緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

熊谷賢一作曲 マンドリンオーケストラの為のバラードⅥ「北の国から」を聴く

2018-07-22 22:54:26 | マンドリン合奏
熊谷賢一の曲を再認識して1年余り。
学生時代に他大学とのジョイントコンサートで弾いた「マンドリンオーケストラの為の 群炎第6番-樹の詩-」を紹介してもらった音源で聴いて大きな衝撃を受けた。
学生時代に演奏していた時は、この曲の全貌、素晴らしさが分からなかった。
この曲の初演者の演奏を聴いて、様々な強い感情が湧き上がってくるのを感じた。
間違いなくマンドリンオーケストラ曲の傑作だと確信する。
この曲との再会をきっかけに、熊谷賢一という人物に関心を持つようになった。
熊谷賢一氏は私の両親の少し後の生まれであったが、戦争体験者である。

熊谷賢一の曲から伝わってくるのは「どん底からの再生」だ。
「どん底」とは経済的なものではない。精神的絶望だと思う。
どん底から生きることの意義を見出した者の持つ、生に対するすさまじいほどのパワー。
熊谷賢一氏が子供時代に戦争を体験し、その過程でどんな悲痛な思いをしたかは分からない。
大事な人との別れがあったかもしれない。
しかし熊谷氏の音楽を聴いていると、何も戦争だけに特化しない、広く時空を超えた、立ち上がれないほどの衝撃を受けた人間に対する「受容」の気持ちが伝わってくる。
熊谷氏の音楽にはその根底に、自己を肯定するメッセージが暗黙のうちに織り込まれているような気がする。
かなり抽象的な言い方であるが、私にはそのように感じられるのである。

熊谷賢一の曲の中で、 「樹の詩」以外ではマンドリンオーケストラのためのバラード第4番「河の詩」が素晴らしい。
この曲の感想は以前記事にした。
そして今日紹介する、マンドリンオーケストラの為のバラードⅥ「北の国から」も素晴らしい曲だ。
題名の「北の国から」が何を意味するのか全く情報が無い。
1980年代から20年間放映されていたドラマとの関係はあるのか。
「北の国」とは日本の北海道や東北のことなのか、それとも外国を指しているのか。

冒頭はギターのホ短調のアルペジオの伴奏から始まる。
録音は初演者の広島修道大学マンドリンクラブの演奏(Youtube)。
このギターの独特のアルペジオがこの曲の特性を引き出している。
ベースからセロを続く比較的長い前奏を経てテーマが奏される。
作曲は1994年であるが、1990年代という感じはしない。
1970年代後半から1980年代前半の時代の雰囲気が蘇ってくる。
テーマの後の展開で、中学校時代に見た家の近くの夕暮れの針葉樹林の林の景観が浮かんでくる。
4:40あたりから次第にクレッシェンドし、徐々に下降していくフレーズがあるが、静かに下降した5:30から6:04までの部分がとても感情が刺激される。
聴いてくださるなら是非この部分を注意深く聴いて欲しいと思う。
何かとても暖かい優しいものを感じないだろうか。
ここが作者の「受容」の気持ちが現れた箇所だと思う。
同時に「生」の息吹に満ちている。
清冽な何も濁りのない気持ちだ。
5:38のギターのアルペジオが素晴らしい。
6:05から6:51までのギターの音の表現は難しい。乾いた軽い音では伝わらない。

8:00からのギターパート独奏に続き8:30から曲想は一転してワルツとなる。
この部分も注意して聴いて欲しいと願う。
マンドリンパートの独奏の感傷的な旋律に続きギターの難しいパッセージが奏される。
優雅に聴こえるが何故か悲しい。
幸福なひとときを願い、夢みても実現できない悲しみの気持ちが裏にあるのだろうか。
あるいは夢を実現しても何かこころのどこかに幸福に浸れない何かを感じているのかもしれない。
何故幸福感に浸れないのか。
感じ方はいろいろあるだろうが、私にはそのように感じられる。
このワルツの素晴らしいところは、幸福感そのものを表現しなかったことだ。
こんな表現の出来る作曲家はそういない。
幸福感とやるせなさ、淋しさ、悲しみの同居した気持ち。
「淋しさ」の気持ちが強いかもしれない。
ワルツの最後は重々しい暗い終わり方だった。

ワルツの後に激しさを増し、ティンパニーによる和太鼓のような打音のもとにテーマが再現される。
そしてあの冒頭の独特のギターのアルペジオが再び現れ、テーマが繰り返され、最後は穏やかに静かに終わる。

熊谷賢一の曲は人間の様々な感情を主題にしている。
もっと演奏会でとりあげられるべき曲だと思う。

熊谷賢一:バラードⅥ「北の国から」
コメント

母校マンドリンクラブ50周年記念演奏会参加

2018-07-18 00:04:05 | マンドリン合奏
7月16日、札幌市教育文化会館で母校マンドリンクラブの創立50周年記念演奏会が開催されたが、演奏者として参加してきた。
これまでも10年毎の節目に記念演奏会を開催していたとのことだが、20周年の時は既にOBとなっており、就職で東京に出てきていたためなのか、案内などの情報は全く得られず、30周年の時も同様で、このような記念行事の存在を知ったのは40周年の時であった。
40周年の時は、同期のMが直接電話で誘ってくれて、その後も演奏会直前までメールでやりとりがあった。
この時はOB会から封書で記念演奏会の案内が送付されてきた。
しかしこの40周年の時、今から10年前の2008年の時は仕事がとても忙しく、演奏会参加はもとより懇親会の参加も実現できなかった。
藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」がメイン曲だったので、残念と言えば残念ではあった。

大学を卒業後、20年くらいはマンドリンオーケストラとは全く無縁の日々を送っていた。
元々ギター独奏をやっていたし、卒業後も独奏に戻って演奏活動も独奏しかやらなかったと言っていい。
しかしマンドリンオーケストラ曲のことはやはり潜在的に心に残り続けていた。
1990年代の終わりくらいの頃だっただろうか。
現代ギター社のショップで、たまたまフォンテックから出ていた中央大学マンドリン倶楽部演奏の「鈴木静一作品集」を見つけて、このCDをきっかけに徐々にマンドリンオーケストラへの音楽熱が復活してきた。
このCDには学生時代に演奏した「交響譚詩 火の山」や「大幻想曲 幻の国」などが収録されていた。
同じくらいの時期だった思うが、これも現代ギター社でたまたま見つけた「鈴木静一 そのマンドリン音楽と生涯」という著作を買った。
その後、2000年代初めだったと思うが、学生時代の定期演奏会などでよく取り上げられた藤掛廣幸の曲を聴きたくなり、藤掛廣幸の事務所から何枚かのCDを買って聴いた。
今ではマンドリンオーケストラのようなマイナーな音楽ジャンルでもYoutubeで無数とも言える録音が聴けるようになったが、Youtubeが出来る前は自分で音源を探しだすしかなかった。
東京を中心にマンドリンオーケストラの学生や社会人団体が多数あるので、実際に生演奏を聴きに行くという手段もあったが、当時の私にはそこまで情報を求めることはできなかった。

Youtubeを聴き始めたのは2010年頃。
この時は既に40周年記念演奏会は終わっていたが、この頃のYoutubeでは今よりもはるかに投稿が少なかったが、鈴木静一の「失われた都」など人気曲の動画を観ることができた。
こうして次第にマンドリンオーケストラ曲に対する思いが膨らんできた。
CDなどの音源を聴くだけでは満足できず、中央大学などの学生オーケストラの生演奏を聴きにいくようになった。
そして今から2年前に、鈴木静一の曲だけを演奏する大規模演奏会を聴いた。
今から思えばこの演奏会を聴いたのが決定的だった。
聴くだけでなく実際に演奏してみたい、と思うようになったのである。
しかしこの時は未だせいぜい願望、夢のレベルであった。
しかし学生時代に弾いた、今でも最も好きな曲である「交響譚詩 火の山」だけはどうしても実演でもう一度でいいから弾きたかった。
マンドリンオーケストラ曲の中でこの曲ほど自分に影響を与えた曲はない。
そして偶然にも今年新宿で開催された鈴木静一の大規模演奏会で「火の山」をやることを当ブログの記事を通じて教えていただき、また出演も誘ってくださったことで迷いもあったが、この演奏会に参加することで、卒業以来30数年振りのステージを踏んだのである。

この演奏会の申し込みは昨年5月であったが、その後、前回の参加を逃した母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会の方も参加できれば、と思うようになった。
50周年はかならずやるだろうと思っていたが、案内は送られてこない。
たまたまであるが、インターネットで大学のOB会のホームページで機関誌のPDFが見られるようになっているのを見つけ、その中の広告に母校マンドリンクラブの50周年記念演奏会が7月16日に開催されることを知った。
もうとっくに案内状は送付されているはずであるが、引越しで住所が変わったためなのか届いていなかったようだ。
そこでクラブの現役の部長にメールを入れて、情報を送ってもらうよう依頼した。
ほどなくして実行委員会の方やギタートップの方から連絡があり、楽譜も送って下さった。

こうして、5月開催の大規模演奏会の練習とは重なるが、母校の50周年記念演奏会の練習をすることになった。
50周年記念演奏会のプログラムは以下のとおり。
(現役生演奏の第Ⅰ部は省略)

第2部(OB・OGステージ)

ミュージック フォー プレイ  クラウディオ・マンドニコ 作曲
ラプソディー イン ブルー  ジョージ・ガーシュイン 作曲  遠藤秀安 編曲
流星群  末廣健児 作曲

第3部(現役生・OB・OG合同ステージ)

序曲 レナータ  イヤサント・ラヴィトラーノ 作曲
交響的前奏曲  ウーゴ・ボッタキアリ 作曲
交響詩「北夷」 鈴木静一作曲



とびぬけた難曲は無かったが、最も難しかったのがボッタキアリの「交響的前奏曲」。
ボッタキアリの曲は5月末に入った社会人団体の演奏曲目で「夢の魅惑」と同様、左指の運指とリズムの変化を読み取るのがとても難しい。
末廣健児の「流星群」は若い世代の作曲家らしく、現代風のポピュラー曲的な雰囲気を持つ曲で、私自身はあまり好きでないのだが、ギターパートの譜面が良く出来ていて、恐らく作曲者はギターの奏法を熟知しているのであろうが、ギターでの演奏は弾き応えがあった。
鈴木静一の「北夷」は技巧的にはそれほど難しい曲では無かったが、最初の出だしからしばらく続く「しずく」を形容する、2つの弦を滑らせるようにして奏する部分の入りが難しく、本番の前日の練習までその入りのタイミングをつかむことができなかった。

楽譜を入手したのが1月の下旬だったと思うが、すぐに練習に入れなかった。
5月に開催された大規模演奏会の練習で手一杯だったからだ。
それでも4月中旬に札幌に行き、合同練習に初めて参加した。
初見に近いレベルだったので、まだまだ満足に弾けなかったが、同期のMや2年上のギターのTさん、マンドリンのKさん、後輩のベースのO君に30数年振りで再会し、それがなによりも嬉しかった。
そして大規模演奏会が終った翌月の6月の中旬、札幌の合同練習に第2回目の参加をした。
この時は、初回の参加時に比べ多少は弾けるようになっていたが、入りの難しい箇所でとんでもないフライングをして隣に座っていたギターパートで第2部の指揮者の方に注意を受けたりするなど、先行きが不安になった。
こんなわずかしか練習に参加できない人間がこのような記念演奏会に参加していいのだろうか、という気持ちも起きてきた。
更に5月末に大規模演奏会の縁で入った社会人団体の練習も重なり、また6月末に予期せぬ転勤で通勤時間がそれまでの30分から2時間半に拡大したことで、練習時間を十分に確保できなくなってしまった。
それでもこの演奏会に出たい!、という当初の気持ちを思い起こし、毎日の睡眠時間が4時間となったが、できるだけの練習を重ねていった。
そして7月15日の前日練習に臨んだ。

14日の昼過ぎの格安航空会社の便を利用して実家に行く。
千歳空港に着いたら気温18℃。
自宅を出た時は36℃だったので20度近い気温差。寒い。
長袖を持ってきておいてよかった。

実家に着いて既に宅急便で送っておいた楽器で練習をしようと調弦したとき、思いもかけないことが起きた。
4弦のペグを回していたら突然弦が切れたのである。
この弦は一度使用していたのを楽器から外して密封容器で長期保管していたのを再使用していたものだった。
この弦で6月中旬の合同練習に参加したが、この時は問題無かった。
原因はブリッジに固定する際に巻き付けた弦の輪と、サドル方向に延びる弦との接点で、金属の巻き弦がほつれて中のナイロンの芯線がむき出しになってしまい、そこから切れたことであった。
予備の弦は持っていくつもりで、出かける前の準備の時に気付いてはいたのだが、うっかりカバンに入れるのを忘れてしまった。
もしかすると札幌に住んでいる兄が実家にクラシックギター弦の予備を置いているかもしれないと思って、兄に電話したら十勝岳の登山の帰りで車の運転中だったが、実家まで来てくれてすぐに車で楽器店まで連れて行ってくれて、張り替え用の弦と予備の弦を買うことが出来た。
弦はオーガスチンの青ラベルを張った。
演奏会本番に切れなくて助かった。

前日練習は意外にも札幌すすきの近くにある廃校となった学校の校舎の中で行われた。
同期のMや先輩のTさんが来ているものだと思っていたが、2人は来ていなかった。
2人は6月中旬の練習の時にも来ていなかった。しかし同じパートで1年上のAさんがいた。
心細さと不安を感じながら午前中は第2部の練習を行う。
今日初めて合同練習に参加するというOBの方も2、3人いた。
部分的に弾けなかったり入れなかったりする箇所はあったが、6月中旬の時よりもかなり完成度が上がってきていた。
すこし気が楽になる。
昼休みに練習会場を出ようとしてその時、同期のMが息を切らせながら会場に入ってきたので声を掛けた。
体調が悪く、午前中は参加できなかったようだ。
しかしMが来てくれたおかげで午後の練習ははるかにリラックスして練習できた。
練習の合間に昔話や音楽について途絶えることなく話ができた。
そして、「北夷」の難所、あの「しずく」を表す復弦の打音の入り方のコツをMに聞いてみた。
すると「2拍目」で入ればいいんだ、との回答。
なーんだ、そうだったのか。言われてみればそれが最も確実な入り方だった。
指揮者の指揮棒を注意深く観察すると、1拍目の打点の際にギターパートの方角に体を向け明確に1拍目を振り下ろし、次の2拍目で微妙に指揮棒をゆらして復元の打音の指示を出していたことが分かった。
しかし時はすでに遅し。本番では何か所か怖くて弾けなかった箇所があった。ずれて打音してしまうと目立ってしまうので、断念せざるを得ない。残念であるが仕方がない。

前日練習の後は有志参加の団結の飲み会に参加した。
私よりも上の世代のOBを中心に15名程度の参加であったが、OBの方でソムリエとして店を開いている方の厚意により、店を貸し切っての飲み会となった。
そこで4月中旬に初めて合同練習に参加した際に声を掛けてくれた、私より5代上のマンドリンのIさんから音楽だけでなく、仕事上の考え方、現在の心境など話して下さり、私と業界は全く異なるとは言え、仕事に対する思いの強さを知ることができた。
Iさんは確か5月まで東京方面に単身赴任されていて、その間に千葉県F市を拠点に活動している社会人マンドリン団体に所属していたとのこと。
4月の合同練習の際にこの団体に入らないかと誘われた。
この団体は母校のOBが設立した団体とのこと。
そういえば5月に開催された大規模演奏会で同じギターパートだった方に、この団体に所属している方がいて、その方からも誘われたが練習時間が遅く、帰宅できないので断念せざるを得なかった。
そして今回は演奏には参加しないが実行委員会のメンバーとして演奏会を支えて下さった1年上のマンドリンのOさんとも話をすることができた。
Oさんと同期のOBの消息などを聞いた。
また私と同じように東京方面から練習に来ているOBでNさんとも話をすることが出来た。
NさんはOBの中ではよく知られた方で、3代上の先輩であるが、現在は埼玉県U市を拠点に活動している社会人団体に所属しており、鈴木静一の大規模演奏会には今年は参加できなかったが、前回、そして確かその前も参加したとのことだった。
Nさんの所属する団体が来年の定期演奏会で鈴木静一の「失われた都」をやるので、掛け持ちでもいいから参加してみないかと誘われた。
今入っている団体と演奏会のタイミングが重なるので参加は難しいが、嬉しかった。

そしていよいよ演奏会当日。
午前中はリハーサル。1曲ごとに通すのみ。
響きが練習の時とかなり異なる。とくに他パートの音が聴こえづらい。
また指揮者が良く見えない。
これは大規模演奏会の時も経験したが、出演者の人数が多いとスペースに制約が出てくるので、椅子はほぼ固定で動かせない。
位置によっては指揮者が見えないこともある。今回も見えにくい位置だった。

慌ただしく昼食を済ませ、第1部が終るのを待つ。
昼休みから第1部が終るまでの間、同期のMと学生時代に弾いた曲で覚えている曲のワンフレーズを弾いた。
私は「火の山」、「英雄葬送曲」、「仮面」、「樹の詩」、「ピエモンテ王子」などを弾いた。
Mは「リメンブランツア(戸井田まこと)」などを弾いてくれた。

本番は緊張で弾けなかった箇所もあった。
3部の曲の最後の難所の前半がずれてしまったようだ。
練習時には合わせられていたし、練習も随分したのでちょっと心残りだ。
合同練習にたくさん参加していれば、ちゃんと合わせられたのにとちょっと後悔し、落ち込んだ。
しかし遠方からの参加であり、限られた制約の中で精いっぱいやったと自分を納得させた。
最後に母校の校歌を演奏したときには胸に迫るものを感じた。
母校の記念演奏会は今回で最初で最後の参加になるであろう。

本番が終り控室で荷物の片づけをしていたら、1年上のAさんからロビーで私の同期の連中が私のことを探しているぞ、と教えてくれたので早速ロビーへ駆けつける。
するとあの懐かしい面々が、年を取ってしまっていたが、待っていてくれた。
セロのFの顔がまず目に入る。
そしてギターのI、ベースのS、コンマスのSが続き、握手したり肩を叩きあったり、お互いに懐かしがった。マンドリンのKさん(旧姓Kさん)とも会うことができた。
Kさんと一緒に来ていたというFさん(旧姓Kさん)は都合で先に帰宅したとのことで、直接会うことができなかったのが残念。
Kさんから、2年生の時に伊達紋別の夏合宿(寝坊して合宿所行きの貸し切りバスに乗り遅れて、国鉄を使って後から遅れて行った想い出の合宿)の余興の時間に、バツゲームだったと記憶しているが合宿所の体育館で私がFさんをおんぶして走ったこと、私が学生時代にギターが上手かったこと(これは褒めすぎ、でも嬉しいけど)などを会場でFさんがKさんに思い出話で話してくれたことを伝えてくれた。
伊達紋別の合宿の余興は私の方も今でもはっきり覚えている。
今日家に帰って昔のアルバムを引っ張りだしてみたら、はたしてそのシーンの写真があった。
そして1年下の後輩でギターのKとS、また指揮者だったTも来ていた。
ギターのKとは卒業演奏会で3重奏をやった。ファリャの粉屋の踊りとグラナドスのスペイン舞曲だ2番オリエンタルをギター3重奏に編曲し、Kと1年上の先輩Kさんと私の3人で弾いた思い出がある。





後輩の中ではKが一番仲が良かった。
学生時代から武道をやっていて今も続けているそうだ。
私も学生時代、そっち系のスポーツもやっていたので彼とは何かと気が合った。
Kは昔は硬派な外形だったが、今は穏やかな感じに変化してしまっていて驚いた。
本人は外形はそうだけど内側は硬派なまんまですよなんて言ったいたけど。
そして今回は会場に来れなかったけど、帯広在住のギターのSがIのスマホを通して顔を出してくれた。
相変わらずのあの髪型とあの細い目で変わっていなかったのを見て思わず笑ってしまった。

とにかく彼らとは30数年振りの再会なのである。
卒業以来一度も会っていなかった。
他の同期の連中で、道外に出ている人の消息を聞いたが分からなかった。
これは後輩も同様だ。
懇親会に行く途中まで同期3人と歩いていて、私が昔住んでいた超おんぼろアパートに彼らが遊びにきたときの思いもかけないエピソード(私はすっかり忘れてしまっていたが)を聞いて、そんなことあったっけ、と今さらながら驚いた。

懇親会では1年上のギタートップだったMさん、同じくドラトップのTさん、同じくマンドリンのJさんと会うことができた。
Tさんは超おんぼろアパートの私の前の住人だった。
学園祭の後、琴似から大学まで徹夜でクラブ員数十人で歩いた思い出話などをした。
懇親会で、4月中旬と6月中旬と15日の前日練習の際に声を掛けて下さったセロパートのベテランの方が私の所に来て話かけてくれた。
本当に今回は演奏会に参加に良かったことなどを話した。
その方が母校マンドリンクラブOB・OG会会長で、今回の記念演奏会の主催者であることを懇親会で初めて知って驚いた。
私のような端くれでも、遠い所から参加したからであろうか、気にかけて下さったのだと思う。
合同練習の時、声を掛けてくれたことでほっとしたことを思い出す。



【追記20180718】

演奏会を終え、自宅に戻ってみたら部屋の温度が40℃になっていました。
おまけにその日の夜食べたもので食あたりになり、大変なことに。
しかし翌日は何とか仕事に行けました。
学生時代にも弾いた「序曲 レナータ」が今でも耳に残り続けています。
やはり学生時代に弾いた曲が一番記憶に残るのだと思います。
今回は今までの自分では考えられなかったくらい素晴らしい体験をさせてもらいました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
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