緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ネガティブな気持ちに気付き発生源を探る

2021-02-28 20:31:42 | 心理
このところ新聞などで連日、オリンピックの森元会長の失言に対するバッシングが起きている。
「女性蔑視とも受け止められる」との解釈がなされており、何とも不明瞭なモヤモヤな感じがするが、その発言の真意を捉えるためには前後の文脈を含めて、もっと幅広く総合的に判断する必要があるのではないだろうか。
森さんの肩を持つというわけではないが、ある断片的な言葉だけを切り取って、短絡的かつ都合のいいように解釈することには危険があると感じるのである。

政治家などが失言すると、ここぞとばかりに正義、正論を振りかざして責め立てる人がいる。
とくにここ数年の間に、このような傾向が増えてきているように感じる。
以前、「不平不満の正体」という記事で書いたが、正義、正論を振りかざして人を激しく責め立てる人には、深刻な不満、憎しみなどの心の問題を抱えている可能性が非常に高い。
このようなタイプの人は、ありふれた人には表立っては決して不満や憎しみを吐きださない。
最も安全でかつ、吐き出し甲斐のある人を選んで感情を放出する。
その矛先として典型的なのが、政治家など地位の高いとされる人の失言やスキャンダルだ。
しかも吐き出している本人はそのようなことをしていることに気付いていない。

しかしこのような人も、もしかすると自分も気付かないうちに日常で、女性蔑視だけでなくそれ以外の差別的な発言や行動をしているのではないか、と考えないのだろうか。
自分には全くそのようなことがないような素振りでものを言う態度に少なからず違和感を感じる。

人間は完全無欠ではないし、人の心を踏みにじったり、傷つけたりすることを完全に防ぎきれるものではない。
「気付かないうちに」やってしまっていることもある。

人を責めると、必ずブーメランのように自分に跳ね返ってくるものだと私は思っている。
これは私の経験からなのであるが、だから自分が攻撃された時以外は、自分から人を責めるのはやめた方がいいと思う。
ただ責めることと、批評は異なる。
例えばいい加減な商品や作品、仕事、演奏などには、時に厳しい批評、評価は必要だ。
これは単なる責めとは異なる。
裏にもっと良くなって欲しいという気持ちがこめられている。有頂天になってはいけないという忠告の意図が背後にある。

バッシングなどの人を責める感情の裏には、不平不満、憎しみなどのネガティブな感情が隠されているが、このようなネガティブな感情には悪いエネルギーや波動があり、おのずと不幸、失敗、災難などの負の出来事を引き寄せてしまうのだという。
だから表面的に正義、正論で悪を懲らしめてやっているように感じていても、それは錯覚で、実際は負のエネルギーや波動を発生させているわけだから、自分に良からぬ形で帰ってきてしまうのだ。

これを避けるためには、普段から不平不満を感じても言わないようにしたり、正義正論など、自分のやっている真実の感情を偽装するような形で表現しないように気を付けなければならない。

ネガティブな感情を感じなくて済むようになるためには、その根本原因の解決と、気付きが得られた後の絶え間ない習慣化が必要であるが、これは結構というか、かなり難しい。
どうやったら解決していかれるかは、少しづつこれから記事にしていきたいと思う。
やっぱり、どうせ生きていくのであれば、ポジティブに楽しく、人にやさしくできるようにしていきたい。

なお、話は変わるが、ネガティブな感情を浄化する素晴らしい演奏がある。
佐々木忠の弾く、バリオス作曲の「フリア・フロリダ」。



この演奏は凄い。
終始、人間が根源的に持つ優しさの感情に溢れており、心の奥底に眠っている潜在的な前向きなエネルギーを引き出す力強さに満ちている。
ギター録音の中でも屈指の名演と言える。
普段最高だと思っているこの曲の他の演奏家の演奏と聴き比べて欲しい。

Youtubeに無かったので、本当はいけないのだが、下記に貼り付けておく(mp3なので音質はCDより落ちます)。

佐々木忠演奏 バリオス「バルカローレ(フリア・フロリダ)」1989年
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ローラン・ディアンス演奏 ヴィラ・ロボス作曲「ギター協奏曲」を聴く

2021-02-27 21:02:12 | ギター
今朝目覚めたとき、何故か30年以上も前に聴いたCDの演奏が記憶に蘇ってきた。
それは20代半ばの頃、ひどいうつで苦しんいた時代、チャイコフスキーの交響曲第6番悲愴を何度も何度も聴いていた頃であったが、その頃を少し過ぎてから聴いたCDであった。
わずかであるが希望のようなものが芽生えてきていた時期だった。

ローラン・ディアンス演奏 ヴィラ・ロボス作曲「ギター協奏曲」





今日、そのCDを30数年振りに聴いた。
ヴィラ・ロボスの「ギター協奏曲」を初めて聴いたのが大学1年生も終わりとなる春休みが始まった頃だった。
当時私はマンドリン・クラブとは別の大学の団体にも所属していたのだが、その団体の卒業生の追い出しコンパが、朝里川温泉の一番奥にある朝里川温泉センターというちょっと小汚い温泉宿で行われた。
その泊りがけの追い出しコンパは楽しいなんてものではなかった。
浴びるほど酒を飲まされ、夜通しトイレでゲロを吐いていなければならなかった(汚い話ですみません)。
翌朝の帰りのバスの中で、丁度この頃FMラジオから録音したこのヴィラ・ロボスのギター協奏曲が頭の中に流れていたのを今でも思い出すのである。
演奏者はジュリアン・ブリーム。ホセ・ルイス・ロマニリョスがブリームのために最初に作ったと言われるギターで録音されたという。



このあと、イエペスやジョン・ウィリアムスなどの演奏を聴いた。
最近はこの曲を演奏会や録音で取り上げられることはなくなったようだ。
この曲はセゴビアがずいぶん苦労してヴィラ・ロボス夫人を通して頼み込んで作られた曲らしいが、セゴビアはついにこの曲を録音することはなかった。
初演は大成功だったようだが、その音源はないのだろうか。

ローラン・ディアンス演奏のCDは秋葉原の今は無き石丸電気で買ったと思う。
こういう超マイナーなCDは当時、石丸電気でしか手に入らなかったからだ。
このCDを聴いた時の頃はよく覚えている。
陽の当たらない会社の寮の部屋で休日の昼間に聴いていた光景が思い出される。

この演奏を初めて聴いたとき、なんか他のこの曲の演奏と違うな、と感じた。
それがなんであるかよく分からなかったが、とにかくなんか違うな、と感じたのである。

今日、30数年振りで聴いたみたが、その当時感じた「なんかちがうな」という感覚は、演奏者たちの「熱い感情」が流れてきている、とういうことではなかったのではないかと思った。
とくにカデンツァのあとの第3楽章でそれを強く感じる。
何か、心の深いところからポジティブな感情、強い力が出てくるような感じなのだ。





実を言うと、ローラン・ディアンスはあまり好きでない。
クラシック・ギター界とポピュラー音楽界との境界線を崩してしまったからだ。
彼の作曲した曲はクラシックギター界ではよく演奏され、好きな方も多いようだが、私は好きになれない。
中途半端、という感じがするのだ。
ポピュラー界にはもっとすごいプロがいる。

しかしこの「ギター協奏曲」の演奏は、若干オリジナルを変更している部分があるものの、楽器の音をフルに生かそうという熱意の感じられるものだ。
私はこの曲の演奏として、ナルシソ・イエペスの録音も好きで、今までよく聴いたが、イエペスの演奏と聴き比べてみるのも興味深い。

Youtubeでローラン・ディアンスのこの曲の演奏の録音を探してみたら、意外にもあったので貼り付けさせていただく。

Villa-Lobos: Concerto for Guitar and Small Orchestra, Roland Dyens


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このままではまずいぞ、日本

2021-02-21 22:56:53 | 時事
先日、ある経済誌を読んでいたら次のような一文が目を引いた。
「いま、わが国は猛スピードで三流国に向けて転落中であると言って過言ではない。国民の貧困化は止まらないし、経済は成長せず、そのため税収も増えず、科学技術はイギリスの「ネイチャー」に科学大国からの没落を予言されているし、という調子なのだ。」

それを予期させる資料がある。
下図は京都大学大学院教授の藤井聡氏のツイッターから引用させてもらったものだが、1995年くらいまでの日本のGDPはアメリカに迫るほどの規模を誇っていたが、その後2010年頃までずっと横這いが続き、2010年以降は右肩下がりで下降している。



この動きとは全く逆に、中国が1990年代にははるかに小さかったGDPが、北京オリンピックの頃から急速に増大し、2010年の手前で日本を抜き去り、その後は勢いが止まらないほど急上昇している。そして2030年代前半にはアメリカを追い抜くというのだ。
1990年代に日本よりもはるかにうしろを走っていて、ある意味見下しさえしていた中国があっという間にここまでのし上がったのである。
これは日本にとって脅威以外の何物でもない。

たしかに1990年代半ば頃の日本はバブルが崩壊したものの、まだ経済大国という実感があった。
今は見る影もない秋葉原の電気街も、1980年代ほどではないにしても活気が残っていたし、今は無き石丸電気のCDソフト売り場もまだたくさんの客が来ていた。
この頃から高級品の価格破壊や100円ショップの台頭が見られるようになってきていたが、それを裏付けるように1990年代後半から日本の製造拠点を中国に移してコストを下げ、価格競争に打ち勝つという動きが加速した。
今考えればこの動きが日本の凋落を招いた分岐点だったと思う。
かつてものづくり大国と言われた日本は、国内に多くの製造拠点を持っていたが、バブル以降の人件費上昇、プラザ合意、消費者の低価格志向などからコスト削減を余儀なくされ、多くの企業が中国に製造拠点を移した。
その結果、日本で製造業を中心にリストラが進み、失業者や非正規雇用者が増大した。小泉政権のときだったと思う。
一方、安い人件費と豊富な労働力を有する中国は日本や欧米企業などの工場建設により、短期間で製造技術を習得し、巨大な生産国家、すなわち世界の工場と言われるほどにまで急速に発展し、GDPならずとも、経済、生産技術、科学技術、軍事、文化などあらゆる面で短期間に成長、拡大、膨張した。
ちなみに今ホームセンターや家電量販店などで買った商品の殆ど全てと言っていいくらい、Made in chainaだ。

こうして日本を抜き去り、なおも膨張し続ける中国の次の狙いは、アメリカを抜いて世界の超大国となることは間違いないであろう。
もしこの動きが着実に進んでいけば、現在はかろうじてアメリカやヨーロッパのパートナーは中国ではなく日本ということになっているのが、中国にとって代わられ、日本の地位は確実に失われていくことになるであろう。

日本は安倍政権までは世界の主要国の中でかろうじて大国としての地位を保てていたが、現政権以降は着実にその地位ははく奪されていくに違いない。

先述の藤井聡氏のメルマガに次のような記載があった。
「そんな日本の凋落を決定付けるのが、中国の「尖閣諸島」に対する侵略、すなわち、尖閣を巡る日中の争い、すなわち、紛争ないしは戦争における中国の勝利です。
この紛争・戦争において中国が日本に勝利をすれば、日清戦争で激しく傷付いた威信を、中国は完全に取り戻す事になります。
そして東アジアの覇権国の地位を、中国は日本から完全に奪い取ることに成功します。
そうなったとき、経済的にも外交的にも、日本は中国の圧倒的な劣等国家となり、中国に飲み込まれ、従属・隷属していく状況となるでしょう。
そして、日本は中国にあらゆるマーケットを奪われ資本を奪われ、日本の大企業の多くが中国系に買収されてしまうことになっていくでしょう。」

今日のニュースでも、中国の公船が尖閣諸島付近の日本の領海を2日連続侵入したという記事を見た。
中国は尖閣諸島を日本の領土だと決して認めていない。
だから実力で奪い返そうと日夜隙を伺っているのである。

既に北海道のニセコや富良野など土地が中国に買い占められていると聞く。
日本のお役所はお人よしだがら、中国の真の意図を見抜けず、やすやすと土地や建物を渡してしまう。
目先のことしか考えていないからこのようなことになり、中国への製造拠点移設と同じ様に、気付いたときにはもうなすすべが無い、という事態となってしまう。

私が日本がだんだんダメになってきているな、と感じるいくつかの兆候がある。
まず一つは、品質に対する意識が著しく薄らいでしまったことだ。
先日のニュースでも日本の自動車部品メーカーが20年前から検査データの改ざんや不良品の出荷があったということが報道されていたが、これはかつて世界を席捲した日本の有名企業でも起きている。
私が社会人になった1980年代の後半は、品質管理に対する意識や活動が非常に高レベルであった。
現場の末端にまでその意識や方針が徹底して浸透していた。
しかし1990年代後半から製造拠点が中国などに移管されてからは徐々に衰退していった。
ものづくりの現場が日本国内に無いのに、品質を徹底して向上させる意識を醸成させることは不可能であろう。
またものづくりの現場が日本に無いから、研究開発、設計力も育っていかない。
机上の設計だけで、高品質のものづくりが出来るわけがない。
中国の技術が発展したのは、ものづくりの拠点が自国内のすぐそばにあったからである。
電車の吊り革に、歯が浮くような摩擦音を出すものが結構あるが、このような品質のものを作っているのが現在の日本である。
去年の春に買った水筒、それは日本の有名メーカーのものであったが、製造場所はもちろん海外(どこだったか忘れたが発展途上国)、蓋との接点部の螺旋状の突起が短期間で摩耗し、ほどなくして蓋が密閉状態で閉められなくなってしまった。
あとはレンジ用の米、シールを剥がしたら破けてしまった。それも5個入りの米全てである。これも有名メーカーのものだ。



とにかく、こんな低品質のものを市場に出していても何の改善もしようとしない。
1980年代までの日本では考えられない。
これが日本が凋落した一つの姿である。

2つ目はマスコミの質が低下していること。
モリ・カケ問題という報道が大々的になされたことにより、安倍政権の首を取ろうとした野党の思惑とからんで、ずっと長きに渡って国会で時間とお金を浪費した。
モリ・カケ問題は結局、現政権の犯罪となるような結果は何も出てこなかった。
会計検査院で値引きの根拠があいまいだった、と指摘されただけに過ぎない。
これはマスコミが大スクープを報道したいという欲望とそれに乗っかって現政権を引きずり降ろしたいう野心から執拗に追求されたものであり、問題以前のものであろう。
こんな低レベルなことに数年間も国会が停滞し、もっともっと審議されなければならない重要問題がなおざりにされてしまったのである。
マスコミは将来の日本を見据えてもっと報道しなければならないことがたくさんあるだろう。
しかしそういう本当に日本にとって大切なことに目を向けないで、政治界の暗部を探り当てて白昼の下にさらすようなスクープ狙いのようなことに注力している。

3つ目は今の日本や国民が目標を失っているということだ。
日本が今後、どういう国になっていこうとしているのか、その進むべき目標や進路、ビジョンといったものが何も見えてきていない。
これは現政権だけでなく野党からでもある。
現政権は目の前のことに対応するだけに追われ、野党は現政権の足を引っ張ることしかしていない。
日本にとって、ものづくり大国とか技術立国というのは既に過去のものである。
もう現在の日本はそのような言葉を掲げられるような実力や市場での地位を失っている。
では将来、日本はどういう国家を目指していくのか、というものが見えてこない。
だから国民も日々の日常を維持していくことだけに精一杯となり、目標に向かって努力していく、という気持ちが全体的になくなりつつあるように感じる。
今の日本人はなんとなく元気が無く、パワーを失っているように感じる。
かつての1960年代から1970年代の頃の日本人の活気やパワーとは雲泥の差である。
やはり政権が日本のこれからの進むべき道や目標、夢と言ったものを国民に明確に示していく必要がある。
ちなみに中国では、習近平が打ち出した「中国の夢」という国家目標があり、国民の生活水準を上げる、世界の強国となる、アヘン戦争が起きた1840年以前の中国の国際的地位の復活、すなわち、中国のナショナリズムや歴史的尊厳の回復がうたわれているという。
中国が尖閣諸島を執拗に奪還しようとしているのもうなづける。
中国人は歴史をよく勉強しているが、日本はそうではない。
尖閣や竹島や北方領土など人が満足に住めないような島はどうでもいいではないかと思っている人もたくさんいるだろう。
これだけは言えるが、中国人は決して日本の過去の侵略を許していないし、古代の中国と日本との力関係、いわゆる日本を属国化することに回帰しようとしているのである。
中国は日清戦争や満州事変などで、かつて取るに足らない小国、属国の日本から領土を奪われ支配されたことを絶対に許せないと考えているのである。

このまま羅針盤を失った船のように日本は漂流していき、気が付いたときには世界に売るものも何もなく、作ることも出来なくなり、海外からものを買うだけの国となり、どうすることも出来ない身動きできない状態の国となってしまうのではないか。
これは個人的なネガティブな気持ちから出ていることではなく、新聞ではない、複数の雑誌や情報から得たものをもとにしている。
これからどうしたらこのような危機的状況を回避していかれるのであろうか。
自分なりに考えが煮詰まったらまた記事にしていきたい。
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ジュリアーニ作曲「練習曲第13番 OP.100」を聴く

2021-02-21 00:10:06 | ギター
今日は講習会で仲良くなった同年代の2人とオンライン飲み会があり、先ほどお開きになった。
オンライン飲み会って、意外に話に集中できる。
講習会仲間ということもあるけど、かなり深い話ができるところがいいところか。
うるさい居酒屋だとそうはいかない。

寝るまでの間に何か記事を書こうと思った。
ギターの練習曲でなかなかいい曲があったので、それを書こうかと思う。

ジュリアーニ作曲「練習曲第13番 OP.100」。



アルペジオの短い素朴な美しさを持つ練習曲だ。
左指の拡張を強いられる箇所があるが、全体的にはそれほど難しくない曲だ。
スラーの部分はアポヤンドで弾きたい。

ギターの黄金時代と呼ばれた19世紀には、ソル、アグアド、ジュリアーニ、カルカッシなどが膨大な曲を作ったが、その中でも充実していたのが練習曲だ。
なんだかんだ言って、この時代に作曲された練習曲を凌ぐ優れた練習曲は現代では作られていないと言っていい。
これらの作曲家の練習曲集の中でも選りすぐりのものを集めて、教則本にするのが昔のスタイルだった。
鈴木巌氏の「演奏家を志す人のための クラシック・ギター教本 全3巻」や、阿部保夫氏の「セゴビア奏法による ギター新教本」などがそのいい例だ。





全音から、これらの作曲家毎にエチュードをまとめたものも出ていた(「全音ギターエチュードシリーズ」)。



現在、クラシックギターの教育界では、このような古典の練習曲をレッスンに採用しているのであろうか。
この時代の練習曲には、初級から上級までまんべんなく、技巧的にも音楽的にも優れているものが多いと思う。

このような練習曲のみを録音したCD(昔、故、稲垣稔氏らが録音したものがあった)や、丁寧な運指、技巧や音楽面の詳しい解説を載せた楽譜があれば、どんなにか役に立つかと思う。
レッスンで教えてもらう、という方法もあるが、どれだけ有益なものを得られるだろうか。

「練習曲第13番 OP.100」のYoutubeの演奏を貼り付けさせていただく。

Mauro Giuliani - Etude No. 13, Opus 100. SEE LINK BELOW FOR COMPLETE GIULIANI PLAYLIST...


24 Studi, Op. 100: No. 13. Affetuoso


2つ目の録音の使用楽器は、19世紀ギターか?。

【追記202102211203】

阿部保夫著「セゴビア奏法による ギター新教本」(全音楽譜出版社)の序文に次のようなことが書かれていました。参考まで。

「われわれはあまりにも多くの教本を手がけ練習はしているが、どの教本も中途半端で一冊も自分のものにはしていないことが多い。
アカデミア・キジアーナにおけるセゴビア先生のレッスンにおいて、私はそこで1つの練習曲をいかにたんねんに練習しているかを知り驚いたほどであった。1曲1曲コンクールの課題曲のように練習していると言っても過言ではない。
この教本は全部暗譜でひけることを望みます。セゴビア先生も特別な場合を除いて教えるときは楽譜をみないし、もちろん生徒もそうである。(中略)この教本は1年や2年でけっして終わらず、少なくても4,5年はかかって練習してほしい。この中にはギターを手にする以上、生涯練習しなければならないものも数多くある。そしてこれらの練習は、無意味な曲を数多くやる以上の効果があることはいうまでもない。」

「多くの教本を手がけ練習はしているが、どの教本も中途半端で一冊も自分のものにはしていないことが多い。」
これって私のことですね。
たしかに阿部さんが言われるように、この黄金時代の作曲家たちが作った優れた練習曲を暗譜でみっちりと練習することは、絶対に、プラスになると思います。
本腰を入れてとりかからないと達成できないほどの忍耐力のいる作業ではあるが、いつかは取り組んでみよう。
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チック・コリア 「トリオ ミュージック ライブ・イン・ヨーロッパ」を聴く

2021-02-14 21:00:23 | ジャズ
一昨日の夕刊と昨日の朝刊にジャズミュージシャンのチック・コリアの死去を知らせる記事が載っていた。
享年79。





チック・コリアの音楽、演奏に初めて触れたのは今から35年近く前になる。
就職で東京に出てきた私は、その開放感と、自分の好きなものをある程度は買える収入を得たことから、それまでの貧乏学生の反動で本やレコードをずい分買ったものだった。
そんな時にクラシックギター以外のジャンルの曲も聴いてみようという心境になり、まずはジャズを聴き始めた。
その時に初めて買ったレコードがチック・コリアの「トリオ ミュージック ライブ・イン・ヨーロッパ」というアルバムだった(1984年9月、ウィリサウ及びロイトリンゲンでのライブ録音)。



これはある意味、初めて聴いたジャス曲としては{当り」だった。
とにかくこのアルバムの曲(とくにA面の3曲)や演奏にすぐに惹き込まれて毎日何度聴いたものだった。
これをきっかけにジャスにのめり込んだ。しかしこの熱中は1年もたたないうちに終焉を迎える。
当時出版されたばかりの、寺島靖国著「辛口ジャズノート」に感銘し、この本に紹介されていたレコードを買い集めていった。
それがちょっとした楽しみだった。
マンションのワンルームで営業したレコード屋さんもあったっけな。

何故、ジャズ熱が1年で覚めてしまったのか。
この1年の間にかなりの枚数のアルバムを聴いたのだが、チック・コリアの「トリオ ミュージック ライブ・イン・ヨーロッパ」の曲や演奏しか記憶に残らなかったのである。
ビル・エバンスの「枯葉」も随分と聴いたはずなのであるが、今、この「枯葉」の演奏は記憶にほとんど残っていない。
しかし「トリオ ミュージック ライブ・イン・ヨーロッパ」の演奏は細部にわたって殆ど今でも記憶に残っている。
結局、今から思うと私はジャズ音楽に興味を覚えたのではなく、チックコリアトリオの演奏するこの「トリオ ミュージック ライブ・イン・ヨーロッパ」の音楽のみに感動し、好きになっていたのはないかと、ということだ。

今日本当に久しぶりにのこのアルバムを聴こうとレコードを出したらカビだらけだったので、レコードを買ってすぐに録音したカセットテープを聴いてみた。







カセットテープもかなり劣化していて音が歪んでしまっていた。
しかし演奏から伝わってくるものは、就職して間もない頃に何度も聴いていたあの頃のままだった。
何ともいえない、言葉に言い表せない魅力。
知らずに惹き込まれていく音楽、演奏

残念ながらYoutubeには無かった。

1.ザ・ループ
2.アイ・ヒア・ア・ラプソディ
3.サマー・ナイト -夜も昼も-

チック・コリア(ピアノ)
ミロスラフ・ヴィトウス(ベース)
ロイ・ヘインズ(ドラムス)

この時代に買ったチック・コリアのアルバム







寺島靖国氏が痛烈に批判したアルバム「リターン・トゥ・フォーエバー」



1941年、米ボストン生まれ。
ジュリアード音楽院中退。
初期はスタン・ゲッツやマイルス・ディビスと共演。
グラミー賞67回ノミネート。23回受賞。
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