緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

静かな夜に-グラナドス作曲「詩的ワルツ集」より第5、6曲-

2021-08-28 22:31:49 | ピアノ
秋の虫の鳴き声がさかんに聴こえてくるようになった。
もうすぐ秋だ。
静かな夜に是非聴いて欲しい曲がある。
グラナドス作曲「詩的ワルツ集」より第5曲と第6曲。

グラナドスの「詩的ワルツ集」を聴いたのは、ギターに編曲されたジュリアン・ブリームのライブ演奏の録音だった。
1980年代初めのエジンバラ音楽祭での演奏録音で兄がFMラジオからテープに録音したものだった。
しかしその時はこの曲が何故かいい曲には感じなかった。
時が過ぎ、社会人になって、ブリームが80年代前半に録音したアルベニスとグラナドスのピアノ曲の編曲ものを集めたCDを買って数年が経った頃だった。
30代の半ば頃だった。
ブリームが自らこの曲をギターに編曲したこの曲を聴いて心底感動した。
この年になって初めてこの曲の素晴らしさに気付いた。





とくに素晴らしいと感じたのは、第5曲から第6曲にかけて。









この部分がこの曲集でもっとも要となる部分だ。
この展開は素晴らしい。
第6曲は第5曲が先にあるから一層その真価が際立たされている。

同じ頃、アリシア・デ・ラローチャのピアノ演奏録音も聴いたが、正直、ブリームのギター編曲の演奏の方が感動的だった。
それにしても第6曲は物凄く感動する。
ピアノ曲の中でも、短いながらも最も強く感情が引き出される曲として、私にとっては屈指の曲の一つだ。
是非聴いて欲しい。

この曲を聴くと、この極めて短い曲の中に、グラナドスという人間の全てが凝縮されているように思えてくる。

30代の半ば頃、この曲が絶えず頭の中に流れていたのを思い出す。
Youtubeにはスペイン・マドリッド出身のピアニスト、 Luis Fernando Pérezのライブ録音を貼り付けさせていただく。
第5曲~第6曲は、7:50から。

ENRIQUE GRANADOS - VALSES POÉTICOS- Luis Fernando Pérez, piano


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バリオス作曲「前奏曲ハ短調」の運指考察

2021-08-28 20:34:01 | ギター
アグスティン・バリオスの名曲「前奏曲ハ短調」に初めて出会ったのが、高校3年生の春。
今から40年ほど前のことであったが、NHKFMラジオでホセ・ルイス・ゴンサレスの録音を聴いた時であった。
このホセ・ルイス・ゴンサレスの弾く「前奏曲ハ短調」は、「ホセ・ルイスの至芸」という1980年頃に発売されたレコードに収録されていたのだが、1990年頃にCDで再発された際にはこの曲が省略されてしまったので、今では幻の名演奏のようなものとなってしまった。

とにかくこのホセ・ルイス・ゴンサレスの弾く「前奏曲ハ短調」が素晴らしく、当時カセットテープに録音した演奏を何度聴いたか分からない。
そして実際にこの曲を弾いてみたくて買った楽譜が、当時発売されたばかりであったヘスス・ベビーテス編のバリオスの曲集(全音楽譜出版社)だった。



録音を聴いた感じではシンプルなアルペジオの易しい曲に思えたが、実際に楽譜をもとに弾いてみると、疲労度の高いセーハが多いうえに拡張を強いられる運指の連続で、弾き終わった後で左指がちぎれるように痛くなるほどの難しさだった。
それでもこのベニーテス編の楽譜を暗譜して家でも学校(必修クラブ)でも弾きまくっていたのを思い出すと懐かしい。

この曲の魅力は何だろう。
短く、アルペジオのシンプルな曲だけど、物凄く心に喰いこんでくる悲しさがある。
しかし悲しいけど美しいのがこの曲の素晴らしいところだ。
どこにも無駄はなく完成度は極めて高い。
だからこの曲に魅力を感じてピアノで弾く人もいる。

アルペジオの高音部にアクセントが指定されている。
この部分はできるだけアポヤンドで弾かなければならない。
Youtubeでのアクセントをとても上手に弾いていた方がいたので下記にリンクを貼り付けておく。

https://youtu.be/FYcpM4uvBYY

この曲をベニーテスの運指で最後まで弾き切ることは至難だ。
90年代半ば頃だっただろうか、現代ギター社の臨時増刊で「バリオスの全て」という本の添付楽譜で、佐藤紀雄氏の運指によるものを見つけ、これによりだいぶ左指の疲労度が軽減された。



その後10年くらい前にこの曲に取り組み直したときに、何かの機会、Youtubeだったか市販の楽譜だったかははっきり覚えていないけど、部分的にさらに楽に弾ける運指を見つけた。

まず6小節目。
2弦上で1指をスライドさせる運指ではなく、楽に弾ける。



次に7小節目。
6小節目の押さえを持続させながら、1指で2弦と6弦を斜めにセーハする。
これは動きが少なく合理的だ。



次に21勝目。
佐藤紀雄編だと最初の1弦と2弦の音を4指でセーハの指定だが、ここはベニーテス編と同じで4指と3指に変更。



23小節目はベニーテス編だと凄く難しい。響きとしてはこの運指の方がいいのかもしれないが、指の力を消耗する。
佐藤紀雄編ではかなり改善されているが、ここは思い切って開放弦を使う。
この運指は自分で考えたオリジナル。自分より早く同じ運指を考えた人はたくさんいるだろうが。



クライマックスの部分。27小節目。
6フレットセーハが一般的だが3フレットセーハの次の運指もある。
一時期この運指を使っていたが2と3指の拡張がきつくて、現在は6フレットセーハに戻った。



28小節目は6フレットセーハの運指と次の1フレットセーハの運指のいずれかを使うか、Youtubeで見た感じではざっとで半々くらいか。



私は27小節目を6フレットセーハの運指を使う場合はこの1フレットセーハの運指では無理。
力尽きてしまう。
この28小節目が一番きつい箇所だ。

最後の2小節をpos.1ではなく、pos.5あたりで弾いている奏者が何人かいた。

2年程前に、1弦の調弦を半音下げてミ♭にし、疲労度軽減を目的にした運指による楽譜を見つけて試してみたが、後半がセーハの連続で私にとっては疲労度がかえって増すように感じたため、数回弾いただけで断念してしまったことがある。

とにかくこの曲、人気が高いようだ。Youtubeの投稿数が多い。
私もいつかこの曲を録音して記事にアップしたいと思っている。
最後にYoutubeに投稿されていたピアノの演奏のリンクを貼り付けさせていただく。
ピアノの方がギターよりもいいのでは?、と感じるのは分散和音の各音が途切れることなく流暢に流れて聴こえてくるからであろうか。

https://youtu.be/CNKOAIbbct8

【追記202108302210】

このYoutubeのピアノの演奏、なかなかいいですね。
とくに後半部の高音のアクセントの付け方と、その音から伝わってくる感情にはとても参考になるものがあります。
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真鍮製弦止めを試す

2021-08-22 22:12:03 | ギター
これまで様々な材質の弦止めを試してきたが、今回は真鍮製の弦止めを試してみた。



真鍮は銅と亜鉛の合金で銅よりも硬い。
この銅やアルミよりも硬い材質である真鍮の固定具が、音にどのような影響を与えるかが興味を感じるところである。

弦は新しいものに交換した。
ただいつも使っているオーガスチン黒ではなく、アマゾンで買ったフェリーペ・コンデ(Felipe Conde)という銘柄のトラディショナル・ノーマル・テンションのものを使った。







この弦、アマゾンではクラシックギター用となっていたけど、パッケージにはフラメンコギター用と書かれていた。
騙されたか。
まあフラメンコ用でもクラシック用でも同じだろう。

構造は現代ギター社のクリアトーンと同じで弦の固定方法は簡単だ。
6弦、1弦、5弦、2弦、4弦、3弦という順番で装着していったが、1弦を調弦をしているときに突然、パツン、という音と衝撃が走った。
何と弦が切れてしまったのだ。



ナイロン弦で弦が切れたのは初めてだと思う。今までに記憶がない。これは想定外だった。

切れた箇所は固定具やサドル、ナットなど他のパーツと接触する部分ではなく、全く接触しない部分で切れていた。
何故こんな箇所で切れたのか。
まず思いついたのは、この弦が不良弦ではないかということだ。
初めて使う弦だし、極く稀にこういうトラブルもあるのかもしれないと思った。フラメンコ用の弦でもあるし。

新品の弦なので勿体なかったが、再使用できないので家にあるスットク弦、プロアルテ・ノーマル弦に付け替えた。
そして交換したプロアルテ・ノーマルの1弦を調弦し、全ての弦も調弦し終わったところで、音階やスラーの練習をしていた時である。
突然、パツンという音と衝撃が走り、右指にピシャンという叩かれるような痛みを感じた。
何とまた1弦が切れてしまったのだ。



切れた箇所は今度も他のパーツと接触しない位置であったが、かなりサドルに近い箇所だった。

2度も同じ様に切れたとなると、もうこれは弦が原因ではない。
固定具に原因があるとしか思えない。
考えられる原因としては、1弦を固定具に固定する際に、すり抜け防止のために3回結んで固定していたのだが、もしかするとこの過剰な固定の仕方が原因だったのか。
それとも固定方法に問題はなく、単に真鍮という硬い固定具を使ったために弦のテンションが上がったためなのか。

そこで1弦を再び別のもの(オーガスチン黒)に変えて、今度は固定具を真鍮製ではなくアルミ製にし、固定する際の結ぶ回数も2回にしてみた。



すり抜けの不安があったが、2回結びでもすり抜けることなく調弦することができた。
またしばらく演奏していても弦が切れるということもなかった。

何が原因で弦が切れたのか確証は得られなかったが、銅製やアルミ製の固定具で以前1弦を固定したときは3回結びだったので、結び目の回数との関係性はないのかもしれない。
とすると原因は、材質が真鍮製であることか。

音は銅製や牛骨製などに比べて、張りのある強い音という感じがする。本当にごく微妙な差ではあるが。
装着直後の音のこもり具合も他の材質に比べれば少なかった(弦の種類を変えたこともあるかもしれないが)
やはり材質の硬さと張力の強さは関連性があるのだろうか。
物理や工学など、理系に強い人はわかるのかな?
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恐怖の向き合い方(2)-対人恐怖症の解決のために-

2021-08-22 20:08:23 | 心理
(前回からの続き)

対人恐怖に苦しむ人が、「自己否定」や「自責の念」を心に定着させてしまうに至る要因を、もう少し掘り下げて考えてみようと思う。
ある特定の対象、状況下でのみ感じるようなスポット的な恐怖症ではなく、常に寝ても覚めてどこにいても継続的に感じる恐怖感情が何故生じるのであろうか。
このような状態になるに至るには、その人の人生プロセス、それも幼少期から青年期にかけての体験、それも人間関係からくる体験が重要な影響を及ぼしている可能性が高い。
それもPTSDのようなある瞬間的な特定されるトラウマ体験のみから来ているというよりも、家族、学校、職場などに代表される集団的環境の中で、様々な心理的悪影響を及ぼす行為を持続的に受けることによって生じると思われる。
すなわち逃げ場の無い閉鎖的環境の中で、愛や安心感、一体感を求め、属する環境に依存せざるを得ない立場の者が、周囲の人々から継続的に精神的攻撃を受けるとともに、その攻撃が相手の問題によるものであるにもかかわず、攻撃を受けた自分が原因であると受け止めざるを得ないほどの大きな圧力が加えられるような体験を積み重ねることによって生じる。

心が未発達状態にある年代で、このような状況下に長い期間置かれると、「自己否定」、「自責」、「人間不信」といった心の構えが次第に定着される。
すなわち自分が悪くもなく、落ち度もないのに、人から責められるとそれは自分が悪いからだ、と受け止めてしまうのである。しかも本人にとっては自明の理のように。
そしてこのような「自己否定」の構えが、恐怖のみならずさまざまなマイナス感情を常に生じさせ、自己破壊に向かわせるのである。

「自己否定」の構えがまだ弱い段階では、気が弱い、引っ込み思案といったレベルで、ある程度その傾向を受け入れ、周囲の人間関係が良好で守られている環境であれば、その状態でなんとか生きていくことは可能だろうし、実際にそうしている人もたくさんいる。
しかし、「自己否定」の構えがもはや自分で受け入れられる限界を超えるほどの強い心理的な影響を継続的に受けたならば、その人は次の段階として「自己破壊」とともに「人から責められない理想の人間」に強迫的になろうとする衝動を持つに至る。
すなわち、気が弱い、頼りないといったありのままの自分を激しく憎み、罵倒するとともに、このままの自分では危険だからすぐにでも責められないような人間になろうと強迫的になるのである。
そしてこの心理的パターンが自動回路のように潜在意識に定着していき、それがどんどんエスカレートしていくと、次第に人の話が聞こえなくなり、話をすることもできなくなり、周囲を見ることも出来なくなるといったような心の崩壊をもたらし、最終的には自殺に行き着く。それも心の中でこのような状態になっていることの事実に自らが一度も気付くことなく。
私は自殺者の多くはこのパターンで亡くなっていると思っている。

では、もしこのような状態になっても、「生きる」ことを選択し決意したとしたら、どのように心を回復させ再生していけるのだろうか。

人間は、どん底に陥ったとき、すなわち生きるか死ぬかの選択を迫られた時、自分の心の本当の状態、現実の姿が見えてくるように出来ているのかもしれない。
それは神のような存在のものが最後の最後でチャンスを与えてくれているようにも思う。
この「自分の心の中でどんなことが起きているのか」にまずは気が付くことが一歩だと思う。

ただ自分の心の中で起きていることが見えてきたからと言って、すぐに恐怖を始めとする苦しみから開放できるわけではない。
程度にもよるが長い道のりが必要となる。
まず、この潜在意識に定着してしまった「自己否定」と「自分以外の者になろうとする強迫観念」の自動回路を外すことは一筋縄ではいかない極めて困難な作業であるからだ。
極めて困難なのは、意識下でのコントロールが効かないからである。
それは人間が何の意識もしなくても呼吸をしたり睡眠をしたりすることと変わらないものであるから。
それくらい潜在意識に刷り込まれてしまっている。

でもまずこのような状態に自分の心がなっていることに気が付くことができれば最悪の状態に比べれば楽になっていることに気付く。
そして、何でこのような状態になるに至ってしまったのか、自分のこれまでの人生プロセスを振り返ってみる必要がある。
振り返ると必ず、この「自己否定」、「自己破壊」に向かわざるを得なかった数々の体験や人間関係が見えてくるに違いない。
キーとなるのは、「責められたのは自分が悪いからだと受け止めていたけど、実は責めた相手の心の問題であったのではないか」と疑問を持つことだ。
「自分が悪いと思って自分を責めて、一生懸命そういう自分を直そうとしたけど、逆に益々、ボロボロになっていった」いう事実に気が付くことである。
「もしかして私は、自分に対して正しいと思っていたことの全く逆のことをしていたのではないか」という疑問を持つとともに、その疑問を解き明かしていく作業が必要だ。

時間はかかるけど、ここはあっせってもどうしようもなく、理解できるまでには相応の時間を要する。
この作業の過程で、自分に悪影響を与えた人物が明確になることもあるだろう。
その時は、その感情、多くの場合は怒りや憎しみ、悲しみだろうが、そういう感情をためらわず外に出して開放してあげることである。もういいというまで。
このプロセスにより、ボロボロになってしまった自分に対し、次第に愛おしい感情が芽ばえてくるに違いない。それまで一度も自分自身にできなかったことだ。

この過程で、怒り、憎しみ、悲しみといったマイナス感情はかなり開放、浄化され、同時にうつ状態からも開放されていく。
しかし、恐怖とそれとセットになっている「自分以外の者になろうとする強迫観念」はなかなか取れていかない。
何故か。
それは前回も述べたように「恐怖」という感情は他のマイナス感情に比べエネルギーが強すぎて、それが開放することを困難にしているからだ。
それと恐怖という感情は、攻撃から身を守るためのシグナルでもあるために、この感情を取り除くことに潜在意識の自分が必然的に拒否するからである。

(この続きは後日書きます。次回は、恐怖とそれと一体になった強迫観念をどうやった弱めていかれるかについての方法をテーマにする予定です)
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恐怖の向き合い方(1)

2021-08-21 21:37:56 | 心理
ネガティブ、マイナスの感情と言われるものには、恐怖、不安、怒り、憎しみ、不満、悲しみ、寂しさ、孤独感、あせりなどといった様々なものがある。
人間である以上、これらの感情を感じることは避けられない。
人間が生きていくために必要な感情であるからだ。

これらのマイナス感情は通常、感情を引き起こす体験が去っていけば、おのずと自然に解消するものである。
しかし何らかの原因、理由により、これらのマイナス感情が絶えず継続的に生じることがある。
このマイナス感情が意識的、無意識的にかかわらず継続的、持続的に発生している状態を、心の苦しみ、心の病、一昔前のいい方だと神経症、ノイローゼなどと言った。

このマイナス感情の中で、最も解消されにくく、扱いの難しい感情は、自分の体験上、「恐怖」であると言いたい。
恐怖が原因となっている心の病としては、対人恐怖症を始めとする様々な恐怖症と言われるものだ。
人と対面したり、特定の状況においてのみ発生するのであれば、それほどでもないだろうが、1日24時間、寝ても覚めても、どこにいても、どんな状況下であっても、絶えず恐怖を感じている状態というのが、最も救い難い恐怖症なのだ。
それも、まともに感じると「ギャー」と叫んで気絶してしまうほどの強さを持つ恐怖だ。
このような強い恐怖はまともに感じると心が崩壊する危険があるから、大抵は潜在意識に抑圧されている。
しかしいくら潜在意識に抑圧されていても、無意識的には24時間いつでも感じているために、抑うつ、エネルギーの枯渇、何とも言えないどうすることも出来ない苦しさ、といったものに苦しめられる。

恐怖だけであるならばまだいいのであるが、恐怖という感情は、他の様々なマイナス感情を派生させる。
例えば強い恐怖が絶えず心に生じていると、それがために言いたいことが言えない、したいことが出来ない、いつも苦しい、人と親しく出来ない、独りで居ることを余儀なくされる、人から責められるのではないか、責められないために責められない人間に1秒でも早くならなければならないと強迫観念にかられ実際そう行動する、自分は愛されない人間だ、自分は周りから嫌われている、といった、恐怖がトリガーとなった感情、恐怖から逃れるためにとった行動から派生する感情、すなわち、冒頭にあげた、怒り、不安、憎しみ、不満、悲しみ、寂しさ、孤独感、強迫感、あせり、自責などといったあらゆるマイナス感情が同時に連動して湧き起ってくるのである。
しかも多くの場合、これらの派生感情が絶えず連動して発生してきていることに当の本人は意識できずに、無意識下で起きていることに気付かない。
このような心の状態が長く継続的に続くと、うつ状態となる。
薬物療法で治らないうつ病の殆どはこのパターンによるものだと思われる。
それゆえに、心の苦しみのうち恐怖をメインに起因するものが最も辛いものであると言えるのである。

しかもやっかいなことがある。
それは恐怖を無意識に抑圧している場合、意識下に昇らせることが容易でないばかりでなく、恐怖を解消、浄化するのが他のマイナス感情に比べて非常に困難であることだ。
マイナス感情のうち、悲しみ、孤独感といった感情は、意識下にまで引き出すことは比較的容易だし、意識下で感情を感じ尽くすならば時間とともに自然に開放、浄化されていく。怒りも同様だろう。
しかし恐怖はそれを行うのはたやすくない。
恐怖が他のマイナス感情に比べ、肉体に現れる現象、例えば破壊的な肉体硬直、痛み、痙攣、めまい、貧血、パニック、フラッシュバックなどの苦痛をもたらすことにもよる。

そもそも恐怖が絶えず持続してしまうのは何故なのか。
ここで言う恐怖は対人関係から来るものに限定して考えたい。
対人的に感じる恐怖は、単独あるいは複数の人から精神的に攻撃されたり、責められたりすることで起きる。
しかし仮にその他人からの精神的攻撃、責めが、理不尽であり、自分には本質的には無関係でむしろその人自身の心の問題が原因であった場合、その事実を客観的に理解できずに、しかもその原因が言われた自分自身にあると受け止めたとしたならば、心にどのような影響が生じるだろうか。

それは「自分が悪いから、自分に落ち度があるから責められるんだ。だから人から責められないような人間に一生懸命ならなければならない」という、自分自身への規範、観念、メッセージを自ら潜在意識に刷り込み、自動回路のように心の奥深くに強固に根付かせてしまうのではないか。
その結果、この観念、メッセージが潜在意識に強固に張り巡らされ、その状態が続いている限り、恐怖の感情が絶えず起きて苦しみに満ちた人生を歩まざるを得なくなるのである。

(この続きは後日にします。続きはこの苦しい自動回路や恐怖をどうしたら解消していけるかについて書いていくことにします)

【追記202108222007】
脱字修正、一部加筆。
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