ここ2,3年、新聞を読んでいて気になることがある。
購読している新聞には読者の投稿欄があるが、投稿の中に、いつも何か嫌なものを感じるものがあるのだ。
その投稿とは、現政権、とりわけ安倍首相を異様なほど批判するものである。
それは単なる批判を超えて、個人を貶めるほどの強い感情を感じさせるものである。
投稿者は高齢者が多い。
人生の先輩という自意識が強すぎるのか、一国の首相ですら平然と見下しても一向に構わないという姿勢が透けて見える。
今問題として報道されている「桜を見る会」に対する批判が多いが、誰かが投稿すると待っていましたと言わんばかりに次々と同じような批判投稿が連日のように寄せられる。
つまり自分が首相を批判しても、自分以外にもたくさんの人が同じように批判しているのだから、批判することに抵抗を感じない、ということなのであろう。
一方、反面、北朝鮮、韓国、イラン、テロ、トランプ大統領などに対する批判投稿は皆無である。
これも不思議だ。これらの問題は「桜を見る会」のような問題よりもはるかに議論すべきテーマとして取り上げられなければならないものだろう。
何故投稿しないのか。それはこれらの問題に投稿したことで不利益や報復を被る恐れがあるからであろう。
気になったのは、この人たちは本当に、「桜を見る会」を問題視して、改善を促すために投稿したのであろうか、ということだ。
本当のところは、「桜を見る会」はどうでもいいと思っているのではないか(恐らくそうは意識していないかもしれないが)。
「桜を見る会」でも「モリカケ」でも何でもいい。首相が安倍さんでなくてもいい。
もちろん全てにあてはまるとは思っていないが、この投稿を読んでともかくも私が感じたことは次のようなことだ。
人は、怒りや憎しみなどの癒し難い負の感情を日常的、恒常的に抱えていて、かつその感情を明確に意識できない場合、無意識に、最も安全でかつ、解消効果の高い対象に毒を吐きだすという側面を持っているということだ。
安倍首相などが矛先に選ばれるのは、最も安全(すなわち誰もが批判しているから自分は正しいのだという合理化が可能)で、毒の出し甲斐のある(一国の首相よりも、自分を一段高い位置に感じられる)からだ。
心理学などの本を読むと、「偽装された憎しみ」という言葉に出くわすことがある。
「偽装された憎しみ」とは、正義や正論の仮面をかぶった憎しみや怒りのことである。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、最も注意しなければならない人だ。
ヤクザ以上に。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、耐えがたい、恒常的におきている深刻な不快感情の原因を自ら意識し、自分で解決しようとしない。
それらの不快感情が自分の心の中の原因で起きていると自覚できずに、無関係の他人にその感情の原因を求める。
ターゲットとされる無関係の他人とは、自分のやっていることの真意に直面しなくて済むような安全な存在、すなわち、自責の念の強い人、やさしいが弱い人、孤独な人、自信が無く自我が確立していないような人である。
程度にもよるが、偽装された憎しみを持つ人は、このような人たちの心を強固に破壊する。
際限が無い。場合によっては死に至らしめることもある。
いじめによる自殺がそのいい例だ。
偽装された憎しみを持つ人は、心理的弱者の心を破壊していることに全く気付いていない。
自分の行為を合理化して正統だと思っているか、良心が麻痺しているかのどちらかだ。
案外、このような関係は日常的に起きているのではないか。
夫婦間、親子間、上司と部下、同僚との間、級友、先生と生徒、恋人どうし、等々。
このような人に巻き込まれ、心が破壊されてしまうと、再生するのは容易ではない。
程度にもよるが、回復するのに何十年もかかる。一生かかるかもしれない。
だから人間関係で何よりも最も注意しなければならないのである。
だだ、犠牲になった人は決して自分を責める必要はない。
自分には疑いもなく人間的な「良心」があったのである。
人間を表面だけでしか見れないと、このようなことに巻き込まれる可能性は十分にある。
人の心の真の動機が明確に認識でき、客観的に相手を見れるようになるまでに成長していることが必要だ。
そして、何かの機会に、偽装された憎しみを持つ人に関わり、負の感情を吐き出されたときに、それがどんな状況であれ、その人がどんな立場の人であれ、「相手のしてきたことは自分には全く無関係だ。今されたことは自分に原因があるのではなく、相手の心の問題だ。」と切り捨てられるようになるまで、心理的成長(=自我の確立)していることが求められる。
かなりドロドロした話になってしまったが、ちょっと感じたことを書いた。
こんな話はあまらさまに口頭では出来ない。
文章にすると、何かとても暗いものになってしまう。しかしあえて書いた。
人間の心理を考えるようになって、30年。
心理的な幸福を得るためにどうしたらよいのか。人は愛されなかったとき、どう生きればよいのか。
私にとっては日常の最大のテーマであり、多分一生続いていくのではと思う。
購読している新聞には読者の投稿欄があるが、投稿の中に、いつも何か嫌なものを感じるものがあるのだ。
その投稿とは、現政権、とりわけ安倍首相を異様なほど批判するものである。
それは単なる批判を超えて、個人を貶めるほどの強い感情を感じさせるものである。
投稿者は高齢者が多い。
人生の先輩という自意識が強すぎるのか、一国の首相ですら平然と見下しても一向に構わないという姿勢が透けて見える。
今問題として報道されている「桜を見る会」に対する批判が多いが、誰かが投稿すると待っていましたと言わんばかりに次々と同じような批判投稿が連日のように寄せられる。
つまり自分が首相を批判しても、自分以外にもたくさんの人が同じように批判しているのだから、批判することに抵抗を感じない、ということなのであろう。
一方、反面、北朝鮮、韓国、イラン、テロ、トランプ大統領などに対する批判投稿は皆無である。
これも不思議だ。これらの問題は「桜を見る会」のような問題よりもはるかに議論すべきテーマとして取り上げられなければならないものだろう。
何故投稿しないのか。それはこれらの問題に投稿したことで不利益や報復を被る恐れがあるからであろう。
気になったのは、この人たちは本当に、「桜を見る会」を問題視して、改善を促すために投稿したのであろうか、ということだ。
本当のところは、「桜を見る会」はどうでもいいと思っているのではないか(恐らくそうは意識していないかもしれないが)。
「桜を見る会」でも「モリカケ」でも何でもいい。首相が安倍さんでなくてもいい。
もちろん全てにあてはまるとは思っていないが、この投稿を読んでともかくも私が感じたことは次のようなことだ。
人は、怒りや憎しみなどの癒し難い負の感情を日常的、恒常的に抱えていて、かつその感情を明確に意識できない場合、無意識に、最も安全でかつ、解消効果の高い対象に毒を吐きだすという側面を持っているということだ。
安倍首相などが矛先に選ばれるのは、最も安全(すなわち誰もが批判しているから自分は正しいのだという合理化が可能)で、毒の出し甲斐のある(一国の首相よりも、自分を一段高い位置に感じられる)からだ。
心理学などの本を読むと、「偽装された憎しみ」という言葉に出くわすことがある。
「偽装された憎しみ」とは、正義や正論の仮面をかぶった憎しみや怒りのことである。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、最も注意しなければならない人だ。
ヤクザ以上に。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、耐えがたい、恒常的におきている深刻な不快感情の原因を自ら意識し、自分で解決しようとしない。
それらの不快感情が自分の心の中の原因で起きていると自覚できずに、無関係の他人にその感情の原因を求める。
ターゲットとされる無関係の他人とは、自分のやっていることの真意に直面しなくて済むような安全な存在、すなわち、自責の念の強い人、やさしいが弱い人、孤独な人、自信が無く自我が確立していないような人である。
程度にもよるが、偽装された憎しみを持つ人は、このような人たちの心を強固に破壊する。
際限が無い。場合によっては死に至らしめることもある。
いじめによる自殺がそのいい例だ。
偽装された憎しみを持つ人は、心理的弱者の心を破壊していることに全く気付いていない。
自分の行為を合理化して正統だと思っているか、良心が麻痺しているかのどちらかだ。
案外、このような関係は日常的に起きているのではないか。
夫婦間、親子間、上司と部下、同僚との間、級友、先生と生徒、恋人どうし、等々。
このような人に巻き込まれ、心が破壊されてしまうと、再生するのは容易ではない。
程度にもよるが、回復するのに何十年もかかる。一生かかるかもしれない。
だから人間関係で何よりも最も注意しなければならないのである。
だだ、犠牲になった人は決して自分を責める必要はない。
自分には疑いもなく人間的な「良心」があったのである。
人間を表面だけでしか見れないと、このようなことに巻き込まれる可能性は十分にある。
人の心の真の動機が明確に認識でき、客観的に相手を見れるようになるまでに成長していることが必要だ。
そして、何かの機会に、偽装された憎しみを持つ人に関わり、負の感情を吐き出されたときに、それがどんな状況であれ、その人がどんな立場の人であれ、「相手のしてきたことは自分には全く無関係だ。今されたことは自分に原因があるのではなく、相手の心の問題だ。」と切り捨てられるようになるまで、心理的成長(=自我の確立)していることが求められる。
かなりドロドロした話になってしまったが、ちょっと感じたことを書いた。
こんな話はあまらさまに口頭では出来ない。
文章にすると、何かとても暗いものになってしまう。しかしあえて書いた。
人間の心理を考えるようになって、30年。
心理的な幸福を得るためにどうしたらよいのか。人は愛されなかったとき、どう生きればよいのか。
私にとっては日常の最大のテーマであり、多分一生続いていくのではと思う。