緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

現像はしたけど未プリントだった26,7年前のフィルムをプリントしてみた(1)

2023-02-10 21:46:35 | 写真
昨日、今日と猛烈な寒さに見舞われた新あばら家であるが、引っ越しの作業中に発見した、未現像のフィルムの他、現像はしたけどプリントしていなかったネガカラーフィルムが3本分くらい発見した。
今日はその1本目を記事に残しておくことにした。

撮影したのは恐らく26、7年前。
当時JRから発売されていた南北海道エリアへの周遊券を使ってゴールデンウィークの休暇を利用して帰省し、ローカル線の旅に出かけたときに撮影したものだ。
1本目のルートは、函館本線、小樽から余市、仁木、銀山を過ぎ、小沢で降りたときのもの。

小沢は数年前に死んだ親父の生まれ故郷、岩内の近くにある函館本線の小さな駅だ。
だいぶ昔にこの小沢駅から岩内駅まで岩内線という路線が通っていたが廃止された。











古くてさびれた駅だ。無人駅でホームには誰もいない。
この小沢駅で降りて、すぐのところに「トンネル餅」という一口サイズの小さな餅菓子を販売している小さな店があった。
そこでトンネル餅を2箱買ったはずだ。
私が幼い頃、父の父母の墓参りや近くの雷電まで海水浴に行ったときに、よく列車(当時は蒸気機関車がまだ走っていた)内でこのトンネル餅を食べたものだった。

小沢駅の周りは何もない。周辺をしばらく散策した。次の列車まで相当時間が空いていたからだ。
本当に何もない、素朴なところだった記憶している。
季節は5月初め。北海道ではやっと長い冬から目覚め、春の息吹が芽生えてくる頃だ。

駅のそばに、ニセコバスの停留所といっても1本の木のそばに1本の標識があるだけのものだけの粗末なものであったが立っていた。
一体、1日何本走っている路線なのだろう。



この後、函館本線に再び乗り込み、倶知安、長万部、大沼公園まで足を延ばしたようだ。
どこの駅だろう。途中で乗り換えのために降りた駅構内のスナップだ。



共和町とある。調べてみたら岩内のすぐそばだった。
そうすると小沢駅で写したものか。あるいは倶知安駅か。



次に乗る列車が入ってくる写真が次にあったので、小沢駅かもしれない。



下の写真の駅はどこだろう。倶知安、長万部、森のいずれかだろう。



この後、大沼駅で降りたことは間違いない。記憶に残っている。
駅を降りてから周辺を散策したのを覚えている。確かユースホステルか安宿があったはずだ。
日暮れ時。よく晴れた1日だった。

駒ヶ岳が見える。



大沼駅で特急「北斗」を待つ。
下は北斗の車内から撮影した日没の瞬間。



日が変わって、朝早くに出発して襟裳岬に向かったときの途中駅のスナップ。
苫小牧から様似行の普通列車、1両編成に乗る。



この様似までの路線、さっき調べたら廃止されていた。これには驚いた。
ここ数年でどれだけのローカル線が北海道で廃止されたであろう。

下は途中下車した静内駅。





近くはサラブレッドの牧場が点在する。



次回は襟裳岬のフィルムだ。

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20年以上未現像だったフィルムをプリントしてみた(2)

2023-02-06 22:01:22 | 写真
引っ越し作業中に出てきた未現像のフィルム4本のうち今日は2本目を記事にしたい。
先日の記事で書いた「③スズキの小型4輪駆動車で群馬県の妙義荒船林道や山梨県の中津川林道に行ったときの写真」である。

山梨県の中津川林道は初めて走った林道。けっこう記憶に残っている。その時に撮影したフィルムが残っていた。
恐らく1999年の5月8日、今から24年前のことだ。

この林道は入り口が分からず何度も探したことが思い出される。(たいがい林道はそういうものであるが)
この時は1日で約400㎞走った。走行時間13.5時間。昼におにぎりを10分くらいで食べた以外は基本ノンストップだ。
三国峠までは何台かの車と出会ったり、すれ違ったりしたが、峠を下って別の林道に入ってからは恐らく1台も出くわさなかったような気がする。
林道というところはかなり異次元の感覚がするような場所でもある。

そういえば林道から出てそこからの帰り道が分からなくなって、田舎の小さな閉店間際のガソリンスタンドに駆け込んで道を尋ねた。
そしてガソリンを満タンにしてもらって、出るときに後ろのバンパーを壁にぶつけてへこませた。
たしかループ橋あたりで、大スコールに見舞われたはずだ。

中津川林道の頂上地点、三国峠近くで写したものだろう。
林道から険しい山々の連なりを見ることが結構ある。



林間から覗く山々。



三国峠にて。





この三国峠に、よく屋外の工事現場にあるような仮設のトイレがあったが、猛烈に汚いトイレだった。

林道の様子。中津川林道は4輪駆動車でなくても走れるほどの初心者向けの林道だ。



スズキジムニーJA71、前期型。インタークーラー無しの方だ。550CC。5速マニュアルシフト。昭和62年製造。



山に囲まれた盆地に田んぼ?がある。



走りやすい林道。



支線に入ってしばらく行ったら、何と牧場があった。



次は群馬県の妙義荒船林道。これも1999年だった思う。6月頃だった。
妙義荒船林道と言っても、よく知られた妙義荒船スーパー林道とは全く別もの。
途中に土砂が崩落して、通行止めとなっている林道だ。ユニオンマップの「ツーリングマップ関東」にも載っていないような林道である。
この林道が最も面白かったと記憶している。
途中で土砂崩落部分があるが、そこを慎重に走行して乗り越えて進み、最後は完全に通行止めだった。確か柵があったと思う。
支線がいくつかあり、1か所、暗くて、細くて、ものすごく急こう配の支線があった。急こう配の坂の手前に乗り捨てられた車の残骸が残っていた。
先に進めなくなって置いてきてしまったのか。単に廃車する車を捨てただけなのか。
ここはギアをローにして、一瞬の気も抜かず走り切らないと登れないような坂だった。

この林道の入り口近くに部屋が小汚さそうな古い国民宿舎があったはずだ。
林道を入ってしばらくするとトンネルがあった。



夜は絶対怖いだろうな。肝試しにはいいかもしれないが。

途中で車を降りて写した山々の連なり。



そして林道の向こうに、妙義山の荒々しいシルエットが見える。




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20年以上未現像だったフィルムをプリントしてみた(1)

2023-02-05 00:14:25 | 写真
新あばら家への引っ越し作業で、撮影したけど現像、プリントに出さなかったフィルムが4本出てきた。
20年以上も前に撮影したものだ。
これをビックカメラに持っていき、現像+プリントしてもらった。
何を撮ったか全く覚えていないでの、どんな写真が出来上がるか楽しみだった。
反面、古い未現像のフィルムだったので駄目になってしまっている可能性もあった。

昨日ビックカメラでプリント結果を受け取ってきたが、劣化したものもあった。
撮影した内容はこんな感じだった。

①姉がシンガポールで最初の子供(私から見て姪)を産んでから2年くらいの頃、日本に一時帰国した際に会って、姉と当時2歳くらいだった姪を撮影した写真。
②どこかの(東京だと思う)資料館の内部を撮影したもの。
③スズキの小型4輪駆動車で群馬県の妙義荒船林道や山梨県の中津川林道に行ったときの写真
④鶴見線に乗ったときの写真と北海道の新十津川駅に行ったときのもの

今回は④の写真を記事に残すことにした。
フィルムがだいぶ劣化してしまっていたようで、写りはかなり悪い・



下の車両は、「尻手ー浜川崎」という行先の表示がある。
浜川崎といえば私の勤務先の取引先の工場があるところだ。



鶴見線の昔の車両はもっと古かった記憶がある。実際に乗ったことはないが、外から確か焦げ茶色の古い車両が走っているのを一瞬だけど見たことがある。

「扇島石油」と書かれた石油コンビナートが見える。



レインボウブリッジ?。



そして北海道の札沼線の終着駅「新十津川」に行ったときの写真。
この路線は最近廃止された。
この路線は後半が超ローカルだった記憶がある。








次回は、③を記事に取り上げたい。


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懐かしい国鉄時代の鉄道

2019-09-20 22:15:08 | 写真
先日、何かを探すために押し入れのガラクタ箱を引っかき回していたら、古い写真が出てきた。
今から約40年前の高校2年生の時の修学旅行の写真だった。
その写真の中に昔の国鉄時代の列車、修学旅行で実際に乗った鉄道や、帰りの上野駅のホームに停車中の列車を撮ったものだった。

修学旅行は京都、奈良、東京だった。
函館までは特急「北斗」、函館-青森間は青函連絡船に乗船し、青森から京都までは寝台特急「日本海」、奈良から東京までは新幹線で移動、帰りは上野から青森までは寝台特急「ゆうずる」だった。





高校2年生のとき、何のきっかけだったか思い出せないのだが、鉄道ファンになっていた。
当時私は嫌な高校にしか入れなかったくやしさから、勉強ばかりするようながり勉にすっかり生まれ変わってしまい、とても暗い高校生活を送っていた。
それでもギターとこの鉄道への興味が何とか自分を持ちこたえさせていた。
鉄道と言っても、貨物列車を牽引する機関車が好きで、とくにディーゼル機関車であるDD51という型式の機関車が好きだった。
学校へ行くバスの途中で、朝の8時20分に駅に止まっているDD51を見たものだった。
そして学校近くのバス亭から猛ダッシュして学校に滑り込むのだが、何度かは始業時間に間に合わなかった。
そしてSという物凄く嫌だった担任から出席簿で頭を叩かれた。

昔の時代のディーゼルや電気機関車、気動車の特急列車のデザインは今の時代の列車のデザインよりもはるかに優れている。
上と下の写真の電気機関車(ED75とEF64)、そして特急「北斗」のデザインは素晴らしい。
私はデザインには全く素人ではあるが、これらの鉄道のデザインがとてもバランス感に優れ、均整のとれた形状をしていることが分かる。
構造、形状、色使い全てがシンプルではあるのだが、無駄のない均整のとれた洗練された印象を強く受ける。
これは鉄道のみならず、この時代のバスや乗用車にも当てはまる。
今の時代の鉄道はどうか。
ひどいと言わざるを得ない。
今、通勤で東京駅で乗り換えするのだが、東京駅から出る茨城の日立行きの特急のデザインなど、何、コレ?と思ってしまう。
そして極めつけは、北海道で以前一世を風靡したディーゼル機関車DD51に取って変わって出現した、何ていう型式の機関車か分からないが、丸々と中年太りした、思わずプッと吹き出してしまうようなデザインの機関車だ。
DD51とは雲泥の差である。
よくこんなデザインにしたものだ。
DD51を設計した人がみたら、おもわずプッと吹き出してしまうに違いない。

はっきり言って、素人の目から見ても、今の鉄道や車やバスなどのデザイン力は昔に比べて劣ってきていると感じる。
これらのデザインの頂点は1960年代半ば頃から1970年代までだったと思う。
この時代のデザインの完成度の高さからすると、そこから離れたデザインにするということは、均整のとれた美しさを自ら放棄しているようなものだ。

下のオレンジ色の機関車がDD51。
高校2年生のとき、実家近くの踏切で撮ったものだ。
これほど均整のとれた形状の鉄道を見たことはない。
強いてあげればEF58くらいか。


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フィルム式カメラはどうなった

2012-02-12 15:25:55 | 写真
こんにちは。
今日は1日休むことができそうです。会社に使われる年代なのでしかたがないのです
が。
さて、今カメラというと殆どがデジタルカメラのこと言うのですが、10年くらい
前まではフィルム式カメラが主流でした。
昨日会社で仕事中にふと、そういえばフィルム式カメラって今は売っているのかな、
ということが浮かんできました。
私は現在は中断していますが、昔、重い撮影機材を担いで美しい自然を撮りに日本
のあちこちを旅していたことがあります。
若い頃は仕事も忙しくなく時間に融通がきいたことや、その頃は精神的に辛く、何か
打開策を求めて行動を起こすためでもありました。20代終わりから30代半ばくら
いの頃です。
昨日久しぶりにその当時使っていたカメラを出してみました。



上の写真の奥のペンタックスMXは中学校時代に新聞配達をして貯めた金ではじめて
買った自分のカメラで、手前のキャノンF1は社会人になってから買ったものです。
いずれもマニュアルフォーカス、機械式シャッターの一昔前のカメラですね。
真鍮製の金属ボディに焼付け塗装を施した頑丈な筐体、ピント合わせ露出合わせ、
フィルムの巻上げ・巻き戻し、シャッター速度の指定など全て手動で行うものでし
た。まさに機械というべき存在でしたね。
その後、オートフォーカスのカメラに取って代わられますが、金属ボディから樹脂製
ボディに変わり、操作は自動化されました。機械というより電気製品という感じで
すね。オートフォーカスのカメラには見向きもしませんでした。
フィルムはネガカラーフィルムとリバーサルフィルムの2種類がありましたが、風景
写真を撮るにはリバーサルフィルムを使いました。
ネガカラーはいくら撮影時に露出を自分で決めても、プリントしたらかなり違う結果
になることが多かったからです。これはフィルムの特性によるものであり、発色や
色の濃さなどはプリント作業に左右される面が大きいからです。
その点リバーサルフィルムは撮影時の露出を忠実に反映しやすいので、値段は高い
ですがよく使いました。

下は今まで撮影した写真の一部です。



有楽町の1枚以外は全てリバーサルフィルムで撮影したものです。
今まで撮影旅行に行った中で最も印象に残っているのは、四国の大堂海岸と東北の
南八甲田です。
四国の大堂海岸はそこまでたどり着くまでが大変でした。確か新幹線で岡山まで行き、
岡山から特急に乗り換え、瀬戸大橋を渡って四国に入り愛媛県の宇和島まで行き、
宇和島から長距離バスに乗り換え宿毛まで行きそこで1泊。次の日の朝、バスで大堂
海岸の入り口まで行った記憶があります。
その景色は素晴らしいものでした。11月初めでしたが人が誰もいなく、こころゆく
まで撮影に集中できました。下はその時撮った写真の一部です。



次に南八甲田ですが、行ったのはまだ登山ブームが始まる前の頃で、マイナーな
山でした。昭和初期に建設された軍用道路の残骸が残る登山ルートをゆるやかに登って
いき、ルートの最後に櫛ガ峰という山があり、急勾配でやっとの思いで登った記憶が
あります。
下の写真は櫛ガ峰山頂から撮影した池塘です。この近くに黄瀬沼という沼がありま
したが、静かな神秘的な沼でした。
この南八甲田の登山ルートから十和田湖に抜けるルートがあるのですが、そこは
行かずに元のルートで下山しました。



宿泊は大体4千円以下で泊まれるところを利用しましたね。
ユースホステルが多かったです。下はユースホステルに泊まって押してもらった
スタンプです。



交通手段はJR中心です。今はもう廃止された周遊券をよく利用しました。青春18
きっぷを使ったこともあります。



デジタルカメラは撮影してすぐに結果を見ることができ、気に入らなければ取り直し
もできますが、フィルム式カメラは現像してみないと良く撮れているかどうかは
わかりません。だから露出の決定や構図などは真剣に集中しながらやったものです。
どんどん便利になって進化していくカメラですが、撮影という行動をしている実感
は無くなるような気がします。

撮影旅行には久しく行っていませんが、行けるようになるのは仕事の第一線から退いた
時かな。
またこのカメラを持って未知の自然を撮ってみたいものだ。
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