キシュ道子のCDにあったのを思い出し、ペルルミュテールやクラウスと、手元にあるCDを繰り返し聴いてみたのである。

バッハやモーツァルトは比較的苦手な方で、組曲などを順に聴いていってもなかなか心に残らなかったのであるが、順番に聴くのではなく、印象に残る曲、いい曲だなと思った曲から入っていくような聴き方のほうがいいのかもしれない。
ベートーヴェンのピアノソナタだって第31番、第32番を聴いて感銘を受け、そこからどんどん派生していったのだから。
バッハのパルティータもマリヤ・グリンベルクの弾く第2番を聴いたのをきっかけに、第2番の聴き比べから他の組曲へと派生していった。

このピアノソナタK.310を聴くと、ベートーヴェンの初期のピアノソナタ、とりわけ第1番を思い出す。
ベートーヴェンも初期の作品は古典様式の要素が強かった。
ベートーヴェンはソナタ形式を最も豊かに発展させた作曲家と言えるが、後期の作品はロマン派音楽の勃興と重なり合う作風が感じられる。

ギター曲だとフェルナンド・ソルの作風がこのモーツァルトのピアノソナタのイメージに近いか。
ソルもいくつかのソナタを残したが、クラシック・ギターの分野で、いいソナタが少なすぎるのは残念だ。





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ワイセンベルク演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ「月光」を聴く

2017-08-16 22:55:02 | ピアノ
前回の記事でワイセンベルクの弾く ベートーヴェンのピアノソナタ「熱情」を聴いて、彼が単なる技巧だけの奏者でないことを感想として書いた。
そして三大ソナタの一つである「月光」も聴いて、ワイセンベルクに対する感じ方を確かなものにしたいと思った。

ピアノソナタ第14番「月光」といえばピアノ鑑賞を本格的に拡げるきかっけとなった曲だ。
CDショップで何気なく買った1枚のCDが自分の音楽鑑賞の在り方を大きく変えた。
そのCDはハンガリー出身のゲザ・アンダ(Geza Anda 1921-1976)の弾くベートーヴェンのピアノソナタ3曲を収めたものであった。
その中に「月光」があり、この「月光」のゲザ・アンダの演奏があまりにも強烈に心に焼き付き、その後、ベートーヴェンのピアノソナタを数多く聴きまくるきっかけとなったのである。

今まで多数の「月光」の演奏を聴いてきたが、このゲザ・アンダの演奏を超えるものに出会っていない。
「月光」の演奏で難しいのはどんな要素だろうか。
第1楽章では、まずテンポの取り方が思い浮かぶ。
Adagio sostenuto(アダージョより少しテンポを抑え気味に)、そしてsempre legato(常になめらかに)と指定されているが、奏者によってかなり幅がある。
今まで聴いた第1楽章のテンポで最も遅かったのはソロモン・カットナーであるが、ワイセンベルクの速度はソロモンより僅かに速い。
それにしても最も遅い部類に入る。
メトロノーム記号でいえば♩=40未満である。
Adagioといえばギター曲では有名なアランフェス協奏曲の第2楽章の速度指定があるが、楽譜の指定では♩=44である。
メトロノームを音楽家で最初に利用したのはベートーヴェンであると言われているが、ピアノソナタにはメトロノーム記号が記載されていない。
Adagio sostenutoという速度は奏者の解釈により幅が生じるのは避けられないが、私自身としてはあまり速くすべきではないと感じる。

次に音量であるが、全体的に静けさを要求されていると思う。同時にsempre legatoである。
必要以上にテンポを崩したり、強弱の起伏を大きくすべきではない。また特定の音を強く強調するのも良くない。
特に下記の部分であるが、グルダやギレリス、ポリーニを始めとする多くの演奏は上昇音階をクレッシェンド、下降音階をデクレッシェンドしているが、楽譜にはそのような指定はない。



終結部に、短いが同じような音型の部分があり、ベートーヴェンはクレッシェンド、デクレッションドを要求しているが、恐らくこの部分と同様に弾くものだと解釈しているのかもしれない。
この部分の解釈は奏者により2分されるからとても興味深い(ブレンデルはずっとクレッシェンドかな)。
しかし私は上記の写真の部分は常に一定の音量(P)で弾くべきだと考える。
ワイセンベルク、ゲザ・アンダ、ソロモンはこの部分を静かに一定の音量で弾いている。

遅い速度でテンポを崩さず、常に静かで滑らかな弾き方で、同時に感情を表現することは難しい。
僅かな音の強弱、音の使い方の違い、表面的にはそうなのであろうが、ここは奏者の音楽性の違いが最も現れるところだ。
ワイセンベルクの演奏は、楽譜に記載された強弱記号をそのままに(大きく)表現していない。常に抑制され控え目であるが、これが彼のこの第1楽章に対する解釈の根幹を示していると思う。
あまり音の起伏を大きくしてしまうと、この楽章の主題からかけ離れると解釈しているのかもしれない。
その意味するところを理解するためにはかなりの時間を要するかもしれないが、この曲を理解するためのキーとなると思う。
なおワイセベルクの演奏は抑制されているからと言って、感情的なものが感じられないというのではない。抑制された表現でいかに感情的なものを引き出せるか、ということを念頭においた解釈である。

第2楽章は一転気分が変わる。
この第2楽章のテンポの選択も重要だ。
Allegrettoの指定であるが、あまりゆっくりだと間延びしたような変な感じを受ける。
ポリーニの演奏がそのような印象を受けたが、この第2楽章は第1楽章とは対照的に表現すべきだと思う。
すなわち、軽快に気分よく気持ちが乗るように演奏しなければならないと思う。
下記の低音部fpはあまり強調し過ぎない方がいい。ソロモンはかなり強調しているがやや違和感を感じる。ワイセンベルクはここを強調していない。
あまり好きな奏者ではないが、アルフレッド・ブレンデルがこの楽章を上手く弾いていた。
音をレガートにする部分と切る部分との使い分け、リズムの取り方が上手く融合していないと気分が乗ってこない。
この第2楽章と第3楽章との間は長く空けずにすぐに弾いた方がいい。
録音により間隔を長くとっているものがあるが、必ず興覚めする。

第3楽章Presto agitatoの速度であるが、文字通り解釈すれば、極めて速くかつ激しくということになる。
この楽章をアレグロくらいの速度で弾く奏者がいるが、駄目だ。
やはりPrestoで弾かなくてはならないと思う。なぜならばPrestoでないと激しい情熱が表現できないからだ。
超絶技巧を要するので、Prestoで各音を明瞭に淀みなく弾くことは至難である。
ワイセベルクはソロモンやハイドシェクよりもわずかに遅い速度であるが、技巧は極めて正確である。
この楽章をテクニックを強調するためがごとく弾いているような演奏に出くわすことがあるが、感心しない。エミール・ギレリスのライブ録音がそんな印象だったか。
ワイセベルクの演奏に、テクニックの強調という要素は微塵も感じられない。
ワイセベルクの演奏が時に機械のように精巧で冷たいと評されるの見ることがあるが、ここが大きな誤解なのである。
このように評する人は、音の表面しか聴いていない、いや表面しか感じられないのである。
音の裏側から聴こえてくるものに注意を払っていないし、感じられていないということだ。
ワイセベルクという人は、過度に感情を表す演奏家ではない。
しかし精巧で完璧とも言える技巧の裏から聴こえてくるものは、決して無機的なものではなく、まぎれもなく人間の深い感情だ。
例えば第3楽章の要となる下記の部分の演奏などは、決して技巧だけのものではないことが分かる。



一番最後のffの強い和音も凄い。


ワイセンベルクの演奏はいわゆる楽譜にやけに忠実で無機的であるが、技巧だけは凄いという演奏とは全く次元の異なる演奏なのである。
ワイセンベルクがパーキンソン病を患ってから30年以上経過し、その間の録音が無いことから、ワイセンベルクに対する評価が正しくされていないように思う。
私は彼が本当の意味での音楽家であることは間違いないと思っている。

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ワイセンベルク演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ「熱情」を聴く

2017-08-15 00:03:59 | ピアノ
数か月前から、ブルガリア出身のピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg、1929-2012)の録音を聴いてきた。
ワイセンベルクの名前を初めて聴いたのは、1970年代の半ば過ぎだったであろうか、私が当時中学生だったころにテレビのコマーシャルでショパンの夜想曲を弾く姿を見た時、姉がこのピアニストがワイセンベルクという人で、コンクール優勝後に突然演奏活動を中断していたことなどを教えてくれたことがきっかけだ。
私はまだその頃はピアノのことは殆ど知らなかったが、ワイセンベルクの名前はずっと記憶していた。
今年に入って、バッハのパルティータの聴き比べをしている時のワイセンベルクの演奏に出会った。
バッハのパルティータは今まで、シュ・シャオ・メイ、マリア・ティーポ、アナトリー・ベデルニコフなどの演奏を既に聴いていたが、ワイセンベルクの演奏に出会って何故か彼の弾くこのパルティータがより記憶に残るようになったのである。
一聴すると、超絶技巧で無機的な冷たい印象の演奏に思えるかもしれないが、何故か私には彼の演奏が心に響くものがあり、しばらく彼の他の演奏を聴いてみることにしたのある。

ベートーヴェンのピアノソナタを探したがCDはなかなか見つからなかった。
Youtubeでも確か第8番悲愴の第3楽章しかなかったはずだ。
しかし先日中古CDショップで偶然、幸運にも3大ソナタ(月光、悲愴、熱情)の録音を見つけ、買って聴いてみることにした。
今回は「熱情」の感想を書いてみたい。

熱情の演奏ではこれまで、マリア・グリンベルクの1950年代の録音、タチアナ・ニコラーエワの晩年のライブ録音、アリーヌ・ヴァン・バレンツェンの2度目の録音(LP時代)、ジャン・ミコーの録音などが印象に残っているが、ワイセンベルクの演奏はこれらの演奏とはかなり趣きが異なる。
正確無比で淀みない技巧であるがタッチは上記のピアニストたちに比べればかなり軽めだ。
第1楽章の激しい和音などはバレンツェンのような攻撃的とも感じられなくもない強い激しさとは明らかに違う。しかし音は軽い感じはしない。
何度か注意深く聴いてみると、意外に繊細な弾き方をしていることが分かる。
第1楽章終結部の下記のような部分は激しさの中にも繊細な感情が感じ取れる。バレンツェンのような豪放な印象とは正反対だ。



第2楽章は全体的に音量を抑制しており、テンポもゆったりとしている。
全楽章の演奏の中でこの第2楽章の演奏が最もいい。
とくに下記の部分の音の使い方、表現はとても繊細だ。





決して強く弾かない。テンポも速めない。

第3楽章はバッハの演奏にみられるような1音1音が分離した濁りのない音が特徴で、人によっては正確な機械のような演奏に聴こえるかもしれない。
しかし、私にはそのような表向きの印象より、感情のうねりや激しさの方を感じる。
不安や恐怖と同居したような情熱、葛藤から生まれ出る苦悩との激しい闘い。

ワイセンベルクは第二次世界大戦中の少年時代、ユダヤ人であるが故にナチスの強制収容所に入れられたが、母と共にそこを脱出、戦後、国際コンクールで優勝してから注目されたが、自らの研鑽のため10年間にわたり表舞台から退いたと言われている。
1980年代からパーキンソン病を患い、演奏活動は徐々に制限され、最後の録音は1988年だったとか。

ワイセンベルクの演奏、音楽に対しての信念、哲学は何であろうか。
機械のように精巧に、均一な音で、速く完全に弾くことを売りにしようとしているのか。
私はワイセンベルクの演奏に、冷徹とも言える精巧さの一方で、繊細な人間的なもの、静かな感情的主張を感じとる。ここが技巧だけの演奏家と全く、根本的に異なる。
この演奏家に対しての評価は、技巧のみだと評価する人と、強いオーラを感じると評する人とに二分されているようだ。
私は後者の評価の方が的を得ていると思う。

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立教大学マンドリンクラブ 和光公演を聴く

2017-08-06 01:10:28 | マンドリン合奏
今日(5日)、埼玉県和光市の和光市民文化センターで立教大学マンドリンクラブの和光公演があった。
立教大学マンドリンクラブの演奏を聴くのは4、5回になろうか。
関東地区の大学マンドリンクラブの中では中央大学に次いでハイレベルな大学だ。
この大学のカラーを改めて考えてみると、安定した高い技巧に支えられた、洗練された演奏と言える。
かつての私の母校のマンドリンクラブのように、感情やパワーを炸裂させるような激しさはないが、細かい部分をおろそかにぜず、端正で、曲の仕上がりの完成度が高い。リズムの取り方などもよく訓練されている。
今日の演奏会では、とりわけ1stマンドリン、ドラの音に芯のある美しい音を聴くことができた。

さて今日の演奏会のプログラムは下記のとおり。

第Ⅰ部

海の少女  作曲:服部正

Moon River  作曲:H.マンシーニ 編曲:小穴雄一 加筆:上田詩織

狂詩曲「海」  作曲:鈴木静一

第Ⅱ部

雲の行方(Phantasmal Overture vol.2)  作曲:柴崎利文

舞踊風組曲第二番  作曲:久保田孝

第Ⅰ部最初の曲「海の少女」は6月の中央大学の定期演奏会でも聴いた。
服部正(1908-2008)は、ラジオ体操第一の作曲者として有名であるが、学生時代にマンドリンクラブに所属していたことから、マンドリンオーケストラ作品も多い。
私は学生時代に「旅愁の主題による変奏曲」という曲を弾いたことがある。
「海の少女」はギターソロのあとの中間部の哀愁のある旋律がいい。
ドラの旋律の後に、フルートとマンドリンの旋律が重なる部分が美しかった。

2曲目の「Moon River」は誰でもが知っている有名な映画「ティファニーで朝食を」の主題曲。
日頃難しい曲ばかり聴いているので、このようなロマンを感じさせる曲を聴くのは久しぶりだ。
毎日、大半が仕事漬けの生活を過ごしている身からすると、この曲から連想される、非日常的な幸福感、長い人生にはそうあるものでは無い「生きることの喜び」を何かずっと遠い存在のように感じながらも、このようなひとときが毎日の生活に少しでもあればなあ、と思ってしまった。

第Ⅰ部最後の曲は鈴木静一の「狂詩曲 海」。
この曲は大学3年生の時の夏の演奏旅行(旭川)で弾いた思い出の曲だ。
この時の楽譜(ギターパート)が芥川也寸志の弦楽のためのトリプティークとともに紛失し、とても残念だ。
この曲は鈴木静一の初期の作品ながら人気曲で、学生時代の演奏以来、聴くのは30数年ぶりだ。
学生時代はギターパート中心にしかこの曲が聴こえていなかったが、今日改めてこの曲を聴き手として聴いてみると、こんな曲だったのか、と改めて新鮮な気持ちを感じた。
冒頭は夏の明るい陽射しを受け、ゆったりとした波の印象を歌ったものと思う。
その後、一変して、暗い、寂しい曲想に移る。
この寂しい旋律の後、速度を速め、あの印象的なリズミカルな音楽が流れる。
この鈴木静一特有の低音パートは30数年経過しても忘れていない。
ギターパートの運指も恐らく憶えているだろう。
1stマンドリンのソロの後、また鈴木静一特有の日本の郷愁を感じさせる素晴らしい旋律が流れる。
「雪の造型」の終楽章のある部分を彷彿させる。
その後、またこの曲の最も印象的な激しいリズミカルな音楽が再現され、一気に曲を終える。
今日の立教大学の演奏は、音の外れ、乱れなどが無く、完成度の高い演奏だった。

休憩のあと、第Ⅱ部に入る。
第1曲目、雲の行方(Phantasmal Overture vol.2)は恐らく初めて聴く。
冒頭の感傷的な旋律、和声進行は、若い世代の感性を感じるし印象的だ。
リズミの刻みも激しく、情熱的だ。なかなか力のある曲。構成力があり、高い技巧を要する難易度の高い曲だ。
昨今の若い世代の軽い曲とは一線を画す曲に感じた。ギターパートの使い方も上手い。
中間部は、難しいリズムの刻みの連続。
よほど時間をかけて練習を積み重ねないと完成できないほどの難しさ。
立教大学はよくここまで仕上げたと思う。
曲の変化が目まぐるしい。1stマンドリンの力のある旋律がよく他パートを牽引している。
長い中間部が終ると、冒頭の感傷的な旋律を1stマンドリンとギターのソロで再現し、全パートに引き継がれる。
最後の1stマンドリンの力強い、芯のあるトレモロに驚くとともに感動を覚えた。

第Ⅱ部最後の曲は久保田孝の「舞踊風組曲第二番」は1990年代半ば頃に買った、久保田孝氏が率いるマンドリンオーケストラの演奏CDで初めて聴いた。
久保田孝の曲の中では一番人気の曲で、マンドリンオーケストラの演奏会でかなり取り上げられている。
中間部の幻想的な美しい音楽は、他のマンドリンオーケストラ曲には無い、独特のものがある。
若い世代に受け入れられやすい音楽であろう。
後半部は速度の速い、リズムの刻みの難しい曲に移る。
ここでパーカッションが加わるが、立教大学の演奏はパーカッションと他パートとの音のバランスをよく考えた演奏だった。パーカッションを強くしてしまうと聴き苦しくなる。
終結部は、冒頭と後半部のフレーズを織り交ぜ、クライマックスを迎える。
柴崎利文の「雲の行方」に比べれば構成力は今一つであるが、親しみやすいエンターテイメント性を感じさせるところが人気のある理由だと思う。

今日の演奏会はプログラミングが成功したと思う。バランスがとてもいい。
力のあるマンドリンオーケストラ曲へのこだわりが感じられる選曲だ。
安易さや、聴衆への迎合により、親しみやすい曲ばかり選曲すると、マンドリン音楽の本当の魅力を感じることは出来ない。
鈴木静一、藤掛廣幸、熊谷賢一、帰山栄治などの世代の曲は既にマンドリンオーケストラ界では現代の古典曲のような位置付けとなり、演奏される機会が昔に比べかなり減少したが、これらの作曲家の後を引き継ぐ世代の作曲家の曲に聴くべきものは正直言って無い。
しかし今日、立教大学の演奏で聴いた柴崎利文の曲は新たな発見であった。
いかにも現代の世代の作風であるが、曲の構成力が大きく厚みがあり、力強い。
他の曲も聴いてみたい。

立教大学の今日の演奏は、音の間違い、乱れが殆どなかった。
ハイポジション、難しいパッセージでの音の間違いはかなり目立ち、時にそれが曲を台無しにすることすらある。
一見地味な演奏に聴こえたが、思い返すと豊富な熱心な練習量に支えられた、マニアックな演奏で細かいところも妥協を許さない厳しさを感じさせた。
欲を言えば、腹の底から湧き起るエネルギーを感じさせて欲しいとも思ったが、大学のカラーはそれぞれ異なっており、その違いを楽しみのもいいと思った。

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