緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタルを聴く

2016-10-29 22:35:46 | ピアノ
今日(29日)、東京浜離宮朝日ホールで行われた、ヴァレリー・アファナシエフのピアノ・リサイタルを聴きに行ってきた。
ヴァレリー・アファナシエフは1947年モスクワ生まれで、ピアノ愛好家であれば誰でも知っている現代最高のピアニストの一人だ。

アファナシエフの演奏を初めて聴いたのは、「モスクワ・レコーディングス」というアルバムで1969年から1971年にかけて録音された彼の若いころの録音だった。
このアルバムに1991年に、多分コンサートで演奏されたと思われるドビュッシーの「月の光」が収められており、この演奏が素晴らしく、それ以来、彼のCDを何枚か買って聴いた。
バッハのゴルドベルク変奏曲の全曲録音もあるが、ベートーヴェン、シューベルト、モーツァルトといった作曲家のピアノ・ソナタを最も得意にしているように思える。

これらの作曲家のピアノソナタの全曲録音はなされていないが、安易に短期間に、またその曲を機が熟していないのに録音することはしない、というスタンスを基本信条にしているのではないかと思える。

さて今日のプログラムは以下の通り。

①モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
②モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(トルコ行進曲付き)
③シューベルト:ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959

モーツァルトのピアノソナタ2曲は演奏頻度の高い、よく知られた曲だ。
第10番ハ長調の第1楽章は、私が子供の頃に、ピアノを習っていた姉が弾いているのを聴いた記憶がある。
親しみやすい曲で、姉が発表会のために何度も弾いていたので、忘れていなかった。

今日初めてアファナシエフの実音を耳にしたのであるが、CDで聴く音とかなり違っていたことに驚いた。
もちろん実音の方が何倍も素晴らしかったということである。
家に帰ってから、今日最後に演奏されたアンコール曲のモーツァルト作曲「幻想曲ニ短調 K.397」のCD録音を聴いてみたが、やはり音が全然違う。
先日の記事で、ローゼンの著作「ピアノ・ノート」に書かれていたレコーディングの話をしたが、レコーディングによる演奏はまず、音が平面的になってしまうこと、これは機能的な限界なのであろうが、楽器から引き出される立体的な響きが失われてしまうことに気付かされる。
また編集録音により演奏が分断されることで、奏者の情熱、感情の高揚といったメンタル面の最も重要な要素が欠落してしまっているようにも思えた。
これは今回のアファナシエフだけでなく、一昨年聴いたペーター・レーゼルのコンサートでも同様の感じを受けた。CDの音と生の実音が全然違うのである。
レーゼルのコンサートを聴いた感想を以前このブログで記事にしたが、確か、レーゼルの音はCDでは細く聴こえるが、生の音は繊細かつ重層的な響きがあり、CDの録音は彼の真価を捉えていない、とコメントした記憶がある。

とにかく驚いたのはアファナシエフの実音の凄さであった。
高音は透明ではないが、輝くような光を感じる音、低音は重厚かつ重層的、強く、深いといった低音の魅力の全てを兼ね備えている音だった。
私が今日、最も収穫を感じたのはこの低音の魅力だ。
低音に魅力を感じるピアニストと言えば、グリンベルク、シュナーベルやアラウがまず思いつくが、彼らとも異なる音だ。何とも形容しがたいが、いずれにしてもCDで聴く低音とはかなりの開きがあることは言っておきたい。

次に感じるのは、音が会場全体に響き渡るパワーを持っていること。
今日の会場は小ホールで、紀尾井ホール、白寿ホール、カザルスホールといったホールと同規模のホールであったが、後ろから3列目の私の座席まで十分過ぎるくらいの音の響き、通り方だった。
アファナシエフのタッチはとても柔らかく、独特の手の力を抜いてから鍵盤に指を落とすタッチでありながら、音がとても強かった。
この強さは物理的な強さではなく、何か精神的、感情的なエネルギーを含有した強さであることは間違いないであろう。
強い音を聴いてうんざりする演奏もあるが、アファナシエフの音は全く逆。
聴き手の心の奥に入っていく音と言っていい。
2曲目のモーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番のトルコ行進曲でも相当強い低音の和音を奏でていたが、響きが直線的というより多層的かつ強いという印象。

3曲目のシューベルト:ピアノ・ソナタ第20番が今日のコンサートで一番聴き応えがあった。
シューベルトの最晩年、彼が死去した1928年に書かれた最後の3つのソナタの一つ。
しかしこれだけのソナタを死の直前の短期間に書き上げるとは信じがたい。
私は本当は第21番を聴きたかったのであるが、第20番もなかなかの曲だ。
今日コンサートが終っての帰り道、アファナシエフが弾いたこの第20番の終楽章のあの有名な旋律が心に浮かんできては流れていた。
終楽章で若干いくつかのタッチミスがあったものの、ほぼ完璧な演奏。
第2楽章の沈鬱な音楽の合間に響く強烈な和音。この和音を聴いて聴衆の何人かがそれまで咳をしていたのが、静まり返ったのが印象的だった。
左手で重厚な強い和音を奏でながら、右手で速いパッセージをきらびやかな音で弾き切る演奏能力はやはり世界最高レベルの奏者の実力を見た思いだ。

アファナシエフはどちらかというと、暗く悲しみのある曲が好きなのではないかと思う。
モーツァルトもシューベルトも30代前半に若くして亡くなったが、共に30数年の人生で、普通の作曲家が一生かけても完成できない程の名曲を作曲している。
アファナシエフが今日のリサイタルで、モーツァルトとシューベルトの2人だけのプログラムに絞ったことは彼なりの考えがあってのことだと思う。
(アンコールもモーツァルト。それも小曲ではなく、幻想曲だった)
この2人の作曲家に共通するのは、時代が異なっていても彼らが精神的に不幸を抱えていたということだと思う。
華やかな、あるいは牧歌的な穏やかな旋律の合間に見え隠れする不安感、憂鬱感、不幸感といったもののコントラスト(今日の曲目ではシューベルトのピアノ・ソナタ第20番第1楽章でそれを感じることができる)を意識しているように私は感じた。

アファナシエフは服装もラフで、舞台に現れてもお辞儀をすることなく、すぐに演奏を始める。
演奏が終わってもお辞儀は歩きながらちょこっとするぐらい(とは言ってもすべての演奏が終ったあとは数回舞台の袖から現れて何度が軽くお辞儀をしたが)で、聴衆に対し素っ気ない態度であり、それも彼の流儀なのであろう。
コンサート後、会場で買ったCDにサインをしてもらったが、その時も流れ作業のようにサインすることが殆どで、客と挨拶したり握手したりする光景は殆どなかったが、気疲れするようなことが嫌いなのであろう。
まあ私からすると、演奏で感動させてくれたことで十分すぎるくらいなのであるが。

チケット代は高かったが(11,000円)、やはり世界最高レベルの演奏家のコンサートは可能な限り聴くべきだと思った。
その理由の1つとして先に述べたようにCDの音のような複製の本物でない音とは違って、本当の生の実音を聴けることと、演奏者の感情や情熱といった精神的なエネルギーを直接受け取ることができること、演奏者と聴き手の目に見えない交流を感じられること、などが挙げられる。
これは再生装置に何百万円投資しても決して得られない感動である。

現代のギター界にアファナシエフのような演奏家がいないことは残念だが、ギター関係者だって、ギター奏者のコンサートの枠からどんどん出て行って、他の楽器の、それもできるだけ最高レベルの奏者の演奏会を聴くべきではないかと思う。
ギターとピアノ、あるいはバイオリンとの音楽的レベルのあまりの違いにショックを受けるかもしれないが、今のギター界には絶対に必要なことだと思う。

いい演奏会を聴いた後は、理由はわからなくてもすがすがしくなるし、気持ちが平安になる。
今日の演奏会が終ったあとに、これまで聴いた演奏会のいずれよりも深い平安を味わった。
やはり意識していなくてもアファナシエフ効果が私の気持ちに知らずと浸透していたのではないかと思う。



【追記20161030】

コンサートから一夜明け、今日の朝刊を読んでいると、書評欄にアファナシエフの著作「ピアニストは語る」が紹介されていた。
この書評を書いた星野智幸氏の意見と当方の感じ方に共通するものがいくつかあったので、紹介させていただきたい。
まず星野氏は「この原稿を書いている前日に私はコンサートに行ってきたばかりで、体の緊張が和らいでいる」と書いている。
私も全く同様の精神的変化を感じた。
昨日の記事では勝手に「アファナシエフ効果」と書いたが、コンサートが終った後の帰路で、とても平安な気持ちになったのである。それと視界がいつもよりも広く開けるような感覚も起きていた。
これはアファナシエフが奏でる音楽が聴き手の心に知らず知らずに深く浸透し、作用し、変化をもたらしたといって間違いないと思う。
また星野氏は続けて、「アファナシエフは最も美しい音を出す演奏家だが、これをホールで生で聴くのは、森の中で一日をゆっくり過ごすようなものだ。耳に聴こえない音や静寂まで含めて、自然の音を肌に浴び続けるかのよう。」と言っている。
全く同感だ。昨日のコンサートでの一番の収穫は彼の生の音を聴けたことであり、その音はCDの音よりも何倍も深みや層の重なりが厚く、かつ演奏者自身の感情に満ちたものだった。これは編集録音されたCDの音では決して得られない感覚である。
星野氏はこのような音を出せる理由をアファナシエフの著書から引用して、「筋肉が緊張して不必要な力が入らないよう、自分にとって自然な姿勢と演奏法を身につけたこと。幼いころにその指導を受けたことが徹底的だった」と紹介している。
昨日の記事で書くのを忘れてしまったが、アファナシエフは椅子に深く腰掛け、背筋は伸ばさず、丸めており、傍から見ていると、ちょっとこの姿勢はだらしないのでは、と思ったのだが、この書評を読むと確かにこの姿勢が彼にとって最も脱力したベストの姿勢なのだ、ということに納得させられる。
続けて星野氏は「芸術家っぽくじっとピアノの前で集中したり、陶酔して首を振ったり体を揺らしたりほとんどしない。余計なものはなく、ただ音楽と共にあるのだ」と言う。
私もアファナシエフの動作を見てまず感じたのは余計な動きが無いことだった。
和音を弾いたあとに、腕を高々と頭の高さまで上げる奏者が多いが、アファナシエフはそのような大げさなジェスチャーが殆どない。
弾いているときの表情は作品や作者と交流しているかのように、集中力に満ちており、パフォーマンスといったものとは次元が全く異なるのである。
ギターのセゴビアも聴こえてくる音楽はものすごく感情に満ちているのに、弾いている表情は無表情に近く、そのギャップに驚いたものだ。
あと星野氏はアファナシエフの音の魅力のもう一つの理由として、メロディよりもハーモニー(和声)を重視していると、感想を述べられているが、私も昨日のコンサートでのアファナシエフの和音、とくに低音の和声の多層的、重厚な力強い、エネルギーに満ちたハーモニーに驚いた。
強い和音は時に、音がつぶれたように汚く聴こえることがある(私の感覚ではポリーニの演奏がそのように聴こえる)が、アファナシエフの音はどんな強い音でも美しく聴こえた。
その違いが何であるかは今は説明できないが、きっと大きな違い、技巧面とは全く次元の異なる音楽的、精神的な作用が関係しているのではないかと推測でき、これからの音楽鑑賞でそれを追求していくのも楽しみだと思った。

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オプティマ ギター弦を試す

2016-10-23 22:34:05 | ギター
40年前にギターを始めた当初、クラシックギター用の弦と言えば、オーガスティン、ヤマハ、ラベラが一般的な入手可能な弦だったと思う。
しばらくしてプロアルテが出て、マンドリン・オーケストラ曲の演奏ではハードテンションを使った。
強いタッチでないと自分の弾いている音が聞こえてこないので、オーガスティンの赤などのテンションだと使えなかった。
2000年代に入ってからクラシックギター弦の新しい商品がたくさん出るようになったと思う。
伝統的な製法による弦メーカーは従来、低音弦を裸で紙袋に入れるだけだったが、今では改良されて良心的なメーカーの中には真空のビニール袋に入れるものも出てきた。
アランフェスやルシェールは最も改良された弦メーカーだと思う。
しかし購入前に劣化防止のための対策を施していても、いざ使用し始めると数日で劣化し、音がこもったようになってしまうものが多い。
今、まとめ買いだと一番安いのがオーガスチンの赤ラベルなので、この5年ほどオーガスチンの赤ラベルを使ってきたが、やはり劣化しやすい。
特に私は手が汗っかきなので、普通より速く劣化するようだ。

そんな折、図書館で現代ギターを立ち読みしていたら、弦の新商品が紹介されていた。
オプティマ(OPTIMA)という銘柄であるが、オプティマというと昔からマンドリン用の弦メーカーとして有名であった。
中古で買ったはいいが、殆ど弾いていないマンドリンにこのオプティマの赤ラベルを張っているが、調弦中に突然プチンと切れるので、糸巻きを回すときは恐怖と闘わなければならない(弦そのものが原因ではないと思うが)。
糸巻きを1mmづつ慎重に慎重に回していくというありさまだ。

このオプティマのクラシックギター用弦のSILVER CLASSICSという商品名のミディアムテンションは、現代ギター誌によると弦の張力が37kgで弱い。
ハナバッハの黄色ラベルが結構高い値段なので、張力が低くてハナバッハよりも安いこの弦を試してみようと思った。
アマゾンに注文し、届いたら、弦は紙袋に裸で入っているだけ。密封されていない。
大丈夫かな、と思ったが、ギターに張って3週間経過しても、全く錆びない。
音も殆ど劣化しない(ただし私は週に2回、計4時間ほどしか弾かないので、この弦での劣化の速度は平均より遅いと思う)。
スーパー・ローテンションの部類なので、輝かしい張りのある音は期待できないが、それでもなかなかのものだ。

パッケージに英文で下記コメントが書かれていた。
A new core material and the coating give these fractional strings a high durability with a very good sound.

芯線は従来と異なる新しい素材で、金属弦の表面は特殊なコーティングをしているようだ。
だからなかなか錆びないし、高い耐久力を維持できるわけだ。

値段はオーガスティンのまとめ買いの1.5倍ほどだったと思うが、耐久性を考えるとこのオプティマの方が経済的かもしれない。
張力の弱い弦を求めている方にはお勧めできると思う。



下はマンドリン用。


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新聞を読んで思うこと(5)

2016-10-22 22:58:20 | 時事
今日の朝刊の読者投稿欄に、青森県某市の夏祭り写真コンテストで市長賞に一度は決まった中学生の少女が、いじめを苦に自殺したことに対し、無念の気持ちや問題提起を表す記事が掲載されていた。
19日の朝刊でこの写真を見て大きな衝撃を受けた。あまりにも悲しい。

近年、子供の自殺が増えているように思う。
経済の停滞、生産拠点の海外移転に伴う働き口の減少、その結果としての貧困、共働きなどの原因で、現代の大人たちは精神的に疲弊しているし、企業間、社員間の競争も昔に比べ激しくなっている。
いじめる子供は、精神的に問題を抱えた親からさまざま手段で影響を受け、心に傷を負っているとみて間違いないであろう。
いじめる子供は心に深い傷を負っており、その傷が癒えないが故に、その傷から絶えず湧き水のように湧き出す悪感情に苦しめられている。
子供はその絶えず心に渦巻く悪感情を直視できないし、その悪感情の大元の原因(=過去の生育環境で受けた継続的な心の傷)を探し求めることもできない。
絶えず心に生じている悪感情、すなわち、怒り、憎しみ、不幸感、劣等感、孤独感、恐怖などを感じ続けることは物凄く辛いし、耐えがたい。これらの感情は互いに連関している。
本質的、生産的な解決に自らを向けることができないから、それらの悪感情に押し潰れそうになる。
これらの悪感情を感じ続けることは辛い。
だから大抵は、反撃してこない弱い子供を標的にし、その悪感情を吐き出しているのである。

いじめられる子供も、その親が心理的な問題をかかえていることがある。
嫌なことをされても、反撃して自分を守ることを教わっていない。
そして人に助けを助けを求めることもできない。人を信頼できない心になってしまっているから。

何故親に教わっていないのか。
それは、親自身が劣等感、不幸感などを抱えており、子供が親に自己主張したり、反論、反抗することや助けを求めることを暗黙のうちに禁じているからである。
このような親は外側は真面目で道徳心が強いので、子供の言動に対し、それが原因で劣等感が刺激され不快に感じていることをはっきりと表立って言うことができない。
だから子供は親が何となく自分のふるまいに不快感を抱き、それが自分のせいだと思い込むようになる。
いじめられる子供が自分自身に対しいわれのない罪責感を常に持ち続けるのは、このような真面目ではあるが、心に劣等感などを抱えた親に育てられている可能性がある。
このような子供は親と同じように、真面目であるが自責の念が強く、理不尽なことをされても自分の方が悪いという傾向を持つようになる。
もう一つの可能性としては、親が生来人との争いを好まず、おとなしく自己主張をあまりしないタイプに育てられた場合で、親に問題はないが、いじめ社会で生き抜く心の逞しさに欠けている場合である。

どちらにしても、いじめられる子供は真面目だし本質的に優しい心を持っている。
だから人を責められない。
もちろん冒頭の青森県の少女の親が、このようなケースに該当するなど断定する意図は全く無い。
私の経験から可能性の一つとして述べているにすぎないことを断っておく。

子供だけでなく、大人の世界にもいじめはある。
大人のいじめはもっと陰湿で、ときに正論や正義の仮面をかぶって攻撃されることがあり、それが原因で過労死やうつ病による自殺に発展することもある。
最近問題視されるようになったパワハラやモラハラなども大人のいじめのひとつである。
このような大人のいじめの被害を受けるのは、先に述べた合理的でなくいわれのない自責の念を持ち続け、自分の心を自ら破壊するまで追い立てせきたてるようなタイプの人だ。限界を超えると、行き着く先は自殺である。

この今の世の中でいじめを無くすことは難しいかもしれない。
しかし少しでもわずかでも、いじめをなくすことに手助けすることはできると思う。
まず、いじめられる子供は、いじめる子供をよく観察してほしい。
いじめる子供は例外なく心に傷を負っている。まず心が普通でないと思っていい。
心に傷を負っていても、それを自ら直視し、直そうとしている良心を持った人とは違う。
良心や罪悪感が麻痺している。
いじめる子供を矯正することは難しい。

いじめられる子供はいじめる子供の方が自分よりも上で、正しいと錯覚している。
錯覚であるが、そのように感じることが真実であることが自明のことにように心に根付いてしまっている。
だから、よく相手を観察して欲しい。
いじめる子供は卑怯だと思わないだろうか。
卑怯だと思う事実を冷静に挙げていく。
ここでやっかいなのは、いじめる相手がかつて親しかったり、親友だと思い込んでいた人だった場合だ。
しかし自分を本質的に貶めるような人間は、親友でもなんでもない。
その現実を受け入れなければならない。その時はとても辛くても耐えなければならない。これほど辛いことはない。
しかしこれに負けてしまったら死を選ぶしかない。

死を意識したとき、極めて少ないかもしれないが今まで楽しかったことを一つでもいいから思い浮かべて欲しい。
そして死ぬ間際でも、千に一つでも今したいことを探して欲しい。
幼いころに食べたあのお菓子が食べたい、でもいい。
とにかくその時の自分の気持ちに耳を傾けて欲しい。
「死ぬこと以外」の今自分のしたいことを感じて欲しい。

自殺は、悲しみ、憎しみ、怒りなどの悪感情を表現できずに心に堆積し続け、もはやその重みに耐えられなくなった時に起きる。しかし本人はそれを客観的に意識できていない。この事実が最大の不幸を招く。

自分の心の声や、欲求に耳を傾けられるようになり、それを自らの行動で満たすことを積み重ねていくと、危機を脱出できる。
そしてその積み重ねが自己の肯定感を少しずつ、少しずつ厚みを増していく。
10年、20年あるいはそれ以上かかるかもしれないが、自己肯定感が出来るようになると、自己と他人の区別が明確にできるようになる。
すなわち、他人のどんな言動にも左右されなくなる。
他人の言動の真意と自己とを切り離すことができるようになる。

それにしても自殺は悲しい行為だ。
自殺は、これまで一度も主張できなかった人が自分を傷つけた人に対し、自分の正当性を主張し、復讐する最後の究極の手段である。
このような行為を生まない世の中になることを切に願わざるを得ない。
このブログを小中高生が読む機会はゼロに近いかもしれないが、何かのきっかけで目に触れたなら、こんな意見もあるのだと感じてもらえればそれでいいと思う。
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ヴァレリー・アファナシエフ演奏「シューベルト・ピアノソナタ第21番D.960」を聴く

2016-10-22 21:16:01 | ピアノ
このピアノソナタはシューベルトが31歳で亡くなる2か月前に書かれた、彼の最後のピアノ曲であり、最高傑作である。
ピアノソナタの中でも、ベートーヴェンの第31番、第32番、そしてリストのロ短調と並び、ピアノ曲の最高傑作のひとつでもある。

この曲を聴くきっかけとなったのは、マヌエル・ポンセ作曲のギター曲「ソナタ・ロマンティカ(F.シューベルトを讃えて」)を愛聴していた30代前半の頃であった。
この話は今まで何度か記事にしたが、ポンセが ソナタ・ロマンティカで用いている、形式、展開法、モチーフはこのシューベルトの最後のソナタであることは間違いない。
特にソナタ・ロマンティカの第1楽章はかなりの共通点がある。
第1楽章が他の楽章に比べて突出して長いこと、冒頭の長い主題が2回繰り返された後に短調へ転調し、しばらくしてあの例の不協和音が現れる。
しかし両曲の決定的な違いは、曲から伝わる作者の感情である。
シューベルトのピアノソナタ第21番の解釈については、多くの方がすでにたくさん述べているが、忍び寄る死に対する恐怖、凍り付くような荒涼とした孤独感、自分の置かれた境遇や人生に対する深い悲しみと束の間の幸福感など。

30代前半で初めて聴いたのは、アルフレッド・ブレンデルの演奏であったが、あまり印象に残らなかった。
数回聴いただけで終わって、約20年後に去年の春にシャオ・メイの演奏を聴いて一気に開眼した。
それから、多くの奏者の演奏を聴いてきたが、まだベスト盤を選ぶに至っていない。
聴けば聴くほど難しい曲であることが分かる。
これほどの複雑で深い感情を持つ曲を表現できる奏者は少ない。
表面的なものと本質的なものの見極めも難しく、自分が、これだ!、という演奏を選ぶにはかなり時間を要すると思われる。

今日紹介するヴァレリー・アファナシエフ(Valery Afanassiev)は、実は今コンサートのために来日している。
1週間後に東京でコンサートがあり、幸運にもチケットが取れたので、聴きに行くことにした。
本当に楽しみだ。
ヴァレリー・アファナシエフのことは、これまでこのブログでもドビュッシーの「月の光」やベートーヴェンのピアノソナタ第31番の演奏の記事で紹介したが、現在現役のピアノニストで世界最高レベルの演奏家である。
チケット代は高かったが、このような巨匠クラスの演奏家のライブ演奏を聴ける機会は人生でそう滅多にあるわけではない。

ヴァレリー・アファナシエフが弾くシューベルト・ピアノソナタ第21番の録音は去年手に入れ、聴いてきたが、テンポが遅く最初は違和感を感じ、数回聴くだけ終わっていたが、この1週間ほど何度か聴き返してみると、実に深い演奏をしていることが分かる。
下記の第1楽章最初の主題のリピート直前の、恐ろしいまでの恐怖を表現した部分は寒気がする。
他の奏者の3倍以上の長さはあるであろう、不気味なトリルとその直後の長い間。
シューベルトがどれほど恐ろしい恐怖と生きる望みとの葛藤に苦しんでいたかが伝わってくる。





第1楽章で転調してからは、幸福感と裏に忍び寄る恐怖感と悲愴感とは別の感情が表現される。
それは救いようがないほどの孤独感だ。
これほどの悲痛な孤独感を表現した音楽を聴いたことは無い。
いやあえて挙げるしたら、野呂武男の音楽のみだ。







心を病み、誰ともコミュニケーションできずに人知れず苦しみ、独り孤独な部屋でのたうちまわっているような苦しみを感じる。
シューベルトという人は、人一倍感受性が強く、あらゆる感情を感じやすかったのではないか。
心の苦しみや強い葛藤が痛いほどに伝わってくる。

下記の部分でその気持ちが表現されている。第1楽章の最も要となる部分だ。
アファナシエフはこの要の部分を最高に表現にしていると思う。
幸福にを切に望みながら一生懸命に、精一杯生きながら、ついに得られなかった無念さ、はかなさ、どうすることもできないこの自分自身、そして人生に対する思いが感じ取れる。

第2楽章も素晴らしい。
特に最後は、死を前にした人間が、一瞬、自分のそれまでの人生は全て受け入れ、肯定することができた安堵感のようなものを感じた。

私はシューベルトは、死ぬ直前には、生涯を賭けて尽くしたすべてものをやり遂げたという安堵感を感じて逝ったのではないかと思っている。








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チャールズ・ローゼン著「ピアノ・ノート」を読む

2016-10-16 22:24:50 | ピアノ
先日、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番の演奏の記事で紹介した、アメリカのピアニスト、チャールズ・ローゼンの著作、「ピアノ・ノート」(みすず書房)を図書館から借りて読んでみた。
完読に至っていないが、興味を惹かれたテーマとローゼンの見解について考えてみたいと思う。

この本の第6章「レコーディング」をまず読んでみた。
まず、現代のレコーディングは、「テープ・スプライシング技法」のおかげでずっと簡単になったと言われているが、これは真実の一部に過ぎないと言う。
「テープ・スプライシング技法」とは、テープの切り貼りであり、ミスしたり、気に入らない部分を別テイクの録音から選び出し、入れ替える技術である。
昔小学生の時に、刑事コロンボで、このテープの切り貼りのシーンを見たことがある。
テープをはさみやカッターで切断し、セロテープで接着するようだ。
このような作業を行うのは家内工業的な技術者が行っていたとのこと。
(下記に実演があるので参考になる)

http://www.nihon-onkyo.co.jp/report/splicing_guide.html

LPレコードの時代、すなわち1980年代半ばまではこのテープ・スプライシング技法により編集録音が行われていた、ということになる。
ローゼンが言うには、ピアノ演奏のアナログ・テープ録音の場合、スプライシングはほとんど児戯とも言えるほど簡単な作業だったそうだ。

ギターの場合、確かに切り貼りしているのではないかと感じた録音はある。
高校時代に何度も繰り返し聴いていたジュリアン・ブリームの録音、そしてイエペスのバッハのリュート組曲の録音でそれらしきものを微妙に感じたことがある。
ピアノの例では、フリードリッヒ・グルダが弾くベートーヴェンのピアノソナタであるフレーズの音がその前後の音とはっきりわかるくらい違っていたので、切り貼りしていることは容易に認識できた。

しかし、デジタル録音の時代になると、今までのアナロクのような手作業ではなく、もっと精巧な技術で編集が可能となり、演奏時の背景の雑音ですら取り除くこともできるが、その反面、アナログ録音よりも繊細さに欠けていると言う。
その理由として、「人間の耳は、現行のデジタルシステムがとりこぼす音楽のダイナミックなニュアンスを聴きとることができるので、背景の雑音を消した音楽が妙に無菌的な印象を与えるためである」と言う。
デジタル録音では恐らく切り貼りしていることは全くというほどわからないのであろう。
無菌的な印象はたしかにある。真空状態での演奏と言ってもいい。
背景の雑音は一切無く、楽器の音だけが浮かび上がる。
クリアであるが、何か自然さに欠けている。
私はデジタル時代になってから録音された演奏よりも、アナログ時代に録音された演奏の方を好む。
その理由としては、背景の雑音、例えば演奏者の息遣い、ホールの残響、ピアノのハンマーを叩く音、など、その曲が演奏されている空間に居合わせている感覚を感じることができるからだ。
ピアノの録音では、ジャン・ドワイアンが録音したフォーレの夜想曲で聴こえてくる楽器のハンマーと金属弦が触れる音や、フレーズとフレースの境目で譜面をめくる音までが聴こえてくる。
ギターの録音では、イエペスが録音した、ロドリーゴの「祈祷と踊り」で聴こえてくる、鳥の鳴き声とも違う正体不明?の音が断続的にかなり長く聴こえてくるものもあった。
この2つの録音は、とても音がリアルに聴こえてくるものであり、私は今まで聴いた録音の中でも最上位に入るものである。

このような編集録音は「ライブ録音」でも行われることがある。
演奏会でノーミスで弾くことはまず稀だ。
どんな一流の演奏者だって必ず破綻がある。
ライブ録音の音源をレコード化、CD化しようとする際、ライブの演奏をそのまま、すなわち破綻や不出来も含めそのままで編集する場合と、リハーサルなどで別録音した音源の一部分を破綻した部分や気に入らない部分と入れ替えて編集する場合とがある。
後者の例として、園田高広が残したベートーヴェンのピアノソナタ全集の3度の録音のうちの2番目、これは1983年の東京文化会館小ホールでのライブ録音であったが、編集されていることが解説書に記されている。

つまりライブ録音ですら編集されているということである。
このような録音方法の実態についてローゼンは次のように述べている。
「レコードをつくる過程で必要な計算は、なんであれ隠しておくべきもので、見せびらかすものではない。わたしたちは演奏が自然なもので、音楽は作曲家や演奏家の心の表現そのものであるようなふりをしなければならない。この過程で録音機器やマイクは受動的な記録係に過ぎない。わたしたちがクラシックのレコードに求めるのは忠実さであり信頼性である。つまり、録音機材などいっさい存在しないかのような、演奏サウンドへの忠実さと、いかなる方法であれ混ぜ物や変形のない、演奏されたままの音だと保証する信頼性だ。だが実際にはライブ録音でさえ、こうした条件はほとんど神話である。」

聴く側からこのような信頼性が求められるから、編集録音は倫理的なジレンマに陥る。
つまり、まがい物、ニセ物を聴く側にお金を払ってもらって提供しているという、一種の罪悪感のようなものだ。
この本によると、ホロヴィッツはスプライシングが一般的になると、わがままな要求をするようになったと言う。
すなわちプロデューサーや技術者泣かせの難しい入れ替えの要求をしていたというのだ。
このようにたとえ世界最高レベルの演奏家ですら、この編集録音の誘惑に勝てない人がいるという事実である。

しかしローゼンは編集録音に対し次のように結論づけている。
「現代の編集慣行に倫理的とまどいを覚えるのがわからないではない。だが、つまるところ、わたしはまちがった音をスプライスで消すのと、納得のいくまで全曲とおして十六回弾くことのあいだに大した差があるとは思えない。
」と。
つまり、録音プレッシャーの中で16回も精魂尽き果てるまで納得のいく演奏をしつづけるのと、普段の環境でリラックスした最高の状態でノーミスで演奏されるのと同じレベルでスプライシングが行われるのは、そう変わらないといっているのである。

私もギターの録音をたまにやるが、短い簡単な曲は別として、全曲とおしてノーミスで録音できたことは皆無である。
もちろん私の場合、練習時間が少ない(週2回、土日の各2時間程度)ので当然練習不足でそうなることは明らかであるが、それでも納得の行く録音をできるまでには何十回も、それも何日もかけて行わなければならないと感じる。それでも運よく幸運にも1回はいいのが録れるのがいいところだ。
カメラを意識すると、独りで弾いていても緊張してくる。
プロデューサーや録音技師などがつきっきりで側にいられたら、プロの演奏家であっても大曲、難曲をノーミスで弾くことは極めて困難なことに違いない。
だから私はローゼンの見解と同じく、スプライシングであれば許容できると思う。

しかし1990年代から主流となった音加工はどうであろう。
音加工とは、電気処理により、生の音を全く別の音に置き換えてしまう技術だ。
リバーブ、エコー、エフェクトなどの技術があげられる。
ローゼンはこの音加工という技術には何も触れていなかったが、恐らくこの著作を書いた時にはその技術が未だ確立していなかったに違いない。
しかし悪く言えば、音加工とは、悪い素材にきらびやかなメッキを施し、表面上綺麗に見せているのと同じことである。
カラオケボックスのあのやたらエコーのかかったマイクで歌を歌うと、下手な人でもそれなりに聴こえてしまうのと同じような効果をもたらす。
自分の生の音に自信がなければないほど、このような電気処理技術にたよるようになるであろう。
スプライシングは聴いてもなかなか分からないが、この電気処理は如実に認識できる。
Youtubeなどで、この電気処理を施した演奏がやたら氾濫しているが、一体演奏者の生の音は何なんだ、と言いたくなる。
プロの演奏家の場合、ここまで露骨ではないが、電気処理に頼っている演奏家は沢山いる。
現代の演奏家が昔に比べ、生の音に魅力が無くなってきている要因の一つに、この電気処理による音変換の技術が横行しているのではないかとさえ思う。
つまり生の音で真剣勝負(ちょっと大げさだが)しなくなったことの結果なのではないか。
要するに生の音そのものを考える機会、追求する姿勢、研鑽する努力が失われてしまったのではないか、ということである。
録音技術も、LPレコード時代のようなホールや舞台で実際に演奏されるそのものの音を再現することに最大限の技術とエネルギーを注力していた時代よりも、電子技術が進歩した現代の方が衰退していると感じる。

スプライシングは許容されても電気処理による音加工は絶対にさけるべきだと思うのである。


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