今日(29日)、東京浜離宮朝日ホールで行われた、ヴァレリー・アファナシエフのピアノ・リサイタルを聴きに行ってきた。
ヴァレリー・アファナシエフは1947年モスクワ生まれで、ピアノ愛好家であれば誰でも知っている現代最高のピアニストの一人だ。
アファナシエフの演奏を初めて聴いたのは、「モスクワ・レコーディングス」というアルバムで1969年から1971年にかけて録音された彼の若いころの録音だった。
このアルバムに1991年に、多分コンサートで演奏されたと思われるドビュッシーの「月の光」が収められており、この演奏が素晴らしく、それ以来、彼のCDを何枚か買って聴いた。
バッハのゴルドベルク変奏曲の全曲録音もあるが、ベートーヴェン、シューベルト、モーツァルトといった作曲家のピアノ・ソナタを最も得意にしているように思える。
これらの作曲家のピアノソナタの全曲録音はなされていないが、安易に短期間に、またその曲を機が熟していないのに録音することはしない、というスタンスを基本信条にしているのではないかと思える。
さて今日のプログラムは以下の通り。
①モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
②モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(トルコ行進曲付き)
③シューベルト:ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
モーツァルトのピアノソナタ2曲は演奏頻度の高い、よく知られた曲だ。
第10番ハ長調の第1楽章は、私が子供の頃に、ピアノを習っていた姉が弾いているのを聴いた記憶がある。
親しみやすい曲で、姉が発表会のために何度も弾いていたので、忘れていなかった。
今日初めてアファナシエフの実音を耳にしたのであるが、CDで聴く音とかなり違っていたことに驚いた。
もちろん実音の方が何倍も素晴らしかったということである。
家に帰ってから、今日最後に演奏されたアンコール曲のモーツァルト作曲「幻想曲ニ短調 K.397」のCD録音を聴いてみたが、やはり音が全然違う。
先日の記事で、ローゼンの著作「ピアノ・ノート」に書かれていたレコーディングの話をしたが、レコーディングによる演奏はまず、音が平面的になってしまうこと、これは機能的な限界なのであろうが、楽器から引き出される立体的な響きが失われてしまうことに気付かされる。
また編集録音により演奏が分断されることで、奏者の情熱、感情の高揚といったメンタル面の最も重要な要素が欠落してしまっているようにも思えた。
これは今回のアファナシエフだけでなく、一昨年聴いたペーター・レーゼルのコンサートでも同様の感じを受けた。CDの音と生の実音が全然違うのである。
レーゼルのコンサートを聴いた感想を以前このブログで記事にしたが、確か、レーゼルの音はCDでは細く聴こえるが、生の音は繊細かつ重層的な響きがあり、CDの録音は彼の真価を捉えていない、とコメントした記憶がある。
とにかく驚いたのはアファナシエフの実音の凄さであった。
高音は透明ではないが、輝くような光を感じる音、低音は重厚かつ重層的、強く、深いといった低音の魅力の全てを兼ね備えている音だった。
私が今日、最も収穫を感じたのはこの低音の魅力だ。
低音に魅力を感じるピアニストと言えば、グリンベルク、シュナーベルやアラウがまず思いつくが、彼らとも異なる音だ。何とも形容しがたいが、いずれにしてもCDで聴く低音とはかなりの開きがあることは言っておきたい。
次に感じるのは、音が会場全体に響き渡るパワーを持っていること。
今日の会場は小ホールで、紀尾井ホール、白寿ホール、カザルスホールといったホールと同規模のホールであったが、後ろから3列目の私の座席まで十分過ぎるくらいの音の響き、通り方だった。
アファナシエフのタッチはとても柔らかく、独特の手の力を抜いてから鍵盤に指を落とすタッチでありながら、音がとても強かった。
この強さは物理的な強さではなく、何か精神的、感情的なエネルギーを含有した強さであることは間違いないであろう。
強い音を聴いてうんざりする演奏もあるが、アファナシエフの音は全く逆。
聴き手の心の奥に入っていく音と言っていい。
2曲目のモーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番のトルコ行進曲でも相当強い低音の和音を奏でていたが、響きが直線的というより多層的かつ強いという印象。
3曲目のシューベルト:ピアノ・ソナタ第20番が今日のコンサートで一番聴き応えがあった。
シューベルトの最晩年、彼が死去した1928年に書かれた最後の3つのソナタの一つ。
しかしこれだけのソナタを死の直前の短期間に書き上げるとは信じがたい。
私は本当は第21番を聴きたかったのであるが、第20番もなかなかの曲だ。
今日コンサートが終っての帰り道、アファナシエフが弾いたこの第20番の終楽章のあの有名な旋律が心に浮かんできては流れていた。
終楽章で若干いくつかのタッチミスがあったものの、ほぼ完璧な演奏。
第2楽章の沈鬱な音楽の合間に響く強烈な和音。この和音を聴いて聴衆の何人かがそれまで咳をしていたのが、静まり返ったのが印象的だった。
左手で重厚な強い和音を奏でながら、右手で速いパッセージをきらびやかな音で弾き切る演奏能力はやはり世界最高レベルの奏者の実力を見た思いだ。
アファナシエフはどちらかというと、暗く悲しみのある曲が好きなのではないかと思う。
モーツァルトもシューベルトも30代前半に若くして亡くなったが、共に30数年の人生で、普通の作曲家が一生かけても完成できない程の名曲を作曲している。
アファナシエフが今日のリサイタルで、モーツァルトとシューベルトの2人だけのプログラムに絞ったことは彼なりの考えがあってのことだと思う。
(アンコールもモーツァルト。それも小曲ではなく、幻想曲だった)
この2人の作曲家に共通するのは、時代が異なっていても彼らが精神的に不幸を抱えていたということだと思う。
華やかな、あるいは牧歌的な穏やかな旋律の合間に見え隠れする不安感、憂鬱感、不幸感といったもののコントラスト(今日の曲目ではシューベルトのピアノ・ソナタ第20番第1楽章でそれを感じることができる)を意識しているように私は感じた。
アファナシエフは服装もラフで、舞台に現れてもお辞儀をすることなく、すぐに演奏を始める。
演奏が終わってもお辞儀は歩きながらちょこっとするぐらい(とは言ってもすべての演奏が終ったあとは数回舞台の袖から現れて何度が軽くお辞儀をしたが)で、聴衆に対し素っ気ない態度であり、それも彼の流儀なのであろう。
コンサート後、会場で買ったCDにサインをしてもらったが、その時も流れ作業のようにサインすることが殆どで、客と挨拶したり握手したりする光景は殆どなかったが、気疲れするようなことが嫌いなのであろう。
まあ私からすると、演奏で感動させてくれたことで十分すぎるくらいなのであるが。
チケット代は高かったが(11,000円)、やはり世界最高レベルの演奏家のコンサートは可能な限り聴くべきだと思った。
その理由の1つとして先に述べたようにCDの音のような複製の本物でない音とは違って、本当の生の実音を聴けることと、演奏者の感情や情熱といった精神的なエネルギーを直接受け取ることができること、演奏者と聴き手の目に見えない交流を感じられること、などが挙げられる。
これは再生装置に何百万円投資しても決して得られない感動である。
現代のギター界にアファナシエフのような演奏家がいないことは残念だが、ギター関係者だって、ギター奏者のコンサートの枠からどんどん出て行って、他の楽器の、それもできるだけ最高レベルの奏者の演奏会を聴くべきではないかと思う。
ギターとピアノ、あるいはバイオリンとの音楽的レベルのあまりの違いにショックを受けるかもしれないが、今のギター界には絶対に必要なことだと思う。
いい演奏会を聴いた後は、理由はわからなくてもすがすがしくなるし、気持ちが平安になる。
今日の演奏会が終ったあとに、これまで聴いた演奏会のいずれよりも深い平安を味わった。
やはり意識していなくてもアファナシエフ効果が私の気持ちに知らずと浸透していたのではないかと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/5c/f37cb054ba8fa0d438de6847e456f560.jpg)
【追記20161030】
コンサートから一夜明け、今日の朝刊を読んでいると、書評欄にアファナシエフの著作「ピアニストは語る」が紹介されていた。
この書評を書いた星野智幸氏の意見と当方の感じ方に共通するものがいくつかあったので、紹介させていただきたい。
まず星野氏は「この原稿を書いている前日に私はコンサートに行ってきたばかりで、体の緊張が和らいでいる」と書いている。
私も全く同様の精神的変化を感じた。
昨日の記事では勝手に「アファナシエフ効果」と書いたが、コンサートが終った後の帰路で、とても平安な気持ちになったのである。それと視界がいつもよりも広く開けるような感覚も起きていた。
これはアファナシエフが奏でる音楽が聴き手の心に知らず知らずに深く浸透し、作用し、変化をもたらしたといって間違いないと思う。
また星野氏は続けて、「アファナシエフは最も美しい音を出す演奏家だが、これをホールで生で聴くのは、森の中で一日をゆっくり過ごすようなものだ。耳に聴こえない音や静寂まで含めて、自然の音を肌に浴び続けるかのよう。」と言っている。
全く同感だ。昨日のコンサートでの一番の収穫は彼の生の音を聴けたことであり、その音はCDの音よりも何倍も深みや層の重なりが厚く、かつ演奏者自身の感情に満ちたものだった。これは編集録音されたCDの音では決して得られない感覚である。
星野氏はこのような音を出せる理由をアファナシエフの著書から引用して、「筋肉が緊張して不必要な力が入らないよう、自分にとって自然な姿勢と演奏法を身につけたこと。幼いころにその指導を受けたことが徹底的だった」と紹介している。
昨日の記事で書くのを忘れてしまったが、アファナシエフは椅子に深く腰掛け、背筋は伸ばさず、丸めており、傍から見ていると、ちょっとこの姿勢はだらしないのでは、と思ったのだが、この書評を読むと確かにこの姿勢が彼にとって最も脱力したベストの姿勢なのだ、ということに納得させられる。
続けて星野氏は「芸術家っぽくじっとピアノの前で集中したり、陶酔して首を振ったり体を揺らしたりほとんどしない。余計なものはなく、ただ音楽と共にあるのだ」と言う。
私もアファナシエフの動作を見てまず感じたのは余計な動きが無いことだった。
和音を弾いたあとに、腕を高々と頭の高さまで上げる奏者が多いが、アファナシエフはそのような大げさなジェスチャーが殆どない。
弾いているときの表情は作品や作者と交流しているかのように、集中力に満ちており、パフォーマンスといったものとは次元が全く異なるのである。
ギターのセゴビアも聴こえてくる音楽はものすごく感情に満ちているのに、弾いている表情は無表情に近く、そのギャップに驚いたものだ。
あと星野氏はアファナシエフの音の魅力のもう一つの理由として、メロディよりもハーモニー(和声)を重視していると、感想を述べられているが、私も昨日のコンサートでのアファナシエフの和音、とくに低音の和声の多層的、重厚な力強い、エネルギーに満ちたハーモニーに驚いた。
強い和音は時に、音がつぶれたように汚く聴こえることがある(私の感覚ではポリーニの演奏がそのように聴こえる)が、アファナシエフの音はどんな強い音でも美しく聴こえた。
その違いが何であるかは今は説明できないが、きっと大きな違い、技巧面とは全く次元の異なる音楽的、精神的な作用が関係しているのではないかと推測でき、これからの音楽鑑賞でそれを追求していくのも楽しみだと思った。
ヴァレリー・アファナシエフは1947年モスクワ生まれで、ピアノ愛好家であれば誰でも知っている現代最高のピアニストの一人だ。
アファナシエフの演奏を初めて聴いたのは、「モスクワ・レコーディングス」というアルバムで1969年から1971年にかけて録音された彼の若いころの録音だった。
このアルバムに1991年に、多分コンサートで演奏されたと思われるドビュッシーの「月の光」が収められており、この演奏が素晴らしく、それ以来、彼のCDを何枚か買って聴いた。
バッハのゴルドベルク変奏曲の全曲録音もあるが、ベートーヴェン、シューベルト、モーツァルトといった作曲家のピアノ・ソナタを最も得意にしているように思える。
これらの作曲家のピアノソナタの全曲録音はなされていないが、安易に短期間に、またその曲を機が熟していないのに録音することはしない、というスタンスを基本信条にしているのではないかと思える。
さて今日のプログラムは以下の通り。
①モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
②モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(トルコ行進曲付き)
③シューベルト:ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
モーツァルトのピアノソナタ2曲は演奏頻度の高い、よく知られた曲だ。
第10番ハ長調の第1楽章は、私が子供の頃に、ピアノを習っていた姉が弾いているのを聴いた記憶がある。
親しみやすい曲で、姉が発表会のために何度も弾いていたので、忘れていなかった。
今日初めてアファナシエフの実音を耳にしたのであるが、CDで聴く音とかなり違っていたことに驚いた。
もちろん実音の方が何倍も素晴らしかったということである。
家に帰ってから、今日最後に演奏されたアンコール曲のモーツァルト作曲「幻想曲ニ短調 K.397」のCD録音を聴いてみたが、やはり音が全然違う。
先日の記事で、ローゼンの著作「ピアノ・ノート」に書かれていたレコーディングの話をしたが、レコーディングによる演奏はまず、音が平面的になってしまうこと、これは機能的な限界なのであろうが、楽器から引き出される立体的な響きが失われてしまうことに気付かされる。
また編集録音により演奏が分断されることで、奏者の情熱、感情の高揚といったメンタル面の最も重要な要素が欠落してしまっているようにも思えた。
これは今回のアファナシエフだけでなく、一昨年聴いたペーター・レーゼルのコンサートでも同様の感じを受けた。CDの音と生の実音が全然違うのである。
レーゼルのコンサートを聴いた感想を以前このブログで記事にしたが、確か、レーゼルの音はCDでは細く聴こえるが、生の音は繊細かつ重層的な響きがあり、CDの録音は彼の真価を捉えていない、とコメントした記憶がある。
とにかく驚いたのはアファナシエフの実音の凄さであった。
高音は透明ではないが、輝くような光を感じる音、低音は重厚かつ重層的、強く、深いといった低音の魅力の全てを兼ね備えている音だった。
私が今日、最も収穫を感じたのはこの低音の魅力だ。
低音に魅力を感じるピアニストと言えば、グリンベルク、シュナーベルやアラウがまず思いつくが、彼らとも異なる音だ。何とも形容しがたいが、いずれにしてもCDで聴く低音とはかなりの開きがあることは言っておきたい。
次に感じるのは、音が会場全体に響き渡るパワーを持っていること。
今日の会場は小ホールで、紀尾井ホール、白寿ホール、カザルスホールといったホールと同規模のホールであったが、後ろから3列目の私の座席まで十分過ぎるくらいの音の響き、通り方だった。
アファナシエフのタッチはとても柔らかく、独特の手の力を抜いてから鍵盤に指を落とすタッチでありながら、音がとても強かった。
この強さは物理的な強さではなく、何か精神的、感情的なエネルギーを含有した強さであることは間違いないであろう。
強い音を聴いてうんざりする演奏もあるが、アファナシエフの音は全く逆。
聴き手の心の奥に入っていく音と言っていい。
2曲目のモーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番のトルコ行進曲でも相当強い低音の和音を奏でていたが、響きが直線的というより多層的かつ強いという印象。
3曲目のシューベルト:ピアノ・ソナタ第20番が今日のコンサートで一番聴き応えがあった。
シューベルトの最晩年、彼が死去した1928年に書かれた最後の3つのソナタの一つ。
しかしこれだけのソナタを死の直前の短期間に書き上げるとは信じがたい。
私は本当は第21番を聴きたかったのであるが、第20番もなかなかの曲だ。
今日コンサートが終っての帰り道、アファナシエフが弾いたこの第20番の終楽章のあの有名な旋律が心に浮かんできては流れていた。
終楽章で若干いくつかのタッチミスがあったものの、ほぼ完璧な演奏。
第2楽章の沈鬱な音楽の合間に響く強烈な和音。この和音を聴いて聴衆の何人かがそれまで咳をしていたのが、静まり返ったのが印象的だった。
左手で重厚な強い和音を奏でながら、右手で速いパッセージをきらびやかな音で弾き切る演奏能力はやはり世界最高レベルの奏者の実力を見た思いだ。
アファナシエフはどちらかというと、暗く悲しみのある曲が好きなのではないかと思う。
モーツァルトもシューベルトも30代前半に若くして亡くなったが、共に30数年の人生で、普通の作曲家が一生かけても完成できない程の名曲を作曲している。
アファナシエフが今日のリサイタルで、モーツァルトとシューベルトの2人だけのプログラムに絞ったことは彼なりの考えがあってのことだと思う。
(アンコールもモーツァルト。それも小曲ではなく、幻想曲だった)
この2人の作曲家に共通するのは、時代が異なっていても彼らが精神的に不幸を抱えていたということだと思う。
華やかな、あるいは牧歌的な穏やかな旋律の合間に見え隠れする不安感、憂鬱感、不幸感といったもののコントラスト(今日の曲目ではシューベルトのピアノ・ソナタ第20番第1楽章でそれを感じることができる)を意識しているように私は感じた。
アファナシエフは服装もラフで、舞台に現れてもお辞儀をすることなく、すぐに演奏を始める。
演奏が終わってもお辞儀は歩きながらちょこっとするぐらい(とは言ってもすべての演奏が終ったあとは数回舞台の袖から現れて何度が軽くお辞儀をしたが)で、聴衆に対し素っ気ない態度であり、それも彼の流儀なのであろう。
コンサート後、会場で買ったCDにサインをしてもらったが、その時も流れ作業のようにサインすることが殆どで、客と挨拶したり握手したりする光景は殆どなかったが、気疲れするようなことが嫌いなのであろう。
まあ私からすると、演奏で感動させてくれたことで十分すぎるくらいなのであるが。
チケット代は高かったが(11,000円)、やはり世界最高レベルの演奏家のコンサートは可能な限り聴くべきだと思った。
その理由の1つとして先に述べたようにCDの音のような複製の本物でない音とは違って、本当の生の実音を聴けることと、演奏者の感情や情熱といった精神的なエネルギーを直接受け取ることができること、演奏者と聴き手の目に見えない交流を感じられること、などが挙げられる。
これは再生装置に何百万円投資しても決して得られない感動である。
現代のギター界にアファナシエフのような演奏家がいないことは残念だが、ギター関係者だって、ギター奏者のコンサートの枠からどんどん出て行って、他の楽器の、それもできるだけ最高レベルの奏者の演奏会を聴くべきではないかと思う。
ギターとピアノ、あるいはバイオリンとの音楽的レベルのあまりの違いにショックを受けるかもしれないが、今のギター界には絶対に必要なことだと思う。
いい演奏会を聴いた後は、理由はわからなくてもすがすがしくなるし、気持ちが平安になる。
今日の演奏会が終ったあとに、これまで聴いた演奏会のいずれよりも深い平安を味わった。
やはり意識していなくてもアファナシエフ効果が私の気持ちに知らずと浸透していたのではないかと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/5c/f37cb054ba8fa0d438de6847e456f560.jpg)
【追記20161030】
コンサートから一夜明け、今日の朝刊を読んでいると、書評欄にアファナシエフの著作「ピアニストは語る」が紹介されていた。
この書評を書いた星野智幸氏の意見と当方の感じ方に共通するものがいくつかあったので、紹介させていただきたい。
まず星野氏は「この原稿を書いている前日に私はコンサートに行ってきたばかりで、体の緊張が和らいでいる」と書いている。
私も全く同様の精神的変化を感じた。
昨日の記事では勝手に「アファナシエフ効果」と書いたが、コンサートが終った後の帰路で、とても平安な気持ちになったのである。それと視界がいつもよりも広く開けるような感覚も起きていた。
これはアファナシエフが奏でる音楽が聴き手の心に知らず知らずに深く浸透し、作用し、変化をもたらしたといって間違いないと思う。
また星野氏は続けて、「アファナシエフは最も美しい音を出す演奏家だが、これをホールで生で聴くのは、森の中で一日をゆっくり過ごすようなものだ。耳に聴こえない音や静寂まで含めて、自然の音を肌に浴び続けるかのよう。」と言っている。
全く同感だ。昨日のコンサートでの一番の収穫は彼の生の音を聴けたことであり、その音はCDの音よりも何倍も深みや層の重なりが厚く、かつ演奏者自身の感情に満ちたものだった。これは編集録音されたCDの音では決して得られない感覚である。
星野氏はこのような音を出せる理由をアファナシエフの著書から引用して、「筋肉が緊張して不必要な力が入らないよう、自分にとって自然な姿勢と演奏法を身につけたこと。幼いころにその指導を受けたことが徹底的だった」と紹介している。
昨日の記事で書くのを忘れてしまったが、アファナシエフは椅子に深く腰掛け、背筋は伸ばさず、丸めており、傍から見ていると、ちょっとこの姿勢はだらしないのでは、と思ったのだが、この書評を読むと確かにこの姿勢が彼にとって最も脱力したベストの姿勢なのだ、ということに納得させられる。
続けて星野氏は「芸術家っぽくじっとピアノの前で集中したり、陶酔して首を振ったり体を揺らしたりほとんどしない。余計なものはなく、ただ音楽と共にあるのだ」と言う。
私もアファナシエフの動作を見てまず感じたのは余計な動きが無いことだった。
和音を弾いたあとに、腕を高々と頭の高さまで上げる奏者が多いが、アファナシエフはそのような大げさなジェスチャーが殆どない。
弾いているときの表情は作品や作者と交流しているかのように、集中力に満ちており、パフォーマンスといったものとは次元が全く異なるのである。
ギターのセゴビアも聴こえてくる音楽はものすごく感情に満ちているのに、弾いている表情は無表情に近く、そのギャップに驚いたものだ。
あと星野氏はアファナシエフの音の魅力のもう一つの理由として、メロディよりもハーモニー(和声)を重視していると、感想を述べられているが、私も昨日のコンサートでのアファナシエフの和音、とくに低音の和声の多層的、重厚な力強い、エネルギーに満ちたハーモニーに驚いた。
強い和音は時に、音がつぶれたように汚く聴こえることがある(私の感覚ではポリーニの演奏がそのように聴こえる)が、アファナシエフの音はどんな強い音でも美しく聴こえた。
その違いが何であるかは今は説明できないが、きっと大きな違い、技巧面とは全く次元の異なる音楽的、精神的な作用が関係しているのではないかと推測でき、これからの音楽鑑賞でそれを追求していくのも楽しみだと思った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/d0/f0f0e3bd695925207a5270f354451188.jpg)