緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ピアノ協奏曲「宿命」を聴く

2016-09-24 22:27:48 | ピアノ
Youtubeで偶然に、1970年代に見た映画の主題曲を見つけた。
松本清張原作、1974年に映画化された「砂の器」で流れていた、ピアノ協奏曲「宿命」という曲だ。
作曲は菅野光亮氏(1939~1983)。

丹波哲郎、森田健作、加藤剛、加藤嘉、緒方拳などが主演した日本映画の名作である。
私はこの映画をテレビで確か1970年代の終わりに見た。
高校生の頃だ。
この映画を見て大いに感動した私は、すぐに文庫本で松本清張の原作も読んだ。
原作と映画はかなり異なっている箇所があったが、映画の方が感動の度合いが大きかった。

犯人である作曲家兼ピアニスト和賀英良が、逮捕される直前、自作発表の演奏会で自らピアノを演奏し楽団を指揮しながら、少年時代のあまりにも過酷だった人生を回想しながら流れてくるこの「宿命」という曲が忘れられなかった。
この曲のメロディが何十年経過しても残り続けていたことに驚く。

ハンセン氏病を患った父とその子が村を追い出され、石川県の寒村から島根県の山奥の亀嵩という村まで巡礼の旅を続ける
美しい日本の山村を旅する父子の強いきずなが、痛ましいほどに心に突き刺さる。
この巡礼の旅の光景と、「宿命」の美しい音楽が無ければ、この映画はヒットしなかったに違いない。

この巡礼の旅の前半のシーンで、「親と子の”宿命”だけは永遠のものである」という字幕が現れる。
この小説が最も訴えたかったことを集約した言葉だと思う。

40年前の映画であり音楽であるが、このシーンは是非、鑑賞してもらいたいと願う。



https://youtu.be/9axACQoRn0E
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フェデリコ・モンポウ作曲 内なる印象より「悲しい鳥」を聴く

2016-09-18 22:49:14 | ピアノ
フェデリコ・モンポウ(Frederic Mompou 1893-1987)を知ったのは、セゴビアの弾く「コンポステラ組曲」やイエペスの弾く「歌と踊り第13番」を聴いてからであるが、今から20年ほど前にモンポウの自作自演のピアノ曲集を買って彼の本領であるピアノ曲の全曲を聴いた。
この曲集の中でひときわ感動したのが、歌と踊り第2番と内なる印象より第5番「悲しい鳥」(Impresiones intimas Pajaro triste)であった。
この2曲はモンポウ自身の演奏で、何度も何度も聴いた。
歌と踊り第2番は以前紹介したので、「悲しい鳥」を紹介させていただく。

このピアノの組曲、「内なる印象」は1911年から1914年に作曲されたとのことだ。
モンポウが18から21歳にかけての頃であり、シンプルでありながら、非常に繊細な内容を持つ曲である。
20歳前後でこれだけのピアノ曲を作れることにまず驚くが、音に対する感受性の強い、また独特の詩的な表現に惹かれる。

組曲9曲の中で最も好きなのは「悲しい鳥」である。
モンポウは鳥を何故悲しいと思ったのか。
曲には悲痛な悲しみは無い。
しかし何か、持続的な、運命的なものにたいしての哀れさ、どうすることもできないものに対する悲しみ、はかなさのようなものを感じる。

ピアノの音ひとつひとつに何か強い気持ち、メッセージが感じられる。
外側の表面的なものをいくら華やかに見栄えのいいものにしても、その時限りのものでしかない。
逆に外側は不器用、質素、素朴なものでも、中身は純粋な原石のような輝きに満ちているものもある。

人は外に出るもので判断することが多い。
モンポウは自身の感性に気付き、華やかなものに翻弄されなかった。
モンポウは外を気にせず、自分の内面から湧き出てくるものに正直であったに違いない。
彼の作風を考えるとき、誰の評価や意見にも左右されない徹底した信念のようなものを感じる。

今日の夕方、空高く飛ぶ4羽の鳥を見た。
4羽が一緒にまとまって飛んでいたが、そのうちの1羽が大きく反れて別の方角に飛んで行った。
3羽は何事もなかったように依然と一緒に飛び続けていった。
群れを離れた1羽は一体どこへいこうとしたのか。



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ルース・スレンチェンスカ演奏 J.S.バッハ「半音階的幻想曲とフーガ」を聴く

2016-09-17 23:03:47 | ピアノ
J.S.バッハはもとよりあまり聴く方ではないが、このところ聴く回数が増えてきた。
リュート組曲やヴァイオリン・パルティータ、ソナタなどは理解しやすかったが、6つのパルティータやイギリス組曲、平均律クラヴィーア曲集などの鍵盤曲は何度か繰り返し聴いてもなかなか頭に入ってこなかった。
しかしこれらの鍵盤曲も何度も繰り返し聴いていると、次第に曲の骨格が分かるようになってきた。
自分の好みからやや外れるものの、やはり J.S.バッハはそう簡単に理解できるものではないことを感じる。

3年ほど前に、半音階的幻想曲とフーガ(Chromatic Fantasy & Fugue BWV 903 1720年)という曲を、アルトゥール・シュナーベルの演奏で聴いた。



この曲は1回聴いただけでかなりインパクトがあった。
今まで聴くバッハの曲とは一味違うと思った。
右手だけで奏される長く速いパッセージがひと際印象的だったが、後で何度か聴いてみると、そのような技巧的なものが浮かび上がる部分よりも、もっと違うもの、バッハにしてはかなり幻想的な和声を使っている部分に魅力を感じていることに気付いた。
それは幻想曲の中盤に現れ、分散和音が繰り返し奏される部分なのであるが、何か、静かな深夜に現れるような、人の幻想的な感覚を表現しているように感じる。
構成美に偏重しがちなバロック音楽も、このような意外な和声進行を聴くとバッハの曲にも興味が湧いてくる。

10日ほど前から、久しぶりにシュナーベルの弾くこの曲を聴き始めたが、以前にも、シュナーベル以外に、マリヤ・ユージナやエドヴィン・フィッシャーの録音は聴いていた。
ユージナもいい演奏だと思うが、繊細さに欠けている。
この曲を軽いタッチで、スピード感や技巧面だけ強調したり、終始強い音でエネルギッシュに弾かれると、曲の持つ魅力が失われてしまう。
もっといい演奏がないかとYoutubeで探していたら、ルース・スレンチェンスカ(Ruth Slenczynska, 1925~)という女性ピアニストの弾く古い録音(1950年)を見つけた。



ルース・スレンチェンスカはアメリカ生まれで、幼少からピアノを初め、少女時代からヨーロッパなどでコンサートを開いていたようだが、14歳から一旦演奏活動から遠ざかり、大学で心理学を学んだ後、26歳の時に音楽界に復帰したとのことだ。
Youtubeで見つけた半音階的幻想曲とフーガの録音は彼女が音楽界に復帰した頃の演奏だが、ブランクがあったとは思えない、信じられないくらいのテクニック、出音、音楽性を持つものであった。

まず一音一音にむらが無く、粒が揃っており明瞭なタッチだ。
ウェルナー・ハースのように、一音も曖昧にすることを嫌うような演奏である。
最大の魅力は低音が深く力強いこと。
Youtubeの2分半~4分くらいの箇所で、先に述べた幻想的なフレーズが現れるが、ここで奏される低音が実に魅力的だ。
「深く、力強い」、ピアノの持つこの低音の魅力を引き出せない演奏家は結構たくさんいる。
強く弾く奏者はたくさんいても、にぶい音しかしない奏者もいる(ポリーニがそうだ)。
昨今は軽い鍵盤で速い指さばきで、流麗に弾く奏者が多くなったように思うが、ピアノという楽器の持つ音の魅力を追求し、その魅力を引き出そうとしている演奏家は昔ほどいなくなってきているのではないか。
強く弾いても、いい音が聴こえてこない。これは聴く側からすると実に勿体なく感じる。

ルース・スレンチェンスカはかなりの技巧派だ。
Youtubeで他の演奏、例えばリスト作曲のパガニーニの大練習曲集を聴くと、相当高いレベルの技巧の持主であることが分かる。
しかし超絶技巧に溺れていないところがさすがだと思う。
超絶技巧の落とし穴に溺れてしまったら、それだけが関心の的にされてしまう。
そこから抜け出すことも大変なことである。
この半音階的幻想曲とフーガも決して技巧を強調するところはない。
音と言えば低音だけでなく高音も魅力的だ。
生きてるようなエネルギーがあり哀愁も感じられる。

この「半音階的幻想曲とフーガ」は有名な巨匠たちも弾いているが、聴き比べをしてみては如何だろうか。
ルース・スレンチェンスカは録音が少ない。
これほどの演奏が出来るのに、さかんに表舞台に出ることはしなかったようだ。
ピアノ界にはそのような隠れた名演奏家たちがひしめいているから、これもまた驚きだ。
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混声合唱のための「どちりなきりしたん」Ⅳを聴く

2016-09-11 21:15:53 | 合唱
1週間前に聴いた、Nコン2016年度関東甲信越ブロック大会での自由曲で、最も感動したのが、千原英喜作曲の「どちりなきりしたん」という曲だった。
コンクールが終ってもこの曲が頭に残り続け、Youtubeでこの曲が無いかと探したら、何とあの愛媛県立西条高等学校の生演奏の動画があったのだ。
しかも平成21年度、第76回Nコン全国大会に出場した、あのメンバーと同じではないか。
この平成21年度全国大会に出場した西条高等学校の演奏は、私が今まで数多く聴いてきたNコンの演奏の中で、最高の演奏である。
まさに最高、最強のメンバーたちだ。
この演奏を今まで何度繰り返し聴いてきたか分からない。
これ以上の演奏は今後まず出てこないと言っていいだろう。
この演奏で私の心はどんなに励まされたことか。

早速、西条高等学校の演奏するYoutubeの「どちりなきりしたん」Ⅳ(第4楽章)を聴く。
まさに素晴らしいの一言!!
男声も女声もあのメンバーたちのものだ。
素朴で、力みのない自然な歌い口。
それでいて、物凄い強い感情エネルギーが伝わってくる。
無心で、音楽の素晴らしさのみに一体となった演奏。
これほど聴く者の感情を強く引き出す演奏は無い。
転調した後半の宗教色の強い旋律、讃美歌であろうか、女声がとても美しい。
ただ単に美しいのではなく、真に歌うことの喜びが伝わってくる。

この「どちりなきりしたん」は、ザビエルによるキリスト教伝来(1549年)からキリスト教禁止令(1614年)に至るキリシタン時代を背景とし、切支丹文学とラテン語典礼文をテキストに用いたキリシタン賛歌とのことだ(パナムジカのホームページより転載させていただく)。
日本もその昔、異国の宗教であるキリスト教を広めた時代があったことを今さらながら意外なことに思う。
私は無宗教であるが、母と姉はクリスチャンだ。
そのせいか、私は幼いころから讃美歌を聴いて育った。
この厳かで、また清楚な宗教色強い音楽と、日本的情緒との融合を成し遂げた千原英喜氏の音楽的才能にも感動する。

また幸運にも素晴らしい音楽に出会った。
Youtubeの音が残念ながら悪く録音されている。
もしかするとこの演奏のCDかDVDがあるかもしれないので、探してみたい。

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サドル自作

2016-09-10 22:18:34 | ギター
手持ちのギターで、弦高が高く、弾きづらいものがあり、セーハの多い曲などでは弾くたびに左指に負担がかかり、弾く楽しみを奪われていた。
弦高の高い楽器は、順反りしたことが原因であるものと、元々弦高の高い設計の楽器であるものとの2種類がある。
弦高は0.1mm変わっただけで演奏に影響を及ぼす。
ネックが順反りすると間違いなく弦高は高くなる。
先日中古楽器店で異常に順反りした楽器を弾かせてもらったが、いくら音が良くても弾くうちにストレスが大きくなり、演奏を途中で止めざるを得ない。
ネックはどんな高級ギターでも順反りするものがある。
高級ギターだから順反りしないなんてことはあり得ない。2、3万円の量産ギターでも反らない楽器を見たことがある。
材料の当たり外れによる原因が最も大きいのではないか。
フレットの打ち込みが弱いと順反りしやすいと言われている。
あとは湿度である。
湿度が高くなると木材は湿気を吸って膨張するので、ネックが反りやすくなる。
そのような状態で、カーボン弦など張力の強い弦を張るとネックが反ることがある。
私の楽器でこれをやってしまったものがある。

楽器の弾きやすさ、弾きにくさを決定する要因で最も重要なのは弦高だと思う。次に弦の張力だ。
弦長はこれらの2つに比べあまり大きな要因にはならない。
以前、弦長665mmの楽器(ラミレスではない)を弾いていたことがあったが、ネックが完璧にストレート、弦高が12Fで1弦3mm弱、6弦4mm弱で、張力も普通で、とても弾きやすかった。

弾くのに最も苦労するのは弦高が高く、かつ弦の張力が強い楽器である。
冒頭の手持ちの楽器はそのような状態なのであるが、ネックはストレートで順反りしていない。
とても頑丈な材料を使っているのが分かるような楽器であり、弦を張りっぱなしでも恐らく反ることはないであろう。
しかし弾きづらい。
そこで弦高が低くなるよう、サドルを自作することにした。

サドルは今までにも自作したことがある。
ナットも含め、20本くらいは作っただろうか。
プロに頼めば安心して精度の高いものが得られるが、工賃は高くつく。
もとより工作は得意ではないが、自作であれば材料費だけで済む。

サドルはオリジナルは残しておいて、別に自分の弾きやすい高さに合わせたサドルを自作した方が良い。
オリジナルのサドルは製作家によりベストの音を出すために採寸されたものであるから、これは出来るだけ保存しておいた方が良い。



サドルを作るために必要な工具は、ノギス、小型の万力(バイス)、糸のこ、金やすり、サンドペーパーなどであるが、私は砥石も使う。
まず材料にオリジナルのサドルをあてがい、鉛筆で型取りする。



オリジナルのサドルの厚みと材料の厚みをノギスで測定する。



今回は、オリジナルが2.3mm、材料が2.4mmだった。

型取りしたサドルを万力で固定し、糸のこで鉛筆の線に沿って切断していく。
今回使った糸のこは、「ミニ コッピングソー」という商品で、普通の糸のこの刃とは異なり、360度全周がスパイラル状になった特殊な刃を持ったものであり、曲線切りも楽に出来るものであった。これは使いやすい。
近くのホームセンターで780円で購入。





下はのこで切断した後のサドル。



次にサドルを万力で固定して、金ヤスリで弦の当たる部分(サドルの上面)を削っていく。



この作業は根気がいるし、作業に熱中していると知らないうちに削りすぎていることもあるので注意が必要だ。
少しづつあわてないで作業し、ある程度削ったあとは、こまめに万力から外し、オリジナルのサドルとの高さを比較する。
これを意図する高さまで削れるまで繰り返す。



意図する高さの近くまできたら、サンドペーパーに持ち替え、なるべく力をいれずに削っていく。
サンドペーパーは、平らな木片などに巻いて使った方がいい。



次にサドルの厚みをブリッジの溝に合うまで削っていく。
砥石を万力に固定し動かないようにし、砥石の上にサドルを置いて、指で押さえて上下に擦っていく。



サドルはあまり強く押さえつけない方が良い。力を入れると厚みにむらが出来てしまう。
これも頻繁に万力から外し、ノギスで厚みを確認する。
削りすぎると全てが水の泡になってしまう。時間がかかっても慎重に削っていく。
そしてサドルを何回もブリッジの溝に当てがって、あとどのくらい削ればいいのか確認する。
無理やりサドルをブリッジの溝にはめ込もうとするのは、溝が拡がるから厳禁。
ブリッジの溝にややきつめに入り込むようになったら、サドルの表面を目の細かい仕上げ用サンドペーパーで、削りすぎないよう注意しながら表面を磨いていく。



そしてブリッジの溝に何度か入れてみて微調整していく。


楽器により、サドルを低くすると音がかなり変わってしまうものがある。
張力が変化するの当然である。それでも弾きやすさを重視するのであればやむを得ない処置だ。
今回サドルを変えた楽器はあまり音が変わらなかった。
調弦し、これまで苦痛に感じていた曲もかなり楽に弾けるようになっていた。
しばらくこのサドルの高さで様子を見て、もしまだ弾きにくさを感じるようであれば、さらにもう少し削ることになるかもしれない。
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