緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

爪破損 爪の長さと音の関係

2014-01-26 00:02:34 | ギター
こんにちは。
この1週間はとても忙しく、睡眠時間4時間くらいの日々が続きました。
今日は休めたのですが、ギターを弾いている途中で居眠りをしてしまう始末です。
夕方1時間半ほど仮眠をとったらすこぶる元気になった。
前にも書きましたが睡眠が短いと健康にすごく悪い影響が出ます。
まず記憶力が落ちます。名前をすぐに思い出だせなくなったり、心臓に強い負担がかかって動悸がしてくるなどの症状が出てきます。
これらの症状も休息を取ることで解消しますが、長く短時間睡眠を続けると確実に体が蝕まれます。
脳や心臓の細胞は再生しにくいのでしょうが、私の場合は好きな音楽を聴くことで回復の手助けをすることにしています。
さて数日前に爪を割ってしまいました。人差し指の爪ですが、弦との摩擦で一部凹凸となった部分に何か(タオルかな?)が引っ掛かり、裂けてしまいました。
割れたり裂けてしまった時には、損傷した部分が広がらないようにヤスリをかけてこれ以上引っ掛からないようにしておきます。
そして写真のように女性が使う樹脂製の付け爪を適当な形に切ってアロンアルファで接着します。この方法は以前のブログで紹介しました。



この方法でもかなりいい音が出せます。費用も安く済みます。ギタリストにとっては必需品ですね。
ところで今日この付け爪をした時に、薬指の爪の長さを偶然なのですがいつもより短く切っていました。
先日ブログで紹介した方法(800番→1200番の紙ヤスリ→研磨布)で磨いていざギターを弾いてみると、驚くほどきれいな音が出せたのです。
薬指に限らず他の指の爪もいつもは指の先端から1mm以上出るくらいの長さにしていたのですが、今日の長さは手の平を顔の正面に向けて指をピンと垂直に伸ばした状態で見た爪の長さが、指の先端の肉からわずか0.1mmほど出ている状態でした。



これは意外な発見でした。
今までも何年かに1回くらいの割合で、爪を切って磨いて弾いた後で、非常にいい音の出る時があったのですが、その時の爪の長さをよく確認していませんでした。
爪を長くすると弦との摩擦により爪が削られて凹凸が出来やすくなり、音が弾いているうちに雑音が混じるようになります。爪の長さを必要最小限にすることでこれを回避できるのではないかと思います。爪を割ったりなどの損傷も防げます。
爪を短くすると弾弦時に弦が指の先端の肉(変な表現?)に接触する面積と圧力が大きくなります。しかしこれが良い音に結びついているのではないかと思う。
ただ余り短くしすぎると指の先の肉に掛かる圧力が強くなるので、早いパッセージが要求される箇所は弾きづらくなりますね。
このデメリットと、爪との接触による雑音を回避する長さとのバランスをベストにできる長さを見つけられれば思っています。
明日は人差し指と薬指を試します。
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グレゴリオ聖歌を聴く

2014-01-18 22:21:32 | その他の音楽
こんにちは。
寒い日が続いています。職場の建物の中が寒いので体が暖まりません。明日は日曜ですが、その寒い職場に仕事をしに出かけなくてはならなくなりました。
さて、今日一風変わった音楽を聴いてみました。グレゴリオ聖歌です。
ご存知の方が多いと思いますが、グレゴリオ聖歌とはカトリック教会の典礼で用いられる単旋律、無伴奏の宗教音楽で、主に男性のみで歌われます。
グレゴリオ聖歌を初めて聴いたのは、随分前に映画かドラマのワンシーンで、教会の修道士たちが歌っていたの見たときで、今まで耳にしたことない独特な神秘的な旋律であったことから、そのシーンと歌の雰囲気は何十年も経った今でも覚えています。
グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法という8つの旋法が成立したと言われています。
今から7,8年前でしょうか。ヤフオクで何気なくCDを検索していたら、グレゴリオ聖歌を収録したCDに出会いました。



このCDの出品者の解説によれば、グレゴリオ聖歌は強烈な催眠作用があるとのことです。
1日の活動が終わったあと、寝る前のひと時に、なにか例えば読書やパソコンをしながらこのグレゴリオ聖歌を聴くと知らないうちにこの宗教音楽の魅力にとりつかれているとのことだ。そしてこの音楽を聴いた後は心地よい眠りが得られるようです。
このCDの宣伝をするわけではありませんし、私は無宗教なので、宗教的なことはよく分かりませんが、グレゴリオ聖歌が独特の、一般的な音楽とは異次元の音楽であることは間違いないです。
催眠作用があるということは潜在意識に働きかける力を持っているということですね。
この音楽を真剣に聴こうとして聴くよりも、何か他のことをしながら聴く方がより効果があると言っているのは、意識というフィルターを通さないで直接、潜在意識に音楽が浸透する力を有しているのではないかと思います。
私が聴いた感じでは、精神の穏やかさ、安定感を感じる作用があると思います。
明るい、楽しい、心が躍る、気持ちが高ぶる、悲しい、寂しい、などの感情的なものとは無縁の音楽です。ひたすら穏やかで気持ちが清められる音楽です。
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ベートーヴェン ピアノソナタの名盤(7) 第16番

2014-01-13 02:00:19 | ピアノ
こんにちは。
先週は物凄い寒さでしたが、三連休の今日までは比較的暖かい天候に恵まれました。
三連休も明日で終わりです。
今日はベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べの7回目で、第16番、Op.31-1、ト長調の紹介です。
全32曲のソナタの中では目立たない曲ですが、色々と勉強になる曲です。
第1楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェは軽快な明るい曲ですが、強弱の差、強いアクセントを要求される部分が多く、第1楽章に限らずですがベートーヴェンはこれらの表現を譜面にかなり細かく書いています。だからまずこの表現の指定をよく読む必要があります。
例えば下記の譜面のクレッシェンドの指定は意識しておかないと無視されかねません。



実際にこの指定を無視して弾いている奏者は結構います。また下記譜面の音形は同一の音形でp、f,ffと三種類の強弱が現れますが、この3種類の音の強さの差を明確に意識しなければならないと思います。



第1楽章は軽快でリズミカルな旋律や強い躍動感を感じさせる曲想ですが、音の強さや随所に現れるアクセント、スタッカートの付け方には譜面を熟読して自然でかつ作曲者の要求するものに合致させることが必要だと思います。
ただこのような曲は譜面にただ機械的に忠実に演奏するだけでは大変につまらない曲になってしまいます。まず先に聴いていて、嬉しいことや楽しいことがあった時のような心が躍るような気持ちにさせる感情が出て、その結果が譜面に書かれた指定での表現になることが必要だと思います。
第2楽章、アダージョ・グラツィオーゾの冒頭は、野原や花畑で蝶を追いかけているような気分を感じさせます。



8分の9拍子の伴奏部はスタッカートが指定されており、常にこの指示を守る必要があります。私はピアノを弾けませんが、ピアノでこのスタッカートをきちんとテンポを守り弾くことは大変難しいのではないでしょうか。
流れるような6連符、7連符の上昇、下降音階を経てしばらくすると、いままでの楽しく軽快な雰囲気とはうって変わって、やや不気味さや不安を暗示させるようなフレーズが現れます。



忍び寄る不安感とでもいうのでしょうか。このようなフレーズを曲の中に普通は挿入しないですね。これはベートーヴェンの気持ちそのものを表していると思います。
ソナタ第14番「月光」を作曲した頃から耳の障害が顕著になってきたといわれており、この第16番を作曲した頃には聴覚を完全に失うのではないかという恐ろしい不安を常に感じていたのではないかと思います。このフレーズは後にも2回現れます。つまり明るく軽快な曲の中に3回もこの忍び寄る不安感を感じさせるフレーズを挿入させているのです。
そして第2楽章最後の部分の低音部の長いトリルが現れる部分がまた不気味です。



旋律部のカンタービレは穏やかに進行しますが、低音部のトリルはとても不安定で何ともいえない不気味さを予感させます。これは意識が分裂した状態を表していると思います。つまり意識上は穏やかで何の不安もないように感じているが、無意識下では不安や焦燥感などのマイナス感情が渦巻いている心理状態を表現したのではないかと思う。スフォルツアンドで示したラ♭の音が余計その不気味さを際立てている。
第3楽章、ロンド・アレグレットは速度を決めるのが難しいと思います。何故ならば最後のプレストの速度を守って弾く為には、この最初のアレグレットから速く弾いてしまうと、その速度の差を際立たせることができないからです。しかし最初から速く弾きすぎて最後のプレストで本来の速度で弾ききれない奏者がいます。バックハウスがそうでした。上声部と下声部で旋律とアルペジオが頻繁に交互に現れる曲で、第1楽章同様軽快な曲ですが、高音の旋律部がヒステリックな音にならないよう気を付ける必要があると思います。



最後のアダージョとテンポ・プリモが交互に現れる部分は音符の長さを正確に十分に保つ必要があります。そしてプレストは突風が瞬時に過ぎ去るがごとく、もたつかずスピードを緩めることなく一気に弾きとおすことが求められます。
さて今回の第16番で聴き比べをした奏者は次のとおりです。
①アルトゥール・シュナーベル(1935年、スタジオ録音)
②フリードリヒ・グルダ(1968年、スタジオ録音)
③ヴィルヘルム・バックハウス(1953年、スタジオ録音)
④ヴィルヘルム・バックハウス(1969年、スタジオ録音)
⑤ディーター・ツェヒリン(1968年、スタジオ録音)
⑥マリヤ・グリンベルク(1964年、スタジオ録音)
⑦ハンス・リヒター・ハーザー(1962年、スタジオ録音)
⑧ヴィルヘルム・ケンプ(1951~56年、スタジオ録音)
⑨ヴィルヘルム・ケンプ(1964年、スタジオ録音)
⑩クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)
⑪エリック・ハイドシェク(1967~1973年、スタジオ録音)
⑫イーヴ・ナット(1953年、スタジオ録音)
⑬タチアナ・ニコラーエワ(1984年、ライブ録音)
⑭ジョン・リル(録音年不明、スタジオ録音)
⑮パウル・バドゥラ・スコダ(1969年、スタジオ録音)
⑯エミール・ギレリス(1976年、ライブ録音)
⑰エミール・ギレリス(1976年、ライブ録音)
⑱エミール・ギレリス(1975年、スタジオ録音)
⑲ジャン・ベルナード・ポミエ(1992年、スタジオ録音)
この中で最も聴き応えがあった録音を紹介します。
まず1番素晴らしかったのは、⑬タチアナ・ニコラーエワ(1984年、ライブ録音)。



ニコラーエワ(1924~1993)はピアノに詳しい方であれば知っていると思いますが、ロシアの女流ピアニストで、1950年にバッハ国際コンクールに優勝したバッハ演奏の第一人者と言われています。バッハ以外ではショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガの演奏も有名ですが、ベートーヴェンのピアノソナタ全曲も上記の1984年のライブ録音以外に、未確認であるが1983年のライブ録音もあるようです。
1984年の録音の演奏は粗さが目立ち、今まで聴き比べをした演奏においては正直、あまりいい印象を持たなかったが、この第16番の演奏はとても素晴らしいです。
意外なほど楽譜に忠実ですが、単なる忠実に終わることなく、人間的なユーモア感や歌心が感じられる演奏です。そして表現が多彩です。また音も魅力的です(特に低音)。バッハを得意にする奏者ですと均質なきちっとした音を想像していましたがそういう演奏ではありません。
ライブ演奏でありミスも結構あるが、ミスが全然気にならないのは音楽の骨格が強固であるからであろう。
2番目は⑯エミール・ギレリス(1976年、ライブ録音)。



ザルツブルグ音楽祭でのライブ録音で完璧に近い演奏。澄み切った高音の美しさと確かなテクニック、譜読みの正確性、音楽性のレベルの高さなど、この曲の中では最も完成度の高い演奏です。
ギレリスの演奏の好きなところは屈指の超絶技巧を持ちながらそれを前面に出さないこと。
グルダのように全体的にテンポを速めにすることはなく、第2楽章などはゆっくりとした理想的なテンポだ。一本調子にならず多彩な表現を持ち、ベートーヴェンの心情をよく表していると思う。全ての楽章が素晴らしい。特に第3楽章終局部のアダージョ-テンポ・プリモ-アダージョの部分のテンポのとり方とその直後のプレストの速さと表現力はグルダやバックハウスをはるかに超えたものです。この第16番の最も信頼できる演奏であろう。
同じ年に録音された⑰もほぼ同じ演奏であるが、残念ながら若干のミスがある。



また⑱のステレオ録音は出来が良くありません。ギレリスはライブで本領を発揮するピアニストだと思います。
第3番目は⑩クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)。



誰もが知っている巨匠ですが、技巧的にはグルダのような軽快さや冴えがないものの、音楽表現の深みと多層的な音の魅力はグルダやバックハウスにも出せない独特なものがあります。
最近彼の1950年代のソナタ第31番の録音を聴きましたが、地味なのになんて深い演奏をするのだろうと驚いてしまいます。この第16番の演奏は極めて楽譜に忠実です。よく譜面を研究しているなと感服させられる演奏。アラウが屈指の巨匠に数えられる理由が分かる演奏です。
第4番目は⑥マリヤ・グリンベルク(1964年、スタジオ録音)。



グリンベルクについては以前のブログで何度も触れたので詳細は省きますが、この演奏も譜面にほぼ忠実でありながら力強さと繊細さが備わった私の好きな演奏の一つ。残念なのは音が乾いたような干からびたような音で、これはメロディアに録音した音源がCD化するときには既に相当劣化してしまったためであると思われます。だからグリンベルクのソナタ全集はCDよりもLPの方が人気があり、演奏が素晴らしいうえに希少価値が高いことから非常に高値で取引されています。
第5番目は⑭ジョン・リル(録音年不明、スタジオ録音)。



ジョン・リルはベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音をしたイギリスのピアニストで、ドイツやロシアのピアニストとは性格の異なる演奏をします。その演奏の特色は感情的ではなく理知的でありながら、深みのある完成度の高い演奏をしています。高い技巧を持っているのに決して必要以上に速く弾こうとせず、楽譜に極めて忠実で分析派のピアニストだと思います。
特に第2楽章終わりの低音部の不気味なトリルから始まる部分の演奏が素晴らしい。この部分のコントラストを明瞭に表現した演奏は極めて少ない。
冒頭で述べたようにこの第16番は全32曲の中でも地味で印象の薄い曲ですが、楽譜を見ながら演奏を聴いてみると実に多彩で変化の著しい表現を求めていることが分かります。
今回勉強になったのは、このような第16番のような曲は譜面を見ながら鑑賞する必要であるということです。この作業で、どの奏者が作曲者の曲に込めた感情を忠実に表現しているかが明瞭に判別することができます。この作業で評論家や愛好家が高く評価している奏者が必ずしも真に素晴らしい演奏をしているとは限らないことが分かってきます。
例えばベートーヴェン演奏の権威とも言われているバックハウスが意外に譜面の指定どおりに弾いていないことが分かる。例えばスタッカートを無視したり、休符を守っていなかったり、クレッシェンドをしていなかったり、第3楽章最後のプレストが本来のプレストの速さになっていなかったりなど。かなり譜面と離れた演奏だ。
ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を最も早く録音したのはおそらくシュナーベルであるが、第2次大戦後の1950年代に大手レーベルで全曲録音をしたのはバックハウスとイーヴ・ナットの2人だけであろう。だから多くの愛好家はバックハウスの演奏を繰り返し聴いてきたことから、これがスタンダードになっており、ピアノソナタの他の演奏の良し悪しを判断するうえでのものさしにしているのだと思う。
しかしこの第16番に関して言えばニコラーエワやギレリスのザルツブルグでのライブ録音の方がはるかに感動するし、多くの得るものがある。バックハウスの演奏から得られるものは少ない。いくら権威があると言われていても、曲によってはバックハウスの演奏を盲信しない方が良いと思う。多くのものを聴いて判断すべきだと思う。
プロの演奏家でも陥りがちなのは、暗譜してしばらくするうちに演奏が譜面を離れて無意識のうちに自分に都合の良い解釈で弾いてしまうことなのではないか。プロの演奏を評価する際にはやはり譜面を見ながら聴かなければならないと思います。一般の愛好家は殆どが譜面を見ないで音楽を鑑賞していると思いますが、演奏者が作曲者の曲に込めた心情を真に表しているかどうかを見極めるためにも譜面を読むという作業は必ず必要だと思います。今回この第16番の聴き比べをして痛感した。
作曲家は自らが創作した音楽を譜面に託すが、演奏家はまずは譜面に書かれた情報を正確に忠実に表現するとともに、譜面に書かれた情報から、作曲者の心情と同化する努力が必要だと思う。前者はたやすくできるが、後者の作業は曲により人間的成熟を伴わないとできなかったり、感性が鋭くないと達成できないものもある。
今回聴き比べをした録音の中には譜面に極めて忠実なものもいくつかあったが、感動するに至らなかったものもあります。それはこの前者の作業にとどまっているものであるからではないか。

【追記20140115】
1950年代にベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音したピアニストとして、ヴィルヘルム・ケンプを書き忘れていたので追記しておきます。
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今年の抱負

2014-01-04 21:13:12 | 音楽一般
こんにちは。
年が明けました。ブログを開設して2年半。面倒くさがりやであるがなんとか続いてきた。
今年も音楽を中心に感じたことを書いていこうと思います。
丁度1年前も新年の抱負を書いたが、去年(2013年)を振り返りながら今年はどんなことに力を入れていきたいかテーマ別に述べることにしたい。
【ピアノ】
1年前の正月休みに立ち寄ったタワーレコードでTESTAMENTというレーベルから出ているCDが安売りしていたので、ピアノ曲で何かいいCDがないか探していたところ、ゲザ・アンダ(Geza・Anda)という聞いたことのない演奏家の弾くベートーヴェン・ピアノソナタ第14番「月光」のCDが出てきた。1950年代の古い録音である。
この「月光」、過去にもCDではフリードリッヒ・グルダやエミール・ギレリスの録音を聴いていたが何度も聴くには至らなかった。とくにグルダのCDは後で棚から見つかったのであるがいつ買っていつ聴いたか記憶がない。そのくらい印象が薄かった。
家に帰って早速ゲザ・アンダの「月光」を聴いたが衝撃を受けた。以後この月光を何度も繰り返し聴いた。これが去年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲の聴き比べにのめり込んだきっかけである。
最初は「月光」の聴き比べで始まったが、月光だけでなく他のソナタも一通り聴いてみようと思い、シュナーベル、バックハウス、ケンプ、グルダといった高名なベートーヴェン弾きの全集を少しずつ聴くようになった。並行して全集は録音していないが、ベートーヴェンのソナタを断片的に録音しているソロモン・カットナー、クララ・ハスキル、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリなどの歴史的演奏家の演奏も聴いてみた。
シュナーベルの全集を一通り聴き終えて間もない頃、ソロモン・カットナーやクララ・ハスキルが弾くピアノソナタ第32番に出会った。しかしこの時の第32番はソロモンの低音が重厚でいいな、くらいしか印象を持てなかった。しかしその後しばらくして聴いたミケランジェリのライブ録音(1990年)を聴いたが全然曲から受ける度合いが違っていた。
第32番がこれほど魅力に溢れた曲であることに気づかせてくれたのがミケランジェリだった。この1990年のライブは彼が70歳の時の演奏で技巧が衰えていたが、もっと前の録音があるに違いないと思って探したのが1988年のライブ演奏であった。この録音を聴いてぶったまげてしまった(大げさだが本当)。ミケランジェリの全身全霊を持って弾くそのエネルギーは凄まじかった。この演奏は極めて稀な超名演だと思った。
この録音をその後何度も何度も聴いた。聴くのも大変なエネルギーを消費するが、聴き終わると何ともいえない充実感が感じられた。
ミケランジェリはこの第32番に対して大変な思いいれを持っていたようである。ライブ録音もかなりの数がある。スタジオ録音も1960年代の古いものがあるがこちらも必聴に値する。
ミケランジェリの演奏を聴いたあと多くの演奏家の弾く第32番を聴いたが満足のいく演奏に出会うことが出来なかった。そんな折7月の三連休の時に上野の音楽資料室に立ち寄ってベートーヴェンのピアノソナタを聴いてみようと思った。端末で検索したところいくつかのCDが出てきたが、その中で今まで目にしたことのない演奏家の名前が出てきた。マリヤ・グリンベルクという旧ソ連時代の女流ピアニストだった。
有名でないからあまり期待できないがとりあえず聴いてみようと思い視聴を申し込んだ。第25番、第31番、第32番の3曲からなるCDであった。まず第32番を聴いた。女だからか細い演奏に違いないと思ったら、全然違っていた。聴き進むにつ入れて音の力強さ、特に低音の響きは今まで聴いたことのない独特な音であった。この時、今までミケランジェリと同等かそれ以上の演奏はありえないと思っていた確信はもろくも崩れた。とにかく度肝を抜かれたし衝撃だった。最後のトリルの部分はミケランジェリ以上に神秘的であった。この時の衝撃は一生忘れないと思う。家に帰って同じCDを探したが既に廃盤で中古も殆ど出回っていないことがわかった。かなり探してやっと見つかったがかなり値段が高い。しかし一刻も早くそのCDを聴きたくて迷わず注文した。
その後マリヤ・グリンベルクの演奏にとりつかれた私は、可能な限り彼女の録音を集め聴くようになった。彼女の最盛期は1950年代初めから1960年代前半であるが、彼女がメロディアに録音したベートーヴェンのピアノソナタ全集は残念ながら彼女の最盛期を過ぎた演奏であった。しかし彼女の演奏は全てが素晴らしい。特に最盛期の演奏は一発勝負の気迫の籠った演奏であり、現在のピアニストの編集録音や音加工など計算された演奏とは無縁で次元の全く異なる演奏だ。最晩年は重い心臓病を患いながらも演奏活動を死の直前まで続けたといわれている。悲劇を味わいつくした70年の生涯であった。
ミケランジェリやグリンベルク以外では冒頭のゲザ・アンダ以外にウェルナー・ハース、そして去年暮れに出会った日本人ピアニスト、園田高弘の演奏に感銘を受けた。
ゲザ・アンダは彼が癌で死ぬ直前に録音されたショパンのワルツ集が素晴らしく、今まで多数聴いたこの曲の最も感動的な演奏である。
ウェルナー・ハースはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の聴き比べをしていた時に出会ったのだが、どんな速いパッセージでも1音1音が明瞭に分離し、しかも粒の揃った美しい音を出せる能力に驚いた。その音はただ表面的に美しいのではなく、聴く者を感動させる美しさである。交通事故で46歳の若さで他界したが、彼の録音は殆どが廃盤になっており、クラシック音楽界から忘れられた存在になりつつある。
ハースはラベルやドビュッシーの全集、チャイコフスキーのピアノ協奏曲全集、ショパンのワルツ集などの遺産を残してくれた。これらを聴くことで現在のピアノ奏法に大きな教訓を与えてくれることは間違いない。
さて今年の抱負であるが、まずは先の園田高弘を加えベートーヴェンのピアノソナタの聴き比べを続行させたい。ブログでは確か9回までその成果を述べたが、今年は10曲以上を目標にやっていきたい。
また並行してベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲の聴き比べも合わせて行う予定である。
この正月休みにマリヤ・グリンベルク、ミケランジェリ、アラウの弾く第3番の聴き比べをしたところである。その成果もいつか公開したいと思っている。
またしばらく遠ざかっていたフランス音楽、フォーレやフランクのピアノ曲や室内楽にも目を向けていこうと考えている。正月休みにはジェルメーヌ・ティッサン・ヴァランタンの演奏のいくつかを聴いた。
モーツアルトのピアノソナタ全曲もヴラド・ペルルミュテールの1950年代の録音で聴いたが、ベートーヴェンのピアノソナタほどの感動はなかった。まずは幻想曲のほうがいいのかもしれない。
ピアノ曲の鑑賞は2013年があまりにも充実していた。こんな充実度は今後はそうはないと思うが、できるだけ大きな感動の得られる録音や演奏家との出会いを探していきたい。
【合唱】
合唱曲については去年、2回目となるライブ演奏を聴いた。Nコンのブロック大会であるが運よくチケットが取れた。Nコンでいつも気になるのが審査である。Nコンは賞ばかりが注目されるのが残念だ。金賞をとった高校の演奏=最高の演奏、ととらえるのは間違っていると思う。
特にそれを感じたのは過去の大会では第76回全国大会高等学校の部である。
器楽のコンクールでも10月に行われたスペイン・ギター音楽コンクールの審査表を見ると、本選6人中5人の奏者に対し、5人全てに最上位と最下位の評点が付いていたのには驚いたが、Nコン全国大会のように実力差が僅差のような大会では、審査する側によって全く正反対の評価がなされる可能性は更に高いのではないか。これは審査する人の価値観が多様であるためである。
金賞を取れたのは運かもしれないし、審査に有利な演奏の仕方をしたからかもしれないし、本当に感動に値する演奏をしたからかもしれないし、結局のところは正確にはわからないものだと思う。
賞を目指すことはモチベーションを高めることであり、それ自体は悪いことではないが、第一義的な目標としては、賞は脇に置いて、聴く者に長い間残り続ける感動的な演奏を目指して欲しいと思う。だいたい多くの人は金賞、銀賞を取った学校の演奏しか注目しないし、大会が終われば聴くことはしなくなる。しかし賞に関係なく素晴らしい演奏は残り続ける。本当に合唱好きな人は、受賞の結果や学校名に関係なく、演奏そのものに注目する。そして各自が感銘を受けた演奏を後生大切にしていくのである。その事実は明るみにされないことが殆どであるが、一時に多くの人に注目される演奏よりも、聴く人は少ないかもしれないが何十年も聴き続けてもらえるような演奏の方がよい。
【ギター】
去年ほどギターのCDを買わなかった年はない。中古LP1枚だったか。
ピアノ鑑賞を本格的にするようになって分かってきたことであるが、クラシックギター界は故人も含めて巨匠クラスの演奏家が極端に少ないことである。ピアノ界では録音を残した歴史的演奏家も含めると2、30人くらいにはなる。これらピアノの巨匠たちの演奏を全て聴くには一生かかるかもしれない。そのくらい録音に恵まれている。好みの奏者を探し出すのも大変なことである。
しかしギター界の巨匠と言えるのはセゴビア、イエペス、ブリームの3人だけである。巨匠と言えるには暗黙の基準のようなものがあると思うが、特定の分野に限定せず幅広いレパートリーを持っていること、現代の作曲家に数多くの曲を作曲させたこと、他のジャンルの音楽家から一目置かれること、大手レーベルから膨大な録音を残したこと、多くの聴き手に感動を与えてきたこと、などであろう。
この3人の演奏は間違いなく素晴らしい。とくに若い人には必聴の演奏家である。バルエコやラッセルを聴くよりもこの3人の演奏を聴くことでどれだけ感受性を養われるか。
ジョン・ウィリアムスが去年コンサート活動から引退したようだが、そのこと自体には残念に思わなく、本当に残念なのは彼の音と音楽に対する考え方が1980年代以降駄目になってしまったことである。
彼は1970年代終わりごろから軽音楽の分野に興味を示し、多数の録音を残したが、クラシックの分野でも軽音楽の分野でも中途半端で、どちらも一流になれなかったと思う。
彼はきっと軽音楽に強い関心があったと思う。しかし彼が1990年ごろに録音したチャーリー・バードのジャズの曲をクラシック奏法で弾くのを聴いたら、何だこれ?、と思ってしまう。また70年代終わりに自らエレキギターとクラシックギターとの多重録音を試みたつまらない曲で、クラシックギターを超まじめに弾いているを聴くとそのアンバランスさに違和感を感じてしまう。
ピアニストのグルダも燕尾服を脱ぎ捨て、ジャズのチック・コリアにジャスピアノを習い、ジャスの分野に進出したが大成しなかったように、クラシック奏法が染み込んだ奏者がジャズや軽音楽をやるのであれば、それまでのクラシック奏法を全て根こそぎ捨て去る覚悟がないと成功しないのではないか。
ジョン・ウィリアムスは80年代に入ってから楽器をフレタからスモールマンに換えて、さらにPAを使うようになり、録音に電子加工を施すようになった。
1990年代に彼がクラシックギタリストとしては24年ぶりの来日を果たし、東京文化会館大ホールでコンサートを開き、私も聴きに行ったのだが、全てのプログラムが終わった時に勇気ある若者が突然立ち上がり、「失礼ですが、生の音を聴かせてもらえませんか」と英語で要求したのである。この時ジョンは苦笑しながらPAを使う理由などを釈明していたが、昔のジョンの音を知っている人であれば必ずこの若者のように感じるに違いない。
フレタを弾いていた頃までのジョンの音と音楽は本当に素晴らしかった。ユージン・オーマンディと共演したアランフェス協奏曲での冴え渡る音を聴かせてくれた一方で、ブリームとの二重奏でソルのアンクラージュマンのこれ以上ないと思えるほどの暖かい美しい音も聴かせてくれた。しかし80年代以降この音は2度と聴けなくなった。
ピアノやヴァイオリンの巨匠たち、あるいはセゴビア、イエペス、ブリームが何故ポピュラー音楽を演奏しなかったのか。単にポピュラー音楽が嫌いだったから?、ポピュラー音楽を低俗だと見下していたから?。多分そうでないと思う。彼らはクラシック音楽の楽器で、自分たちが今まで体に染み込むまで身につけた奏法でポピュラー音楽を演奏してもその本質を伝えられないことが分かっているからではないか。あるいはクラシック奏法でポピュラー音楽を演奏したらその音楽を壊してしまうと考えたからではないか。チャーリー・バードの「Swing」のような曲をアマチュアが楽しみのために弾くならともかく、クラシックのプロがクラシック奏法で弾いて録音しても、聴き手を絶対に満足させることはできない。ポピュラーやジャズはその道のプロに任せておけばいい。クラシックの本当の巨匠が決して他のジャンルに手を出さないのは自分の道をわきまえているからである。
しかし近年のクラシックギター界はポピュラー音楽とクラシック音楽との境界があいまいになり、つまらないものになってきている。この正月にCDショップでクラシックギターの新譜の曲目を見たが、バリオスやピアソラがなんと多いこと。国際コンクールの本選自由曲にこんな曲を選ぶぐらいになったから余程好きなのであろう。
私はバリオスの曲の何曲かは好きであるが、国際コンクールやプロの録音で何度も聴きたいとは思わない。クラシックの他のジャンルの方がギターに対して「クラシック」という要素を強く感じないのはこのためではないか。現代の作曲家も今のクラシックギターのために曲を書かないのはこのためなのではないか。1960年代から70年代にかけてその当時の作曲家たちがさかんにギター曲を書いた。ブリテンや武満徹などの一部の曲を除き多くの曲が埋没してしまっているが、今よりもはるかに多くの曲が作曲された。それはその当時の演奏家たちが伝統的な音楽に安住せずに、新しい手法、感覚の曲を求めたからである。ギタリストたちがもっと他のクラシックのジャンルの世界に出て行けばブリテン、武満にとどまらずメシアンやプロコフィエフなどの作曲家もギターに関心を持ったかもしれない。
今は新しい曲でもギタリスト兼作曲家の曲が主流であるが、やはり作曲専門の方に力作を書く気を起こさせるくらいまでにならないとギター界は過去の弾きつくされた数少ないレパートリーの繰り返しとその穴埋めとしてのポピュラー音楽の編曲もので自己満足するだけに終わってしまうだろう。
【健康】
去年痛感したのは睡眠時間が短いと確実に健康を蝕むということ。5時間睡眠などもう出来なくなってきた。7時間が理想であるが、6時間半を目標にしたい。職場でもここ数年心臓や脳の疾患で突然亡くなった方が何人かおり、人ごとではなくなってきた。
年末に家族や親類が集まって、何十年かぶりにバレーボール、バドミントン、卓球などのスポーツをしたが気持ちのいい汗をかいた。普段は車通勤やデスクワークで歩くことすら殆どしないので、運動をしたいと思うがこれは難しい。まずは仕事開始前に毎朝職場で行うラジオ体操を真剣に(いつもはダラダラだが)やることから始めよう。
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