緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

山本和夫作詞、岩河三郎作曲 合唱曲「十字架(クルス)の島」を聴く

2016-07-31 23:52:34 | 合唱
5年前までは合唱曲を聴くことはなかった。
昔から歌謡曲にも関心が無かったし、フォークソングやロックなど思春期にちょっとかじったけどすぐに冷めてしまった。
歌を伴う音楽を聴くのは30代になって子守唄に関心を持ったくらいか。

子供の時から歌を歌うのが大嫌いだったせいなのか。
中学校時代に合唱大会というものが確かあったが、歌った曲も場面も殆ど記憶が無い。
しかしそれでも強烈に記憶に残っている出来事があった。
それは中学3年生の時に地区の学校の合唱大会で、「木琴」という歌を歌ったことであった。
このことは今まで何度か記事にしたので繰り返しになるが、歌の大嫌いな私が、心底歌うことに熱中した生涯唯一の出来事であった。

もちろん一緒に歌ったクラスの連中がとても仲が良く、結束が高かったこともあるが、この「木琴」という曲の悲しい旋律が、思春期真っ盛りだった当時の私の心に強く刻みこまれたからであろう。

中学を卒業し、高校時代、大学時代、就職してからも合唱曲とは一切無縁であったが、何故かこの曲の旋律が忘れられなかった。
何かふとしたことで、この旋律が心に流れてくることがあった。
そしてこの曲をもう一度聴きたいと思ったが、この曲の題名は既に忘れてしまっていた。
曲の出だしの歌詞が、「妹よ」で始まるので、「妹よ」という曲だと思い込んでいた。

何度か探したが見つけることは出来なかった。
しかし今から5年度ほど前に、Youtubeでやっとこの曲を見つけた。
それは実に32年ぶりの再会であった。
この曲は、まさに、中学3年生の時に歌った、あの思い出の曲であった。
この時に感じた強烈な感動は今でも忘れられない。
その時この曲が「木琴」という名前の曲であることに今さらのように気が付いた。

この出会いの後にこのYoutubeの演奏を何度も何度も聴いた。
砂漠でのどが渇いて水を飲みなくなってどうにもならなくなった人間が、オアシスに出会って水をむさぼるように飲み続けるようなものだった。

この出会いと「木琴」を2か月くらい毎日飽きずに聴き続けたことで、何か心の重しが軽くなると同時に、もっと合唱曲を聴きたいという気持ちに目覚めた。
これがこの時を境に合唱曲にのめり込んだきっかけだ。

つい先日、合唱曲人気ランキングなるものをたまたまインターネットで見つけたら、お勧めの曲として、「木琴」と同じ作曲者の「十字架(クルス)の島」(山本和夫作詞、岩河三郎作曲)という曲が紹介されていた。
早速Youtubeで探してみたら、見つかった。

曲想は「木琴」と同じような構成を取るが、「木琴」が暗く悲しく曲を終えるのに対し、この「十字架(クルス)の島」は明るく希望を感じさせるような終わりかたをしていた。

この曲は、かつて江戸時代に幕府から弾圧を受けて悲惨な最後を遂げた隠れキリシタンの無念の悲しみを歌ったものだ。
中間部の讃美歌と終結部を除き、曲は暗く、重く、悲痛だ。ところどころ「木琴」を彷彿させる。
Youtubeで記載されている歌詞を読みながら曲を聴くと一層、悲痛さを増すが、残酷な歴史の暗部をただ単に訴えるのではなく、ひとりひとりの人間の命の尊さと、どんなに障害がたちはだかっても、正しいことを信じ続けることの大切さ、人間の精神の強さのようなものが伝わってくる。
この曲が名曲であり、人気曲である所以であろう。
昭和の時代の曲であるが、世界情勢が悪くなりつつ現在において、この曲の価値はますます高まっていくと思う。

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チャールズ・ローゼン演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第31番を聴く

2016-07-30 23:36:02 | ピアノ
チャールズ・ローゼン(Charles Rosen 1927~2012)というアメリカのピアニストの演奏を初めて聴いた。
打鍵はそう強くないが、芯のある透明な音。
おのおのの音、各声部の音が明瞭に分離されて聴こえてくるのが第一印象だった。
聴いたのは、私の最も好きなピアノ曲の一つである、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番。
録音:1970年。

この曲も様々な奏者の演奏を数えきれないほど聴いてきたが、当たりもあれば外れもあった。
テクニック的には申し分なくても、要求される深淵な感情表現が達成されていない演奏が多いと、正直感じる。

チャールズ・ローゼンというピアニストの演奏はとても正統的な演奏で、細かい部分もあいまいにせず、明確、明瞭に表現する。
第32番の演奏も聴いたが、今まで聴いたベートーヴェンノピアノソナタの演奏での技巧力はトップクラスだ。
第32番のあの長いトリルの随所での切れ目でも決して切れたり乱れたりしない。
恐ろしいほどのテクニックであるが、ポリーニのような冷たい精巧さというものはなく、もっと人間的なものを感じた。

冒頭に打鍵はそう強くないと書いたが、第31番第3楽章の「嘆きの歌」で聴こえてくる旋律の音は芯が強く、感情も強い。
しかし、「嘆きの歌」はとても悲しいのだが、同時にとても美しい。
この「悲しさ」を「美しさ」にまで感じさせる作曲者の創作能力の高さにも驚愕するが、この2つの要素を同時に表現できる奏者は、今までたくさん聴いてきた演奏の中ではごくわずかしかいない。
今日この演奏を聴いて、チャールズ・ローゼンはこの2つの要素を表現できていると感じた。

最後のフーガに入る前の強い和音の響きも重厚だ。
最後のフーガの速度は遅い。
人によってはもどかしく感じるかもしれない。
しかしこのフーガの各声部の表現は今まで聴いたことのないものを感じさせる。
このフーガをテクニックの見せ所ととらえてやたら速く弾く奏者もいるが、それと対極にある演奏で、このような演奏は初めてだ。
ローゼンほどの技巧の持ち主であれば、この部分を誰よりも速く完璧に力強く弾けるであろうが、そうしないところが、この奏者が自分の解釈に確信を持っていることを感じさせる。

最後の下降・上昇音階は速度を緩めることなく、強く弾き切った。
これが絶対正解だ。

HMVのCD全集の紹介によると、チャールズ・ローゼンは、知る人ぞ知る名ピアニストであり、録音はかなり多いが、1970年代前半まで。
その後は、著述家、音楽学者としての活動が主体となっていたようだ。
ベートーヴェンのピアノソナタの解釈本や、『音楽と感情』、『ピアノ・ノート』などの優れた著作があるという。

彼の演奏を聴くと、学究肌のように感じないでもないが、地味ながら感情表現はかなり強く感じる。
このような演奏を聴いたのは初めてであり、今後もっと彼の演奏を聴いてみたい気持ちに駆られると共に、ピアノ界の幅の広さ、奥の深さに驚かざるを得ない。

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田中カレン(Karen Tanaka) “Rose Absolute”を聴く

2016-07-24 00:42:31 | 邦人作曲家
2年くらい前だったであろうか。
以前、当プログでコメントを下さった方が、作曲家の田中カレン(Karen Tanaka,1961~)の“Rose Absolute”という曲を絶賛していた。
すぐにその曲を探したが見つけることは出来なかった。
新品CDでは、子供のためのピアノ曲集が発売されているものの、田中カレンのオーケストラ曲やピアノ以外の器楽曲の録音など、皆無に等しく、彼女の音楽の全貌を知ることはとても困難であった。

今日偶然にも田中カレンの曲が収録されたCDを見つけた。
マイナーレーベルであるBISから発売された、”Jpanese Orchestral Music”と題するCDで、伊福部昭、尾高尚忠、和田薫などのオーケストラ曲が収められている。指揮者は広上淳一。



このCDで収録された田中カレンのオーケストラ曲は、”Prismes pour orchestre”(1984、オーケストラのためのプリズム)という曲であったが、聴いてみると難解な現代音楽であった。

現代音楽も悪くないが、私はコメントを下さった方が薦めてくれた“Rose Absolute”(2002)という曲をどうしても聴きたくなり、本腰を入れてインターネットで検索した。
そしてやっとこの曲を見つけて、何と試聴も出来るので心が躍ったが、約10分の曲に対し、2分半ほどで切れていた。
これは残念。

“Rose Absolute”の印象は、穏やかな優しい曲。聴きやすく、気持ちのいい朝の始まりを感じさせる曲だ。
ピアノと管弦楽器、打楽器(トライアングル)で構成されている。
冒頭のみの再生だったので、その次の展開は未知。

スコアも閲覧できるようになっていたが、著作権は大丈夫なのか。
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福永武彦著「幻影」を読む

2016-07-23 00:16:51 | 読書
帰省先の古書店で、「心の中を流れる河」と題する本を偶然見つけた。
著者は福永武彦氏。
昭和47年に発行されたその本は、箱から取り出すとパラフィン紙が少しのずれもなく、しおりが綺麗に折りたたまれていたから、恐らく一度も読まれたことがなかったに違いない。
その45年前の本を350円で購入した。

福永武彦の名前は聞いたことはなかった。
しかし直感で読んでみようという気持ちになった。
この直感は外れることもあるが、運よく、いい出会いとなった本もある。
去年の8月に出会った一色次郎、その一年前に読み始めた高橋和巳、そしてその2、3年前に全集を完読した結城信一がそうである。
一色次郎はこの半年間でほとんどの著作を読んだ。
彼らに共通しているのは、第二次世界大戦中に少年時代や青春時代を過ごしており、その暗い戦争体験が作品に滲み出ていることである。

福永武彦著「心の中を流れる河」は、8つの短編で構成されていた。
1日で全て読み終えたが、その殆どがとても暗い内容だった。
8つの短編で最も読み応えがあったのが「幻影」と題する小説であった。


かつて、明日の生死もわからぬ戦争中に、命がけの恋愛があった。
男が出征する前に、男は毒薬を手に、女に一緒に死のうといった。
女は何のためらいもなく、即座に同意した。
しかし男は躊躇した後、考えを変え、毒薬を二人で分かち合い、万が一の時はこれを呑んで死ぬ約束をして別れた。
男はその後出征し、戦地への赴く輸送船で敵の魚雷を受け、転覆寸前の船の中で、生に目覚める。
つまり女と一つに共有していたものが、戦争という極限状態の中での死への恐怖から逃れるための幻影であり、その幻影に陶酔していただけに過ぎないのではないか、ということに気付き、幻影の外の現実に生きる決心をするのである。
男は終戦後無事生きて帰ってきた。
そしてかつて死ぬ約束をした女に会いにいったが、彼女は余命いくばくも無い病魔に冒されていた。
そして女はそれから毎日男に無益な手紙を書き続ける。
女はかつて戦争という極限状態のさ中で、2人で固く誓いあった幻影のままでに生きていた。
女の病棟の友人から無理やり呼びだされた男は、女にかつて分かち合った毒薬で一緒に死のうと言われる。
しかし男は幻影から覚めて現実に生きるようになった以上死ぬことなどできるはずもなく、そそくさと帰ってしまう。
その三日後、女は帰らぬ人となった。


短いあらすじだけではこの小説の本当の真意は分かるはずもないが、戦争中に出会い命がけの恋愛をした男女が、お互いに現実に迫る死の恐怖の中で、取り交わした約束を、女は一途なまでに想い続け、男は敵の攻撃を受け、死に直面したことをきっかけに、それが幻影であることに気付き、現実主義者に変貌した。

幻影を頑なに抱き続ける女と、幻影を捨て現実に生きようとする男との最後の結末が何とも後味の悪さを残したが、考えさせられることが多く、この小説は3,4回読み直した。

この小説の最後に主人公(恐らく著者自身であると思うが)が、「最後まで一つの幻影を追って死んだ女と、自ら幻影を棄てて現実の中に生きた男と、果たしてどちらの方が幸福だったろうかと、いつまでも考えあぐねていた。」と結んでいる。
私自身もどちらの生き方、考え方が正しいとか、どちらが幸福になれたかかなど結論づけることはできない。
ただ言えることは、この戦争中に、後で幻影だと言われようが、命がけの恋愛というものがあったということだ。
この時代は、男女が話をすることも難しい時代であったようだが、とくに女性の男性に対する純粋な思い、男性に対する尊敬の念というのは、今の時代に見ることは出来ない。
戦前の教育というものの影響かもしれないが、それだけではないように思う。

戦後、欧米の文化や生活様式、考え方が流入し、良くも悪くも日本人はその影響を受けた。
しかし、戦争を体験した作家の著作を読むと、戦前の男女の恋愛にはもっと尊い高貴なものを感じる。
これも勝手な理想化かもしれないが、私には少なくともそのように感じられる。

死ぬ約束までした男女。
幻影を頑なに守るか、幻影を棄て現実に目覚めるか。
その違いは何なのか。
それは相手を思う気持ちの重みの違いだと思う。
すなわち、女はこの男を生涯を共にできる人だと確信した。その短い間にこの男と過ごした時間は、彼女にとって一生涯の幸福であったに違いない。
しかし男は、迫りくる戦争での死の恐怖から逃避するための気持ちに過ぎなかった。
男は無意識ではそれを知っていたが、沈没する船の中で現実の死に直面するまで意識出来なかった。
男は心変わりしたけど、それをもっと早く女にはっきり伝えなかった。
死期が迫る彼女に真実を伝えるのはあまりにも残酷だった。

福永武彦(1918~1979)の著作をインターネットで調べていったら、結構数多くの著作が検索できた。
そして文学賞には恵まれていなくても、高い評価を得ていることが分かった。

毎年、芥川賞とか直木賞が発表され、受賞した作家は、~賞作家だとかもてはやされるが、一体どれだけ実力があるのだろうか。
賞を受賞していない作家=実力の無い作家、賞を受賞した作家=実力のある作家、というような公式、構図がまかり通っている今の文学界にはいささか辟易するが、そんな賞は無視して、自分の気持ちや感性に従って、作家を探していけば、予想もしないいい作品に出会えるものだと思う。

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五木の子守唄を聴く(2)

2016-07-21 21:07:37 | その他の音楽
勤め先の夏休みで5日間ほど帰省していた。
帰省先の図書館で五木の子守唄ばかり収められたCDを借りた。
古来からの2拍子の正調から始まり、現在一般的に広まった3拍子の旋律まで、独唱から楽器への編曲などの25曲を聴くことができた。
この25曲の中で、ひときわ強い感動を覚える演奏があったので紹介したい。

歌:パリ木の十字架少年合唱団/東京少年合唱隊/ボニージャックス
編曲:丹波 昭

私は5年ほど前に、あることをきっかけに合唱曲が好きになったのであるが、聴くのはもっぱら高校生の演奏であり、中学生、小学生の演奏は殆ど聴いてこなかった。

何故、中学生、小学生の演奏を聴かなかったのか。
それは、声が子供っぽいという先入観があったからだ。

今回、私の好きな子守唄である「五木の子守唄」のCDで、この少年合唱団とボニージャックスとのジョイントを聴いて、少年たちの声の純粋な美しさにとても感動したのである。
冒頭の少年のソロの声を初めて聴いて、その声が耳から離れなかった。
そしてこのCDの演奏を何度も繰り返し聴いた。

冒頭のソロは10代前半から半ばまでの女子の柔らかい歌声に聴こえた。
この歌声が、気負いや力みの無い、極めて純粋で自然なのである。
それだけでなく、素朴な歌声の裏から何とも哀しい気持ちが伝わってくるのだ。

歌は4番まであり、ソロ-全体合唱-ソプラノとテノールの輪唱-全体合唱という構成。
2番目のソロはパリ木の十字架少年合唱団のメンバーであることは間違いないが、最初のソロはパリ木の十字架少年合唱団か東京少年合唱隊かどちらのメンバーかは判別できない(多分パリ木の十字架少年合唱団だとは思うが)。
編曲者は現代音楽作曲家の丹波明氏であるが、この無伴奏の編曲は成功している。
キーは嬰ヘ短調であり、少年たちの歌声を最も強く引き出す調性を選んでいる。

Nコンなどで、中学生が、中学生離れした成人が歌うような演奏をしているのを聴くことがあるが、そのような演奏は好きではない。
自然に逆らい上手く歌おうとして、時に表面的に成功するかもしれないが、自分の自然を意識的に犠牲にして上手く歌うことで、失うものは大きい。
名誉とか名声とか、そんなものを動機に演奏していると、聴き手は意識せずともそれを感じるものだ。
表面的に上手いというだけに過ぎない。

勿論この少年合唱団のメンバーたちは、天性の美しい声を持っているのであろう。
しかし基礎的なこと以外は、上手く歌うことを強要されていないように感じる。

パリ木の十字架少年合唱団のメンバーたちは、この日本情緒漂う「五木の子守唄」の旋律の美しさに心底感動したのではないか。
でなければ、声の美しさだけでこんなに聴き手を感動させられるわけがない。

このジョイントの演奏は、1971年11月にキングスタジオで録音された。
ライブではなく、聴衆もいないが、このジョイントのメンバーたちみんなが、この子守唄の持つ素晴らしさに意識せずとも感動し、気持ちを一つにして、歌っているのが伝わってくる。
この演奏者たちは歌いながら間違いなくこの子守唄に感動している。

今まで五木の子守唄はたくさん聴いてきたが、この演奏がこれまでのうちの最高の出会いだ。



おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早(は)よ来(く)りゃ 早よもどる

おどま かんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆(し)
よかしゃ よか帯 よか着物(きもん)

おどんが うっ死(ち)んだちゅて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅきゃ
裏の松山ゃ 蝉が鳴く

花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水
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