緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞の読者投稿に思う

2019-12-27 22:31:26 | 心理
ここ2,3年、新聞を読んでいて気になることがある。
購読している新聞には読者の投稿欄があるが、投稿の中に、いつも何か嫌なものを感じるものがあるのだ。
その投稿とは、現政権、とりわけ安倍首相を異様なほど批判するものである。
それは単なる批判を超えて、個人を貶めるほどの強い感情を感じさせるものである。
投稿者は高齢者が多い。
人生の先輩という自意識が強すぎるのか、一国の首相ですら平然と見下しても一向に構わないという姿勢が透けて見える。
今問題として報道されている「桜を見る会」に対する批判が多いが、誰かが投稿すると待っていましたと言わんばかりに次々と同じような批判投稿が連日のように寄せられる。
つまり自分が首相を批判しても、自分以外にもたくさんの人が同じように批判しているのだから、批判することに抵抗を感じない、ということなのであろう。
一方、反面、北朝鮮、韓国、イラン、テロ、トランプ大統領などに対する批判投稿は皆無である。
これも不思議だ。これらの問題は「桜を見る会」のような問題よりもはるかに議論すべきテーマとして取り上げられなければならないものだろう。
何故投稿しないのか。それはこれらの問題に投稿したことで不利益や報復を被る恐れがあるからであろう。
気になったのは、この人たちは本当に、「桜を見る会」を問題視して、改善を促すために投稿したのであろうか、ということだ。
本当のところは、「桜を見る会」はどうでもいいと思っているのではないか(恐らくそうは意識していないかもしれないが)。
「桜を見る会」でも「モリカケ」でも何でもいい。首相が安倍さんでなくてもいい。
もちろん全てにあてはまるとは思っていないが、この投稿を読んでともかくも私が感じたことは次のようなことだ。

人は、怒りや憎しみなどの癒し難い負の感情を日常的、恒常的に抱えていて、かつその感情を明確に意識できない場合、無意識に、最も安全でかつ、解消効果の高い対象に毒を吐きだすという側面を持っているということだ。
安倍首相などが矛先に選ばれるのは、最も安全(すなわち誰もが批判しているから自分は正しいのだという合理化が可能)で、毒の出し甲斐のある(一国の首相よりも、自分を一段高い位置に感じられる)からだ。

心理学などの本を読むと、「偽装された憎しみ」という言葉に出くわすことがある。
「偽装された憎しみ」とは、正義や正論の仮面をかぶった憎しみや怒りのことである。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、最も注意しなければならない人だ。
ヤクザ以上に。
正義や正論で偽装された憎しみを持つ人は、耐えがたい、恒常的におきている深刻な不快感情の原因を自ら意識し、自分で解決しようとしない。
それらの不快感情が自分の心の中の原因で起きていると自覚できずに、無関係の他人にその感情の原因を求める。
ターゲットとされる無関係の他人とは、自分のやっていることの真意に直面しなくて済むような安全な存在、すなわち、自責の念の強い人、やさしいが弱い人、孤独な人、自信が無く自我が確立していないような人である。
程度にもよるが、偽装された憎しみを持つ人は、このような人たちの心を強固に破壊する。
際限が無い。場合によっては死に至らしめることもある。
いじめによる自殺がそのいい例だ。
偽装された憎しみを持つ人は、心理的弱者の心を破壊していることに全く気付いていない。
自分の行為を合理化して正統だと思っているか、良心が麻痺しているかのどちらかだ。
案外、このような関係は日常的に起きているのではないか。
夫婦間、親子間、上司と部下、同僚との間、級友、先生と生徒、恋人どうし、等々。

このような人に巻き込まれ、心が破壊されてしまうと、再生するのは容易ではない。
程度にもよるが、回復するのに何十年もかかる。一生かかるかもしれない。
だから人間関係で何よりも最も注意しなければならないのである。
だだ、犠牲になった人は決して自分を責める必要はない。
自分には疑いもなく人間的な「良心」があったのである。

人間を表面だけでしか見れないと、このようなことに巻き込まれる可能性は十分にある。
人の心の真の動機が明確に認識でき、客観的に相手を見れるようになるまでに成長していることが必要だ。
そして、何かの機会に、偽装された憎しみを持つ人に関わり、負の感情を吐き出されたときに、それがどんな状況であれ、その人がどんな立場の人であれ、「相手のしてきたことは自分には全く無関係だ。今されたことは自分に原因があるのではなく、相手の心の問題だ。」と切り捨てられるようになるまで、心理的成長(=自我の確立)していることが求められる。

かなりドロドロした話になってしまったが、ちょっと感じたことを書いた。
こんな話はあまらさまに口頭では出来ない。
文章にすると、何かとても暗いものになってしまう。しかしあえて書いた。

人間の心理を考えるようになって、30年。
心理的な幸福を得るためにどうしたらよいのか。人は愛されなかったとき、どう生きればよいのか。
私にとっては日常の最大のテーマであり、多分一生続いていくのではと思う。
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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(5)

2019-12-27 22:25:55 | 学問
次に、「②管理会計システムが正確な製品原価を提供していない」という著者の指摘について、もう少し考えてみたい。
正確な原価計算を達成できない要因として、固定費の配賦方法が単純、標準原価計算における原価差額の全てが最上位の製品にまで積み上がらない、組織間の政策的な目的による品目間の原価の付け替え、標準原価の恣意的な設定に伴う原価差額調整での歪、などの問題点をあげてきたが、それよりももっと大きな問題がある。
これは、生産管理システムが正確で詳細な原価情報を作成を可能にする体制になっていないということだ。
製品を構成する全品目が製番引当となるような製品ではなく、製番を持たない、同一仕様の見込生産品の場合、各工程、中間品毎の多階層の構成を持つBOM(Bills of materials、部品構成表)が無いか、あっても不完全(すなわち手配重視の構成)であったならば、正確な原価は計算出来ない。
しかしこれは原価計算が基幹システムに組み込まれている場合のことだ。
原価計算システムが基幹系システムに組み込まれていなかった時代、また完全な手計算だった時代に、見込生産品の原価を個々の品目ごとに正確に計算可能とする条件とは何か。
特定の製品の原価を積み上げ計算するためのキーとなるもの(製番、オーダー番号等)がなければ、その製品の原価をどのように計算したらよいのか。
1つの特定の製品を、この製品だけを生産する工程しかない場合、実際原価計算だとしたら、例えばA工程で生産される中間品の当月完成原価は、「月初仕掛品原価+当月投入原価-月末仕掛品原価」で計算されるであろう。
仕掛品原価をどのように計算するかがキーとなるが、いずれにしても月末仕掛品原価が決まれば上式で完成品原価が求まる。
そしてA工程の完成中間品がB工程、C工程へと振り替えられていき、最終製品にまで同様な計算が繰り返される。
製品の種類が少なく、1製品毎に専用の工程で区切られているのであれば、手計算で特定製品の原価は計算可能と思う。
しかしもし、同一工程で複数の製品、それも種類の異なる製品を生産するような場合、手計算で製品別の正確な計算がどこまでできるであろうか。
例えば、同一の機械加工工程において、4‘×8’サイズの定尺の鋼板をレーザー加工機を使って、X製品の加工部品αを30ケ、Y製品の加工部品βを70ケ、抜いた場合、X製品の部品αの消費実績とY製品の部品βの材料消費実績とそれぞれの機械時間実績を手作業でどこまで記録できるか、である。
このような事例の種類や頻度が膨大となった場合、人の作業ではもはや生産実績記録を整備することはコストが増大するため、厳密に行いえないのではないか。
実際の実務では、上例の場合、4‘×8’サイズの定尺の鋼板をX製品とY製品とに分けずに、この機械加工工程で1カ月、何枚消費したか、というとらまえかたしか出来ないのではないかと思う(膨大な人材を投入すれば可能かもしれないが)。
そしてこのグロスでの消費実績を、X製品に一括して記録したならば、この生産実績に基づく原価計算結果はどのような結果になるかは容易に想像できるであろう。
つまり、原価計算は理論上は、材料消費にしても、工数実績にしても、配賦率設定単位(工程)など、いくら細かいレベルの実績収集形態を採っていたとしても、ものづくりの実態どおりに正確に計算できるものなのである。
しかし、原価計算の理論に関係なく、1企業の採用している、生産管理の実務運用が、ものづくりの実態通りの実績を記録できる体制にまで整備されていなかった場合、原価計算はその目的を達成できない。
仮に原価計算の実務担当者をいくら増強してもそれは達成できない。
また逆に、生産管理の実務運用がものづくりの実態を正確に詳細に記録できるまでに整備されていたとした場合、原価計算を行う体制が、その生産実績記録をそのままのレベルで計算できるまでに整備されていなければ、正しく、かつ個々の品目や製番毎の原価は計算できないのである。
原価計算が誕生した19世紀後半から20世紀前半は製品数も生産数も少なく、また戦後の日本の高度経済成長時代にみられるような生産形態は小品種大量生産であり、1つの工場で数種類というレベルの製品を大量に生産していたような時代は、生産管理と原価計算がシステム化されていなくても、ある程度の正確な品目別原価計算が達成できていたと考えられるが、現代のように1カ月数千種類もの製品を生産・販売するような企業の場合は、基幹システムによる運用を実施しないと無理である。
現代の基幹システムによる生産管理や原価計算システムも、その構成要素は個々の膨大な実績収集、計算業務の積み重ねである。その構成要素や計算ロジックを分解していけば、手作業でも膨大な時間と労力をかければ実現可能と思う。
こう考えてみると、著者が指摘する問題点「②管理会計システムが正確な製品原価を提供していない」とは、原価計算の理論とは無関係であり、むしろ多品種少量生産など時代のニーズの変化に応じて、正確な製品原価を提供可能な生産管理及び原価計算システムの規模と精緻さを発展させていくことができなかったことにあるのではないかと思うのである。
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社会人マンドリンクラブ忘年会参加

2019-12-22 23:13:43 | マンドリン合奏
今日あいにくの寒い雨降りの日だったが、所属している社会人マンドリンクラブの練習の後に忘年会があった。
この社会人マンドリンクラブは、数多くある社会人団体の中でも歴史が古く、レベルはトップクラス。
入部して約1年半、練習は殆ど休まず参加してきた。
よく続いたと思う。

思えば、中学1年生でギター独奏を始め、大学時代にマンドリンクラブでマンドリン合奏は経験したものの、卒業後は独奏だけでずっとやってきた。
マンドリン合奏を再開するなど全く考えていなかったが、きっかけは2016年の春に、ある作曲家の大規模演奏会を聴いた時だった。
この演奏会の感動を記事に書いたところ、この大規模演奏会の首席奏者2名の方からコメントをいただいたのである。
まったく想定外のことで驚いたが、次回の演奏会の曲目に私の最も好きな曲を演奏するので、参加しませんか、という内容だった。
仕事も忙しく、ブランクも長かったので迷いもあったが、思い切ってエントリーした。
そして2018年2月から合同練習に参加し、約140名ほどの大人数での演奏会のメンバーの一人として舞台に立てたことは、それまでの自分には考えられないことであり、大きな感動を体験することができた。
きっかけを与えて下さった、先のお二人の方には感謝に堪えない。

この大規模演奏会の打ち上げで、いくつかの社会人団体の方々から、入部しないかと誘われた。
そして、その中から、演奏曲目の志向や、誘って下さった方が親切だったこともあり、今の団体に入ることにしたのである。
自分でチャレンジしたということもあるが、きっかけというものは人あってのことだと思う。感謝したい。
ともかくも自分のライフワークの中で好きなことに時間を消費することは重要だ。

入部した当初は同じパート内でも殆ど会話も出来なかったが、回を重ねる毎にコミュニケーションの頻度や幅は広がってきたのは、自分にとって大きなプラスだ。
今日の忘年会でも、創立当時のメンバーを始め、自分に対し思いもよらぬ肯定的な見方をしてくれたことはとても嬉しい。
また合奏経験豊富な方の話を聴けるのも勉強になる。

来年は大規模演奏会が開催され、参加することにした。
今後はもっと音楽好きな方々との交流を拡げていきたい。
好きな音楽を「共有」、「共感」という体験に結び付けていきたい。
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加湿器買い換えた

2019-12-21 22:48:15 | その他
加湿器を新しく買い換えた。
今まで使っていたのは、カズ(kazu)というメーカーのもの。



10年以上は使ったか。
スチームが殆ど出なくなってしまった。
調整機能もない、いたってシンプルな構造。

今度買ったのは中国製。



税込み、送料込みで3千5百円程度。すごく安い。
安いだけでなく、超音波式(加熱式ではない)で、出力調整も可能で、タンクの水交換もやりやすい。
あと自動停止機能が付いている。
今、中国製の品質がどんどん良くなってきている。

パッケージの中にカードが入っていたが、次のように書かれていた。

「こちらよりお届けした商品にご満足頂けなかった場合、またご意見がございましたら、ご遠慮なく下記のメールアドレスにご連絡ください。アフターサービスまたお問い合わせにつきましては、ご満足頂けるまで、こちらは最善を尽くし致します。」

中国人が日本語に訳しているので、訳が気になるところはあるが、とにかくお客様のニーズや意見(良くも悪くも)を聞いて、品質を向上させていこうという気持ちを強く感じる。
昔の日本も、まだ世界に認められていなかった頃、このように謙虚な姿勢でものづくりに取り組んでいたに違いない。

今、日本の製造業が危なくなってきている。
品質が低下してきているのに価格が高い。
機能、性能の向上の速度も遅い。
かつて、戦後の復興から高度経済成長時代を経て、1980年代終わりのバブルが始まるまでの間に、日本人が猛烈に頑張って築き上げてきたブランンド力に陰りが出てきている。

近い将来、10年後か20年後か、日本のメーカーとしての地位は中国、韓国よりもはるかに低下していることはかなり確実のように感じる。
ホリエモンが右肩下がりは絶対に嫌だ、と言っていたが、私も日本の技術力が衰退していくのは絶対に嫌だ。

日本人はもともと真面目で勤勉で几帳面という国民性があり、ものづくりに最も適した資質を備えた人がたくさんいた。
中小企業でも大企業がとても及ばないほどの独自の技術を磨いてきた。
中卒、高卒の技術者がですよ。
今、こういう独自性がものすごいスピードで失われてきている。
一つは、コスト競争に打ち勝つために、製造拠点を中国などに移転せざるを得なかったからであるが、今の若い人の学習意欲、研究意欲も低下してきているように感じる。

さっきのカードに書いてあったことのように、日本のメーカーに忌憚のない要望を出してみるというも、すぐに出来ることの一つであろう。
何か実行してみようかな。
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管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(4)

2019-12-21 21:07:33 | 学問
前回からの続き。

【はじめに】
著者が読者に考察を要求することとして、「過去半世紀の間に管理会計システム上の革新がなぜほとんど起きなかったかの理由」があげられているが、その理由の一つの側面として次のようなことを考えてみた。
それは、管理会計という学問が長い間発展しなかった原因が、管理会計という学問の研究者が実際に実務を経験していないことにあるのではないか、ということだ。
大学には、管理会計のみならず経営に関する学問、例えば経営管理論、経営組織論等、種々の講義があるが、そこで学生に教えている先生や研究者の中には、企業から転身した方は別として、一度も経営という実務に携わった経験がないと思われる。
「経営」に関する学問は、他の学問と比べると根本的に異なる側面がある。
医学や科学、工学などの実践的学問分野は、研究者は医療や実験という実体験をすることで、研究成果を得られるし、文系でも例えば「文学」であれば、文学作品そのものを研究対象にすることで成果が得られるが、「実践」という側面が最も重視される「経営」に関する学問については、研究を行う身が研究対象である「経営」に対してそのような実体験を得る機会はごく稀である(企業から転身した人は別)。しかし経営学の研究が、「経営」という実務を全く経験せずして成果をあげられるのだろうか。「経営」という実務を経験したことのない人が、果たして「経営」を語れるのであろうか。これは今更ながら大きな疑問を感じる。

管理会計という学問分野は、理論的枠組みや研究対象が固定、限定されず、実務体験から得られたニーズや直面した課題を解決することを目的としているので、その解決手段、対象範囲は流動的で限定的、固定的ではない。
研究する側がまさに現場の第一線で、このような課題に直面するという体験なしに、あるいは研究者たちが積極的に現場の実態にアプローチすることなく、理論や手法等を発展させようと企図しても、おのずと限界を感じたり、研究者の独断による的外れな結果や机上の空論に終わる可能性があり、このことが長いこと、管理会計の発展の本質的な阻害要因になってきたのではないかと思うのである。
実際、1970年代に見られた隣接諸科学を採用した管理会計の領域拡張の動きにおいて、その実例をみることができる(これについていつか記事にしたい)。


本題に戻るが、何故、製品相互間で原価の付け替えを行うのか。
これは組織の評価と、従業員のモチベーションに関連していると思われる。
企業は全体としての利益を確保していても、常に黒字の製品だけを販売しているわけではなく、製品構成をみると黒字製品もあれば赤字製品もあり、その各々でも個々の製品の利益幅は様々である。
販売、生産組織を構築する基準としては、顧客別、製品群別(本体、地方拠点共)に分類されることが一般的である。
従って、顧客、製品群の採算性の相違により部門の業績に差異が生じることは避けられず、「数値」、しかも「利益」という単一の尺度で組織の評価がなされるならば、当然、有利、不利が生じる(それを回避するために対予算、対中計という評価体制ももちろんあるが)。
赤字製品をたくさん抱えている組織は、部門長の評価のみならず、組織の存続にかかわるため、不採算部門として注目されることを嫌うであろう。
そして実際は赤字だけれど見かけ上、数値の操作により利益が出ていることを望むことはありうる。
会社組織が横割り組織の場合、このような事態になったとしたら、どのような策がとられるであろうか。
この企業が標準原価計算制度を採用しており、「標準原価」の定義や運用ルールが厳密に規定されていない場合、標準原価が営業と工場間の「仕切り価格」として設定される可能性がある。
ここで「仕切り価格」とは一般的な業界用語とは異なり、企業の内部で使われる言葉である。
それは、実態を表す原価でも標準原価でもなく、組織間の政策的な交渉の結果設定され、組織の評価の手段となる原価のことを示し、「振替原価」とも呼ばれる。
「仕切り価格」あるいは「振替原価」は、組織間(一般的に営業部門と工場部門)の交渉の結果設定されるが、両者の思惑がからんだ政策的できわめて恣意的な設定がなされる。
すなわち営業部門は赤字でも、売価は競合があっての市場価格だから、これ以上上げるわけにいかず、利益が出ないのは工場側の責任であるとして、売価よりも低い金額で原価設定を要求する。
一方工場側は、あらゆる施策を投入しても現状の実力ではこれが限界であり、中・長期的な目標原価としての位置づけならまだしも、現状の業績を評価するための仕切りとしては実際原価よりも大きく下回るレベルで設定されることに全面的に賛同できないと考える。
そこで営業・工場間で互いに交渉して、一致点の見られた金額が仕切り価格として決定される。
そして速報収支や、個別製品の採算性などの報告が、この仕切り価格による原価で計算された結果で報告される。
この仕切り価格の設定根拠が知らされないまま利用されるリスクが生じる。
これは、営業・工場間だけでなく、事業部組織を採用している場合、ある事業本部が別の事業本部に生産品を提供して販売されるような形態の場合でも採用されるであろう。

「標準原価」の定義や運用ルールが厳密に規定されておらず、「仕切り価格」や「振替原価」といった原価を標準原価の代わりとして標準原価計算機構に組み込み、なおかつ、その標準原価計算機構の機能が簡素化、精緻さに欠けるということが重なったとき、製品群または品種、販売部門等で報告される収支は著しく実態からかけ離れた信ぴょう性に欠けるものとなる。
すなわち、政策的に歪められた標準原価を使用した場合、原価差額が多額に発生するが、その原価差額を、売上原価と棚卸資産への配分を全体一律で、また売上原価に配分された原価差額を品種等の売上高比率で配分というような、精緻さに欠ける差額調整処理を行ったならば、その結果として得られる品種や部門等の収支はもはや実態に即したものとは言えないレベルとなることは明白であろう。
赤字製品の仕切り価格を実際よりも大きく引き下げて設定された場合、その製品で発生した原価差額は原価差額調整のプロセスで分散し、更にこの製品と無関係の売上高比率の大きな製品で負担されることになるからである。
財務会計において実際原価計算制度ではなく、標準原価計算制度を採用している場合、しかもその標準原価計算機構(システム)が精緻さに欠ける場合、冒頭で指摘した「極度に単純かつ恣意的」な計算を提供するリスクが大きく、これは現代でも起こりうることだと思う。

このような原価計算の恣意的な歪を生じさせず、組織間の評価制度を達成させるために、仕切り価格を原価計算システムから切り離し、原価計算システムから得られる原価(実際原価または適正な標準原価)と仕切り価格との差額を計算し、組織間の業績評価に利用する運用方法もある。
それは原価計算システムの機構外において、仕切り価格を設定する。
仕切り価格の設定は前述のように組織間の合意の上であれば、組織の思惑を反映した政策的、恣意的なものであっても構わない。というか、仕切り価格はそのために設定するものである。
この場合、収支計算上、組織間の評価はどのように反映されるか。
横割り組織であれば、仕切り価格対象製品を販売する販売部門の収支表においては、対象製品の売上原価は仕切り価格で計上するが、売上原価の内訳項目に「振替差額」等の項目を設けて、仕切り価格と実際原価又は標準原価との差額を計上する。そして振替差額を加味する前段階の売上原価でもって一旦、社内業績評価上の利益を算出し、その次の段階で振替差額を含めた売上原価で実態に即した利益を算出する。
事業部制のような縦割り組織において、仕切り価格対象製品の販売事業本部と生産事業本部とが異なる場合は、販売側は収支表において売上原価を仕切り価格で計上し収支を計算し、生産側は仕切り価格と実際原価又は標準原価との差額を収支表上で「振替損益」等の収支項目で計上する。
以上の方法によると、財務会計に組み込まれた標準原価計算制度における原価差額調整計算による歪の影響を受けずに、組織間の思惑を満たしたうえでの利益と、実態に即した利益とが同時に分離されて計上することが可能となる。

また原価の付け替えというものでは無いが、一部の原価を、例えば間接部門費などの固定費を個別製品に配賦せず、製品群単位で計上したり、個別製品との関連性の薄い工場発生費用を製造原価外の費用へ振り替えることにより、見かけ上製品原価を低く計算するような恣意的な計算方法もある。
いずれにしても原価計算の精度は、組織の評価との関わりの中で政策的、恣意的にゆがめられる可能性をはらんでいる。

(この続きは次回にします)
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