緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞を読んで思うこと(1)

2014-04-27 21:47:06 | 時事
こんにちは。
最近読んだ新聞記事で感じたことを思いつくままに述べたい。
まず4月から引き上げられた消費税であるが、新聞やニュースではやたら、3%で上昇で家計の負担が年間いくら増すとか、生活面でマイナスとなることばかりが報じられている。
誰でも買う物の値段が上がるのは嫌であろう。だから消費増税に反対する人は多い。
しかし消費税をなぜ引き上げなければならなくなったのか、その理由を新聞・ニュースは十分に報道していないと感じる。
ちなみに日本の消費税率は世界148か国中140位だそうだ。世界には税率が20%を超える国がたくさんある。
驚くのは日本の国の借金が1,000兆円を超えているのに消費税率が世界的にみて最も低いレベルにあることだ。こういう事実をなぜもっと明らかにしないのだろうか。もっとはっきりと明らかにしていれば、政党の無意味な分裂や混乱も起きなかったであろう。消費増税に反対する政治家は庶民の側に立っているようで実は違う。長い目でみれば消費増税をやめることは日本経済の死を意味する。税収を増やす長期的な具体的手段の提示もあいまいだ。このような政治家は誠実といえるのだろうか。
少子高齢化で年々ますます社会保障費の負担が増していくのに、今まで5%でよくやっていたと思う。日本と同様な成熟国家はもっと税率が高い。
バブル崩壊後の長期の不景気や、コスト競争のために中国などの新興国に生産拠点を移したことで、日本国内の雇用が失われたことや、日本が教えた技術を習得した新興国の企業に逆に仕事を奪われた結果、税収が落ちた。
庇を貸して母屋を取られるという言葉がある。シャープのような超大企業が台湾や中国に技術を提供して、逆に力を付けたこれらの国に資本を奪われる。このようなことがここ数年間でたくさん起きた。最近では東芝系社員や日本の超大手鉄鋼会社の社員が報酬に目がくらんで極秘の先端技術を韓国企業に漏えいし、逆にその技術を使われてコストの安い韓国企業に市場を奪われるということが起きた。目先の利益のことしか考えない日本人の悪い習性がもたらした失態である。その先端技術を漏えいした社員は、技術をしゃぶられるだけしゃぶられて用済みとなったらポイ捨てされたようだ。
しかしこの1,000兆円という借金をどうやって返していくのか。国債の大部分はバブルの時代に働き盛りだった世代の貯蓄で賄われてきたが、今の働き盛りの世代や若い世代の貯蓄はこの世代ほど貯蓄に恵まれていない。したがって国債を発行するための資金として海外の投資家から調達する割合が増えつつあるという。
このような事態が加速していけば遅かれ早かれ財政は破たんする。ギリシャや夕張市のようになる。ゴミ出しは有料化され、高齢者への福祉も大幅に制限され、国民は借金を返すだけのために高い税金を払い続けなければならなくなるであろう。
経済学者はこのような事態になると警告を発しているが、今の政治家は自分が政権を担当している間は持ちこたえているから関係ないとばかりに莫大な借金を増やしてまで公共工事を増やしている。つまり自分が活躍できるのはせいぜい数年だから思いっきり借金して大判ぶるまいしてみんなに喜ばれればそれでいい、後先のことは知らんよ、ということなのだ。
少子高齢化が加速する中で毎年数十兆規模の国債を発行し続けていけば、今後10年以内に消費税率はもっと上昇するにちがいない。15%はいくのではないか。借金への依存を断ち切り、消費税以外の税収を高めることをしていかないと、借金は1,000兆円を超えたまま、消費税率は20%超などという最悪の事態になりかねない。
消費税以外の税収を高める手段は、経済力を向上させるしかない。中国や韓国に負けていられない!、という強い気持ちが必要だ。堀江貴文が日本が右肩下がりになるのは絶対に嫌だ、と言ったが私も気持ちは同じだ。
イギリスのダイソンが吸引力で世界一という掃除機を開発した。日本の電機製品が飛ぶように売れた1980年代に日本はイギリス製製品の品質を馬鹿にしていた。しかし今はイギリスやオランダなどの国にも技術力で先を越されているものもある。
バブル経済が崩壊した1990年代半以降、日本の若者の学習能力レベルが低下して、その低下のさまがテレビで放映されているのを見て何とも言えない嫌な気持ちがした。
中国や韓国の力をここまで大きくしたのは日本である。中国のGDPは2000年に10兆元であったが、2013年には60兆元に迫っている。この期間に中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国にまでなった。
わずか10年あまりでここまで成長できたのは、日常雑貨品からハイテク機器まで日本企業が人件費の安さと豊富な労働力に目をつけて生産拠点を中国に移したからである。日常雑貨品からハイテク機器まで中国は苦労することなく技術を習得することができた。品質を高めるために本国の日本企業が技術指導するからである。
中国や韓国がここまで力を付けた以上、今後両国の経済力はますます発展していくはずだ。日本がこれらの国に駆逐されて没落していくのは見るに忍びない。
のんきに中国や韓国と仲良く共同開発しようなどと新聞に投稿する人もいるが、現場を知らない人だ。先の堀江貴文のように日本を絶対に没落させないという、強い気持ちを人々、特に若い世代に持たせることが必要だ。まず気持ちを持つことが先。技術力を高めていくのはそれからでも遅くない。

(次回は残業ゼロ問題について触れたい)
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アリーヌ・ヴァン・バレンツェンのベートーヴェン・ピアノソナタを聴く(2)

2014-04-27 01:04:52 | ピアノ
こんにちは。
夜中の1時を回ってしまった。やっと暖かくなってきました。
土曜日は晴天の中、久しぶりにCD、レコードを買いに出かけたが、日曜は午後から仕事に出かけなくてはならない。
今日買ったレコードは、アメリカに生まれ、後にフランスに渡り、パリ音楽院の教授も務めたアリーヌ・ヴァン・バレンツェン(1897~1981)という女流ピアニストの演奏で、ベートーヴェンの三大ピアノソナタが録音されたものだ。



バレンツェンを聴くのは今回が初めてではなく、丁度1年前に彼女のSP時代の録音を復刻したCDを聴いたのが初めてであった。
録音年は1947~1948年。モノラル録音である。このブログでも確か紹介した。



CDを聴いて恐ろしいほどのテクニックにまず驚いたが、音色は今一つ魅力を感じなかった。テクニックだけが浮き出ているようで、音楽にやや軽さを感じていたのだろうか、その後繰り返し聴くに至らなかった。
しかし今日買ったレコードは違っていた。曲目はSP復刻のCDと同じ、「悲愴」、「月光」、「熱情」の3曲であるが、ステレオ録音でおそらく1960年代半ば以降の録音だと思われるが録音技術は悪くない。ピアノの音の良く引き出した優秀な録音だと思う。
バレンツェンのレコードは高くて手がでなかったが、今日買ったレコードは1,851円で、中古レコードとしてはそう高くなかった。しかし家に帰って盤面を見たら、B面終わりの部分にかなり深い傷が!。安さに目がくらんだことを一瞬後悔した。
中古レコードにはたまにあるのだが、深い傷だと音飛びがして聴いていられない。
かなり落胆してからもういいや、と諦めて聴いてみたらプチッとも聴こえなかった。何で音飛びしなかったかわからないが、なんかほっとした。
さて肝心の演奏の感想だが、このステレオ録音はSP時代の録音よりもはるかに素晴らしかった。
まず音が素晴らしい。音が暗いのである。こういう暗い音をピアノで聴くのは初めてであろう。暗いといっても悪い意味での暗さではない。夜の静寂の中で聴こえてくる音である。真夜中で頭が冴えわたって眠れない時に聴く音だ。低音の響きが重く、深い底から出てくるような音であり、高音はまさに鋼鉄の指から生まれるような強いタッチである。ギレリスどころではない。ジャン・ミコーに似た強さのタッチであるが、バレンツェンの音は1音1音が分離した明瞭さを持ち、音の透明度は高い。
彼女の円熟期の演奏であるが、このようなピアノの音を出せる演奏家はほとんどいない。マリヤ・グリンベルク、クラウディオ・アラウ、ジャン・ミコーくらいか。タッチが貧弱になってしまった現代のピアニストやギタリストには必ず参考になる音である。
音の魅力のみならず音楽性もSP時代よりも格段に進歩している。悲愴の第2、第3楽章、熱情の第2楽章などは今まで聴いた数多くの演奏の中でも屈指のものと言える。タッチは強い、技巧は凄いだけでなく、繊細さも十分に持ち合わせている。
技巧面では強い音でよく指が回ると思う。もう少し速度を遅くした方がもっと良いと感じる部分もあるが、SP時代の演奏ほど気にならなかった。
バレンツェンはブラジルの作曲家、エイトル・ヴィラ・ロボスに認められたピアニストとして、ヴィラ・ロボスのピアノ曲の多くを初演したようだ。ベートーヴェンのピアノソナタ全曲も録音したとの話もあるが、是非復刻してもらいたい。

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結城信一全集を読む

2014-04-20 23:37:54 | 読書
こんにちは。
2012年の秋、今から1年半ほど前の頃であったが、会社から貰って集めていた図書カードで1冊の文学書を買った。御茶ノ水の東京堂書店で見つけた「結城信一全集 第1巻」である。



聴いたこともない作家で、どんな小説かも全く分からなかったが、とにかく直観でそれを買おうと思った。
読み始めていくにつれ、いい小説を書く作家だと思った。買って無駄にはならかった。
大それたことをテーマにするわけではなく、難解さを前面に出すわけでもない。とても自分に正直に素朴な書き方をする人だと感じた。
半ば自分自身を主人公に見立てて、ときに自己愛的な感じがしないとも言えないが、自分の弱さ、頼りなさを正直に描いている。小説で主人公は立派であったり、格好良く描くものが多いが、結城氏の小説は素直さをまず感じる。
全集は全3巻で、2巻、3巻は中古品で買った。3巻の終わり近くまで約半年で読んだが、最後の「不吉な港」は1年のブランクの後に読み始め、昨日やっと完読した。
結城氏の最高傑作は「螢草」であろう。第2次大戦中を舞台にした悲恋をつづったものであるが、昔の若い人の純粋な気持ちを感じることのできる名作だと思う。
今はひとかけらも無くなってしまったものがこの小説を読んでよみがえってくる。小説では高校生の時に読んだ武者小路実篤、映画では「忍ぶ川」など、多感な時代に出会ったものと共通したものを感じる。
現代は男女平等が当たり前の時代で、男も女も役割や待遇において何ら区別がなくなってきた。女でも大型トレーラーの運転手になれるし、男でも昔で言う看護婦になれるまでになった。
性差を感じることが少なくなってきた代わりに、異性に対する尊敬の念、憧れの気持ち、一途な気持ちというのは薄れてきているように思う。
結城氏の「螢草」に出てくる時代は、男女平等とは言えなかったが、男女間における尊敬の念、礼節をわきまえたふるまいなどを文章から読み取ることが出来る。今の時代にこのような小説を読むことはむしろ新鮮な気持ちにさせてくれる。
「石榴抄」はある歌人に尽くした若き女性の無念の死を描いた小説であるが、この時代に不治の病と言われた結核の恐ろしさと、一途なまでの献身を生涯を通して貫いた女性の信念の強さに心を打たれた。
最後の小説「不吉な港」は、銅版画家が能力に行き詰まり、酒に溺れて身を破滅させる様を描いたものであるが、この芸術家がいかに過酷な葛藤、苦しみを抱えながら生きているかが伝わってくる。
芸術家の中には一旦名声を築くと、贅沢な生活、派手な生活をするものもいる。ピアニストで言うと、晩年のアルトゥール・ルービンシュタインやフリードリヒ・グルダなどであろう。
自己に厳しい者は妥協を嫌うあまり、苦悩する人もいる。妥協せずとも仕事を昇華していければ良いのだが、自分の理想のものが生み出せなく、苦悩し、自分に苛立ち、精神を病んでいく人もいるであろう。
この「不吉な港」は、デビューした頃は高い能力を発揮し、今後の目覚ましい活躍を予感させた人物が、仕事のいきづまりを酒で紛らわすうちに、仕事を安易な方向に転換させるようになった一人の芸術家の転落と破滅を書いたものであるが、芸術という仕事が真に人々に評価されるまでになることがいかに過酷であるかがわかる。
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フレデリック・ディーリアス作曲 ピアノ協奏曲ハ短調を聴く

2014-04-20 20:42:50 | ピアノ
こんにちは。
4月も終わりに近づいていますが、寒い日が続いています。
最近、ピアノ協奏曲を聴いています。1年前にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の聴き比べをしてからしばらく途絶えていたが、ベートーヴェンの5つの協奏曲、シューマンの協奏曲などを聴きました。
今日聴いたのが、フレデリック・ディーリアス作曲 ピアノ協奏曲ハ短調。
演奏はピアノ:クリフォード・カーゾン、BBC交響楽団。1981年のライブ録音。



フレデリック・ディーリアス(1862~1934)はイギリスの作曲家で、若いころにアメリカに渡りオレンジ栽培の仕事をするが、感心はもっぱら音楽に向かい、正式に音楽を勉強するためにドイツに行き、後にフランスで作曲家として活躍したようです。
ハ短調とあるが全く悲しいところはなく、むしろほとんど長調の曲です。
アメリカ移住時代に黒人霊歌を耳にし影響を受けたと言われているが、悲痛なものはみじんもなく、広大な大地を思わせるおおらかさ、ガラス細工のような繊細さ、乾いたよく晴れた日差しを感じさせる独特な曲想だ。
ピアノは速いパッセージは少ないが、半音階的な和音の連続が何度も出てきており、この和音連続が非常に高度な技巧を要求されているのが聴いていてわかります。
第2楽章のおおらかなゆったりした穏やかな旋律は、遠い昔、子供の頃をかすかに思い出させる。
第3楽章は一転激しい曲想となるが、カーゾンの情熱全開の演奏が凄い。鍵盤をやたら叩くわけでもなく、高貴な職人芸的な音楽であるが、芯の強いタッチが素晴らしい。
カーゾンと初めて出会ったのが、1年前にチャイコフスキーのピアノ協奏曲の聴き比べをしていた時であるが、音楽表現や音の作り方は超一流といってよい。このライブ録音を聴けばより一層彼の実力を感じるに違いない。
フォーレやショパン以外のピアノ曲を本格的に聴くようになって1年ちょっと経ったが、驚くのはピアニストに素晴らしい演奏家がたくさんいることだ。ピアノ音楽の世界の深みにはまっていくにつれ、ピアノ界というのは恐ろしく広く深い世界であることをまさまざと見せつけられる思いだ。
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ベートーヴェン ロンド ト長調 Op.51-2を聴く

2014-04-12 22:40:39 | ピアノ
こんにちは。
4月も半ばに入りますが、まだまだ寒いです。夜はストーブを点けています。
今日聴いた音楽はベートーヴェン ロンド ト長調 Op.51-2。演奏はマリヤ・グリンベルクだ。1973年の録音なので彼女の晩年の演奏である。
響きの良いホールでライブ録音であろうか。とにかくとても音が美しい。この音を聴くとピアノという楽器はここまで美しい音を引き出せるのかと感心してしまう。
最後の力強い和音の響きは、ちょっと大げさかもしれないが、最低音から最高音まで何十種類ものいろいろな音が層をなしているように聴こえる。
マリヤ・グリンベルクの録音の中には、ステレオ録音でもベートーヴェンのソナタ集のように彼女の音の持ち味が生かされておらず、味気ない録音もあるが、意外にライブ録音や放送録音の中に彼女の音の魅力が存分に発揮されているものがある。
彼女が残した演奏の録音は放送録音が多いようである。放送録音はお金をかけて編集録音などはしないから、一発録りであろうが、逆にその方がいい演奏が生まれるのではないかと思う。
編集録音で有名なのはグレン・グールドであるが、彼の演奏は聴く気になれない。100以上のテイクから継ぎ接ぎで編集して録音するというのは、作り物という感じがするからだ。だから私はちょっとくらいのミスが散見されても、ライブや放送録音のような録音の方が好きだ。
グリンベルクの1976年のシューベルトのライブ録音などは、タッチミスが非常に多いが、そんなものは関係ないくらい聴こえてくる音楽が大きいのである。
結局は、奏者から発せられる音楽の力の差なのだ。感情の差といっていい。奏者の中心から泉のように湧き出てくる力、感情などのエネルギーが聴くものの心をつかむ。
軽いタッチで超人的なテクニックで弾き切っても、それは曲芸としての感心しか与えない。セゴビアが決して必要以上の速さで弾こうとしなかったのは音楽を真にわかっていたからであろう。
リヒテルが1960年代のアメリカ公演で、聴衆を意識してか、必要以上の速さで技巧を全面に出した演奏をしているのを聴いてがっかりした。技巧の要する曲を速いテンポで弾いて、ノーミスで終われば聴衆は喜ぶ。ブラボーと叫ぶ。しかしそれは難しい技巧を完璧に成し遂げたことに対する賞賛であろう。それは曲芸に対する賞賛である。技巧的には地味で、音楽的に難しい曲に対しては、聴衆の反応は大抵鈍い。拍手も弱い。
超絶技巧で聴き手を酔わせることも演奏家には必要なことなのかもしれないが、私にはグリンベルクやアラウ、セゴビアのような音楽のエネルギーを感じさせてくれる演奏家の方が好きだ。
これは合唱曲にも言える。
去年の10月に行われたNコン全国大会で、私はある高校の演奏を聴いて非常に強いエネルギーを感じた。一見地味なのだが、その演奏は心に長く強く残り続けた。
その強いエネルギーは大きい音量や美しい透明な音から生み出されるものではない。大きな迫力のある音量でなくても強い感情が伝わってくることがある。
セゴビアが弾くポンセのソナタ・ロマンティカを聴くと、意識という次元が全くない状態、心の芯から出てくるものそのものだけで演奏しているを感じる。ものすごく高い集中力で、頭で考えているものが一切入り込んでいないような演奏なのだ。
多分、音楽を作った人が感じた感情を、そのままに感じて演奏しているからなのであろう。


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