緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

会社人生の節目に思う

2024-03-30 23:42:42 | その他
勤め先の勤務が明日で節目を迎え、明後日から勤務形態が変わることになった。収入も減る。
37年間の勤務であったが、あと5年間は働かせてもらうことにした。

とくにこれといって感慨というものはない。
ただ心の弱かった私にとってはよく続けてこれたな、と感じるのみだ。
勤め先は製造業であるが、もし私が金融業界(銀行、証券、保険など)に就職していたら、かなりの確度で駄目になって居たと思う。途中で辞めていただろう。
卒業した大学の卒業生は当時、多くが金融業界へ就職していた。

38年前に就職活動をしていたときに銀行も受けたが見事に落ちた。「あなたのような人は要らない」という感触であった。
ある意味で、これは幸運だった。
当時私はゼミで原価計算や管理会計を専攻し、この分野に関心を持っていたので、製造企業も何社か受けた。
そのうちの1社に受かり、就職出来たわけだが、製造業は自分にとって正解だったと思う。
ただ、37年間のサラリーマン人生で常に充実していたなんてことはない。
20代半ばでメンタルをやられ、数年間満足に働けない状態になった。今なら休職制度を利用できたであろうが、当時はそんなものはなかったのと、その時期は親も兄弟も誰も信じることが出来なくなってしまっていたので、生きるという選択をしたならば、会社に行くしかなかったのである。
しかし会社に行っても、耳が聞こえず、周囲の視界も狭まっていたので、自分に周り半径50cmに要塞を築いたような異様な雰囲気で、勤務時間内にずっと手帳に苦しみを書き続けていた。誰も寄ってくるなというオーラ(?)を放っていたと思う。
その時の手帳は今でも残してある。膨大な量の文字が綴られていた。勤め先の会社組織がいかに問題をかかえているか、というようなこともかかれていた。
書くことでしか自分を維持することが出来なかった。

転機は28歳のとき、工場に転勤となったことだった。
生産管理部門に配属されたが、人が敬遠するような仕事をさせられた。
若かった私は30代の初め頃に、今のままではだめになる、転職するしかないと思い、転職の準備をした。
転職の準備が進んでいたとき、たまたま職場の同僚が突然退職した。
そしてその方がしていた仕事を私がやることになり、忙しくなった。
意外にもその仕事は地味ではあるがそれまでの仕事に比べればやり甲斐のあるものだった。ここであっさりと転職は断念されることになった。

ただ、他の同僚がやっているような花形の仕事はこの時点は手が届かなかった。
それから10年近く、延々と下積みのような仕事を黙々とやった。他人からすると、あー、これ絶対やりたくないなー、という種の仕事である。
でもこの10年近くの間、不思議なことに殆ど休まなかった。5年間一度も休まなかったこともある。
今から思えば、この時期が積み重ねがあったから、今の自分があると思える。
第二の転機は、この時の私の仕事ぶりを傍から見ていた複数の他部門の管理職の方が、私を抜擢してくれたのである。
会社が経営危機で希望退職などリストラが行われ、大きな組織変更があった時にであった。39歳になった頃である。

この時から猛烈に働いた。平日は朝誰よりも早く出社し、夜は殆どが誰よりも遅くまで、また毎週のように休日出勤をする生活を本社に異動になる54歳まで続けた。
基幹系システム導入の際は4か月間、全く休みがなかった。しかも毎日深夜まで勤務。
しかしこの時代に、1つの特定分野の業務について、かなり自由に自分の裁量で仕事をさせてもらえたのは幸運だった。

振り返れば地味な仕事だったと思う。
人にこういう仕事だと、口でなかなか説明出来ない仕事でもある。話しても誰も興味を示さないであろう。自分でも特段面白いとは思わない。
でも自分にとってはこれが適性だったのだと思う。これが自分に見合う仕事だった、ということだ。

この37年間で自分で学んだことは何だろう。今日の夜、千葉マンドリンクラブの合奏練習の帰りの電車の中で考えてみた。

「プラス・マイナス・ゼロ」

こんなキーワードが浮かんできた。
どんな出来事もプラスとマイナスの側面を同じだけ持っているということだ。
仕事でミスをした時、正直に報告し謝罪し誠意をもってリカバリーすることで、どんなプラスの側面とマイナスの側面が考えられるであろうか。
仕事でミスをした時、悪い評価、評判が付くのを恐れて、上手く隠ぺいし乗り切ることで、どんなプラスの側面とマイナスの側面が考えられるであろうか。
役員に昇りつめ、高収入を得られることでどんなプラスの側面とマイナスの側面が考えられるであろうか。
末端の現場の仕事で会社人生を終えたことでどんなプラスの側面とマイナスの側面が考えられるであろうか。

私は工場勤務時代に、銀縁メガネをかけた真面目そうな中年の女性の外注業者の方が工場のトイレを清掃する姿を見ていたく感動したことがあった。
これ以上ないというくらい、便器をくまなくたわしで何度もまんべんなくこすり、作業するその姿が真剣そのもので妥協を許さない厳しさを感じたからである。
今でもその姿は鮮明に覚えている。

どんな出来事、物事に価値の差は無い。あらゆる出来事、物事に、プラスの価値とマイナスの価値が等しく同時にあるだけのことなのではないかと今では感じるのである。

【追記】

ささやかだけど、自分にお祝いした。
私の好きな日本酒、「弁天娘」。これを燗にして飲んでみた。





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勤め先の先輩に20年振りで再会した

2024-03-23 21:19:17 | その他
今日のお昼に、私の勤務先の会社で若い頃によく飲みにいった8歳年上の先輩と約20年振りで再会し、東京某町の居酒屋で3時間ほど飲んできた。
13時から16時までという時間帯で、居酒屋で飲んだ、という記憶はちょっと無い。

今から1年前のことであったが、それは去年の2月下旬に母校マンドリンクラブ55周年の記念演奏会の合奏練習のために実家に帰省していたときだった。
実家の居間のソファでうつらうつらしていたら、携帯の着信音の音で目が覚めた。
電話に出ると意外な人からであった。
もうすでに退職されていたが、あの先輩の声に相違なかった。
あまりにも懐かしく、30分くらい近況などを話した。
電話が終わってから、携帯にショート・メッセージを送ってくれた。昔私が出した年賀状も捨てないでとっておいてくれたようでその画像も送ってくれた。

先輩とは一度も同じ職場にならなかったが、何のきっかけで知り合ったのだろう。
多分、私が新入社員の頃、組合の行事の帰りに飲みに誘われたのが最初の出会いだったとかすかに記憶している。
物静かで出しゃばらないダンディーな方で、私の話をよく聞いてくれた。
私が、20代半ばごろ、うつ病で苦しかった時代でも飲みに誘ってくれて、先輩と何度か飲んだ記憶がかすかに蘇ってくる。

うつ病の薬が効かず、薬を止めたらその反作用で、食事を受け付けず、眠れなくなり、もう親も兄弟も誰も信じられなくなり、その苦しさのあまり、年末の仕事納めの翌日だったと思うが、先輩に電話したこともあった。

私はその後うつ病から回復し、工場に転勤になり、それ以来先輩と顔を合わせることはなくなった。
工場勤務になってから5年くらいたった頃であろうか。先輩が本社から出張で工場に来たことがあって、私の席のところに来てくれた。私が35歳くらいの頃のことだ。
そして飲みにいこうという話になり、工場の最寄りの駅前の居酒屋で飲んだことがあった。
その居酒屋にはすでに先客の、勤務先の資材部の部長と課長がカウンター席に座っていた。資材課長が高橋和巳の「悲の器」を絶賛し、熱弁をふるっていた。

私は30代の終わり頃から仕事が忙しくなった。
そんな折、先輩が工場の敷地内にある、子会社の運送会社に出向になり、何かのきっかけで先輩が私の仕事場の席まで来てくれて、今日、飲みにいかないかと誘われたが、仕事が忙しかったので断った。
それ以来、今日までの間に先輩と一度も会うことはなかった。

先輩は出向が解除されてから、神奈川県某町の機器解体・リサイクル部門の工場に転勤となった。
たくさんの派遣労働者の管理を行う業務であった。
私の所属する事業本部内の組織でもあったので、先輩と仕事で何度か電話で話す機会があった。
そしてそのころだと思うのだが、休日に新橋駅で電車を待っていたときに携帯に先輩から突然電話がかかってきた。
今度飲みに行こうという話だったと思う。私が40代前半の頃だったと思う。

先輩は60歳定年後、雇用延長となったが、2年ほどである理由で退職した。

今日の昼、東京某町で先輩と20年ぶりで再会したが、年をとっても顔や姿はあまり変わっていなかった。先輩も私が殆ど昔のままだったのですぐに分かったとのことだった。
先輩は退職されても、昔の仕事時代の仲間と、それもかなりの人数の方と交流を続けていることがわかった。
それらの方々の中には私の同期もいた。飲み会の写真を見せてくれた。
機器解体・リサイクル部門時代の仲の良かった派遣社員の方と海外旅行に行ったこともあったそうだ。
そう、物静かそうで、目立たないけど、何故か意外に人望がある、先輩はそんな方なのだ。

今日の先輩は饒舌だった。
機器解体・リサイクル工場勤務時代の派遣労働者の中には、一流企業を辞めた方や、学校の先生だった方もいたと話してくれた。
先輩は、様々な事情で日払いの勤務形態でその日暮らしの生活をするようになった人たちの気持ちが分かる方だった。

酔いも回ってきて、モリカケなどの時事の話題になったりもしたが、突然先輩が「〇〇(私のこと)はどこまで出世したんだ、名刺を見せてくれ」と言ってきた。
私は「工場勤務時代に人の倍働いたせいで、それなりの地位まで行きました」とよれた名刺を渡して答えた。
すると先輩は嬉しそうに「そうか、良かった、良かった、すごいじゃないか」と言って一瞬声を詰まらせてから、涙を流したのである。
あまりにもの突然の展開に私はとまどった。しかし私も感極まって涙が出てきてしまった。
先輩は、若い頃のうつ病だった私が、不器用で、話下手の私がそこまで行ったことを心から喜んでくれたのである。

16時でお開きになった。
帰りにアメ横の雑踏を歩きながら、駅に向かった。
先輩は私の帰路とは全然違う方向であったが、遠回りでも私と同じ電車で帰りたいと言い、結局、私の最寄り駅までの路線まで乗ることになり、居酒屋の続きの会話が始まった。
先輩と分かれたのはあの私鉄の駅だった。

私はこの3月でサラリーマン生活の節目を迎えることになったが、勤め先には本当に様々な人たちがいたことが今更ながらリアルに分かってきた。
部下が自分のために一生懸命身を削って仕事をしていることが分からず、それが当然と思っているだけでなく、そのような人を平然と踏みにじるような方も残念ながらたくさん見てきた。
案外、中間管理職で終えた方の方が、サラリーマンの悲哀を身に染みて経験していると思う。
残酷な仕打ちをされても、生きていくために、家族を養うために忍耐する、という経験は、結果的には人間に対する深い理解力、共感力を深め、その体験が最後には自分を成長させてくれた、と感じることができる日が必ず訪れるものだと思っている。
今日、先輩と久しぶりに話をしてその思いを強くした。
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節目の年齢になって思うこと

2024-03-08 23:03:23 | その他
先日、節目と呼ばれる年齢に達した。
とくに感慨はない。
いままで生きてこれらたことに感謝の気持ち、それだけだ。

最近、今までの人生の最も辛かった20代の頃の出来事がフラッシュ・バックしてくることがある。
しかしそのことで、寝ていても感じている恐怖が、この出来事、この人から言われたことが元になっていたんだな、と振り返ることが出来る。
リアルに過去の体験を振り返ることで自分の苦しみを本当に身を持って理解してあげられるということが感じられてくる。

頭で考える世界ではない。
どんな自分でも理解してあげられるようしたい。これがこの節目の年に感じたことだ。

去年の夏頃だっただろうか。
日曜午後2時に放映される「ザ・ノンフィクション」という番組で、自転車でデリバリーの配達をしている青年のドキュメンタリーを見た。
彼は超一流大学を卒業し、超一流の企業に就職したが、数年でうつ病になり、退職してからどん底の生活を送った。
彼は亡くなった自分の父親に対し、その原因が自分であると責め続けていた。
その時に彼が見せた彼の生々しい感情が忘れられない。
しかし彼は過酷で競合の厳しい世界の仕事を忍耐強くやり遂げ、ついに借金を返済し、ある悟りの境地に達する。
彼は実際何も所有していなかったが、苦しみを乗り越え悟りを得た彼は、「存在しているだけで無限の可能性を秘めている」ように感じた。
私はこの番組を見て、その生き様にものすごく感動した。

「自分が、今、ここで、この瞬間に存在していることの喜びを感じられる。何も所有していなくても」
それは可能だと思う。たとえ物質的なものが何もなくても。
それは、どんな自分も認め、受け入れ、肯定し、自分の内側の深いところから沸き起こってくる気持ちに気付き実現することで得られるのではないかと思っている。




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偽通販サイトに注意

2024-02-22 22:23:44 | その他
最近、パソコンの画面の脇に出てくるバーナー広告で、1年前の引っ越しで泣く泣く手放したトヨトミ製ストーブの新品が異常に安い値段で販売されているサイトを見つけた。
そこでは人気のストーブが驚くような安い価格(4、5万円の定価が1万円を切る価格)で出ていたので、最初、型式変更で製造中止となり在庫処分をするためのセールだと思ったのだが、そういうものではなく、現行販売品であった。

一瞬、心が揺らぎ申し込み一歩手前まで手続きを進めたが、住所氏名を入力する欄に不自然な点を感じたため、この販売サイトの会社概要や利用規約、支払い方法などを記載したページをよく読んでみると、日本語の使い方に不自然な点があることが分かった。
会社概要のページに記載されていた会社名や所在地を調べてみると、実在している会社(東証プライム上場企業)であった。
しかしその会社のホームページを見てみると、この会社の社名を名乗り、お金を騙し取る偽サイトへの注意喚起を促すメッセージが記載されていた。

これによりこの販売サイトは危険であると判断した。
この手の偽販売サイトを見分けるにはどうしたらよいか。
まず、必ず不自然な箇所があるということだ。

・会社名、代表者の氏名、所在地、メールアドレスは記載されているが、電話番号が記載されていない。
・所在地をGooglemapで調べると、田舎の民家や、店舗とは考えられない場所にあったりする(最近はこれが見破られるようになったのか、実在する会社を名乗る方法に変わってきていると思われる)。
・新品で、製造中止品でもないのに異常に安い価格を付けている(△70%など)。しかも送料サービスの場合もある。
・サイトに記載されている日本語の文章に不自然な表現がある(日本人が普通に表現しないような言い回し)。

以前は、楽天などの通販ショップで偽サイトが多数見つかり、私も危うく騙される寸前の経験をしたことがある。
その時は、原博の24のプレリュードとトッカータという超レアなCDの新品(随分以前にすでに廃盤)がかなり安い価格で販売されていたので、飛びついてしまった。
運が良かったのか、出品者の口座が凍結されていたので振り込みが出来ず、そこでこの出品が詐欺であることが分かった。

これに限らず、このような類の偽サイトが氾濫しているので注意が必要だ。
メルカリやヤフオクの出品写真をコピーして、怪しまれない少し安い価格で出品している詐欺事例も見つけたことがある。

冒頭で述べたストーブのサイトの利用規約や支払い方法の文面と全く同一の記載がされている別の偽サイトも今日見つけた。そのサイトではカメラが販売されていた。
恐らく、偽サイト作成用のテンプレートがどこかに公開されているのだろう。
今から15年くらい前であるが、実際にこのテンプレートらしきものをネットで見たことがある。

とにかく少しでも不自然だと感じたら、絶対にそのような業者とは取引しないようにして欲しい。
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今年の抱負(2024)

2024-01-02 22:58:55 | その他
数時間前に羽田空港が衝突事故で大変なことになっていたが、今日、帰省先から無事帰ることが出来た。
年末年始は大抵、JALを利用しており、1月2日午後の便で自宅に戻ることが殆どであるが、今回はJALの介護帰省割引の更新手続きが遅れ、ピーチを利用したので幸い事故の影響を受けることはなかった(事故機に乗り合わせた可能性も十分あっただろうが)。

つかの間の正月休みだった。
年末の30日に母が入所している施設に兄とともに訪問、母の部屋で3時間ほど過ごした。
母は体が不自由で歩けないが、記憶ははっきりしており、昔のこともよく憶えている。
今回は兄の提案でギターを持って行って、母の前で3曲、タレガのアルハンブラ宮殿の思い出、バリオスの最後のトレモロ、そしてタレガのアラビア風奇想曲を弾かせてもらった。
いつも人前でも、自宅で録音するときも緊張で手が震えたり、夥しい量の発汗が生じるのであるが、何故かこの時は全く緊張せず、それも殆どノーミスの会心の出来だった。
何故だろう。弾いている最中は至福感のような気持ちすら感じられた。
アラビア風奇想曲を弾いているとき、母が「この曲覚えている、懐かしい」と言って、メロディを口ずさんでくれた。憶えてくれたのである。
思えばこの曲は高校生の時に弾き始め、実家でよく弾いていた記憶がある。馬鹿の一つ覚えのように同じ曲を何度も弾くので自然に憶えてしまったのであろう。
この曲は大学時代のマンドリンクラブの夏合宿の独奏会や、就職後間もない頃にある青年の集いで大勢の前で弾いたことがあったが、何故かミスせず上手くいった。
それ以来弾くこともなく数十年が過ぎたが、1年ほど前に練習を再開した。
母は20代の殆どを結核で療養生活を強いられ、結婚してからも他の病気で何度か入院したり、現在も病気を多数抱えているが、体の丈夫だった父よりも長生きしている。長い間民生委員や内職など働いていたほか、家のこまごまとした仕事を体が不自由になってからも絶えず自主的にやっていたことが長寿につながっているのではないかと思う。
年老いた母親と接して感じるのは、母親というのは自分の子供を、その幼かった頃、一番、手のかかる年頃だけど一番交流の深かった頃のことを重ねながら見ているのではないかということだ。本人は意識してはいないだろうが。

年末年始の実家で料理や酒をたらふく堪能したせいで、いさんの逆襲に会い、ちょっちと不調だ。実家でおいしい酒を飲んだのでその銘柄を後日記事にしたい。
このブログもなんだかんだいって今年で13年目だ。
ある方(ピアノを弾いている方だったが)のブログをたまたま読んでみたらこれが面白く、自分もこういうの書きたいなと思って始めたのがきっかけだったが、絶え間なくよく続いているし、やめようと思ったことは一度もない。
何故かというといよく分からないが、多分、書きたいときに、書きたいことを、出来るだけ感じるままに(飾らずに)書いているからではないかと思う。
だから、ときに汚い話(ゲロ吐いたなど)もで出るし、暗く重たく個人的なこと、何でこんなこと書くの?(とくに心理テーマ)といった話題も思いつくままに書いてきた。
昔から人に話をするのは苦手だったが、書くのは好きだったと思う。
書くのはいくらでも泉のように湧き出してくるといった感じか。
昨年は仕事以外では、マンドリン合奏の活動が増えたため、その関連の記事が多かったと思う。
4月の大規模演奏会、その直後のマンドリンアンサンブル発表会、そして私にとっては最大のイベント、母校55周年記念演奏会への出演、その懇親会で入部を決定した(させられた?)千葉マンドリンクラブの練習参加、東京マンドリンクラブ第50回定期演奏会、同団体パート発表会、千葉マンドリンクラブ定期演奏会、同団体部内発表会といったイベントに参加することが出来た。
なので仕事以外の時間は殆どがこのイベントのための練習に費やされ、それ以外のことに時間を振り向けることが出来なかったのがちょっと心残りの1年ではあった。
今年は東京マンドリンクラブと千葉マンドリンクラブの定期演奏会がメインイベントとなるのですこし独奏曲のレパートリーを増やすことを考えている(あ、そういえば夏にもう1つイベントがあったっけ)。
もう練習を始めているが、ドメニコーニの曲と宍戸睦郎のギター曲、あとはアセンシオのあの有名曲(組曲)の中から何曲かを完成させたいと考えているところだ。
あとは、これは随分前から考えていたことなのだが、プロの先生の指導を期間限定で受けたいとも考えている。ギターと音楽(リズム、和声、読譜、音楽解釈など)についてだ。
またこれはまだ夢の部類なのであるが、これ以上無いというくらい暗く、荒涼としていて、不気味で難解な、哲学的要素と人間の負の感情の両面をテーマにした無調の現代音楽(ギター独奏曲)を創作したいとも考えている。こういうことをテーマにした作曲家はN氏以外にいないのではないかと思う。Youtube等で折に触れて探しているが見つけることが出来ない。ならば自分で作ってみようか、という単純な発想だ(実現可能性はいかほど?)。

人間心理の探求と恐怖症解決への取り組みに関しては1週間程前に期待出来そうな教材を購入し、現在取り組み中のところ。
このテーマに関しては、かなり考えがまとまってきている。対人恐怖、うつ病などの心の苦しみが何故起きるのか、そしてその苦しみを解決するには何が必要で、どういうことに取り組めばいいのか、ということに関してかなり理解の進展が見られた。
そしてその考えや方法について自分の実体験からかなりの確信を抱いている。
その成果についても昨年に引き続き記事にしていくつもりだ。

仕事面では今年3月に大きな節目を迎える。
65歳までは今の仕事を続けることが出来るが(ただラインからは外され、品質向上、若手育成のための業務とのこと)、正直、今の仕事は入社以来殆ど絶え間なくやってきた仕事であり、もう十分やりつくしたという感がある。
恐らく、対人関係が下手なことと、資料を作るのはいくらでも耐えられるという性質だったためこの分野でめしを食わせてもらってきたのであろうが、そろそろ別の新たな分野に取り組みたいということを数年前から意識してきた。
今年はそのための土台造りに取り組もうと考えているところだ。

そういえば帰省中に小津安二郎監督の「東京物語」という映画をDVDで見たが、とてもいい映画だった。1953年の作品であり、日本の戦後間もない、まだ貧しさが残る時代の映画だったが、そこに描かれる人間たちが素晴らしかった。今の時代には消滅してしまったであろう人たちが映っていた。
1950年代から1970年代の日本ほど、素晴らしかった時代は無いと思っている。貧しかったが、人間は生き生きとしており、とてつもなく優しい人がたくさんいたことが分かる。
こういう映画や文学作品を今、あえて鑑賞することで感受性豊かでブレない生き方の一助にしてくれるような気がする。

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