緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

A.バリオス作曲『フリア・フロリダ』を聴く

2019-11-30 21:45:04 | ギター
アグスティン・バリオスの『フリア・フロリダ』(バルカローレ)を初めて聴いたのは、佐々木忠の録音だったと思う。
もしかしてジョン・ウィアムスだったかもしれないが、ジョンの演奏の記憶は全く残っていない。
とにかくこの佐々木忠の録音にものすごくインパクトを受けた。
27歳の時だったと思う。
「樽平」をがぶ飲みして、チャイコフスキーの「悲愴」を何度も気の済むまで聴き続けた時期を脱した頃だった。
真っ暗な長いトンネルの先にごくわずかではあるが、光が見え始めた頃だったと思う。
その時に、この佐々木忠の弾く『フリア・フロリダ』の演奏に出会った。



とても優しい気持ちが終始貫かれており、その中で、感情の高まり、人が潜在的に持っている眠っていた力、エネルギーを引き出すかのような力強さに満ちた箇所が随所に現れる。








はっきり言って素晴らしい。

今日久しぶりに聴いたが、27歳の頃に感じたものと全く変わっていなかった。
音楽の演奏は根本的には頭や理屈では無いことを教えてくれる録音だ。

残念ながらYoutubeにはなかった。
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酒田納豆を食べる

2019-11-30 00:45:10 | グルメ
勤め先の帰りの寄った大型スーパーで「酒田納豆」というめずらしい納豆を見つけた。
山形県酒田市の「加藤敬太郎商店」の製造、販売。





普通の納豆の2倍くらいの量が、大きめの発砲スチロールの容器に入っている。
容器を開けてみてちょっとびっくりしたのは、普通の納豆と違って、フジッ子の大豆まめみたいな大豆にちかい状態だった。
タレは付いていなかった。
タレの無しの方がおいしいのか?

あっさりした味と食感。
これが本来の納豆?

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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(1)

2019-11-29 23:40:01 | 学問
『レレバンス・ロスト』(H.T.ジョンソン、R.S.キャプラン共著)についての考察 【第1回目】

(注)
この記事は公開としておりますが、殆どの方が関心の無い分野です。
この方面の経験が無い方には、恐らく全く面白くも役立つこともありません。
公開扱いとしましたが、殆ど自分自身のために書いているようなものなので、無視していただいて構いません。


【はじめに】

私は大学時代に原価計算、管理会計を専攻し、卒業後就職した企業(電気機器製造業)においても、これまでの勤務年数の殆どの期間にわたって、これらの業務に従事してきた。
2008年、2017年に勤務先で全社大の基幹系システムを導入し、その中の一分野である原価管理システム導入時の中心メンバーとしての経験、更にシステム導入前の伝統的な原価計算業務の経験の他、上記2回にわたり導入された原価管理システムによる日々日常の実務体験をもとに、原価計算や管理会計といった学問分野で説明される個々の理論や手法、あるいは実際に実務に導入されている計算や管理手法について、常々疑問や課題として感じていたことを、実務者の立場から、いつかまとめてみたいと感じていた。

そのような折、たまたまこの『レレバンス・ロスト -管理会計の盛衰-』(RELEVANCE LOST :THE RISE AVD FALL OF MANAGEMENT ACCOUNTING)(H.T.ジョンソン、R.S.キャプラン共著,1988年初版、鳥居宏史訳、日本語訳初版1992年、白桃書房)という著作に出会った。



この著作を最後まで読んでいないが、タイトルの『レレバンス・ロスト』(適合性の喪失)が示すとおり、現在の管理会計システムの経営環境に対する適合性の喪失した理由、背景、喪失した具体的内容を提示し、これを解決するための管理会計の新しい手法と適合へのアプローチを提示する内容だと思われる。
この著作は、管理会計の分野では名著と位置付けられている。

実務者としての体験からこの本に対する考察について記事を書くと言っても、もちろん勤め先の内部事情等はオープンに出来ない。
従って述べることを甚だ抽象的にせざるを得ないが、もし仮に同業の方が目にする機会があったとしたら、理解してもらえるのではないかと思う。
当然、ブログでの公開なので、このような分野に関心を示す人は極めて少ないだろうし、読んでもらうこともあまり期待していない。
それでもこのブログでこの著作に対する考察を記事にしようと思い立った理由は、自己陶酔に浸りたいという密かな野心や欲求が無いわけではないが、公開型のこの日記で記事にすることにより、この本をより強制的に精読する方向に気持ちを駆り立て、かつ考察結果もただ読んだだけよりもはるかに整理できると考えたからである。
250ページにわたる本であるが、1週間に2、3ページの頻度で考察した結果を記事にしていけば、約2年ちょっとで精読が完了する計算になる。
どこまで続くか分からないが、とにかく続けてみようと思った。


1.緒言(ⅶ~ⅸページ)に関する考察

【概要】

・著者は、企業の管理会計システムの(今日の経営環境に対する)適合性が下落したのは、比較的最近の現象とみる。

・著者は、企業の管理会計システムが現在のところ適切でないのは、比較的最近になって適合性が下落したのが原因であり、決して旧来の財務会計システムを現代の経営管理ニーズに適用するのが遅れたことが原因ではないと認識されると主張する。

・著者が読者に望むのは、過去半世紀の間に管理会計システム上の革新がなぜほとんど起きなかったかの理由だけでなく、綿密な調査分析によってのみ発見できる豊富な歴史的伝統を学ぶことにも価値がある、現行の管理会計システムが陳腐化した背後にある理由を理解することで、企業変革に対するすぐれた理論的根拠が得られるはずだ、という点である。

【考察】

●「綿密な調査分析によってのみ発見できる豊富な歴史的伝統」とは何か。
⇒これは読み進めていかないと分からないが、推測するに、20世紀初頭に現れ、第二次世界大戦までの間に発展した原価管理システムが、既に完成度の高い内容であったために、発展の余地を失ったということか?(今は理解不能)。

●「現行の管理会計システムが陳腐化した」→「陳腐化した現行の管理会計システム」とは何か。
⇒「管理会計システム」の内容としては、中期経営計画(短期利益計画)、予算編成、予算実績進捗管理、原価計算、原価管理、収益性分析(損益分岐点、限界利益による固定費回収シミュレーションなど)、個別意思決定問題(設備投資計画、内製化・外注化の選択、製品の受注、廃止の決定に伴う収支シミュレーション等)などがあげられるが、この中でも進化していないのが、「原価計算」、「原価管理」手法だと思う。
⇒「陳腐化した現行の管理会計システム」とは私見では、財務会計に組み込まれた標準原価計算制度ではないかと思う。
標準原価計算の運用には大きく分けて以下の2つがある。

①標準原価計算を財務会計の機構に組み込み、勘定間の有機的な連関機能を持たせ、標準原価と実際発生額との差額を要因別に分類、計算するとともに、各種原価差額を売上原価又は棚卸資産原価に直課あるいは配賦することで、財務会計と管理会計の両面の目的を達成することを企図した方法。

②標準原価計算を財務会計の機構外の運用とし、財務会計側の原価計算を実際原価計算とする方法。この場合の標準原価計算は管理会計目的に特化して行われるので、財務会計のルールに縛られることなく、企業、部門の目的、ニーズに合わせ、計算対象範囲、計算実行時期、標準設定レベルを任意に設定することで、実際原価との差異分析を可能とする(以前勤め先で導入し、このしくみを採用していた基幹系システムにおいては、標準原価計算は月次の実際原価計算と同時並行して実行されるのが基本仕様であり、それ以外に標準原価計算はいつでもスポット的に実行することが出来た)。

ここで「陳腐化した現行の管理会計システム」と考えるのは①の「標準原価計算を財務会計の機構に組み込んだ、標準原価計算制度による運用」の方である。
ちなみに私の実務体験上、勤め先がこれまで導入した基幹系システムにおける原価計算システムとしては、①、②の両方の経験を有する)。

<理由>

・標準原価の精度に不備がある、又は標準原価の定義づけがあいまい、固定費の配賦方法に恣意性があるなどの問題があると、得られる原価差額が分析に貢献できない。
「標準原価」とは、「あるべき目標コスト」とするのか、年度開始時点の「基準原価」とするのか、当期の予算編成における「コストダウン年度目標額」を織り込んだレベルとするのか等、また操業に関しては、設備、人的資源をフル稼働して得られる操業度で設定するのか、過去の平均操業度で設定するのか、当期予算での操業度により設定するのか等、明確な設定根拠と全社的にオーソライズされた定義付けが必要となる。

・原材料、仕掛品、半製品、製品、製造総費用等の各勘定で計上される各種原価差額(※)が損益計算上、一括して売上原価へ配賦又は、良くても品種単位で売上原価と棚卸資産残高に配賦されるような計上方法を採用しているため、原価差額が大きくなるほど、損益計算に歪が生じる。
 またこのような運用方法だと、各種勘定で計上される原価差額が品目、製番単位で詳細にアウトプットされるのに対し、損益計算上の原価差額の計上に関しては、その配賦方法が恣意的、簡略化されているというギャップを生じさせているという問題のみならず、調整計算された損益ベース上の原価差額と、各種生産プロセス(勘定)で計上された発生ベース上の原価差額との直接的な連関性が無くなり、損益計算上の原価差額の分析、説明が困難となる。
※受入価格差異、完成差異(工数差異、消費量差異)、標準単価改定差異(評価差異)、配賦差異。

・製番付きでない原価差額、すなわち配賦差異や見込生産品の完成差異などの原価差額が最上位の製品にまで積み上がらないため、実績としての製品原価情報が得られない。

・売上原価に配賦された原価差額が固変分解できない。費目別に展開できない(一括計上、一括表示のため)。

・実際原価のように、操業の変動に応じた単位製品原価の変動が把握できない。
標準原価計算制度においては、操業における実際と標準の差異は配賦差異として、原価部門単位、または一歩進めても品種単位でしか把握できず、個別品目、個別製番別に計上されない(売上原価比率等で強引に配賦させることは可能であるが、そもそも正攻法でないし、配賦結果は実態に対し著しく歪められる)。
 顧客側の生産増、競合他社の撤退・不具合等による納入停止により、注文増となり、生産稼働が増大したことにより、固定費負担額が減少し、例えば従来の製造原価@36,000円であったのが、増産により@25,000円にまで低下し、利益率向上、利益額増大につながるというような結果が、標準原価計算制度では製品単位で把握することが出来ない。
 逆に、受注減、生産減により操業が低下し、結果固定費負担の増大による単位当り製造原価が増大、収益性が低下するというような個別製品単位での操業低下による業績悪化の程度を把握することができない。

標準原価を設定するためには、正確な原価集計の確保の前提条件であるBOMの整備、購入品目の標準購入単価、工程、手順等の標準単位工数、工程毎の標準レートの設定などが必要となるが、高度経済成長時代を過ぎて主流となった多品種少量生産形態を採るような企業では、品目、工程数が膨大となり、BOMや標準値をあまねく設定するだけで膨大な作業となる。
 製品の中には当面の原価管理の必要性が低いもの(成熟・衰退・撤退製品、製造実績後に売価を決めるような特殊性、独自性を有する製品)もあり、このような製品も含めて全て財務会計と管理会計の両方を満たす標準原価を設定することの作業困難性と管理の有効性に対する疑問を感じる。
 すなわち労多くして体制整備したのに、結果が部門管理者に分かりにくい、改善に役立っていないというような矛盾した問題を生じさせている。
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危険な食品「トランス脂肪酸」

2019-11-24 20:55:57 | グルメ
最近、「トランス脂肪酸」というものの危険性を指摘しているYoutubeの動画を目にした。
「トランス脂肪酸」というものを知っている方はどのくらいいるのだろう。
私もこの名前を初めて聞いたのが、今から10年以上前だったと思う。
マーガリンの危険性を指摘する本を読んだ時だったと記憶している。
しかしその時はあまりその警告に関心を払わなかった。
実家にいた時は、子供の時から朝はパン食で、トースターで焼いた食パンにマーガリンをたっぷり付けて食べるのが好きだった。
これが実にうまく、以前実家で飼っていた手乗り文鳥も、このマーガリン付きの焼いた食パンが大好物だった。

実家を離れてからマーガリンを付けたパンを食べることはなくなった。
それは面倒だったからである。
しかしコンビニやスーパーなどで売っている菓子パンを朝食替わりにするようになった。

数年前から体のあちこちがかゆくなるようになり、夜、かゆくて何度か目が覚めてしまうようになってしまった。
それでなくても夜は遅く朝は早いので睡眠時間が受験生並に短いのであるが、それに加えてかゆみでなおさら睡眠時間が削られてしまうような日々を送っているのである。
これは辛い。
何とかしたい。
このかゆみはトランス脂肪酸の影響によるものだと言う。

そもそも「トランス脂肪酸」とは何なのか。
Toutubeの動画が言うには、トランス脂肪酸とは植物油に水素を添加したものだそうだ。
ちょっとイメージできない。
しかし、このトランス脂肪酸は次のような悪影響を人体に及ぼすと言われ、欧米先進国では使用を禁止または使用制限、表示義務などの厳しい規制をしていると言う。
では人体にどんな悪影響があるのか。3つあると言う。

1.血液中の悪玉コレステロールを増やす
 その結果、心筋梗塞、脳梗塞などのリスクが高まる。

2.消化しにくいため、内臓に負担をかける。
 その結果、解毒の機能が落ちる。

3.脂肪として体内に蓄積される。
 その結果、代謝機能が低下する。

つまり長年にわたり体内に取り込んでいると、体を知らず知らずのうちに生命の危険にかかわるような状態にしてしまうという、恐ろしいものなのである。

トランス脂肪酸は、シリコンコーティングしたものとかプラスチックと同様なものだと言う。
つまり体内に入ると消化に物凄いエネルギーを使うので、内臓に負担をかけてしまい、内臓を痛めてしまうと共に、消化されないものは体内に蓄積されてしまう。
体内に蓄積されると、内臓脂肪となってガンなどのリスク要因となる。
霜降りの高級肉はもしかするとトランス脂肪酸をたっぷり取らされた牛の肉なのかもしれない。
もしそうなのであれば食べるのは避けたほうがいいだろう。

ではこのトランス脂肪酸を含んだ食品は一体何なのか。
まずはマーガリンだ。
学校の給食にも出たあのマーガリンだ。
マーガリンが体に悪いということは結構知っている人はいるのではないかと思う。
しかし菓子パン、食パン、お菓子などに含まれている「ショートニング」というものが、実はトランス脂肪酸であることに気付いている人は案外少ないのではないか。
私もつい最近まで知らなかったので、菓子パンなどは結構たくさん食べていた。
パンを買う時、ラベルの成分に「ショートニング」という文字が見えたら要注意だ。
あと未確認だが「植物油脂」という成分もトランス脂肪酸なので注意した方が良い。

トランス脂肪酸は日持ちが良く、腐らない、おいしい、食感がいいので、多くの加工食品に使用されているという。
先のパン類以外にコンビニやスーパーで売られている総菜、お菓子なども含まれているという。
よく駅の売店や自動販売機で、やけに賞味期限が長い菓子パンが売られているのを見たことがないだろうか。
このような不自然に賞味期限が長い食品にはトランス脂肪酸や体に良くない添加物が入っていると見て間違いないだろう。

企業の利益のために平気で健康に害を及ぼするものを使っているという事実に鈍感だと、しらずしらずに健康を蝕んでしまう時代になっているということなのだろう。
自分の体は自分で、自らが注意して守らなければならなくなった、ということか。
今度かゆみがおさまってきたら、報告したい。

【追記】

今日、昼に食べた食パン。
「ショートニング」が成分にあった。
これはいけなかった。


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黒澤明監督 映画「どですかでん」を観る

2019-11-17 19:12:46 | 映画
黒澤明監督の映画「どですかでん」を今日、30年ぶりに見た。
30年前といえば、レンタルビデオショップが町に出店し始めた頃で、今まで見ることの出来なかった昔の映画が低料金で見れるようになったことで、週末の仕事帰りにショップに立ち寄っては、レンタルしたものだった。
この時、黒澤明の作品、例えば「生きる」などをいくつか借りて見たのだが、「どですかでん」は、その風変わりなタイトルと初のカラー作品ということで興味をそそられ、ちょっと見てみようか、と思って借りてみたのである。

ビデオテープを再生したら、変な少年がお経を大声で唱えたり、また電車ごっこをしているシーンが出てきて、「何だこりゃ」とにわかに失望した記憶がある。
しかしである。
だんだんと物語が進んで行くにつれて、何故か、何というか、黒澤映画を見て今までに味わったことのないような何とも言えない気持ちになってきて、映画が終ったあともずっとこの物語ことを思索しつづけるような心境になってしまったのである。
そして、黒澤作品の中でも、この「どですかでん」だけはその後何度か繰り返しレンタルしたのである。

この「どですかでん」という作品は、それまでの黒澤作品にみられるような痛快な娯楽性の強い要素は全く無い。
私は黒澤映画を全て見たわけではないが、この「どですかでん」は他の作品とは一線を画す独自性の強い異色の作品だと思う。
あらすじはインターネットで多数紹介されているので具体的なことは省略するが、単に極貧というだけでなく、人生の落伍者として扱われ、蔑まれるような人々の生き様や心象風景を描写したものである。
この作品では、このような人々を批判的にとらえるわけでもなく、かといって憐れんだり、養護したり、また貧しさや弱さを美化しようとすることもない。
淡々と、人間のどうしようもない、宿命的な「弱さ」、「脆さ」と言った姿、心理を描写している。
これは人間である以上、全ての存在に起こるうる、本質的なものではないか。
要するに誰でも持っているものである。


この作品の素晴らしいところは、人間のどうしようもない弱さとともに、とてつもない本能的な優しさ、それは動物が子供に示すようなものを描いていることである。
この作品は1970年の製作であるが、実際この時代には、この映画に出てくるような、とてつもなくいい人がたくさんいた。
そしてそのような人は今、この時代の映画、ドラマ、アニメにしかお目にかかることが出来ない。

黒澤明がこの映画を通して何を言いたかったのか。
それはすぐに分かるものではないし、単純なものでもないであろう。
だから幾度も見たいという気持ちが残る。
人生、貧しくても、恵まれなくても、清く正しく生きていけば幸福になれるといった、ありきたりの精神論、幸福論ではない。
しかし漠然としてではあるが、それがどんなものであろうと人間の本質や宿命といったものに対する許しの眼差しが感じられる。
その感じ方をことさら前面に出そうとしていない。

この作品は、黒澤映画の中でも興行成績が振るわず、失敗作だと言われている。
この作品は、何とも言えない、人が日常背けたくなるような、いたたまれない、心が痛くなってくるようなシーンが多数あり、悲惨で目を覆いたくなるような場面もある。
だから痛快なアクションを期待した多くの人々から不評を買ったのだと思うが、しかしこの作品の心理的インパクトはとても強い。
娯楽性という要素は無いにしても、この作品は黒澤作品の中でも高く評価されてしかるべきものであることは間違いないと思っている。
私はこの映画を強くお勧めしたい。

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