緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

久しぶりのたんぽぽ

2019-04-28 21:34:04 | 植物
久しぶりにたんぽぽを見た。
もう何十年も見ていなかったような気がする。
しかしたんぽぽを見た場所は今まで何十年も日常で通り過ぎた所だ。
そこにたんぽぽが咲いていた。



たんぽぽの側に薄い赤い(ピンク?)花が咲いていたが、この花を見たのはたんぽぽ以上に久しぶりだ。



たんぽぽとこの赤い花と、あと小さな白い花が子供の時の三点セットだった。
小さな白い花は写真を後で撮ろうと思ったが、夜になったので暗くて探し出せなかった。
赤い方は撮ることができた。

たんぽぽの記憶と言えば、幼い頃、白い綿のような種子に息を吹きかけ、空中に飛ばし、女の子にこれが耳に入ったらつんぼになるんだよと悪ふざけで脅したり、たんぽぽの茎の先をいくつか向いてラッパ状にして、反対側の茎を口に入れて吹くと本当にラッパのような音がしたことだった。

赤い方の花は食べると甘かった。
幼い頃にこれを食べて遊んでいたのである。

このところ、こういった何気ない光景が見えるようになった。
昨日は車を運転していて、道路の脇に咲いている小さなオレンジ色の花や土手に群生している薄紫色の花も目に入るようになった。
いずれも雑草だろうが、色は人工的でなく自然の色だ。
花屋で売っている花よりも自然でいい色だ。

何十年も同じ道を運転しているのに、こういうことに気が付くことは今までなかった。

きっと追われるように生きてきたからであろう。
工場勤務時代は処理しなければならないことが膨大で、それ自体は自負心を満たすことはできたかもしれないが、心に余裕は無かった。
常に早く早くと自らをせかしていた。

そして常に自分の内面に注意がいっていたのだと思う。
つまり関心が自然に外に向いていかないのだ。
子供の頃はそうではなかった。
自分のことよりも常に外に関心がいっていた。人や人以外のものも。
いつからか変わってしまった。

趣味の音楽も演奏面では独奏、鑑賞面では常に内面に耳を澄ますような楽しみ方をしていた。
もちろん楽しみ方に定義は無い。
どんな楽しみ方をしたっていい。
自分に合う楽しみ方をするのが一番だ。

しかしもしかすると自分で気が付いてはいないけど、潜在的に求めているもの、「こうしたい」というものが今までにもあったのかもしれない。
それは「内面」に注目するものではない。もっと別のものだ。

丁度1年前からマンドリン合奏を始めたが、合奏をするごとに、感じ方は変わってきている。
つまり注目するものが内から外へ向いてきたということだ。
「内」に注目すること自体は自分では悪くないと思っているが、「外」に注目することは随分長い間してこなかったように思う。

マンドリン合奏は管弦楽や吹奏楽とはかなり趣きが異なっていると思う。
音楽を協同作業で作り上げていくことは同じだが、何かが違う。
具体的にはよく分からないが、演奏することで普通のオーケストラでは感じられないような何か独自の心理的な作用があるように感じる。
今日はマンドリン合奏の練習だったが、帰りの電車でふとそんなことを思った。

思うに自分は多分潜在的にマンドリン合奏をずっとしたかったのかもしれない。
ただし長い間そのことに気が付けなかった。

本当にしたいと思うことを潜在的に持っていながら、気が付くことができずに時が過ぎていくこともたくさんあるに違いない。
時期遅しかもしれないが、マンドリン合奏に再会できたことは大きい。

合奏をすると自然に他の周りの奏者の音や、目に見えない感情的なエネルギーが伝わってくる。
そのことが自分の関心を「外」に向かわせているのかもしれない。

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潮田益子演奏「バッハ ヴァイオリン・パルティータ第2番」を聴く

2019-04-27 23:08:55 | バイオリン
潮田益子さんの名前を知ったのは1か月くらい前だったか。
インターネットのバーナー広告で「潮田益子」という名前が目に入った。
今まで聴いたことの無い演奏家だったが、ヴァイオリン奏者であることが分かった。
Wikipediaで調べてみたら、1942年満州国生まれ、既に2013年に白血病で亡くなっていた。
1966年第3回チャイコフスキー国際コンクールで第2位受賞、あの巨匠、ヨーゼフ・シゲティから「生涯にわずかしか遭遇できない逸材」」、「様式に対するセンス、音楽的知性、素直な感情表現、独特の美しい音色が傑出している」と激賞されたという。

早速潮田益子の録音を探したが意外に少なかった。
1996年、54歳の時に録音されたバッハのヴァイオリンソナタとパルティータ集のCDを中古で買って聴いてみた。
バッハのヴァイオリンソナタとパルティータは2年くらい前に随分と聴き比べしたことがあった。
20録音くらい聴いたと思うが、2年経過して、それらの演奏をはっきりと思い出すこと出来ない。
多分、バッハという作曲家の曲が自分にとっては心に残りにくい部類の音楽なのだと思う。
バッハのピアノ曲もおおむね同じだ。
ヴァイオリンナタとパルティータではヨハンナ・マルツィ(1924~1979、ハンガリー)の演奏が印象に残った。
彼女の演奏はLPレコードから起こしたという録音でも聴いてみた。

潮田益子の録音はどうだったか。
正直、あまり強いインパクトを受けなかった。
音は洗練された美しいものであったし、正統的な音楽解釈だと思った。
しかし自分にとっては何かが足りないような気がした。
そこで潮田益子のもう一つのバッハの録音、1971年から1972年にかけてEMIに録音されたヴァイオリンソナタとパルティータ集の存在を知り、この録音を探したのだが、既に廃盤。
中古でも見つけることは出来なかった。
しばらくヤフオク等でも出品されていないか見てみたが、出品されていてもかなりの高額だったり、競争入札で高値となっていたりしていた。
そしていろいろ探しているうちに、この希少盤がレンタルCDで出ていることを発見。
早速レンタルして聴いてみたのである。

聴いてみたらびっくり。
凄い演奏だった。
音が生命力に満ち溢れているというのか、エネルギー(それは力ではなく感情的な)が強く発散されたものだった。
聴いていてこちらの感情やエネルギーも自然に引き出されてくる。
技巧や音楽解釈も素晴らしく、これまでたくさん聴いたこの曲集の中では マルツィと共に最も強いインパクトを受けた。
この録音、もしかすると隠れた名盤かもしれない。
ヴァイオリンに詳しい人はこの録音に対しどう思っているのだろう。

パルティータ第2番の終曲「シャコンヌ」はシゲティの影響を受けているな、と感じた。
パルティータ第2番ではシャコンヌもいいが、私は第4楽章「ジーグ」が最も好きだ。
この「ジーグ」はシゲティの録音で目覚めた。

この潮田益子の旧録音は、シゲティが言った「様式に対するセンス、音楽的知性、素直な感情表現、独特の美しい音色が傑出している」という評価をまさに体現したものだと感じた。

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おいしいコーヒー見つけた

2019-04-21 22:04:31 | グルメ
先日、勤め先の他部署の同僚から伊豆諸島の新島に出張した時のおみやげとしてコーヒーをいただいた。



昨年7月から東京の本社に転勤となり、26年間の工場勤務とは全く異なる環境から先行きに不安を感じたが、意外にも居心地がいい。
おみやげを下さった方は工場勤務時代に全く面識はなかったが、何度か仕事で話す機会があり、私は親しみを感じていた。

このコーヒーを飲んでみたらおいしかった。
今まで量が多くて値段の最も安い豆のコーヒーを買って、ハンドルを回す豆挽き機で粉にして飲んでいたが、それとは全然違う味だった。
それは何種類もの味が混在したような感じで、これが本当においしいコーヒーなんだな、と思った。

今日所用で東京に出たが、上野駅の地下で、とあるコーヒー専門店に出くわし、何気なく中に入ってみた。
狭い店内には色々なものが置いてあったが、レジの正面に10種類くらいはあったであろうか。
コーヒー豆がガラスケースに入っていて、量り売りされていた。

どの銘柄がおいしいのか全く分からなかったが、「カナリオ」というブラジル産の豆を200g買って飲んでみることにした。



ビニール袋を開けてしまうと酸化してしまうので、本社勤務のためにスーツを買った青山からもらったキティちゃんのガラス瓶に詰め替えた。
ぎりぎり全部入った。





「カナリオ」の味は新島の豆のような個性は無く、マイルドな味だった。
ちょっと物足りなかったが、上品な味だ。

ささやかだがちょっとした贅沢を味わった。
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伊福部昭作曲「箜篌歌」(ハープ編曲版)を聴く

2019-04-21 21:04:10 | ギター
Youtubeで伊福部昭作曲のギター曲「箜篌歌」のハープ編曲版の演奏を見つけた。
演奏者は木村茉莉さん。

伊福部昭:ハープのための箜篌歌


木村茉莉さんと言えば、三善晃門下の現代音楽作曲家、故、毛利蔵人氏の「プリズマティック・カラーズ」などの録音で名前を知っていたが、現代音楽専門の演奏家という印象があったため、この「箜篌歌」の演奏は意外に思った。
毛利蔵人の現代音楽は恐ろしく暗く不気味で聴く人を選ぶが、私は彼の音楽が好きだ。

この「箜篌歌」のハープへの編曲は恐らく作曲者自身のものと思われるが、ハープ以外にも二十五絃箏版があり、箏奏者の第一人者、野坂恵子氏の超名演がある。
二十五絃箏への編曲は作曲者自身か野坂氏によるものなのか、記憶があいまいだが、いずれにしても野坂氏のこの曲に対する強い欲求により実現されたものであることは間違いない。
驚くことに野坂氏は「箜篌歌」だけでなく、伊福部昭の他のギター曲である「古代日本旋法による踏歌」と「ギターのためのトッカータ」も二十五絃箏版で録音、さらに二十五絃箏の二重奏で「交響譚詩」まで録音した。

伊福部昭の「箜篌歌」(1969年作曲)の存在を初めて知ったのは、ギターを始めて間もない頃だった中学1年生の頃だったと思う。
確か初めて使った全音の「独習者のためのギター教本(阿部保夫著)」の巻末の出版案内に、「古代日本旋法による踏歌」と「箜篌歌」の楽譜が紹介されており、その短い紹介文に、日本のみならず海外でも注目される曲であろう、と書かれていたのが思い出される。
しかし当時これらの曲のうち「古代日本旋法による踏歌」は阿部保夫により昭和30年代、「ギターのためのトッカータ」は同じく阿部保夫により昭和40年代に録音されたが、「箜篌歌」を録音したギタリストは皆無で、この3つのギター曲が揃って世に出されたのはずっと後になる。
また楽譜もずっと長い間絶版だった。



これらの曲がとても優れており、今では海外の演奏者も注目するほどになったにもかかわらず、当時の日本では全く顧みられなかった。
何で顧みられなかったのか。当時は前衛音楽全盛だったから? 日本民族的音楽は古臭いとみなされていたから? 
確かにこの時代の伊福部昭も演奏機会が少なく、じっと我慢の時代だったようだ。

数年前に渡辺範彦が1970年代に弾いた「箜篌歌」の録音CDを聴いたが、そのCDの解説で、1970年代初めに開催された大阪万博のある会場で、この「箜篌歌」がBGMとして流されたが、この会場の来場者が最も多かったことはこの「箜篌歌」の魅力に人々が潜在的に惹かれていったからではないか、というようなことが書かれてたが、この解説の言っていることは恐らく当たっていると思う。
「箜篌歌」という曲が音楽的構成力に優れているだけでなく、我々日本人が知らずとも、潜在的に持つその奥深い日本的郷愁とも言うべき根源的な情緒を刺激する力を有しているからではないか。
だから木村茉莉や野坂恵子のようなギター弾き以外の優れた奏者もこの曲の魅力にはまって自分の楽器に移して弾きたいと強く思ったに違いないと思うのである。
ちなみに「箜篌歌」は5年くらい前の東京国際ギターコンクールの本選課題曲に採用された。

「箜篌歌」の録音だけがずっと後になったことを先に書いた。
何かのきっかけでこの曲の録音があることを知ったのは20代半ば過ぎの頃だったと思う。
フォンテックというレーベルから伊福部昭作曲のギター曲全3曲が収録された録音が出ていた。
そうだ、まだ東京の社員寮にいた頃だ。
あの古く暗い陽の当たらない部屋で、「住吉」とか「樽平」といった日本酒を一升瓶でガブ飲みしながら、チャイコフスキーの交響曲「悲愴」や伊福部昭の「交響譚詩」を何度も気の済むまで聴き入っていた時だ。
今までの人生で最も辛かった時代であったが、これらの曲が何とかつなぎとめてくれていたのかもしれない。

そして今は無き秋葉原の石丸電気まで行って探したが在庫はなく、店員がメーカーに問い合わせしてくれたが、既に廃盤となっていた。
CDではなくLPレコードだった。
その後1、2年経ったであろうか。
このレコードを偶然にも当時渋谷にあった「シャコンヌ」というギターショップで見つけた。
その時の嬉しさは今でも憶えている。
演奏者は西村洋氏。
私が理想とする音や演奏スタイルを有する優れたギタリストだ。
このレコードで初めて「箜篌歌」と「ギターのためのトッカータ」を聴いた。
あの暗い埃にまみれた東京の寮で聴いたのだ。
「箜篌歌」は長大な曲だったが、その日本的情緒を強く感じさせる素晴らしい音楽に聴くたびに感動した。

しかし考えてみると一昔前、今のようにインターネットの無い時代は音源を探すのは大変なことで、偶然、幸運といった要素もあった。
しかし聴きたい音源を探し出すことは今よりも苦労と出費を伴ったが、その過程は楽しくもあった。

「箜篌歌」の特色は長い分散和音が続くところだ。
この分散和音の和声が非常に特徴的で、まさに伊福部昭にしか出せない魅力を持っている。
決して明るく、物音のするような所で聴こえてくるような音楽ではない。
昔の日本人が、静かな深夜に瞑想する中で浮かんでくる様々な抑圧された感情、それは主に表現され得なかった苦しみ、悲しみ、寂しさ、侘しさなどを主体としたものだと思われる。

明治以降の西洋化される前の日本人は、欧米人のように感情をストレートにあからさまに出すのではなく、内に秘める傾向、特質があったのではないかと思う。
海外との交流を絶ち、厳しい封建制度だったという時代背景の影響はあるだろうが、昔の日本人は、あえて、感情を表に出さず、何か別の形、手段、例えば短歌、俳句、礼法などに替えて表現することに美的価値を置いていたのではないか。
そこには世界に類を見ない「奥ゆかしさ」という独自の感性が感じられる。

この「箜篌歌」を演奏することは容易ではなく、左手が非常に疲弊する。
作曲家自身の運指はよく考えられていて感心するが、うまく脱力しながら押さえないと途中で力尽きてしまう。

私は次の部分が最も好きだ。
日本的情緒が最も刺激される部分。



木村茉莉氏の演奏に注目したい。随所に出てくる強い音にその気持ちが表れている。

後半部終わり近くのPiu Mossoは速度が速くなるが、残念なことに西村洋も木村茉莉も速度を変えていない。



ここからしばらくして現れるffから先は、抑圧された情念が炸裂する部分なのだ。
ここは速度を速めていないと情念が十分に表現されない。





しかしそれにしてもハープでの演奏は物凄く難しいものだと感じられる。

この「箜篌歌」はクラシックギター曲にするには勿体ないほどの名曲だと思う。
近いうちに二十五絃箏版の演奏の感想を記事にしたい。

【追記】

伊福部昭のギター曲に、「JIN」(1932年)、「ノクチュルヌ」(1933年)という初期作品があるらしい。
「ピアノ組曲」が作曲されたのと同じ頃だ。
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ギド・サントルソラ作曲「古典(古風な)組曲」を聴く

2019-04-14 20:51:22 | ギター
今は名前を聴くこともなく、演奏会や録音でも取り上げられることも殆ど無くなった作曲家、ギド・サントルソラ(Guido Santorsola)のギター曲でいい曲がある。
Suite Antiga(1945年作。古典組曲や古風な組曲と訳されている)という曲だ。

Suite Antigaは5つの組曲からなる。

第1番:プレリュード
第2番:メヌエット
第3番:ミュゼッタ
第4番:サラバンド
第5番:ジーグ

楽譜はブラジルのMUSICALIA S/A CULTURA MUSICALという出版社から出ていたが今は絶版のようだ。





随分昔(1970年代)、好楽社というギターピースの出版や輸入楽譜の販売をしていた出版社からこのSuite Antigaが分冊で出ていたことがあったが、現在は廃業しており存在しない。

中学3年生の時に初めて買った輸入楽譜は、エミリオ・プジョールの「熊蜂」だったが、この楽譜は好楽社から通信販売(切手)で買った。
楽譜が届いた時の興奮は今でも忘れられない。

Suite Antigaの存在を知ったのが、好楽社ギターピースの裏表紙に印刷されていたピースのカタログに載っていたことだった。



この曲といっても第1番プレリュードだけであったが、初めて演奏を聴いたのが、山下和仁が1991年に出したアルバム、「Kazuhito Yamashita Plays His Favorites」だった。



このアルバムに収録された全曲を演奏したコンサートも聴いた。
1992年頃だったと思う。
今は無き、御茶ノ水のカザルスホールだった。

山下和仁の演奏を昨日久しぶりに聴いてみたが、物凄いエネルギッシュで、迫真の演奏だ。
譜面ではPの指定でも、割れるほどの強い音で弾いている。
しかしそれでも曲から最大限のものを引き出した、優れた演奏だと思った。

この第1番プレリュードは山下和仁の演奏で多くのギターファンに知れ渡ったに違いない。
冒頭は暗く、やや荒涼としたアルペジオから始まる。



そしてアルペジオの形態が変化する次の部分から、とても情熱的なフレーズが続く。





この曲の要の部分であり、演奏していて最も気持ちが高揚する部分だ。
そして次のハイ・ポジションでのアルペジオは技巧的に難所であるが、荒涼とした冷たい風を切るようなイメージが伝わってくる。



この曲の特徴を印象づける。
このハイポジションの難所であるが、山下和仁やルイゼ・ワルカーは譜面に示された運指を使用していないと思われる。
(1弦は開放弦を使用しているようだ)

その後の上昇→下降の繰り返しのアルペジオもオーソドックスな和声、音型であるが、曲の展開としてはよく出来ている。



このアルペジオの後に、和音の連読が続くが、譜面ではPの指定である。



しかし山下氏が弾いているように、ここはおとなしく弾くのではなく、強く弾いてもいいように思う。
何故ならばこのフレーズは、暗く荒涼としたイメージから抜け出て、気分を明るく、開放された爽快な気持ちにさせるものを持っているからである。

Piu Mossoから短いピチカートの指定があるが、山下氏はこの部分を実音で弾いている。



そしてこの後は冒頭から長調への転調前までとほぼ同じ展開となる。

この第1番があまりにも印象が強く、完成度が高く、個性的であったためか、第2番から第5番までは単調で、何度か聴いてもあまり印象に残らない。

第1番だけの録音ではあるが、ルイゼ・ワルカーの演奏がある。
かなり古い録音だ。



この曲を最初に録音したのは彼女ではないかと思われる。
(このLPにはサントルソラのギター協奏曲も収録されている)

全曲録音をしたのは、Maria Isabel Siewersという女性ギタリスト。
BISというレーベルから出ている。
スモールマンの楽器を使っているが、この楽器の弱点、魅力の無さが端的に表れてしまっている。残念だ。



他に全曲録音したのが、Jorge Oraisonというギタリストによるもの。
音はかなり魅力がある。
Youtubeで聴くことができる。

Jorge Oraison classical guitar plays Guido Santorsola Suite Antiga


ルイゼ・ワルカーの録音もあったが、残念ながら音は悪い。

Luise Walker plays Santorsola Praeludium à la Antiqua (rec.1952)


山下和仁がこの曲を録音したあと、ポピュラー弾きの兄が早速この曲をレコード・コピーしてレパートリーにしていた。
レコード・コピーは可能だと思う。



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