緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

J.S.バッハ パルティータ第2番 BWV826 を聴く

2013-01-26 23:17:31 | ピアノ
こんにちは。
今日は日中日差しが暖かそうだったのですが、外へ出てみると空気がとても冷たく突き刺すようでとても寒い1日でした。
さて今日ももピアノ曲を紹介します。
今回はバッハ作曲、パルティータ第2番 ハ短調 BWV826です。
私はバッハの曲は特別好きな方ではないのですが、この曲の演奏をCDで聴いて何か大切なことを教えられたような気がしてここにコメントしようと思いました。
聴いたのは次の3枚。

①ミエチスラフ・ホルショフスキ(Mieczyslaw Horszowski、ポーランド生まれ、1892~1993)
 録音:1983年 ライブ録音



ホルショフスキが91歳の時のコンサートのライブ録音です。
このCDを聴いたときこのバッハの曲は初めて聴いたと思ったのですが、実は違っていました。2番目に紹介するギーゼキングの演奏を10年以上前に何回か聴いていたのですが、その時の演奏を思い出せませんでした。
普通どんな大家でも80歳も半ばを超えるとコンサートを開くことなどほとんど出来なくなるものですが、ホルショフスキは1991年のライブ録音がCDで残っていますから、99歳まで現役のコンサート・ピアニストであったわけですから驚異的です。
91歳の演奏なんてもう聴いていられないくらいヨボヨボの演奏に違いないと思うでしょうが全然違います。わずかに指のもたつきはあるものの、力強くホール全体に済んだ音が響き渡るような、若い演奏家でも出せないような通る音を出す演奏です。
ホルショフスキのこのバッハの演奏を聴いて初めて、パルティータ第2番ハ短調が自分の心に残り続けましたね。ギーゼキングを5,6回聴いたと思いますが、彼の演奏はどうしても心に残らなかった。何でなんだろう。
ホルショフスキとギーゼキングの演奏は全く違います。次元が違うといってもよいと思います。同じ曲でありながら全く別の曲に聴こえます。
ホルショフスキの演奏を聴いていると、まるで彼自身がピアノそのものであり、その中心から歌が泉のように溢れ出てくるように感じられます。
頭で色々解釈して、楽器を介して音や演奏にその解釈を移しているのとは全く次元の異なる、長い人生の中で内面に蓄積された全てのものから出てくるものを、そのまま自然に出しているという感じがする。
このパルティータ第2番は終曲のカプリッチョに難しいパッセージが現れるのですが、ホルショフスキの演奏はそれをことさら誇張することなく自然な流れで弾いています。難しい技巧を要する箇所をあたかも技巧の冴えを見せるかのように演奏する演奏家がいますが、ホルショフスキの演奏はそのような箇所も音楽の自然な流れの一部ととらえているところが素晴らしいし、長年の演奏活動で会得したものだと思います。
1892年生まれですからアンドレス・セゴビアと同じ世代ですね。若い頃はカザルスと共演したり、ブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスと親交があったようです。

②ヴァルター・ギーゼキング(Walter Gieseking、ドイツ生まれ、1895~1956)
 録音:1950年



10年以上前、私が30代前半の時に聴いたCDです。
ギタリストのナルシソ・イエペスが学んで彼の演奏法に取り入れたということで、どんなピアニストか興味を持って聴いてみたのがきっかけです。
演奏は音の粒が揃い磨かれた美しいもので、テンポも速く、完成度の高い非常に高度な技巧を聴くことができます。
ギーゼキングの演奏はこのバッハのパルティータに限らず、ドビュッシーやラベル、ベートベンのソナタを聴いたときにも感じるのですが、演奏者自身の根幹から出てくる感情というものが聴き手に伝わってこないんですね。抑制的な理知的な演奏というか。音楽の目指す方向が彼のゆるぎない信念にもとづいているんでしょうが、私の好みにはあまり合わないですね。少なくとも今はそう感じます。

③ゲザ・アンダ(Geza Anda、ハンガリー生まれ後にスイス、1921~1956)
 録音:1972年(ライブ録音)



才能がありながら54歳の若さで生涯を閉じた優れた名ピアニスト。彼の音楽は誠実で妥協がなく、エネルギーに満ちており、音楽が心に強く刻まれるものがあります。
彼のCDはショップに行っても殆ど置いておらず、残念です。
このバッハのパルティータもライブ録音でありながら殆ど破綻のない素晴らしいもので、特に終曲は聴いていて胸に迫るものがあります。




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ショパン ワルツ第10番 ロ短調 Op.69-2 を聴く

2013-01-13 23:01:14 | ピアノ
こんにちは。
今日は暖かい1日でした。
前回のブログでベートベンのソナタ「月光」の演奏を紹介しましたが、今年はピアノ演奏の鑑賞を拡げていきたいと考えています。
ピアノ曲はギター曲とは違って歴史的にも多くの様々な作曲家が曲を作っていますし、ピアニストの演奏レベルも格段に違います。ピアノ演奏を聴くことで逆に「ギター曲にこういう曲があったらいいのに」、という思いが湧いてきます。ギター曲はもっとレベルの高い作品が生まれても良かったし、そのことは、これからもっとギター曲が発展する余地を残していると思っています。
さて、ピアノ曲を作曲した人で代表的なのはショパンですね。
私がショパンの曲を初めて聴いたのは中学生の頃です。当時NHKで名曲アルバムという短い(5分くらい)番組が放映されていて、その中でショパンのワルツ第3番イ短調Op.34-2の演奏を聴いて、いい曲だなあ、と感じたことを覚えています。
また姉がピアノを弾いていたので、私が高校生の頃によく「雨だれ」(24の前奏曲の中の1つ)やワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2を家で聴きました。
就職するまでに聴いたショパンはこれくらいかな。子犬のワルツも聴いたかもしれませんが。
ショパンを本格的に聴くようになったのは、就職してからです。
遠い地方から上京し、不安な日々を送っていた時に買ったレコードがショパンのワルツ集でした。タマーシュ・ヴァシャーリ(Vásáry Tamás 1933~、ハンガリー生まれ、のちにスイス)というピアニストが演奏したものです。



このレコードを夜寝る前によく聴きましたが、不安な上に更に憂鬱な気持ちになったため、ほどなくして聴くのを止めてしまいました。
でもまたショパンの曲を聴きたくなり、次に聴いたのがディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti 1917~1950、ルーマニア生まれ)です。



このリパッティの演奏はヴァシャーリの力強く硬派な演奏と違って、柔らかく繊細な感じを受けました。CDケースがかなり傷んでいるので相当聴いたとは思いますが、どんな演奏だったか鮮明に浮かんできません。







その後アルトゥール・ルービンシュタインやサンソン・フランソワ、クラウディオ・アラウと続きましたが、ショパンのワルツ集でこれまで聴いた中で最も感動し、心に強く刻まれ、何度も聴きたくなる演奏はゲーザ・アンダ(Géza Anda、1921~1976、ハンガリー生まれ、のちにスイス) のものに他なりません。



こののショパン・ワルツ集は彼が癌のため54歳の生涯を閉じる半年前に録音されたものです。
CDのジャケットを見るとラスト・レコーディングと記されており、文字通り彼の最後の録音です。
私はショパンのワルツの中で最も好きなのは、第10番 ロ短調 Op.69-2なのですが、ゲーザ・アンダのこの第10番の演奏は凄いです。
他の演奏者と聴き比べてみればわかりますが、全然違います。アンダの演奏、特に音に深い悲しみの気持ちが宿っているのが聴いていてわかります。
この深い悲しみは、癌で余命数ヶ月しかない運命に対し、もっとピアノ音楽を深めたかった、もっとたくさん仕事をしたかった、しかしそれはかなうことの無い事実に対する悲しみであると思います。
あと数ヶ月で自分の人生が終わるという事実に対する悲しみと向き合い、受け入れ、そして最後の仕事を今この瞬間に成し遂げている心境が生んだ奇跡的な演奏だと私は感じています。
アンダの若い頃の演奏は剛腕と言われるほど力強いタッチをするものでしたが、この最後の録音は全く異なり、静かで繊細で表現豊かで流麗な演奏です。
他の演奏家の演奏が殆ど記憶に残らないのに、このアンダの演奏は強く心に刻まれ何度も聴きたくなるのは、演奏者の無意識の深い気持ちが聴き手の心の奥底にある同じものと共振するからではないでしょうか。この演奏に限らず何度も聴きたくなる演奏は例外なくそのようなものを感じます。
ところで、このアンダの弾くワルツ第10番は長調に転じて再び主題の短調に戻る直前のフレーズを、原曲を変更して弾いています。この部分の原曲は短調のフレーズに変わるのですがアンダはこの部分を長調で弾いています。
最初聴いたとき「あれ?」と思いましたが、なぜアンダがこの部分をあえて変更したのか謎でした。アンダほどのピアニストが譜面を読み違えるとは思えないし、アンダはあえて原曲を変えることで何か重要な気持ち、メッセージを表したかったのではないかと思うようになりました。原曲どおりだと納得のいかなかった何かが。
恐らくアンダは、この最後の仕事をしたことで悔いの無い人生を送れた、満ち足りた、充実した、自分にとっての音楽表現にもうこれ以上のものはありえないという演奏を完成させた喜びを、このフレーズに表したかったのではないかと思う。

(追記 2013/1/14)
上記でアンダがワルツ第10番の中間部長調から短調に転じる直前のフレーズを他の演奏家とは異なる長調で弾いていることを話しましたが、もしかするとアンダは殆どの演奏者が使っている一般的なフォンタナ版ではなく、オックスフォード版で弾いているかもしれないということがわかりました。
こんど東京に出かけたときに確認します。
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ベートーベン ピアノソナタ第14番 「月光」を聴く

2013-01-05 23:41:20 | ピアノ
こんにちは。
前回のブログで今年はベートーベンのピアノソナタから聴き始めることを話しましたが、このピアノソナタはかの有名な第14番、Op.27,No.2、嬰ハ短調「月光」のことです。
この曲を初めて聴いたのは中学生の時、確かNHKテレビで放映されていた外国人のコンサートのライブ演奏で、第1楽章の美しい三連符に感動し、第3楽章Prestの超絶技巧に度肝を抜かれたことを憶えています。
この「月光」という副題はベートーベン自身が付けたのではなく、後世の人が第1楽章の印象をもとに付けたものが定着したようですね。フェルナンド・ソルの有名な練習曲Op35-22ロ短調も「月光」と名づけられているが、同様に作曲者とは別の人が付けたようだ。
さてこのピアノ・ソナタ第14番は一説による葬送の曲であるということであるが、私は全然そのように感じないです。単に、ベートーベンが静かな夜のしじまのなかで湧き出てきたインスピレーションをもとに作曲したのだと思っています。
特に第1楽章を聴いて思い浮かんできたのはガブリエル・フォーレの夜想曲第1番変ホ短調です。この夜想曲第1番は私の最も好きなピアノ曲なのですが、夜の孤独な静寂の中で、心に湧いてくる幻想、夜=暗黒の悲しみのようなもの、あるテーマを伴った悲痛なものではなく単に夜の雰囲気が生み出す悲しみのようなものを感じます。ベートベンのこのピアノソナタも同じように感じてきます。
第3楽章も第1楽章と同じ嬰ハ短調ですが、激しく情熱的でありながら私にはやはり夜を感じてしまいます。途中わずかに曲想が明るくなる部分があるのですが、この部分を聴くと静かな夜に思い浮かべた将来の希望のようなものが感じ取れます。
ベートーベンはこの曲を30歳の時に作曲したそうです。難聴が進んできた頃ですが、若いときにしか出せないエネルギーを感じます。
さて、私が今のところ聴いた演奏は次の3つです。

1.ゲザ・アンダ(Geza Anda、1921~1976、ハンガリー、のちにスイス)
  録音:1955年



2.エミール・ギレリス(Emil Gilels、1916~1985、ロシア)
  録音:1970年(ライブ)



3.アナトリー・ヴェデルニコフ(Anatoly Vedernikov、1920~1993、ロシア)
  録音:1974年



3枚とも素晴らしい演奏です。3者、演奏に個性があり、好みが分かれるところですが、
私はゲザ・アンダの演奏が好きです。特に第3楽章の演奏は若き作曲者が持っていた情熱を感じ取ったものであると思います。聴いていると気持ちが高揚してきます。
ただしこの録音、モノラルなのですが音にヴェールが掛かっているような、オブラートに包まれているような音で録音の状態は悪いです。最近はやりの電気処理した音に比べたら全然良いですが。TESTAMENTというレーベルから出ており、同じレーベルから出されたティッサン・ヴァランタンのフォーレのピアノ曲集も同じ様な録音状態でしたね。
次にエミール・ギレリスの演奏はライブ録音でありながら音が非常に美しく情感を持って聴こえてきます。
アナトリー・ヴェデルニコフは情感や情熱といったものを抑制しているように感じますが、聴くごとにじわりと感動が伝わってくる凄い演奏です。
私は気に入った曲は、どうしても色んな演奏家の録音を聴き比べしてしまうところがあり、このピアノソナタもしばらくは聴き比べが続きそうだ。
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今年の抱負

2013-01-04 15:31:42 | その他
こんにちは。
新年が明けました。
このブログを始めてから1年半ほどになりましたが、1週間に1回のペースで趣味の音楽や時事問題などについて感じるままに書いてきました。
今年も音楽についてできるだけ書いていきたい。ギター音楽という枠にとどまらず、いろんなジャンルのクラシック音楽に拡げていったことは新たな発見や感動があり、自分にとてもプラスになった。ある偶然のきっかけであったが、特に合唱曲に出会えたことは私にとって感動ものでした。
去年は合唱コンクールのCDがセールで出ていたので大量に買って聴いた。廃盤となったCDは遠く図書館まで行って聴かせてもらったりしたが、素晴らしい演奏があるものです。数は少ないですが、やはりいい演奏は何度でも聴いてしまいます。今年も何度も聴きたくなる演奏を発掘していきたい。見つかったら紹介するつもりです。
去年は今まで殆ど聴かなかったチェロやバイオリンも聴きましたが、最近思うには、自分にとってバイオリン属の音楽は同じ器楽曲でもギターやピアノほどあまり強く心に残らないことに気づいてきたということです。もちろんこれらの演奏にも素晴らしいものがあるわけですが、自分が強く求めている音ではないような気がして、また何度も聴きたいというところまではいかないのです。
冒頭でいろんなジャンルに拡げることがプラスになると述べましたが、自分の感性や求めるものにちょうど合致するものも合わないものもあるということが分かってくるというプロセスなのだと思います。現代音楽が実は人の内面の影や闇を感じて表現しようとしたものが結構たくさんあるのではないかということに気づき、随分聴くようになったのも音楽の楽しみを拡げてくれた。これはこのプロセスが自分の求めているもので出会わせてくれた例だと思う。
先日あるピアニストの弾くベートーベンのピアノソナタの演奏を聴いて、その曲、演奏がしばらく耳に残ったままになっていました。そこで今年はまずベートーベンのピアノ曲から聴いていくことにしました。いい演奏があったら紹介していきたいと思います。
さてギター演奏のほうですが、去年は伊福部昭の「ギターのためのトッカータ」に挑戦し、何とか暗譜できましたが、レパートリーは殆ど増えていかないです。今年は日本人の作曲した現代音楽に挑戦したいのですが、どこまで実現できるのだろう。

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