緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今後の日本を考える。

2016-04-29 22:50:24 | 時事
今日から10連休である。
工場勤務なので、まとまった休日が取れるのであるが、3か月前に引越しをし、お金がかかったので、旅行などに行く予定はない。
しかし10連休は30年間のサラリーマン人生の中でも滅多に無い長い休暇だ。
普段出来ないことをやってみたい(思いっきり睡眠を取ることも!)。
久しぶりに経済関係で、普段思っていることを書きたいと思った。
世界で超一流だったシャープや東芝が惨めなほどに凋落していく姿を見て、日本は今後経済的にはどんどん悪い方向に向かっていくのではないかと懸念している。

日本のGDPが長い間世界第2位を保っていたのが、中国に抜かれて第3位に落ちたことは誰もが知っている。
今や日常必需品の殆ど全てが中国製だ。
繊維製品、日常雑貨、家電製品などは中国製であふれ返っている。
しかしそれらの製品の多くは、中国が自ら開発したものではなく、日本が企画、設計し、中国で製造したものである。
中国のGDPが第2位になるまで急成長した理由がここにある。
1980年代まで中国製のものは市場に殆ど無く、あっても質の悪いもの、それは中国独自の製品であった。
だから当時は中国製と日本製は明確に識別することが出来た。

最近、勤め先の工場で使う、センサ付きライトをホームセンターで購入した。
Made in Chaina と書いてあるが、日本の企画、設計による商品だ。
Made in Chainaでも品質は高い。しかも値段が安いから大量に売れる。
これが中国が急成長し、短期間でGDPを押し上げた要因である。

しかし日本は人件費の安い中国へ生産拠点を移したことで、逆に経済は停滞した。
当然である。生産拠点が国内に無くなったことで、リストラが行われ、多くの人が失業した。
また残った社員の給料は労働組合の要求などで水準を下げるわけにはいかないから、正社員以外は非正規雇用化し、給料に差別化を図るようになった。
格差社会を生み出したのはこのような背景からである。
格差社会を生み出したのは政府のせいではない。
我々自身である。
1990年代初めのバブル崩壊で、人々の収入は落ちたが、人々が物の値段に低価格を要求したからだ。
消費側が要求する「いい物をできるだけ低価格で」がバブル崩壊後の供給側の基本路線となる。
生産拠点が海外にシフトするのは当然の帰結だ。
正社員も人件費を出来るだけ抑制するために、終身雇用、年功序列から、成果主義による評価に変わった。
年俸制などそのいい例だ。

1980年代まで、いい物は「値段が高い」が当たり前であった。
何にしたって、いい物、高級なもの、おいしい物は、それ相応の高い値段が付いていた。
値引きなどは滅多なことでは無かった。
そしてその高いけれど、いい物、おいしい物をいつかは得たい一心で、かつての日本人は頑張ってきた。
今やその価値観は無くなった。
「いい物」を得るために、勉強や仕事を一生懸命頑張るのではなく、出来るだけ安く供給してくれる所を見つけようとする。
高いものには見向きもしない。
そして見つかったら、さらに値引きを交渉する。今はそれが当たり前だ。
日本がデフレからなかなか脱却できないのは、このためである。

国家の市場「競争力」を示す指標として、IMDと呼ばれるものがある。
現在の日本のIMDは何と27位である。
台湾、中国はもちろん、スウェーデン、フィンランドなどの成熟国家にもはるかに及ばない。
しかしこのIMDで、日本は1989年から1992年まで世界1位、1996年まで世界第4位までを維持していた。
バブルが崩壊したとは言っても、1990年代半ばまでは日本は未だ世界市場での強い存在感を示していた。
この頃まで秋葉原の電気街は未だ活気があった。
石丸電気も往時の勢いは失っていたとはいえ、まだ店舗は維持していた。
しかし今この石丸電気の名前は無い。あの勢いのあった時代からすると信じられない思いだ。
石丸電気には思い出が多い。
あらゆるCDを手に入れることが出来たからだ。石丸電気で手に入りにくいCDを入手し、音楽の幅を拡げてくれた。
CD売り場で、店員が行列を作って並んでいる客を活気良くさばいていた光景が懐かしい。
そういえば、石丸電気が他社に吸収されるしばらく前の頃、閑散とし店内で、店員が仕事をせずに雑談していたのが印象的で、その時に何とも嫌な感じがしたのを思い出す。
IMD指標で日本の順位が大きく下落した理由は、日本がかつて独占的に製造していた品質の高い製品を、コストの安い中国や韓国などでも大量に生産可能となり、世界中に供給されるようになったからだ。
今日、健康のためにと購入したスロージューサーという製品は、ヒューロムという韓国製の製品だが、箱を開けてみたら非常に品質の高いものだった。しかも値段が安い。
こんな品質が高く、コストの低い製品が中国、韓国、台湾などから大量に市場に投入されているのである。
日本のIMDが下落するのも当然である。
日本はかつて「ものづくり大国」と言われ、Made in Japanは高く評価されたが、今や日本で大量生産する拠点は激減している。
技術革新は生産現場から生まれるというのは鉄則であるが、生産拠点そのものが日本に無くなってしまったのであるから、高い技術を持った製品が生まれてくるはずもない。
つまり日本はコストを下げ、競争に勝とうとして、逆に自らの首を絞めるという悪循環に陥っているのだ。

ではこのような悪循環から抜け出し、日本が再び市場競争力を回復させるにはどうしたら良いのか。
難しい問題であるが、一つは他国が簡単に真似することの出来ない高い技術力を持った、高付加価値製品を生み出せる製品開発力、生産技術力を育てていくことだと思う。
もう一つは、労働生産性を上げて、人々の労働時間当たりの収入を上げていくことであり、これが技術力、開発力を上げていくための必要不可欠の前提条件であり、モチベーションとなる。
ちなみに日本の労働生産性は世界第21位だそうだ。
これは意外にもスペインやイタリアにも及ばない順位だ。
日本人はかつてほどではないが、勤勉で労働時間は長い。しかし労働時間が長い割には成果(付加価値)を生みだしているとは言えない。
労働生産性とは、マクロ的にはGDPを就業者数で割ったものであるが、一企業内で見ると、1人当たり(又は1Hあたり)の限界利益で示される。
限界利益とは、売上高から、製品コストのうち変動費(製品の生産に比例して発生するコストで、材料費、外注費、出荷費用などが主なもの)を差し引いて得られる利益で、企業の固定費回収度を測る重要な指標でもある。
1人(1H)当たり労働生産性=1人(1H)当たり売上高×限界利益率(限界利益÷売上高)=1人(1H)当たり限界利益となる。
すなわち限られたあるいはより少ない労働時間で、限界利益を極大化する施策を推進することで、企業の収益体質を強化し、同時にそこから得られる原資で高付加価値製品を生み出すための技術開発力に投資していくのである。
限界利益が低下している背景には、中国や韓国などによる追い上げで価格が下落し、売上金額が低下していることがあげられるが、簡単に値段を下げさせられない製品、そう簡単には真似されて追い上げられない製品をどんどん開発していくことしか、日本に生き残る道はない。
バブル崩壊後、日本人は製品開発力に対する意欲はかつてよりも落ちているというのが私の印象だ。
JRなどの列車内にぶら下がっているつり革に使用されているビニール製のベルトが、ステンレス製のパイプとの摩擦で歯の浮くような音を立てているの聞いていられない程不愉快な思いをするが、何故、音のしない材質のベルトを開発しようとしないのだろう。
勤め先の職場にある給茶機はボタンを押すと、物凄い不快な音を立ててお茶が出てくるが、この給茶機は意外にも超一流のメーカー製の機械だ。
こんな商品で妥協し満足しているから日本の競争力は下落する一方なのだ。
昔に比べ、今の若い技術者は安易に妥協する傾向があるように思える。
つまり極限まで「いい物を作り上げよう」という気概が薄れてきているように思えるのだ。
その一因として、仕事以外に重要な価値観、例えば家庭や趣味などに重点がシフトしたこともあるだろう。

日本は資源に乏しく、農業も他国に輸出できるようなものは無い。観光立国でもない。
日本は歴史的にみても、その勤勉性から品質の高いものを生み出していくことが最も得意で適しており、それ以外に日本の力を維持し発展し続けられる手段は無い。
ものづくり以外にもソフトウェア開発とか、医療技術などのソフト面での発展でもいい。
ワープロソフトは今やMicrosoftが市場を席捲し、ワードが標準のようになってから、ワードしか使用されなくなったが、かつてWindows95が現れるまでは、優秀で使いやすい純日本製のワープロソフトがいくつかあったものだ。
「ワード」をはるかに超えるワープロソフトを安価で使用できるような開発を何故しないのか。
こうして考えてみると今の日本の製品にもっと、もっとよく出来る要素は沢山ある。
そこに今の技術者は気付いて欲しいし、自分も横からサポートできればサラリーマン人生の最後の力を振り絞ることもできるであろう。
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合唱曲「風に寄せて その1」を聴く

2016-04-23 22:52:47 | 合唱
シンプルであるが、いい合唱曲に出会った。
「風に寄せて その1」(作詞:立原道造、作曲:尾形敏幸)である。
平成5年度のNHK全国学校音楽コンクール(Nコン)全国大会での福島県立安積女子高等学校の演奏録音で聴いた。
フランスのエスプリを感じさせるようなピアノの分散和音の前奏で始まるが、主題に入るとそれはまさしく日本の風景の素朴な美しさを唄う音楽が聴こえてきた。
季節は新緑の頃であろうか。
しかし詩と曲がこれほどマッチングした歌は少ない。
さわやかであるが、とても深く心に響いてくる。
和声の使い方や曲の展開が変化に富んでいるからだ。
詩に現れる作者の心情の変化や、繊細な気持ちを良く曲に表していると思う。
とても難しい作業だと思うが、この曲を聴くと、人の気持ちを音楽として作り上げることが、こんなに凄いことなのかと驚く
この曲は、この立原道造の詩を読んで感じた気持ちをそのままに音楽にしたものだと思う。
こういう曲はシンプルであるが、シンプルであるが故になかなか作れるものではない。
「みんな 風のそよぎばかり」と「小川はものをおし流す」の間に流れるフレーズは、昔どこかで聴いたことがある。しかしそれが何であったか思い出せない。

安積女子高等学校の演奏はとても繊細な表現でありながら、強い感情が伝わってくる。
弱い歌声でも聴く者に、強い感情を湧き起こさせる。
ここが素晴らしいのである。
パワーあふれる歌声であれば人を感動させられるというのは間違い。
均一な揃った声で隙のない演奏であれば素晴らしいというのは間違い。
高校生らしい歌声でいい。
演奏者たちに、純粋な本当の気持ちがあるかどうか、なのではないか。
この曲や詩に託された気持ちに真に同化しているかどうか、なのではないか。

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ヴァレリー・アファナシエフ演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第31番を聴く

2016-04-17 21:17:00 | ピアノ
昨日、ドビュッシーの「月の光」で最も感動したピアニストとして、ロシアのヴァレリー・アファナシエフを紹介したが、彼が得意とするピアノソナタのうち、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番録音を聴いてみた。

ヴァレリー・アファナシエフのベートーヴェンのピアノソナタの録音として有名なのは、2003年の東京、サントリーホールでのライブ録音、これは「最後の3つのソナタ」と題するCDであるが、数年前に聴いたときにはあまりいい印象を持たなかった。
しかし今回、ドビュッシーの「月の光」でこれだけ繊細な表現をしているの聴くと、他の録音も聴きたい気持ちが抑えられなくなり、別の時期に録音されたピアノソナタを探した。
そして見つけたのが、1990年12月、モスクワ音楽院大ホールで演奏されたライブ録音だった。
この演奏会では第30番と第31番が録音されている。

ベートーヴェンのピアノソナタ第31番で今まで多数の録音を聴いて最も感動し、最高の演奏だと思ったのは、旧ソ連のマリヤ・グリンベルクの演奏だ。
第31番は1962年録音のTriton版と1966年のメロディア版の2種類があるが、どちらも素晴らしい。
今でもこの演奏を超える演奏は現れていない。

今日聴いたヴァレリー・アファナシエフのライブ録音は、マリヤ・グリンベルクのレベルにかなり近づくものだ。
リヒテルのライブ演奏もあるが、No,2かもしれない。
第3楽章「嘆きの歌」で聴かせる悲しみの感情もかなりのものだ。
そして最後のフーガで速度を上げていく部分は圧巻。
終結部は最後まで速度を緩めず弾き切った。
この最後を「速度を緩めない」ということが肝要。
速度を緩めてしまったら何にもならない。
しかし最後で速度を緩めてしまって、がっかりした演奏はたくさんある。

ヴァレリー・アファナシエフの演奏を聴き終えると全身汗が噴き出しているのに気付く。
エネルギーを消費させられるが、すがすがしい。

ヴァレリー・アファナシエフのピアノソナタは、ベートーヴェン以外にモーツァルトやシューベルトの録音も数年前に購入していたので、ゴールデンウィークにとことん聴いてみたい。

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ドビュッシー「月の光」を聴く

2016-04-16 22:04:23 | ピアノ
10日くらい前から、何とはなしにドビュッシーの「月の光」を聴きたくたくなり、手持ちのCDや新たに購入したCDを数枚聴き比べをしてみた。

「月の光」(Clair de Lune)はベルガマスク組曲の第3曲であるが、単独で演奏されることが多い。
この曲はあまりにも美しいため、誰でも1度は聴いたことのある名曲中の名曲だ。
私はどちらかというとドビュッシーのような印象派の作曲家の曲はあまり興味がないのだが、この「月の光」はこれ以上表現できないくらい純粋な美しさを感じさせてくれるものであり、聴き終わると何とも気持ちが、穏やかになるのである。

今まで本格的に聴き比べなどしたことは無かったが、手持ちのCDで最も印象に残っているのは、ヴァレリー・アファナシエフの1991年モスクワでのライブ録音。
この演奏の感想を以前記事で紹介したことがあるが、素晴らしい演奏で私のお気に入りの1枚である。
しかしもっと素晴らしい演奏があるのではないかと思い、この10日間ほどでいくつかの演奏を聴いてみた。

以下、聴いた録音を下記に示す。

①ヴァレリー・アファナシエフ 1991年モスクワ ライブ録音




②ウェルナー・ハース 1960年 スタジオ録音



③ワルター・ギーゼキング 1953年 スタジオ録音



④アナトリー・ヴェデルニコフ 1962年 スタジオ録音



⑤アレクシス・ワイセンベルク 1985年 スタジオ録音



⑥モニク・アース 1970年 スタジオ録音



⑦スヴァヤトスラフ・リヒテル 1979年 ライブ録音



⑧スヴァヤトスラフ・リヒテル 1960年 ライブ録音



このうち、①、②、③、④は既に聴いていた録音。

聴き比べて興味深いのは、奏者により演奏時間の長さ、すなわち速度がかなり異なること。
一番短いのは、⑤のアレクシス・ワイセンベルクの5分3秒。
一番長いのは、④のアナトリー・ヴェデルニコフの6分57秒。
次いで、スヴァヤトスラフ・リヒテルの1979年のライブ録音で6分30秒。
①のヴァレリー・アファナシエフも6分11秒と長い。
長いということはそれだけ演奏速度が遅いということであるが、演奏速度を遅くするとそれだけ表現能力が要求されるということでもあるのではないか。
表現能力に乏しいと、間延びした演奏、単に初心者が技量の未熟さゆえにゆっくりと演奏したようなレベルにとどまる。
この曲をゆっくりとした速度で弾くのは、それなりの意味があると思う。
この曲が求める本当の速度は、ヴェデルニコフやアファナシエフやリヒテルの速度のようにも思える。

さて今回聴いた中で最も聴き応えがあったのは、①ヴァレリー・アファナシエフ 1991年モスクワ ライブ録音であり、次いで④アナトリー・ヴェデルニコフ 1962年 ステレオ録音だ。
ヴァレリー・アファナシエフの演奏は非常に繊細。ここまで気持ちを繊細に表現できる奏者は少ない。③のワルター・ギーゼキングと対称的な演奏。
ヴァレリー・アファナシエフのCDは、モーツァルトやベートーヴェンやシューベルトのピアノソナタで聴いているが、本格的に聴き込みたい演奏家だ。
すごく繊細な表現ができる演奏家。この「月の光」は非常に優しさに満ちた演奏でもあり、最も好きだ。

次にアナトリー・ヴェデルニコフであるが、芯のある音が特徴的で現代のピアニストとは音が全然違う。
録音はとても悪いが、それでも音はとても強く伝わってくる。
この演奏家は、表立って感情を露出するタイプの演奏家ではない。
しかし音に込められた感情に物凄いパワーが秘められているのを感じて驚く。
際立った高い演奏能力がありながら、冷遇され陽の目を見なかった不運のピアニスト。

速度が遅くも速くもなく、音の分離が際立っており、極めて誠実な演奏をしているのがモニク・アース。
万人受けする演奏なのだろう。
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エドヴィン・フィッシャー演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」を聴く

2016-04-09 22:42:27 | ピアノ
静かな夜に、ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」を聴いた。
演奏はエドヴィン・フィッシャー(Edwin Fischer, 1886 – 1960)。
「悲愴」は、ベートーヴェンの三大ピアノソナタの一つで、特に第2楽章は誰もが1回は聴いたことのある名曲中の名曲だ。

エドヴィン・フィッシャーといえば一昔前の大ピアニストであり、ギターのアンドレス・セゴビアと同世代の演奏家だ。
エドヴィン・フィッシャーとアンドレス・セゴビアの演奏には共通点を感じる。
彼らは決して楽譜に機械的に忠実に弾こうとはしていない。
1980年代に入って、原典主義というのか、やたら楽譜に機械的に忠実に演奏する動きがギター界に起こったが、この考え方で失ったものは計り知れない。
一言でいえば、聴き手の心に強い感動を引き起こす演奏が影を潜め、音の軽いつまらない演奏が氾濫したことである。
楽譜には作曲者の意図するものはごく僅かしか与えられていない。
巨匠と呼ばれる演奏家は、楽譜を超えて作曲者の魂に触れようとする。
作曲者の人間そのもの、心情、究極的には魂に同化する。
楽譜に書かれていることに、表面的に機械的に忠実に弾こうとする。これは極端な言い方をすれば愚かなことではないか。

エドヴィン・フィッシャーの弾く演奏、特に第2楽章を聴いて欲しい。
人は、会社や学校などで、気持ちに反することを意識することなく強制的にさせられている。
そして心が擦り切れている。
そのような時にこの「悲愴」の第2楽章を是非聴いて欲しい。

しかしベートーヴェンという人物は様々な感情を味わい尽くしたに違いにない。
この第2楽章は一見穏やかに聴こえるが根底には闇の感情が隠れている。
闇と幸福感という感情が同時に流れているから聴き手の心に深いものを残すのである。
エドヴィン・フィッシャーの演奏にはその対比が意識してしていなくても伝わってくる。



【追記20160410】
エドヴィン・フィッシャー以外にもいくつか聴いてみた。
バックハウスやケンプなど有名な巨匠、園田高弘などの演奏も聴いたが、エドヴィン・フィッシャー以外に素晴らしと思ったのは、1959年6月にモスクワで録音されたスヴャトスラフ・リヒテルの演奏、1951年録音のマリヤ・グリンベルクの録音である。
両者ともホールでの録音だと思われるが、ピアノの持つ音の魅力が最大限に表現されている。
最後の和音などは、ピアノの音でありながコントラバスの音のように聴こえた。
演奏者によってテンポや音の強弱の使い方に相違があるのは興味深い。

ベートーヴェンのピアノソナタの名盤紹介の記事が中断してしまっているが、近いうちに再開させたい。


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