7月31日にテレビで放映された、アニメ映画「聲の形」が思いの外いい内容だったので、その後原作のマンガ(コミック全7巻)を中古で買って読んでみた。
昨日完読したが買ってよかった。
アニメ映画はだいぶストーリーを省略していたが、原作(大今良時)はもっと細かいニュアンスが描かれている。
アニメとマンガで決定的に異なるのは、アニメの方が高校最後の学園祭以降、成人式までの日々をカットしていることだ。
ただ、私はアニメの終わり方、とくにラストシーンはマンガよりも優れていると感じた。
このアニメのラストシーンは素晴らしい描写だった。
このラストシーンこそこの作品の最も根幹となるテーマの完結を意味しているからだ。
この作品の舞台となる学校生活はとても過酷に思える。
恐らく現代の学校生活というものはこのようなものなのだろう。
裏切り、不信、悪意、狡猾といったものが渦巻いている。
人の心を深く傷つけることが平然と何の良心の呵責も無く行われているし、しかも容認されている。
ものを隠す、落書きをするなど、実行者が特定されないことを計算のうえで実行する。
卑怯なやり口が当たり前のように認められている。
1970年代までは確かにあった子供らしい純粋な気持ちを持つことがある意味で危険だということが分かる。
仲良しグループだったのに、ある日突然、何のいわれも無く無視され、孤立していく。
取っ組み合いのケンカが無くなった代わりに、陰湿ないじめや嫌がらせが横行するようになった。
この作品の中では、主人公や聴覚障害の少女を始め、描かれている苦悩は生々しく、読むのがつらくなってくる場面もある。
人間不信になって当然の社会だ。
不登校や引きこもりが拡大するのも無理はない。
私がもしこの今の時代に少年時代を送ったとしたら、不登校となるに違いない。
しかしこの作品はこの過酷な学校環境の中で、いかに人間信頼を取り戻し、自分を肯定し、他人を愛することができる人間にまで成長するために何が必要なのか、という問いを提示する。
ここに登場する人物は、主人公を含め、程度の差があれ、過去にトラウマや傷を抱え、そういう自分を嫌い、憎み、悲しみを抱えながらも世の中との関わり合いの中で逃げずに生きていくことを選択する。
とくに主人公が小学校時代に聴覚障害の少女をいじめた報いとは言え、逆に理不尽な制裁やいじめを受け人間不信となり、自己嫌悪に心が支配されるなか、中学、高校と学校内で誰とも交流を持たず孤立する学校生活を送る。
しかしこの主人公は覚悟を決めた捨て身の行動がきっかけとなり、人間性と人に対する信頼を取り戻していく。
いや、この主人公はどんなに過酷な環境に置かれても、心に奥底に埋もれていた「良心」という人間性を失うことはなかった。
心の最も深いところに埋没していた「良心」に反応する人たちが現れた。
その人たちも癒し難いトラウマを抱えていたが、彼らが主人公のこの抑圧されていた「良心」を無意識的に引き出していく。
これこそが人間の意識の枠を超えた根源的な本能なのだと思い知らされる。
人は愛されなかったとき、大きな選択を強いられる。
愛されなかった人は、心に大きなダメージを受けている。
心の癒し難い傷の解決方法として、ときに人は大きな過ちを犯す。
①他人を傷つけることで解決しようとする。
②自分を責め、自分を傷つけることで解決しようとする。
③傷に真正面から向き合い、本質的な解決を行おうとする。
①と②の違いは何であろうか。
それは人間的な「良心」あるか否かではないか。
それは小さいときに少しでも愛情がはぐくまれた経験があるかないかによって決まるのではないか。
②は人間的な良心を自ら捨てることが出来なかった。
②は心が破壊され(言い方を変えれば自ら心を破壊し)、最後に自殺する。
自らの命と引き換えに「良心」を守り通す。
主人公は②の選択をしたが、あるきっかけで③の方向に向かう。
このきっかけは偶然のように見えて、そうとは思えない。
埋没していた「良心」がこの主人公を突き動かし、最後に「捨て身の決断」をしたからである。
この作品は、自分を裸にし、真正面からぶつかっていかないと、決して人との信頼関係を得られないことを随所に強調している。
ぶざまでも、悪くても、未熟でも、おのれの真の姿を受け入れ、相手に真正面からぶつかっていく強さを持つことの大切さを訴えていることが伝わってくる。
物質的に豊かになった反面、精神的には昔よりはるかに生きにくくなった現代社会。
人間が人間性を失わずに生きていくために、どうしたらよいのか、愛されなかった人間はどう生きていったらよいのか、という問いかけに対する本質的な答えを提示した貴重な作品だと評価したい。