緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

一色次郎「青幻記」を読む

2015-09-26 23:03:33 | 読書
ふと訪れた町の図書館の片隅に、今まで聞いたことのない作家の著作が置いてあった。
この作家の名前を、一色次郎(1916~1988)と言う。
その著作を手に取って、ページをパラパラとめくってみた。
何となく直観で読んでみようか、という気持ちになった。
家に帰り、インターネットで一色次郎のことを調べてみた。
彼を紹介する情報量は決して多くはなかった、「青幻記」という著作を紹介したコラムをいくつか目にすることができた。
かんたんな内容であるがその紹介文や感想文を読んで、すぐにでも読みたいと思った。
この本は既に絶版となっており、中古本を探したが数がわずかしかなかった。異常に高い値段が付いているものもあったが、幸い適価で売られている本が見つかり、翌日さっそく買いに行ったのである。

昭和42年8月初版、筑摩書房発行の198ページのあまり厚くないその本は、人手に渡らず、また最初の所有者もさほど読んでいなかったようで、中身はきれいなものであったが、紙は茶色く変色し、50年近い年月の経過を感じさせた。

この小説は、奄美大島と沖縄との間にある小さな沖永良部島を舞台に、はかなくも不幸な死を遂げた母と、その子とのきずなと純愛を描いた名作と呼ぶにふさわしい内容を持つ物語であった。
全体的にとても暗く、悲しいが、美しい物語だ。

結核を患う父と結婚した母(さわ)は、島で生まれた一人息子の稔を連れて鹿児島の祖父の元で暮らしていたが、父が死に、祖父の事業が傾くと、さわは離別させられ、稔は分家に追いやられる。
稔は分家で無理やり虫取器の行商に出され、暴力を振るわれ、ご飯も満足に食べさせられないという酷い仕打ちを受けた。
祖父から離別させられたさわは、一度島へ帰るが、稔のことが心配で、稔の側にいつも居ることが出来るとの思いで、平田という男と再婚する。
しかしこの平田は次第に粗暴で浪費家という、その正体を現し、さわに暴力を振るうようになっていた。
結核に感染したさわは、平田にも捨てられ、島に帰るための船を待っている時、分家に引き取られていてしばらく会えないでいた稔と再会する。
さわは稔に結核を移す危険を感じながらも稔を連れて島に帰る決意をする。
生まれ故郷の島に着いたさわと稔はやっとのことで実家にたどり着き、祖母と再会する。
稔はこの島で6か月間、母とともに過ごす。
しかしさわは日増しに衰弱していく。備蓄していた食料が底をついてきたからだ。
母の死期は近かった。
それでも島の敬老会の催し物で、さわはその後何十年も語り草となるほどの美しい踊りを披露する。
その母の姿を稔は生涯忘れることはなかった。
ある日、さわと稔は海岸に出て魚を採りに行く。海岸でたくさん魚が採れて2人とも久しぶりに楽しい時を過ごすが、天候が急変し、潮が急に海岸に流れ込み、急いで戻らなければならなくなった。
しかしここでさわは発作を起こし動けなくなる。
さわは稔を助けるため、稔に道筋を教える。さわは自分が助からないことが分かっていた。
さわは稔に何度も「おかあさん」と呼ぶよう強く求める。
翌日さわは海岸で死んでいるのを発見される。

その後40年経ち、主人公である稔が母と過ごした日々を回想するために、鹿児島、そして生まれ故郷の沖永良部島を訪れる。
そして母の面影を思い浮かべ、40年前の日々を回想する。
母を若い頃からよく知っていたニシ屋敷の鶴禎老人から話を聞き、母に関するさまざまな疑問が解けていく。
何故平田と結婚したのか、この魔性の男の暴力に耐え忍んだ理由なども。

40年ぶりに島を訪れた稔は母の遺骨を持ち帰るために、墓から頭蓋骨を出したが祖父と祖母と一緒に収められていいたため、どれが母のものか判別するの苦労した。
しかしやっとこれが母のものと確信した頭蓋骨は、鶴禎老人によると長い間墓から持ち出され、野ざらしにされていた。

この小説のすばらしさは、あらすじだけでは全く分からない。
ここ数年読んだ本の中では高橋和巳の「捨子物語」以来の深い感動を味わった。
幼いうちに両親を亡くし、分家に引き取られたが、そこで酷い仕打ちを受けながらも20歳過ぎまで過酷な人生を耐え忍んだ主人公の、わずかな期間でも幸せな時を過ごした母への思いの強さと、不幸な生涯を閉じた母とのきずなの強さが心に突き刺さる。
稔が分家で虐待されたり、学校でいじめられながらも、まっとうな人生を歩むことができたのは、この母親とのきずなが深かったために違いない。
どんなに過酷な人生であっても、その途上でたとえ短い間であっても、人間の無私の愛情を受け取ったものは、耐え忍んで生きていくことができるのである。

著者は一色次郎は、この本のあとがきによると父親は無実の罪で獄死し、母親は島で無残な死をとげたと書いている。
この小説は、著者自身の実体験をもとにして描かれていると言える。
だから文章から伝わってくるものがとても作り事とは思えない。
自分自身が真に味わったものから出てくる言葉で描かれているから、読む者に深い感動を与えるのである。

ところでこの小説は、1973年に映画化された。
監督:成島東一郎、脚本:平岩弓枝、音楽:武満徹
出演:田村高廣(稔)、賀来敦子(さわ)
全く幸いなことにこの映画を某サイトで観ることができた。最近投稿されていたので驚いた。
映画だと時間の制約か、微妙ないきさつを伝えきれていなかったり、一部原作と違っていた部分もあったが、とても感動に値するものであった。
15夜にさわが敬老会で披露した踊りの美しさが際立っていた。



【追記20150927】
一色次郎著、旺文社文庫版「左手の日記」の巻末に著者自身の年譜が記載されていた。
これによると、一色氏の幼い頃に父が亡くなっており、母と鹿児島で祖父の元に身を寄せていたが、祖父の事業(虫取器や大島紬などの製造)の失敗により、祖父の二号の分家へ引き取られ、母とはここで生別している。
11歳の時に大阪にいた母が結核療養のために帰島することになり、一緒に沖永良部島へ行くが、半年後に母は病死したと記載されている。
そして著者が47歳の時に勤め先の退職金で沖永良部島を36年ぶりに訪れ、母の事跡を訪ね歩く。
つまりこの「青幻記」の物語は、著者の実体験そのものをベースにしていると言える。
10代終わりからの一色氏の人生は職業と住居を何度も変え、作家を目指しながら放浪の生活を重ねている。
この年譜を見ているだけで過酷な人生を送ってきたことが分かる。

【追記20150927】
一色次郎氏の著作の2冊目「左手の日記」を読んでいる。
この小説は著者自身の18歳から20歳頃の日記を元に書かれたものであるが、熊本でいくつかの職に就いた後、鹿児島の分家に戻ってきた頃の生活が描かれている。
この分家で冷酷な仕打ちを受けながらも、作家を目指し、何とか強く生きようとする気持ちが伝わってくる。
この作家はありのままに自分の気持ちを表現しており、自分を恰好良く見せようとしていないところがいい。自分の弱さを否定していない。
こういう作品をもっと若い頃に読んでおけばよかったと思う。
仕事に役立つ読書や勉強は社会に出てからいくらでもできるが、それは仕事をしている間に役に立つというだけのことである。
若い頃に、人としての土台をつくる時期に、人の生き様を考えさせられるような本をたくさん読んでおいた方が良いと本当に感じる。
ノウハウを身に着けたり、一時的な感嘆を味わうような書物は、もっと後回しにするか封印しても損は無いと思う。

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久しぶりの日本酒(2)

2015-09-22 00:18:53 | グルメ
シルバーウィークも半分を過ぎた。
こういう大型連休の時に、普段飲まない酒を楽しむことにしている。
飲む酒は日本酒だ。
日本酒といってもスーパーや駅の売店で売っているような、大手酒造メーカーが大量生産した酒ではなく、値段が安くても小さな酒蔵が手作りで作った本格的な酒である。
今年のゴールデンウィークの時は、福島県郡山市の「穏」という酒を飲んだ。

自分にとっていい酒とは、多少たくさん飲んでも酔いが進まないところにある。
大量生産される酒は飲み過ぎると必ず悪酔いする。
夜中に気分が悪くなり目が覚めたりして始末が悪い。
しかしおいしく、いい酒は量が入っても悪酔いしない。
日本酒の銘柄の味の区別ができるほど舌が肥えているわけではないが、いい酒は余計な味が無く、スッキリしている。そしてほのかに米の味がする。
日本酒を本当においしいと初めて思ったのは、随分昔だが、写真撮影のために訪れた長野県の上高地の帰りに、松本駅で買った酒だ。
何という銘柄だったか覚えていないが、陶器製の銚子と徳利のついたもので、家に帰った直後に早速飲んでみたら、これが実にスッキリしていて米の味がしたのである。
これが日本酒の味に目覚めた最初である。
日本酒は飲み屋で家族や仲間と料理やつまみと一緒に飲むのが一般的だが、純粋に味を楽しむのであれば、静かなところで、つまみなどは最小限にとどめて一人で飲むのがいい。

連休中の今日も、ちょっとしたささやかな幸福感を味わうために、日本酒を買いに行った。
いい日本酒を飲むためには、いい酒を置いている店に行くのが一番だと思った。
インターネットで検索すると東京表参道にある酒店が目についた。全国から厳選した日本酒の銘柄を置いているらしい。
日本酒1本買いにいくくらいなら、わざわざ交通費をかけて東京まで出ることはなく、通信販売で済ませればよいのだが、日本酒を買いに行く目的以外にももう一つ東京に行きたい理由があった。

先日、ある図書館に立ち寄ったら、片隅に、ある作家の著作本が何冊か置いてあった。
全く聞いたことのない作家であったが、数冊の著作から1冊選んでページをパラパラめくっていたら、直観ではあるが読みたいと思ったのである。
しかし何せマイナーな作家なので、インターネットで検索してもあまり出てこない。
この作家の代表作が東京の某市にある古書店で販売されているのを知ると、一刻も早く読みたいと思い、直接この店に行って買うことにしたのである。
この作家の本の感想については、いつか紹介したい。

今日は朝から快晴だった。
いつもは車で20分ほどの駅近くにあるコインパーク(田舎なので1日止めて300円)に車を置き、電車に乗り換えるのであるが、今日はいつになく歩いて最寄の駅まで行くことにした。
最寄りの駅と言っても歩いて25分の距離。陸の孤島のようなところに住んでいるので、バスなどは無い。
歩きたいと思ったのは普段全くいうほど歩かなくなってしまったからだ。
通勤は車だし、仕事はデスクワークなので体を動かすことはない。休日は東京方面に出かける際に、先に述べたように20分ほどかけて乗換なしの駅まで車で行く。
車を持つようになってから歩かなくなってしまった。
しかし車を持つ前までは自分で言うのもなんであるが健脚であった。
重たい撮影機材を担いで山登りをしたり、同じように撮影機材を担いで1日中歩いても全く平気だった。
私は腕は細い方であるが、足のふくらはぎやももの筋肉は昔はちょっと自慢であった。
しかし今は無残にも昔のような筋肉は面影もなく、たるんでしまっている。

自分が歩くことに向いていると初めて感じたのは大学1年生の時だったであろうか。
冬休みに、1日千件、歩いて通信教育用の封書を配達するアルバイトをやっていた時、仕事を終え、札幌中島公園駅近くの事務所についたら、雇い主が「ほうりゅう(漢字は忘れました)」というススキノにあるラーメン屋の回数券をくれたのである。
そのラーメン屋に立ち寄り、もらった回数券で食べたらおいしかったこと!。
ラーメンを食べて満足した私は吹雪の中を札幌駅に向かって歩いた。もちろん金の無い貧乏学生なので地下鉄なんかは利用しない。
吹雪の中を歩いているうちに何だかとても気持ち良かったのある。歩くことがとても楽しかった。この時の光景や気持ちは今でも覚えている。

横道に反れたが今日は車通勤するまでは何千回と歩いた駅までの道を、乾いた陽の日差しを浴びながら久しぶりに歩いた。
線路沿いに流れる小川と平行する小さな道、夜は街頭も無く真っ暗で女性は歩けないが、秋になると虫の鳴き声が盛んに聴こえる道を歩く。
日差しを遮るものが無いので夏は駅までの間に汗だくになるし、雨風の強い時は傘をさしていても全身びしょぬれになるその道を歩いた。

数時間かけて目当て古書店に着いた。初めて行くので道に迷った。私には良くあること。全然違う道を歩いていた。
その古書店は古いビルの中にあったが、本の数は相当のものであった。神田にある古書店よりも蔵書数は多いと思った。
古書店の中には立派な店構えで整然と高価そうな古書を棚に並べた敷居の高い店もあるが、その古書店は階段にも本が乱雑に積み重ねてあるような店だった。
一応、ここの一角は新書・文庫類、別の一角は歴史ものだとか、札がかかっているが、新書コーナーの奥に日本文学や海外の文学全集が置かれているという無整理ぶりに好感を感じた。
古書店独特の古い紙のにおいがたちこめている。この雰囲気がとても好きだ。
古いビルなのでトイレもまさに昭和時代のもの。こういう古いビルも好きだ。
そういえば札幌の某中古レコード屋もこういう古い雑居ビルの中にあり、昭和の古い時代にタイムスリップしたような感覚を感じたことがある。

この古い古書店で目当ての本を買って、次の目的地である表参道の酒店に向かう。
表参道駅についたら凄い人の数だ。5連休ともあって普段の休日より出かける人が多いのであろう。
今度は迷わず目当ての酒店のあるビルに到着した。
意外に小さなショップだった。冷蔵庫の中の日本酒に目をやる。意外に品数は少なかったが、ビンが高級そうなものは避け、シンプルで地味だがなんか存在感を感じる銘柄の日本酒を選ぶ。
佐賀県と栃木県の酒に絞る。
ちょっと迷ったが1本しか在庫の無かった栃木県の日本酒を選んだ。値段は税込み1,600円台だった。
銘柄は「大那」という。栃木県那須産の米を使った純米吟醸である。菊の里酒造というメーカーの酒だ。
このショップに若い女性が結構たくさん来ていた。おしゃれな雰囲気の店だからであろう。
私のような田舎者が来るような店ではないと思った。そそくさと会計を済ませて店を後にした。

まだ3時過ぎなので、帰りは神保町に立ち寄る。
何故か餃子が食べたくなり、餃子専門店に立ち寄る。野菜餃子で遅い昼食をとる。
近くの老舗中古レコード店に入って、ピアノの中古レコードを物色する。
値段が高いので結局買わなかった。以前、札幌の狸小路で300円で買ったバルトークのレコードが2,000円で売られていた。

そのあとで秋葉原に立ち寄りヨドバシカメラに向かった。随分久しぶりにプラモデルを作りたいと思ったからだ。
久しぶりといっても中学校時代以来のことだ。しかしプラモデルを作りたいという気持ちは数年前から起き始めていた。
作りたいのはトレーラーのプラモデル。毎日の車通勤で必ず目にする、あの40フィートもある貨車をけん引した、大型トラックのことである。実はこの乗り物が大好きなのだ。
もし自分が20代だったとしたら、今の仕事を止め、この長距離トレーラーの運転手になっていたと思う。
体力に自信があり、運転することが好きであれば、基本的に独り仕事なので、これほど気楽な仕事はない。
プラモデルと言えば父親が40代の頃に熱狂していたことがあった。
手先の器用な父は、模型作りが余程好きだったと見えて、平日でも夜中まで興じていた。
そしてそのことでいつも母から文句を言われていた。
いつのことかある日、母から「もう止めて下さい!」と言われたのである。父は黙ってその言いつけに従ったが、父の唯一と言える楽しみが奪われたのを目にして、今思うと父が不憫に思われた。

ヨドバシカメラには目当てのトレーラーは無く、空振りに終わったがいつか見つけて完成させたい。

帰りは例の暗い川沿いの小道を、秋の虫の大合唱を聴きながら歩いて帰路についた。
帰宅してから「大那」を飲んだ。
やはりスッキリした雑味のない、ほのかに米の香りのするいい酒だった。
この酒を飲みながら、こんな贅沢を感じられることに今の自分は恵まれているのだな、と思った。

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音楽が心に与えるものを考える

2015-09-20 00:58:28 | 心理
1か月前の新聞記事であろうか。
日付をメモしておかなかったが、その頃に読んだ新聞記事のスクラップを目にした。



音楽療法士として米国で活動し、現在は青森で音楽療法の仕事を続ける佐藤由美子さんを紹介した記事であった。
佐藤さんは6年前の夏、うつ病の日本人女性と出会った。その女性は15歳の時、本土空襲と沖縄戦で両親と姉弟を失い、「何で私だけ生き残ったのか」と自分を責め続けて生きてきたという。
ギターを伴奏に日本の唱歌を歌うことを重ねていくうちに、封印していた戦争のことを思い出し、最後は「生き抜きたい」と思うようになる。
佐藤さんはその時、「言葉の届かない心の深いところに、音楽は響くと感じた」という。

佐藤さんが音楽療法の道に進んだきっかけは、幼いころからいじめを受けて、うつ病で引きこもってきた兄の存在がある。日本は弱い立場の人が生きづらいと思ったという。
その兄は30代の若さで亡くなった。

現在の日本はうつ病などで年間3万人もの人が自殺しているという。
うつ病を体験した人ならわかるだろうが、薬で治るのは生物学的な原因による発病によるものであり、複雑な精神的要因により引き起こされたものは薬を飲んでも治らない。
薬は苦しい症状を麻痺させることだけしか効力を持たない。
今はうつ病になっても堂々と仕事や学校をリタイアできるが、昔はそうはいかなかった。だからうつ病であることを隠したり、あるいはうつ病であることに自分自身も気が付かずに仕事を続けて、とうとう力尽き自殺してしまうこともあった。私の身近にもこのような運命を辿った方がいる。

うつ病などの心の苦しみの殆どの原因は、恒常的に自分を責め、否定する心の姿勢が、自分の意思ではどうすることもできないくらい強固に形成されていることにある。
うつ病などの心の苦しみからどうしたら解放できるかを述べるには、本1冊分の分量にもなってしまうであろうが、一言で言うならば、上記のような心の姿勢が無意識の領域に根雪のように形成されていることに対する気付きを得ることと、その姿勢を少しづつ打ちこわして(矯正して)いくことである。
このプロセスを経ていくうちに、自然と心の深いところから自己を受け入れる気持ちが芽生えてくる。
自己肯定とは手段ではなく、結果なのである。まずは自分を苦しめるものに対する気づき(直視)であり、それができると良くも悪くも自己を受け入れられるようになる。

音楽が人の心の苦しみを和らげたり、苦しみを共有してくれたり、あるいは前向きなエネルギーを与えてくれたり、心の奥底に堆積していた感情を開放してくれたり、という効能があるのは間違いない。
ただ音楽にも人の心の状態により適否や聴くタイミングというものがある。
私は20代の苦しかった頃、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を何度も聴き続けていたことがあった。
同じ演奏者だけでなく、もっと自分の苦しみに共感する演奏を求め続け、当時売られていたこの曲のCDの殆ど全てを買って聴きまくった。それはまさに本能が求めているようなものであった。
この曲が自分の苦しみにどのように作用したかははっきりとは説明できない。しかしこの曲を聴き続けることで、私はある何か一種のカタルシスを得たような気がした。

数年前にある曲がきっかけで合唱曲にのめりこんだ。
その曲は「木琴」という曲であった。
この曲は私が今までの人生で最も楽しかった中学校3年生の時に、地区の合唱大会で歌った思い出の曲である。
その後私はこの曲の題名は忘れてしまったが、歌の旋律はどうしても忘れることが出来なかった。
社会人になってからも、この曲がふと頭に流れてくることが何度かあった。そしてこの曲を「もう一度聴きたい」と思うようになったが、私はこの曲の曲名を「妹よ」ではないかと思いこんでいたので、いくら探しても録音等を探し出すことが出来なかったのである。
数年前にこの「木琴」をYoutubeで偶然見つけて数十年ぶりに聴いたのであるが、その時に、心に堆積していた感情がとめどもなくあふれ出てきたのが思い出される。
そしてこの曲をその後2か月くらい毎日むさぼるように聴き続けたのであるが、この過程で心に長年堆積していたものが少しずつ流され浄化されていくのを感じた。

この体験をきっかけに、高校生の合唱曲を聴くようになり、NHKなどのコンクールの演奏をたくさん聴くようになったが、その中で、「心の深いところに響く」、「聴いていて眠っている感情が掘り起こされる」ような演奏に出会った。この演奏との出会いは衝撃的であったので紹介しておきたい。


①石田衣良作曲、大島ミチル作詞 あの空へ~青のジャンプ~
 演奏:愛媛県立西条高等学校 (平成21年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部 全国大会)

②千原英喜作曲 近松門左衛門作詞 混声合唱のための「ラプソディ・イン・チカマツ」から壱の段
 演奏:愛媛県立西条高等学校 (平成21年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部 全国大会)



③三善晃作曲、谷川俊太郎作詞、混声合唱のための「地球へのバラード」より、沈黙の名
 演奏:北海道立札幌北高等学校 (平成12年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部 全国大会)

この演奏は以前の記事でも取り上げたので重複するが、改めて掲載しておきたい。
①と②はCDを持っているので家で聴けるが、③は廃盤となっており、また中古でも出ることはないから、東京上野の音楽資料室まで行って聴かせてもらうのである。今日も聴いてきたところだ。

また合唱曲以外でも、私のメンタル面で非常に大きな影響を与えた演奏として次のものがある。

④ルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第32番 Op.111
 演奏:マリヤ・グリンベルク(1961年録音、トリトン盤)



⑤ルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第31番 Op.110
演奏:マリヤ・グリンベルク(1966年録音、メロディア盤)



他にもあるのだが、取り合えずこのくらいにとどめておきたい。

これらの演奏に共通しているのは、聴く者の心の深いところまで届くほどの強い感情エネルギーを演奏に秘めていることである。
「強い」というのは音の大きさのことではない。耳で感じられない、感情の強さというものである。
そしてこれらの演奏は信じられないほどの高い集中力に満ちている。
この次元の高い集中力と演奏者の無心とも言える感情エネルギーの強さが聴き手の心の奥の核となるものに触れ、それまで眠っていた感情が引き出されるのである。
この「感情エネルギー」の元になっているものは何であろうか。演奏者の心から出ていることは間違いないが、そのことについてここで述べることは控えたい。
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芥川龍之介「芋粥」を読む

2015-09-16 21:51:50 | 読書
数年前に芥川龍之介全集を手に入れた。
全12巻で3千数百円という格安であったが、長い間倉庫に眠っていたらしく、箱に夥しいしみの跡が付いていた。
第1巻を読んだが、その後高橋和巳の著作に関心が移り、しばらく中断していた。
芥川龍之介全集の第1巻には、「羅生門」、「鼻」といった彼の代表作が収録されていたが、私が最も印象に残ったのは、「芋粥」という短編であった。
以下簡単にあらすじを紹介したい。

時代は平安時代。摂政藤原基経に仕えている五位の侍に、背が低く、赤鼻で、みすぼらしい服装をした、風采の上がらない40過ぎの者がいた。
彼は宮仕えの職場で、目上の者からは手真似だけで用を足されるというような、およそ人間扱いをされない冷酷な仕打ちを受け、同僚たちからは、その風貌や失態を真似されて嘲笑の的となったり、日常的に、たちの悪い悪戯をされたりしたのである。
このように大人とはいっても毎日すさまじいいじめを受けていた五位であったが、彼はそのいじめやいやがらせに無感覚であり、腹を立てたことは無かった。彼は一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間であった。
ではこの五位という主人公は、ただ軽蔑されるだけのために生まれてきたばかりで、何の希望も持っていなかったわけではなかった。彼は「芋粥」という、山芋を甘葛で煮た粥を飽きるほど飲んでみたいという欲望を抱いていた。
ある日宮中で饗宴が催された。宮仕えの侍たちにもご馳走がふるまわれたが、その中に例の芋粥があった。
五位が毎年楽しみにしている芋粥であったが、今年出された芋粥はとくに少ないものであった。五位は独り言のように「いつになったらこれに飽ける事かのう」と言った。
それを聞いた藤原利仁という位の高い武人が嘲笑し、「お望みなら、利仁がお飽かせ申そう」といい、「どうぢゃ」と五位の答えを催促すると、五位は「忝うござる」と答えるやいなや、利仁をはじめ周りの者から嘲笑の嵐を受ける。
数日後、五位は藤原利仁は京都東山の温泉に誘われ、2人の従者を従え馬で旅に出る。
しかし東山を過ぎても、山科を過ぎても利仁は歩みを止めなかった。そして利仁はついに自分の屋敷のある敦賀まで連れていくことを切り出す。
敦賀までの道中は盗賊が出るといううわさがあり、五位は不安になる。そんな心細い気持ちを持ちながら荒涼とした道を進むうちに、一匹の狐に出くわす。利仁はその狐を見事な腕前の捕らえ、その狐に「明日、家来の男たちを迎えに来させる」ように命じて逃がした。
次の日、果たして昨日利仁が狐に命じたとおりに、家来の者たちがニ、三十人2人を迎えに来ていた。
そして五位は利仁の屋敷に招待され、暖かい寝床につくが、時間が経っていくのが待ち遠しい気持ちと、芋粥を食べるということが、そう早く来てはならない、という2つの矛盾した気持ちを感じ、なかなか寝付けない。
あくる日目を覚ますと、外で大勢の男たち、女たちが忙しそうに2、3千本もあるかと思われる大量の山芋を切り出し、大きな鍋に入れて調理していた。
そして五位は朝飯の膳に出された先の大量の芋粥を前にして、食欲が失せ、自分を情けなく思うようになる。
それでも利仁は意地悪く笑いながら「ご遠慮は無用じゃ」といいながらなおも膳を勧める。
その時外で一昨日出会ったあの狐が座っているのが利仁の目に入った。そして利仁はこの狐にも芋粥をふるまうよう命じる。
この狐が芋粥にありつく姿を見て五位は心の中で、この敦賀の屋敷に来る前の、多くの同僚たちから愚弄される、憐れむべき孤独な自分、しかし同時に芋粥を飽くほど飲みたい欲望を大事に守ってきた自分をなつかしく振り返る。そしてこれ以上芋粥を飲まずに済むという安心感に浸るのである。

以上がこの物語のあらすじである。
この小説について作者が何を意図して書いたのか、いわゆるテーマとか主題というものについて、一般的には次のことが言われているようである。
インターネット等で取り上げられている一般的な見解には、「望は実現しないときに最も価値があり、いざ実現すれば価値がなくなってしまうもの」とか、「 人間は長年一定の環境につかると、変化よりも安定を求めてしまう、欲望を実現するよりも実現しなくてよいと思ってしまう。無下に扱われていても、その扱いに納得してしまい、自ら状況を変えようしないもの」というようなものを目にする。
確かにそのような人間の本質的なものを暗黙裡に示そうとした狙いがあることはもっともだと思う。
私はこの小説を読んだ後、以下のように感じた。

この小説は、藤原利仁と五位という、身分、育ち、風貌、性格、体力等の全く異にする人物の、芋粥という食べ物を通して浮き彫りにされる人間性の違いをテーマとして描かれたものだと思う。
藤原利仁はある饗宴で、五位が年1回の楽しみにしている芋粥を前にして言った「何時になったら、これに飽ける事かのう」という独り言を聴いて、軽蔑と憐憫の入り混じった嘲笑を浴びせかける。
そして半ば強引に芋粥をご馳走することに同意させ、周囲の人たちの失笑を誘う。
ここで作者はこの利仁を「この朔北の野人は、生活の方法を二つしか心得ていない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑う事である」と評している。この「笑う事」とは、嘲笑、すなわち人を見下げ、馬鹿にする笑いのことである。
利仁には、五位に芋粥をたくさんご馳走し、喜んでもらい、また自分も五位と喜びを分かち合うという、自然なやさしさから出てくる気持ちが無い。
利仁の招待の真意は、自分の偉大さ、権力や財力の誇示である。その力を五位に賞賛させることで、自分に力や価値を感じたいためである。

五位は利仁の敦賀の屋敷で、夜の寝床の中で、こんなにも早く芋粥にたくさんありつけることに不安を感じる。また家来が一夜のうちに集めた山芋、2、3千本を見て自分を情けなく思う。
いざ一生かかっても食べきれないほど調理された芋粥を前にして、五位は食欲をすっかり失い、顔中に玉のような脂汗をかく。
何故心待ちにしていた芋粥を前にして食欲を失ってしまったのか。長い間待ち望んでいたことが実現してしまったことで、急に欲望がしぼんでしまったと言えるのだろうか。
私は、五位が前の晩の寝床で不安を感じたり、翌日の朝の膳で食べきれないほどの芋粥を前にして食欲を失ったのは、利仁の招待の真意を無意識に感じ取り、恐怖と怒りを感じたからではないかと思う。
五位は意識の上では、こうもあっさりと芋粥にありついていいのか、と疑問に感じているが、このもてなしが芋粥を楽しむものではなく、屈辱を味わあされるものであることを心の底の無意識では分かっていたからではないか。

五位は、最後にこの芋粥をこれ以上食べずに済むという安心と共に、満面の汗が乾いていくのを感じ取る。
五位はこの屋敷に来る前の、多くの同僚たちから愚弄され、飼い主のない犬のように朱雀大路をうろつく孤独な自分であるが、芋粥に飽きたいという欲望を唯一大事に守ってきた幸福な自分をなつかしく感じる。
五位はここで人間として何が大切なのかに気が付く。
五位は利仁のこの招待の動機に気付き、利仁の心の貧しさに気付いたのではないか。
利仁は見かけと違って、本当は不幸な人間であることを悟ったのではないか。
利仁は表向きは位が高く、裕福で、立派であるが、人間としての内面の価値は五位自身よりも劣っていることに気付いたに違いない。

作者はこの2人について、個人的な感情を入れていない。すなわちこの対照的な2人の言動や、人間心理をあるがままに描写しているのみである。ここがこの作品の素晴らしいところである。
読者はこの芋粥という料理に対する、2人の人間の感じ方、価値観にあまりにも相違があることを暗黙のうちに感じ取る。
作者は実は、芋粥というささやかなものを通して、身分や財力の違い、勇敢さや頼りなさといった表に出ていることとは全く無関係の、人間の心の最も核となるものの違いを暗黙のうちに浮き彫りにしたかったのではないかと思うのである。

私は若い頃、利仁のようなタイプの人間と接し、またそのようなタイプの人の多い環境の中にいて、苦しんだことがあった。
しかし時が経ち、今、この利仁のようなタイプの言動に全く影響されなくなった。
それは利仁のような人間が、実は心に問題をかかえた不幸な人間であることに気が付いたからである。


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鈴木輝昭作曲「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」を聴く

2015-09-12 23:27:57 | その他の音楽
9月初旬に各地で開催されたNコンブロック大会のライブ録音をホームページで聴かせてもらっていたが、参加校の自由曲に鈴木輝昭氏の合唱曲が多く取り上げられているのに気付いた。
何曲か聴いてみたが、その中で、有名な組曲「女に」など鈴木氏の代表作とは作風の異なる、いわゆる無調の現代音楽とも言える曲があった。
鈴木輝昭の合唱曲以外の器楽曲を2年ほど前に初めて聴いたが、その曲はマンドリン・オーケストラの曲であり、「僧園幻想」という曲であった。
この曲がどんな曲なのだろうと聴いてみたら、難解な無調の現代音楽であった。
理解するのに時間がかかるが、構成力が高く、密度の高い、聴き応えのある曲であり、以後、何度か繰り返し聴いている。
鈴木氏は音楽大学時代、調性音楽に関心はなかったという。恐らく無調音楽を中心に作曲していたのであろう。
しかしその後、師である三善晃の合唱曲に接して調性音楽に目覚めたのだと言う。
彼の調性音楽では、私は合唱曲しか聴いたことがないが、とても美しい曲がある。今、日本の合唱界で最も演奏される作曲家と言っていい。
だが彼の無調音楽もなかなかのものだと言いたい。
今日紹介する、「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」もパイプオルガンと打楽器というめずらしい取り合わせであるが、難解な現代音楽である。
CDの解説で「オルガンという楽器と、それを取り巻く教会の空間、というイメージが創作の根底ににあり、ヨーロッパ中世からルネサンス、バロックへ寄せる憧憬に今日在る作曲者自身の時間を重ね、その振幅の中で呼吸する持続を見出そうとしたもの。」と書かれていたが、実際に聴いてみると作曲の背景を感じ取ることは難しい。

調性音楽は、普通の人間が日常感じる感情、例えば、嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、快楽、苦悩、希望、絶望といったものに連動している。だから、調性音楽を聴いているとこれらの感情が呼び覚まされ、作曲者の曲作りの背景となった感情と共振することで、一種、非日常的な感動を味わうことのできるものだと言える。
しかし無調の現代音楽と言える類の音楽はそれとは趣を異にしている。
現代音楽と言っても調性音楽と同様様々な作風のものがある。私のよく聴く無調音楽に、野呂武男と毛利蔵人の曲がある。野呂武男は録音が無いので、楽器(ギター)を弾くことでその音楽を聴くのであるが、彼らの音楽はぞっとするほど荒涼とした闇の音楽である。
派手な装飾、構成などはなく、静かな音楽であるが、恐ろしく不気味で、心の深層にある闇から紡ぎ出されたような感情を表現したような音楽なのだ。彼らの曲において、機能調性は一切現れない。
その一方で、数学理論、電子的な発音を主題として作曲された無調音楽がある。その代表的作曲家はクセナキスであろう。
その音楽は感情的なものは感じ取れない。複雑で緻密な理論構成のもとに構築された音楽である。
このような曲を音楽ではないと批判する人もいるが、明確な意図をもって、音を自らの感性と志向する手法を用いて芸術的と言える構成力で生みだされた音の集合体は、やはり音楽と認めることができるのではないか。
人間の日常的な感情に訴えるものだけが「音楽」だと限定することは狭い見方だと思う。
文学というカテゴリーを考えた場合、芥川龍之介のような純文学が文学であることに異論はない。
しかし難解な哲学、それは人間心理とは無縁のものであったならば、それは広い意味での文学から外れるものなのか。それは文学、さらに進めて芸術というカテゴリーに属するものではなく、科学に属するものと言えるのであろうか。

現代音楽を本格的に聴くように5年以上は経過した。
現代音楽は調性音楽を聴くときとは次元の異なる準備、すなわち聴く脳のスイッチを切り替えておく必要がある。
このスイッチの切り替えをしないで、調性音楽を聴くときのスイッチの入った状態で聴くと、現代音楽がとても不快、不愉快なものに聴こえてしまう。
多くの人が現代音楽を聴いて2度と聴きたくないと敬遠する理由がここにある。
無調音楽に調性音楽を聴くときのような心地よさ、至高とも言える感情的感動と同じものを味わおうとしても、それは土台無理な話である。
無調音楽には調性音楽では決して味わうことのできない世界がある。異次元の世界と言って良い。
その異次元の世界の中で、作曲者が曲を作る際に意図したものを多くの時間をかけて考えたり、探ったり、感じ取ったりするのが現代音楽の聴き方なのだと思う。
現代音楽は、調性音楽のような縛り、規制といったものに制約されないから、リズム、音程等も全く自由で、創造されるものは無限といっていいが、作曲者のレベルが高いと、生み出された曲を理解するにはとても長い時間とエネルギーを要する。
哲学が純文学と違って理解するのに大変な時間とエネルギーを要するのと、現代音楽を理解するのとは似ている。
調性音楽は純文学を楽しむような姿勢でいい。しかし現代音楽を楽しもうとするならば、哲学を楽しむような取り組み方を要する。もっとも現代音楽がどうしてもなじめないのであれば、これは意味がない。

今回聴いた鈴木輝昭の「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」も10回くらい聴いたが、なかなか作品の実体や意図するものは見えてこない。曲に構成力があるからそうなのであろう。
現代音楽でも構成力に乏しいものは、奇抜な表現を用いていても軽く浅はかに聴こえてしまうものである。
「コンドゥクトゥス~オルガンとティンパニのための~」の終結部間近に、突然何とも言えない不思議な感覚のする調性音楽が現れる。そのフレーズは聴こえるか聴こえないかくらい小さな弱音で始まるが、短く終わる。
冒頭に作曲者自身の解説として、「オルガンという楽器と、それを取り巻く教会の空間、というイメージが創作の根底ににあり、ヨーロッパ中世からルネサンス、バロックへ寄せる憧憬に今日在る作曲者自身の時間を重ね」と書いたが、このフレーズにこの作曲背景を感じ取ることができた。

鈴木輝昭のこの器楽曲は1992年の作曲、マンドリン・オーケストラのための「僧園幻想」は1993年であるが、この時代は無調の現代音楽が廃れていた時代である。恐らく多くの聴き手を獲得できなかったかもしれないが、もっと聴かれていい曲である。
鈴木輝昭の器楽曲はCDで入手するこは難しいが、Youtubeでは弦楽四重奏曲など3曲のライブ映像を探し出すことができた。
弦楽四重奏曲やチェロ合奏曲などは若い演奏家による2014年のライブ映像であったが、恐ろしく難しい曲であるにもかかわらず完成度の高い演奏で感心した。
若い演奏家や、ベテランのクラシック音楽愛好家の中にも現代音楽を毛嫌いして決して聴かない方もいるが、先入観を取り外し、何度か聴いてみると調性音楽にはない魅力あふれる世界が展開されていることに気付くのではないか。


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