緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

排水用蛇腹ホース割れ補修

2019-09-29 20:42:31 | その他
明後日から10月に入るのに日中は猛暑に近い。
早く寒くなってもらいたいものだ。

10月末から社会人マンドリンクラブの活動が再開されるが、送られてきた次の演奏会の楽譜を印刷はしたものの、殆ど取り掛かれていない。
また来年5月に開催される大規模演奏会(2年に1回開催)の参加も申し込み、来月楽譜が送られてくるようだが、早めに少しずつでも準備しておかないと。
いつも、後でもいいや、って感じで後回しする生まれながらの習性があるので、間近になって慌てることになる。

親父の死後の手続きがあり、今日役所で印鑑登録をしてきたが、日曜日なのにかなり混んでいた。
駐車場に入るのもちょっと苦労だった。
印鑑登録って市町村ごとなんですね。
30年くらい前に一度今とは違う都市で印鑑登録したことがあったが、もうそれは無効とのこと。

今回はいい判子を作った。
オランダ水牛のφ16.5サイズ。
実印なんてめったに使うものでないから、安い材質ものでもいいのであるが、どうせ作るのであればいいものを、と思った。
会社ではもっぱらゴムの日付印(名前と日付が印字されるもの)を使っているが、昔はいわゆる三文判と呼ばれる判子で押したものだ。
いいものを買っても、使う機会が無いのは何かちょっと勿体ないような気がする。


昨日屋外で使っている洗濯機の下から水が漏れていたので、排水ホースを見たら、パックリ割れていた。



そのパックリ割れたホースをつかんだら、別のところがまたパックリ割れてしまった。



紫外線にやられた。
樹脂は紫外線を浴びると硬化し、割れてしまう。
メーカーはもっと強化耐候性のある材質を使うべきだ。
買ってから3年くらいしか経っていない。

このままではまずいので、以前買ってあったじゃばらホース専用の補修テープで直すことにした。



重症の裂け目にビニールテープを巻き付ける。
同様につられて割れた裂け目もテープを巻き付ける。

巻き付けた衝撃でまた別の箇所が割れてしまった。
ホース全体がすでに駄目になってしまっている。

このビニールテープを巻いたあとに、黒いベトベトしたチューイングガムのようなゴムを巻き付けるのであるが、写真を撮り忘れてしまった。

黒いチューイングガムを巻いた後に、ビニールテープを巻き付ける。

完成。



結局広範囲にわたって補修する羽目になった。
黒いチューイングガムは全て使い切った。

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人生、プラスマイナス=ゼロ

2019-09-28 21:02:44 | 合唱
購読している新聞のスクラップを読んでいたら、「おやじのせなか」というシリーズものの記事が目についた。
タイトルは「二人旅の帰り 泣いていた」というタイトルだった。



クレイジーケンバンドのボーカル、横山剣さんの亡くなったお父さんのことを振り返るエッセイだった。
横山さんが小学校2年生の時に両親が離婚。
離婚したとは言っても、横山さんは頻繁にお父さんに会いに行った。
そして小学校5年生のときに父と子二人きりで9日間の米国旅行に行ったのだが、帰りの機内で今までいっぱいしゃべっていたお父さんが黙りこくってしまったので、見たら、泣いていたという。

私にも同じような経験があった。私が30代前半のことである。
旅行ではなかったが、ある用事で広島から父と二人で新幹線で東京まで帰ってきて、上野から普通列車に乗り換えて4人掛けのボックス席に父と向かい合って座ったいた。
会話もなく、私はしばらくの間目をつぶっていたが、ふと向かいの父の顔を見たら、何と父が泣いていたのだ。
父が泣いているなんてこの時が最初で最後だった。
父がその時、何を思っていたのか。

父が死んでから、私が子供時代の父のことをよく思い出すようになった。
忘れもしないのが、私が小学6年生の夏休み、丁度少年野球チームの大会の前日だった。
私はその時家の中で調子の乗って騒いでいたのだが、あることが父の逆鱗にふれて父が激怒し、ひどい目に合わされてしまった。
それはほんの些細なことだったのだが。
その時見ていたテレビのSF映画とか、その日のことはよく覚えている。
その日の夜、父は私の寝床に来て、母に促されれて、それはとても小さな声であったが、何度も謝っていた。
私はその時寝床に入っていたが、眠れるはずもなく、寝たふりをしていた。

その後私はこの出来事、体験をずっとトラウマととらえていた。
とくに20代から30代初めにかけて父を激しく憎んでいた時代があった。


新聞のエッセイ「おやじのせなか」に出てくるお父さんは、それこそいろんなタイプの人がいる。
常にやさしくて理想のお父さんもいるけど、中には逆の人もいる。
理想のやさしいお父さんのほうがいいのかもしれない。
でも今だから分かるのであるが、お父さんにもどうしようもなく、辛い気持ちを抱えていることがあるということだ。
しかしまともな人は家庭でその気持ちを表に出そうとはしない。
私の父の場合、テレビの前で押し黙って、近寄り難い雰囲気を出していた時代がそうだったのであろう。
しかし何かのきっかけで封印し我慢していた気持ちが出てしまうことはありうる。

完璧な理想の父親などいない。
もし私の父が常にやさしくて理想のお父さんだったとしたら、現在の私はどんな人間になっていただろう。
たぶん平和だけど、つまらない人間になっていたと思う。
最近よく思うのだが、人生はプラスだけの人生もないし、マイナスだけの人生もない。
マイナス続きでも、清く生きていればやがてプラスの方向に向かっていったり、逆に順風満帆でプラス続きで歩んでいたけど、その後何故か禍いの多い人生を歩むことが多くなったりとか、長い目でみると誰しもがマイナスとプラスで最後はゼロとなる人生を歩むような法則があるのではないかと。

話は変わるが、法事で帰省している間に録画しておいたNコン関東甲信越ブロック大会高等学校の部の演奏を聴いた。
ハイライトだったので、曲は途中で切れたり、課題曲の演奏が金賞校しか聴けなかったり、とても鑑賞できるものではなかったが、各校の演奏を聴いて、随分と合唱演奏に対する考え方に違いがあることに気付かされた。
技巧を要する難しい曲を自由曲に選定していた高等学校も少なからずあったが、高校生には荷が重すぎ。
はっきり言って消化不良だ。
もっと高校生にふさわしい曲があるはずだ。
聴き手が高校生の合唱演奏に期待するのは誰もが驚くような技巧ではない。
この年代しか持ちえない繊細さ、純粋な気持ち、利害や野心とは無縁の本当の優しさ、腹の底から湧き上がってくるパッションなどを感じたいのだ。
私のテレビは中国製の最も低価格帯の、音が貧弱でやせ細ったもので、音楽を鑑賞するものとは到底思えないレベルの代物であるが、いい演奏は明らかに聴いていて強い感情が湧き起ってきましたよ。
名前はあえて言わないが東京都の某校がいい演奏をしていた。

高校生のいい合唱演奏ってなんだろう、
私は、聴き手の心のずっと深いところまで届く演奏だと思う。
つまり、表向き上手く、音がダイナミックだったり美しかったりする演奏とは対極の、歌い手の心の深いところから出てくるものに満ちた演奏がいい演奏だと言えるのではないか。
いい演奏は、聴き手が普段、日常で感じることの無い、心の深いところで眠っている感情を呼び覚ます。
決して、そのようなものを意図的、意識的に出そうと力んで演奏しているのではなく、演奏者たちが普段から元々持っているもの、すなわち何も見返りを求めない、極めて純度の高いものが引き出された演奏が、聴き手の心の深いところまで届き、封印した感情を出させるのだと思う。
これは見方によっては、合唱以前のことだと思う。
金賞を得ようと野心に満ちた演奏はどんなに上手くても、声の質が美しくても、どんなにダイナミックであっても、聴き手の頭の部分、すなわち意識の領域にしか届かない。

賞の有無は関係ない。
いい演奏は、必ず、末永く聴き続けられる。
歴史に残る演奏とはずっと長きに渡って聴いてもらえるような演奏なのだ。
私はそのような演奏を望んでいる。

それにしてもNコンに出る高校生って本当にいい子たちだ。
まず目が優しいし澄んでいる。
私の高校時代の連中とは天と地以上の差を感じる。
私の高校のヤツらは、魚の死んだような目つきか、暴力事件を起こす荒んだ目つきが多かった。
人生をやり直せるのであれば、こういうNコンの高校生たちと高校時代を送りたかった。
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消えゆく公団住宅

2019-09-24 20:44:42 | その他
この連休は父の法事のために帰省した。
父はこの世にいなくなったが、残された家族が集まってささやかであるが一緒に時を過ごせるということは滅多に無いだけあって、何か一種のくつろぎのようなものを与えてくれた。
母は体が不自由で病気も持っているし、姉や兄は忙しい身であるが、精一杯生きているという実感が伝わってくる。
とくに姉の精神的ヴァイタリティにはいつも感心させられる。
昔よく母が「お姉ちゃんは本当に男に生まれた方がどんだけ良かったか」と言っていたのを思い出す。
そしてその時暗に、「兄と私は女に生まれた方が良かったのに」と言われているような思いがしたものだった。

21日に実家のテレビでNコン北海道地区ブロックコンクール高等学校の部と中学校の部のハイライトを見た。
何と全国大会に出場が決まったのが、札幌第一高等学校。
初出場だそうだ。
札幌第一高等学校と言えば、今から40年前、高校受験ですべり止めで受けた学校だ。
この時私はIランク(Gランクがオール3のレベル)の公立高校を受けたのであるが、滑り止めとして札幌第一高等学校を受験したのである。
この時の札幌第一高等学校といえば、一応共学なのであるが、殆どが男ばかりで、ガラの悪い、成績の悪い連中が行く高校だった。
成績が中の上以上が札幌光星高等学校、中の下以下が札幌第一高等学校という位置付けだった。
そしてもっと成績の悪いヤツは札幌商業高等学校(高校野球で有名だった)に行くのである。
私の中学時代の親しい友だち2名がそこに行った。
授業中におにぎりが飛んできたり、他校と暴力事件を起こすことで有名な学校だった。
そういえば私の母校がこの札幌商業高等学校と乱闘事件を起こし、かなりの生徒が停学を食らったことがあった。
そして中学時代最も仲の良かった友達で、共に新聞配達をやったヤツが私の入った高校に落ちて札幌第一高等学校へ行った。
これは正解だったと思う。
私は高校時代、入った高校が物凄く嫌だったので、何度も札幌第一高等学校へ行った方がましだったのではないかと思ったものだった。
当時の札幌第一高等学校は特待生制度があり、成績優秀であれば授業料免除だった。

今から15年くらい前だったと思うが、青春18きっぷを使って実家に帰省したことがあったが、その時は上越線から只見線に入り東北方面に向かった。
どこか途中で長い乗り換えのための待ち時間があったので、駅周辺を散策した後で駅前のそば屋に入ってそばを食べた。
そのそば屋で何気なく置いてあった週刊誌めくっていたら、東大合格者数高校別ランキングみたいな記事があったので、ほう、どんな高校が東大なんて入るのか、などと興味本位で見ていったら、何と、信じられないことに札幌第一高等学校の名前があったのである。
これは全くありえないものを見たようなものだった。
あの札幌第一高等学校から東大合格者が出るなんて、全く予想だにしていなかった。
もしかすると高校時代の私のように、全ての時間を勉強に捧げたがり勉がいたのかもしれない。
そいつも私と同じように、行きたい高校に行けずに、そのくやしさから国立大学を目指したのかもしれないと思った。
それにしても東大とは。

北海道地区ブロックコンクールでの札幌第一高等学校の演奏は確かに他の高校と比べて数段上のレベルに居るように感じた。
それにしても女生徒が多いこと。
昔は男子校のようなものだったのに。
何がこの高校を変えさせたのか。経営者が変わったからなのか。

21日は関東甲信越地区のブロックコンクールの録画も放映されたが、この日は関東に居なかったので録画しておいた。
今日その模様を見ようと思ったが今度の休日にゆっくりと鑑賞させてもらうことにした。

さて本題であるが、今日の夕刊に東京都中野区にある「中野住宅」と呼ばれる古い公社住宅が取り壊されるという記事が載っていた。



戦後の1950年代前半に建設された4階建ての2kの間取り。
戦後の復興や高度経済成長の庶民の暮らしを支えたのがこのような公営の集合住宅だった。
私もこのようなタイプの集合住宅で生まれ育ち、中学1年生で親が家を新築するまで過ごした。
そして1990年代半ばから、今から3年ほど前まで、このような構造の集合住宅で昭和40年代に陸の孤島のような場所に多数建設された5階建ての団地に23年間住んでいた。
単身者でも入居でき、家賃は入居当初は1か月2万7千円。
その後いくらか値上がりしたが退去したときは3万4千円くらいだったと思う。
つくりはさすがにマンションとは違い、上下が殆ど筒抜けに近く、物音のみまらず話声も結構聴こえた。
私はそこに住んでいた時、ギターを休日だけ弾いた。
もちろんギターの音はあっちこっち(といっても周囲6世帯くらいかな)に聴こえていたようだ。
下の階に住んでいた方はいい人だった。
とても貧乏そうな家庭(こんなこと言ってすみません)だったが、いい家族だった。
娘がピアノをやっていて、その子がギターをよく聴いているようだった。
こういう音が筒抜けの住宅って、なんか気配が分かってしまうものなのだ。
下の住人のお父さんのお気に入りの曲はドメニコーニの「砂山変化」。
奥さんが気に入ってくれた曲はポンセの「ソナタ・ロマンティカ」の第2楽章。
娘が気に入ってくれたのは、ブローウェルの「キューバの子守唄」とプジョールの「熊蜂」。

下の住人は入れ替わりが無かったが、上の階の住人はかなり入れ替わりがあった。しかし、あまりいい人に当たらなかった。
ある時、原嘉寿子の「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」のアリアを弾いていた時だった。
この曲は物凄く暗く不気味な現代音楽なのであるが、上の住人の小学生の子供が、この曲に聴き耳を立てていたようで、このアリアの最もインパクトのある下の写真の箇所を弾いたとたんに、何かお化け屋敷でお化けに出会ったときに上げるような「うわー!」という声を発したのである。



ある時は、野呂武男作曲の「コンポジションⅠ 永遠回帰」の第3楽章の次の部分を弾いた直後だった。
隣の住人から何か紙をクシャクシャに丸めるような音がするのであった。
この部分を弾くと必ず音を立てるので、この部分がよほど不気味に感じていたのであろう。





こういうことがあったが、それはそれなりにいい暮らしでもあった。
この団地も、27年間通い続けている団地内の床屋のおかみさんから聞いたのであるが、3分の1を取り壊すそうである。
私が入居したときは何回か抽選を受けないと入れないほどの人気だったが、次第に入居者が減少、今では4階、5階を中心に空き家が目立っているとのこと。

こういう昔ながらの団地が姿を消していき、味気ない高層マンションに取って代わっていくのであろう。
私は今まで低家賃の住宅に住み続けてきたせいか(現在でもそうであるが)、こういう古くて粗末であるが味のある集合家屋が好きだ。
今まで住んだ集合住宅で最も印象深く思い出に残っているのは、大学時代に住んだお化け屋敷のような超おんぼろアパートだ。
築50年以上は経過していると思われるような建物で、観音開きの鉄製の扉のある蔵を増築したアパート、というか古い旅館といった風情の建物で、1階は小さなオレンジ色の裸電球が切れたら、真っ暗闇となり、壁を手探りで行かないと歩けなかった。
床が真っ黒に染まった古い板で、部屋の造りは粗末、共同の汲み取り便所、共同の炊事場、風呂はもちろん無い。
昔は遊郭だったとか、首つり自殺した人がいたとか、こうもりが出たとか、色々伝説のあるアパートだった。
貧乏な留年した学生と年金で一人暮らししている老人が住人の殆どだった。

こういう古くて安い住宅は何故か安心する。
長い人生での生活の過程で、常に共にしたせいであろうか。
そのせいか、旅行に行くときは古くて安くてこじんまりした和室のビジネス旅館または簡易宿泊所を探す。
こういう建物は今後急速に減っていくだろうが、その前に写真を撮ったり、実際に泊るなどしていきたい。
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懐かしい国鉄時代の鉄道

2019-09-20 22:15:08 | 写真
先日、何かを探すために押し入れのガラクタ箱を引っかき回していたら、古い写真が出てきた。
今から約40年前の高校2年生の時の修学旅行の写真だった。
その写真の中に昔の国鉄時代の列車、修学旅行で実際に乗った鉄道や、帰りの上野駅のホームに停車中の列車を撮ったものだった。

修学旅行は京都、奈良、東京だった。
函館までは特急「北斗」、函館-青森間は青函連絡船に乗船し、青森から京都までは寝台特急「日本海」、奈良から東京までは新幹線で移動、帰りは上野から青森までは寝台特急「ゆうずる」だった。





高校2年生のとき、何のきっかけだったか思い出せないのだが、鉄道ファンになっていた。
当時私は嫌な高校にしか入れなかったくやしさから、勉強ばかりするようながり勉にすっかり生まれ変わってしまい、とても暗い高校生活を送っていた。
それでもギターとこの鉄道への興味が何とか自分を持ちこたえさせていた。
鉄道と言っても、貨物列車を牽引する機関車が好きで、とくにディーゼル機関車であるDD51という型式の機関車が好きだった。
学校へ行くバスの途中で、朝の8時20分に駅に止まっているDD51を見たものだった。
そして学校近くのバス亭から猛ダッシュして学校に滑り込むのだが、何度かは始業時間に間に合わなかった。
そしてSという物凄く嫌だった担任から出席簿で頭を叩かれた。

昔の時代のディーゼルや電気機関車、気動車の特急列車のデザインは今の時代の列車のデザインよりもはるかに優れている。
上と下の写真の電気機関車(ED75とEF64)、そして特急「北斗」のデザインは素晴らしい。
私はデザインには全く素人ではあるが、これらの鉄道のデザインがとてもバランス感に優れ、均整のとれた形状をしていることが分かる。
構造、形状、色使い全てがシンプルではあるのだが、無駄のない均整のとれた洗練された印象を強く受ける。
これは鉄道のみならず、この時代のバスや乗用車にも当てはまる。
今の時代の鉄道はどうか。
ひどいと言わざるを得ない。
今、通勤で東京駅で乗り換えするのだが、東京駅から出る茨城の日立行きの特急のデザインなど、何、コレ?と思ってしまう。
そして極めつけは、北海道で以前一世を風靡したディーゼル機関車DD51に取って変わって出現した、何ていう型式の機関車か分からないが、丸々と中年太りした、思わずプッと吹き出してしまうようなデザインの機関車だ。
DD51とは雲泥の差である。
よくこんなデザインにしたものだ。
DD51を設計した人がみたら、おもわずプッと吹き出してしまうに違いない。

はっきり言って、素人の目から見ても、今の鉄道や車やバスなどのデザイン力は昔に比べて劣ってきていると感じる。
これらのデザインの頂点は1960年代半ば頃から1970年代までだったと思う。
この時代のデザインの完成度の高さからすると、そこから離れたデザインにするということは、均整のとれた美しさを自ら放棄しているようなものだ。

下のオレンジ色の機関車がDD51。
高校2年生のとき、実家近くの踏切で撮ったものだ。
これほど均整のとれた形状の鉄道を見たことはない。
強いてあげればEF58くらいか。


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ヴィラ・ロボス作曲「ショーロス第5番」を聴く

2019-09-16 20:17:06 | ピアノ
ギター愛好家であれば誰も知っているブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスはギター曲以外にも膨大な曲を残したと言われている。
ギター曲で全曲録音したはまずジュリアン・ブリーム。
とくに12の練習曲集とブラジル民謡組曲の録音は名盤と言える。
イエペスはブラジル民謡組曲を除いて全て録音したが、セゴビアはわずかしか録音を残さなかった。
ジョン・ウィリアムスも12の練習曲は第1番と第8番しか残していない。

前奏曲第1番は作曲者自身の古い録音があるが、残念ながら全部入りきらず、最後が切れてしまったいる。

Villa-Lobos interpreta Villa-Lobos - Prelúdio no. 1


ヴィラ・ロボスの曲でギター以外の曲を初めて聴いたのは大学生の時。
当時兄がせっせとFMラジオからギター曲などの音源を録音しているのを聴かせてもらったのだが、この時「ブラジル風バッハ第2番」を聴いた。
就職してレコードやCDを買えるようになってから少しずつヴィラ・ロボスの録音を買って聴くようになった。

まずはヴィラ・ロボス自身が指揮をした古い録音で、「ショーロス第6番」と「ブラジル風バッハ第7番」。



「ショーロス第6番」はヴィラ・ロボスの作風をよく表している。
ヴィラ・ロボスの曲は楽器の編成はクラシックなのであるが、音楽の内容は純クラッシクとは思えない。
かと言って民族主義的な感じもしない。
いわゆるポピュラー音楽に聴こえることもある。
これほど種々の要素を兼ね備えたクラシック音楽は珍しいし、ヴィラ・ロボス独特の個性とも言える。
「ショーロス第6番」を聴けばそれがよく分かると思うが、私はヴィラ・ロボスの曲中ではこの「ショーロス第6番」の他、「ブラジル風バッハ第4番」と「ショーロス第5番」が好きだ。
(「ブラジル風バッハ第5番」が圧倒的に有名だが)

「ショーロス第5番」はピアノソロ曲だが、ピアノソロ曲で最初に聴いたのは「悩みのワルツ」という曲。



「悩みのワルツ」は随分と聴いた。
このCDの中で「ショーロス第5番」も収録されていたが、このCDを聴いたときにはあまり印象に残らなかった。

その後、ピアノ三重奏曲やハーモニカ協奏曲などのCDを聴いた。





ピアノ三重奏曲は1回しか聴かなかったが、ハーモニカ協奏曲は何度か聴いた。
ヴィラ・ロボスの中でも珍しい曲だ。Youtubeにもあるかもしれない。

その後、ヴィラ・ロボス自演の「ブラジル風バッハ第1、2、5、9番」のCDで有名な代表作である第5番、ヴィクトリア・デ・ロス・アンジェレスとの共演を聴いた。



そしてその後にヴィラ・ロボス自演の6枚組のCDでショーロスとブラジル風バッハの殆どを聴くに至った。



ヴィラ・ロボスと多くの共演をしたピアニストとして、アリーヌ・ヴァン・バレンツェン がいる。
彼女のことは以前何度か記事にしたが、ベートーヴェンのピアノソナタの録音でいい演奏がある。
比較的入手しやすい1930年代のSP時代の録音での演奏よりも、LPになってからの1950年代の録音の方がいい演奏だ。
テクニックが際立っているが、1950年代の録音は音が暗く、それが逆に魅力となっている。

1958年に録音されたバレンツェン の「ショーロス第5番」はYoutbeでも聴けるが音が悪い。

Aline van Barentzen plays Villa-Lobos Choros No. 5 ''Alma Brasileira''


冒頭からしばらく悩ましい音楽が続くが、霧が晴れるように爽快な底抜けに明るい音楽に変貌する。
この明るい音楽は印象的だ。いかにもブラジルという感じ。感情の起伏が激しい。
この対比がヴィラ・ロボスらしい。
「ブラジルの魂」という副題が付いているのもうなづける。
最後は意表を突かれるような終わり方だ。

バレンツェンは演奏時間が1時間を超える長大なピアノとオーケストラのための「ショーロス第11番」を残しているが、この曲のピアノは超絶技巧が随所に現れる難曲でこれも聴き応えがある。
Youtbeでバレンツェンの演奏が見つかったが、1度は聴いてみてもいいのでは。

最後にヴィラ・ロボス自演の「ショーロス第6番」を貼り付けておく。
(こんなに貼り付けてしまっていいのか? とは思うのだが)

VILLA-LOBOS: CHOROS NO. 6. Villa-Lobos conducts Villa-Lobos #3


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