緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負(2016)後編(1)

2016-01-17 21:03:36 | 音楽一般
4.ギター

ギターに関して言えば、今年も鑑賞面では殆ど進展が無かった。
しかし演奏面では全く意欲は衰えていない。
クラシックギターを始めたのが、1976年3月。
今日まで40年間、絶え間なく弾き続けることができた。
ブランクなく続けてこられたのも、この楽器が大好きだからだ。
何が好きかっていうとやはり音。
やわらかく、大きすぎず、気持ちを乗せられる。
さまざまな和声を表現できるのも魅力だ。単旋律の楽器だとこうはいかない。
家の中で気軽に弾けるのもいい。ピアノだとこうはいかない。
集合住宅などで、昔はピアノの音が聴こえてくることがあったが、今は全く聴く機会が無い。
恐らく電子ピアノでサイレントにして弾いているのであろう。
着実に音に対する感性は退化し、失われる。

この40年間を振り返ってみると、クラシックギターの最盛期は1970年代から1980年代初めだったと思う。
この時期、アンドレス・セゴビアは既に最盛期を過ぎていたが、それでも彼の最盛期だった1950年代から1960年代半ばの録音が当時の主流だった。
セゴビアの録音は全く色あせていない。
彼の演奏は永遠に人々に大きな感動を与え続けることは間違いない。
1970年代から1980年代初めで、セゴビア以外では、ナルシソ・イエペス、ジュリアン・ブリーム、音が悪くなる前のジョン・ウィリアムスが最盛期の演奏をしていた。
彼らの演奏の古い録音はたまに聴く。やはり彼らの演奏は格が違う。
ギターを初めて間もない頃、彼らの演奏を聴けたからこそ、ギター演奏を長く続けてこれた。
ギターを40年も長く続けることのできる原動力となったのは、彼らの演奏だったことは間違いない。
もしこの時代にバルエコやラッセルを聴いていたら、ギターは長続きしなかっただろう。
先の4人は、「ギター」を聴かせてくれるというより、「音楽」を聴かせてくれる。
「ギター」の前に「音楽」があることが、他の奏者との決定的な違い。
1980年代初めに、イギリスのエジンバラ音楽祭でジュリアン・ブリームが、M.バークリーの「一楽章のソナタ」という現代曲を弾いたが、ライブ録音のテープを何度も繰り返し聴くうちに、この難曲に必要とされる技巧を完全に超越し、「音楽」の世界を聴かせてくれていることに気が付いた。
ブリームの底知れぬ音楽性の深さに驚く。

下の写真は「一楽章のソナタ」の難所の一部。



1980年代に入り、ギターの奏法(とくに右手のタッチ)が大きく変換し、それに伴い楽器の特性も変わった。
ギター音楽の作曲も、作曲専門の作曲家による新作は次第に影を潜め、代わりにギタリスト兼作曲家の曲がさかんに作曲されるようになった。
「失われた〇〇年」という言葉があるが、1980年代後半から現在までのクラシックギター界の演奏も作曲も、正直言うとつまらないものが多い。
昔のようなわくわくするような録音、コンサート、新曲は殆ど無い。
スペイン音楽ギターコンクールにしても東京国際ギターコンクールにしても、自由曲はロドリーゴなど昔のおなじみの曲が多い。
逆に言うと、コンクールの自由曲で取り上げることのできるレベルの、音楽面・技巧面で優れた新しい曲が生まれていないということだ。
コンクールの自由曲の現代音楽だって、ブローウェル、ブリテン、バークリーなど一昔前の作曲家による曲だ。
この点がいつもはがゆく思うのであるが、現代の作曲家だって優秀な方はいるのだから、何故彼らに曲を作ってもらわないのだろうか。
作曲家がギターに目を向けないのは、クラシックギター音楽が今一つ「クラッシク」という感じがしないからではないか。
ここは大いに反省する必要があると思う。
ポピュラー音楽にはその分野で素晴らしいアーティストがおり、彼らの演奏を聴くことでその分野の神髄を堪能することが出来る。
しかしクラシックギターでポピュラー音楽の真似事をやっても上手くいくはずはない。
何故ならば、クラシックギターという楽器は、純粋なクラシック音楽を奏でるための楽器であるからだ。
チャーリー・バードのような曲を、くそ真面目なクラシックギターで綺麗な音で弾いたら、それこそ滑稽以外の何物でもない。何を勘違いしているのか、と言いたくなる。

自分としては、クラシックギターで純クラシック音楽を楽しみたい。
過去のレパートリーでいい曲に恵まれていないのは事実であるが、であれば作ってしまえばいいのではないか。
それも専門の作曲家による力作に期待したい。
1960年代から1970年代に盛んに作曲された前衛時代の曲が懐かしく思われる。
これらの曲は、難解ではあるが、曲の持つ構成力はとても強く、主張も強い。
よくこんな曲を作ったと思わざるを得ない曲もある。曲作りに真剣さがうかがわれる。
安易な迎合主義に陥っていない。
誰が何と言おうとこれが自分の曲だ、と言えるものを感じ取れる。

つい先日、新聞で蛭子能収さんのエッセイを読んだが、好きなことをやるために努力を惜しんではいけない、行動すること、というような趣旨のことを言っていた。
人はなんだかんだ理由を付けては好きなこと、したいことを見送ってしまうことが多いが、やはりこの平和な恵まれた時代で生を受け、生かしてもらっている以上は、好きなことをできるだけすることは大切なことだと思う。
自分も今年は好きなことをできる時間を確保するために、すでに行動に出たところだ。
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今年の抱負(2016)(中編)

2016-01-10 23:36:49 | 音楽一般
3.マンドリン・オーケストラ

今年は大学のマンドリンクラブの生演奏を随分と聴いた。
東京女子大学から始まり、獨協大学、立教大学、中央大学、日本女子大学、宇都宮大学、そして母校であった。
やはり中央大学が素晴らしかったが、昨年の私の音楽活動全般で最も記憶に残る、印象深い出来事は、OBとして29年ぶりに母校のマンドリンクラブの定期演奏会を聴きに行ったことであった。
11月の末、定期演奏会の前日に、私は30年ぶりに学生時代に住んでいた所を訪れた。
雪が積り、厚い鉛色の空の中、小雪のちらつく寒い1日であった。
成田からLCCで千歳へ降りたち、まっすぐ大学のある町に向かった.
町に着くと、最初に学生時代によく通った懐かしい小さな食堂へ向かった。
この食堂で、あの思い出のメニュー、懐かしい味を味わいたかった。
しかしその食堂は廃業していた。しばらくその食堂の近辺をうろうろした。別の場所にないか探した。
落胆した。年月の経過の長さを悟った。
その後、学生時代に住んでいた超おんぼろアパートや下宿屋を見に行った。
超おんぼろアパートは無くなっていたが下宿屋はあった。
この下宿屋から大学までの通学路を30年ぶりに辿ってみた。
途中にあった銭湯や古い下宿屋は無くなっており、その先の道がわからなくなった。
大学近くまで来た所に、「けものみち」と言われていた、道なき道があったはずだったが、無くなっていた。
昔懐かしいものの多くは失われていた。
しかしこの町の山のふもとは相変わらず静かであった。
海岸近くは大幅に観光地化され、昔の面影は無い。潤うことに逆に虚しさを感じる。観光地化されない方がずっと良かった。
この町の良さが感じられなくなってしまった。
帰りにこのすっかり変わってしまった、海岸近くのアーケード街の酒屋で、愛媛県西条市の酒蔵の「石鎚」という日本酒を買って、実家で飲んだ。
翌日、母校のマンドリンクラブの定期演奏会を聴きに行く。
母校の定期演奏会のプログラムも私の学生時代の時と比べると随分と傾向が変わった。
私の学生時代の時のメイン曲は、鈴木静一、藤掛廣幸、熊谷賢一、帰山栄治の大曲であった。
特に人気があったのが鈴木静一の曲。
当時のメンバー達は鈴木静一の曲を通して、有り余る程のエネルギーや情熱を放出していた。
今回の定期演奏会のメイン曲は藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」であったが、1990年代に入ってからの曲だ。



藤掛氏の初期の作品であるグランド・シャコンヌやパストラル・ファンタジーとは少し趣きが異なる。
ポピュラー曲の編曲ものも多く、技巧レベルを懸念させたが、いざ演奏が始まってみるとびっくり。
上手いのだ。私の学生時代のメンバー達のレベルよりも高いかもしれない。
そして何よりも感動したのは、聴きにきてくれている聴衆に対する気遣いであった。
この町には高齢者が多いが、幅広い年代を楽しませることを第一に考えたプログラミングであることが分かった。
途中で、部長のあいさつや、トップ会による楽器紹介などは私の学生時代にはなかったこと。
この演奏会を聴いていて実に気分が良かった。
演奏会が終って小雪ちらつく帰路につく間、その感動の余韻に浸ることができた。
こういう演奏会がいい演奏会なのだ。
残念だったのは、現役時代を共にしたメンバーに一人も会えなかったこと。
30年という年月の長さを痛感する。

昨年の春に中古のマンドリンを買った。
自己流であるが、少しずつトレモロが出来るようになってきた。
このマンドリンで、鈴木静一の「火の山」や、藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」、「スタバート・マーテル」や「詩的二章より第一章波と貝殻」などの一節を弾きたいのある。
この年末年始にマンドリンを実家に持って帰省した。
冬のボーナスで樹脂製のケースを新調した。
実家の家族の者から、このケースが最初何であるか怪訝そうな顔で見られた。
「この豆?、ピーナッツ?みたいなものは何だ」と言われた。
今年も出来るだけ多くの大学の定期演奏会に足を運びたい。

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今年の抱負(2016)(前編)

2016-01-09 23:43:34 | 音楽一般
今年も無事に新年を迎えることが出来た。まずそのことに感謝したい。
こうして趣味の話を記事にして公開するなど、つくづく恵まれた時代に生きていると感じる。

このブログを始めて4年半。音楽を中心に感じたことをそのまま書いてきた。
自分の満足のために書いているようなものだが、定期的に記事を読んで下さったり、さらにコメントも書いて下さる方々には本当に感謝している。御礼を申し上げたい。
今年も1週間毎に書いていくと思う。気の向いた時、暇な時などに訪問していただけると嬉しく思う。
以下ジャンル別に、昨年の活動を振り返りつつ今年の抱負を述べていきたい。

1.ピアノ

昨年の年初の抱負を読むと、バッハの平均律クラヴィーア曲集の聴き比べをしたいと書いてあったが、徹底的な聴き比べをするには至らなかった。
第1集で、タチアナ・ニコラーエナ、マリヤ・ユージナ(全曲ではない)、園田高弘、ミェチスラフ・ホルショフスキ、シュ・シャオメイを聴いたが、それっきりだ。
バッハの曲は感情に強く訴えるような要素は少ないが、緻密な構成美、宗教的な荘厳な雰囲気、大地に根差す太い幹とそこからたくさん派生する大小さまざまな枝のような音の重なり、もちろん旋律の素晴らしさも味わうことができる。
しかしバッハは聴き込んでも、ベートーヴェンやシューベルトの音楽のような強いインパクトは残らない。
そういう種類の音楽とは異なる。当然作曲された年代に隔たりがあるので、音楽に求める考え方に大きな違いを認めざるを得ない。
この年末年始に平均律クラヴィーア曲集第2集を聴いてみた。スヴャトスラフ・リヒテル、タチアナ・ニコラーエナ、マリヤ・ユージナ、シュ・シャオメイの演奏の聴き比べてみたが、やはり第1集を聴き比べた時と同様の感想だ。
今はこんな聴き方だが、いずれ徹底的に聴き込んでみたいという気持ちはある。
昨年のピアノ曲の鑑賞での収穫の一つは、中国出身でフランスで活動するシュ・シャオメイの演奏に出会ったことと、彼女の演奏を通してシューベルトの最後のピアノソナタであるピアノソナタ第21番変ロ長調(D.960)を再認識したことであった。
この曲は今から20年ほど前に、アルフレッド・ブレンデルの録音で聴いていたが、この曲の凄さを感じるまでには至らなく、1、2回聴いてその後はそのまま聴かずに終わってしまっていた。
しかしシャオメイの録音をきっかけに、1年半前にのめり込んだリストのピアノソナタロ短調の時と同じように、この曲の最高の演奏を求めて聴き比べを始めた。昨年の夏の頃だ。
かなりの録音数を聴いたが、途中で打ち切ってしまった。何故かと言うと、偶然ある小説に出会ってから、この小説の作家の著作の方に強く関心が行ってしまったためである。
2つ目の収穫は、絶頂期にジストニアと言う難病でピアノ界の表舞台から去ったピアニスト、レオン・フライシャーの76歳の録音「Two Hands」に出会ったこと。
40年近いブランクがあるにもかかわらず、意外にもしっかりとした技巧であったのに驚いたが、もっと感動したのはやはり、とてつもなく暖かみに満ちた音楽であったことだ。
音楽家の中には華やかな表舞台の花道をずっと歩んできた人もいるが、彼のように日陰で黙々と苦労を重ねてきた人もいる。
大晦日に見ていたテレビ番組で、名前は思い出せないが、昨年亡くなったロシアの世界的なバレリーナのインタビューで、「一流になるためには、魂・心・技術の3つが揃っていなければならない」という趣旨のことを言っていた。
「心」と「技術」については、芸術を極めるうえでよく聞く言葉だ。しかし「魂」はあまり聞かない。
一般に巨匠と呼ばれる演奏家でも、高い技術で、その曲が持つ心情や精神性を表現しても何か物足りない演奏はある。
「魂」というのは「心と技術」をも超越するものであろう。
明確には表現できないが、演奏者の「人間力」そのものではないだろうか。
曲を表現するには高い技術力だけでなく膨大な知識も必要だろうが、頭で解釈して、それを緻密に表現してみても、聴き手はその技術や解釈力に感心することはあっても、聴き手の心にそれ以上の変化をもたらすことはできない。
「魂」を表現できるのは、人生経験であろうか。それも過酷な体験をした人ほどなのであろうか。
確かに過酷な人生経験をした音楽家の中には、レオン・フライシャーのように素晴らしい演奏をする人がいるのは事実である。
しかし、未だ人生経験の浅い、高校生が歌う合唱曲の中にも、聴いているとグワーッと物凄い感情が湧き出てくる演奏がある。
未だはっきりとは形容出来ないが、「魂」とは人間の最も深い根源的で普遍的な共鳴体を指しているのではないだろうか。
その「魂」から発するものを意識せず出している演奏が、聴き手から強い感情を引き出しているのだと思う。
かなり抽象的な話ではあるが、理屈で説明することはできない。
しかし演奏している人が、物凄く高い集中力を出していることは間違いない。
つまり意識のレベルでないのである。

横道に反れたが、今年のピアノ鑑賞は中途で終わってしまったシューベルトのピアノソナタ第21番変ロ長調の聴き比べを再会させたい。
また、しばらく途絶えていたベートーヴェンのピアノソナタの名盤の紹介も近日中には出来そうだ。
リストのピアノソナタの聴き比べの前からずっと聴いてきた第2番の優れた演奏の選出もほぼ出来てきた。
しかしピアノソナタは演奏時間が長いので、聴き比べをするには多くの時間とエネルギーを消費する。

2.合唱曲

昨年はNHK主催の合唱コンクール(Nコン)のブロック大会と全国大会の両方の生演奏を聴くという幸運に恵まれた。
Nコンの生演奏を聴くのは3年目になったが、コンクールが終ったあとで何かすっきりしない気持ちが残った。
その気持ちが何であるかしばらく分からなかったが、一つは課題曲に聴き応えが無くなってきたということだろう。
Nコンの課題曲は、毎年テーマが与えられて、作詞者と作曲者が主催者側から指名される。
昔は交響曲も作曲するような作曲家に依頼していたようだが、ここ数年の傾向は若い詩人、作曲家に依頼している。
そのため、曲や詩は斬新で新しい感覚に満ちているが、自分からすると構成力や聴き手に訴える力に乏しいように感じる。
一言でいえば、「曲に力が無い」、ということである。
曲が記憶に残らない。しばらくたつとどんな曲だったか忘れてしまっている。
こういうことでは駄目だ。
新しい感覚もいいが、自分としては古風でも長い間歌いつがれていくような曲を聴きたい。

「長い間歌いつがれていく」という意味では、昨年2つの合唱曲に出会ったり、再認識させてもらった。
まず1つは、昭和50年度大会課題曲の「海はなかった」(作詞:岩間 芳樹 、作曲:広瀬 量平)である。
この曲を初めて聴いたときびっくりした。連続する不協和音の前奏で始まったからである。
Nコンの課題曲にもついに前衛音楽が採用されたのか?と一瞬頭をよぎったが、前奏の後は普通の音楽であった。
しかしこの短い音楽には、とても強い感情が込められている。
だから長く記憶から消えない。「木琴」のような強いインパクトがある。
ただしただ強い感情が引き起こされるだけではなく、音楽としての芸術性が高い、簡単に言えば美しいところに、この曲の良さがある。
東京都立八潮高等学校の演奏がお勧めだ。綺麗な歌い方はしていないが、強い芯を感じる。表面的な美しさを表現するだけの演奏とは根本的に違う。

もう1曲は「きょうの陽に」(作詞:新川和江、作曲:高嶋みどり)という曲。
この曲は2013年度全日本合唱コンクール高等学校部門の課題曲に採用されたが、全国大会で演奏された録音を全て、1か月半くらいの間で百数十回は聴いたであろうか。
曲自体も素晴らしいが、Aグループの東京都共立女子高等学校の演奏に惹き込まれた。
審査員に高く評価された学校の演奏も何度も聴いたが、とても綺麗に統一された濁りのない音、力強くダイナミックで、強弱に富んだ表現をしており、なるほどと唸らせるほどの出来であったが、私には何も感じるものが無かった。
何故、上手いと感じてもそれ以上のもの感じることが無いのか。
演奏する目的が根本的に違うからではないか。
音の統一力、ダイナミックさ、ハーモニーや発音の正確さ、技巧の高さなど表面的なものを一分の隙なく、表現し得ても、演奏者の心の奥底から発するものが何も聴こえてこない。
それは逆に言うと、頭で計算されたあるべきものに合わせようとするからではないか。
感情エネルギーとも言える力を持った曲や詩は、演奏者自身が意識することなくその感情に共鳴し、自然に表出されるのを求めている。
すなわち曲が持つ感情を自分自身の自然な感情として表に出せていないと、聴き手の心の奥底までに届かない。
だから表面的な上手い!、だけで終わってしまう。
何度も聴いてみたいと思わない。

これまでそれなりの数の合唱曲の演奏を聴いてきたが、やはり自分が合唱演奏の素晴らしさを判断する上でのメルクマールとして、Nコン全国大会、平成21年度の愛媛県の高校の課題曲と自由曲、そして平成12年度の北海道の高校の自由曲の演奏がある。
これらの演奏もこの年末年始の休みの間に何度も聴いた。
信じられないくらいの集中力と感情的エネルギーを持った演奏だ。

審査員に高い評価を得た学校の演奏がつまらないと言っているわけではない。
ただ、自分としては、上手い演奏だけが高い評価に値するとは思わないということである。
いい演奏は評価に関係なくあるものである。そこを言いたい。
本当に「いい演奏」とはどのようなものか、ということを常に考えていきたいのである。


※次回は、ギター、マンドリンオーケストラ、読書等について書くつもりです。
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