緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

原博 ピアノのための21のエチュードを聴く

2013-11-30 23:05:56 | ピアノ
こんにちは。晩秋が終わり寒い冬に移ろうとしています。
今日何気なくレコードの束を覗いていたら、原博の「21のエチュード」題するピアノ曲が出てきたので、これを聴くことにしました。
原博の曲との出会いは今から10年以上前でしょうか、ギター曲で「挽歌」という曲の楽譜を買ったときです。
ちょうど邦人作曲家のギター曲を探し求めていた頃で、東京目白のギタルラ社で見つけました。この楽譜を買ったとき、たまたまギタルラ社の社長が店にいて、「この曲はものすごくいい曲ですよ。」と絶賛していたのが思い出されます。また原博が数年前に亡くなったことも教えてくれました。



家に帰って実際に弾いてみると、たしかにものすごくいい曲でした。この曲は過去に弾いてきた曲の中でも思い入れのある曲ですね。元々ギターアンサンブルの中のある楽章を作曲家自身が独奏曲用に編曲したものですが、ギタルラ社の社長の強い勧めもあったようです。この曲は東京国際ギターコンクールの本選課題曲にもなりました。
原博のギター曲は挽歌以外に「オフランド」という曲があります。挽歌が叙情性の濃い作風なのに対し、オフランドは前奏曲とフーガで構成される古典形式の曲。後で紹介するピアノ曲「24の前奏曲とフーガ」(1980~1981年)の直後に作曲されたことから、25曲目の前奏曲とフーガともいわれています。



原博のギター独奏曲で出版されたものは以上の2曲です。少ないですね。なぜもっとギターに関心を向けて作曲してくれなかったのか。多分原博に作曲を働きかけるギタリストが殆どいなかったからではないかと思います。現代音楽が衰退した1980年代以降、原博のような作風の曲が復活されることはなく、ギター界は安易で聴きやすい曲を求める傾向に進みました。
さて本題ですが、原博のピアノ曲はかなりあります。
最初に聴いたのがピアノソナタ第1番~第4番でしたが、結構難解な曲でした。10年くらい前に聴いたのですが、ギター曲「挽歌」のような曲想とは程遠い曲で、少しがっかりしました。現代音楽を徹底して批判した原博ですが、このピアノソナタは現代音楽的に聴こえましたね。



その後、24の前奏曲とフーガという曲があることを知り、CDを買おうと思いつつ、機会を逃してしまって廃盤となってしまった。2年くらい前に中古でCDを見つけました。
この曲集はじっくり聴くと聴き応えがあると思います。前奏曲とフーガというとバッハやショスタコーヴィチを思い浮かびますが、原博独自の音楽だと思います。この曲集を高く評価する人もいます。



今日聴いたのは5年くらい前に買った古い中古レコードで「ピアノのための21のエチュード」と題するものですが、ピアノの初級から中級にかけての学習者のために作曲された曲集ですが、短くもなかなか味わいのある曲です。演奏者は原博のピアノ曲を多く取り上げてきた北川暁子氏によるもの。



初級の練習曲というと形式的なつまらない音楽が多いのですが、このエチュードは音楽的に鑑賞を楽しめるレベルの高い音楽だと思います。
第1曲目の「オルゴール」は晩年に作曲された60のバガテルの中の1曲「悲歌」の元になった曲だと思います。悲歌を思わせる旋律が現れます。シンプルすぎるほどシンプルですが、繊細な曲です。
印象に残ったのは、No,12「木陰の夢」とNo.21「ロンド・メランコリック」。
「木陰の夢」を聴くと、遠い昔、1960年代から1970年代半ば頃を思い出します。何かその頃に聴いた音楽がかすかに感じられるのです。この21のエチュードが作曲されたのが1966年ですから、当時の時代の空気が曲に込められているのかもしれません。今の時代ではとても創作できないこの頃の日本の抒情を感じることができます。
原博はピアノ曲で60曲からなる叙情的小曲集も作曲しています。この曲集は元は60のバガテルと呼ばれていましたが、後で1曲ごとに題名が付けられ叙情的小曲集という呼び方に変わりました。



原博はこの21のエチュードのレコードの解説で次のように述べています。「このエチュード集では実験的な意味での野心的なこころみは一切しませんでした。(中略)もしこれらの曲集がある意味で野心的であるとするなら、それは新式でないということを決しておそれないこと、喜び悲しみ諧謔激情など、すべての情動にわたって自由であり、感じたことを感じたままに表現するという音楽のもっとも本来的な基本にしたがうということにあります。」
これが原博の音楽に対する信念です。彼は伝統的な機能調性で音楽を作ることに徹底的にこだわりました。彼は12音階技法や無調で作られたものを決して音楽であると認めませんでした。
しかし無調の音楽でも彼が言った「すべての情動にわたって自由であり、感じたことを感じたままに表現するという音楽のもっとも本来的な基本にしたがう」音楽は実際にあるのです。
私はどんな音楽技法を用いようと、人間の根源的な情動を表現することは可能だと思っています。機能調性を使うか無調を使うかは音楽家の信念によると思います。徹底した無調音楽で人間の心の闇を表現した作曲家がいます。
自分の信念にもとづき創作に集中するならば、自分の信念とは相反する音楽は自分には関係ないものとして放っておけるのではないか。自分と異質なものが大勢を占めていたとしても、その中で自分独自の創造だけを見つめるならば、その創造物は比類のない原石のような輝きを放ったに違いありません。
原博が現代音楽を徹底して批判するエネルギーを自らの音楽の創造に向けていたならば、もっと素晴らしい音楽を作ることができたのではないか。
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モーツァルト作曲 ファンタジア ハ短調(KV396)を聴く

2013-11-23 22:01:22 | ピアノ
こんにちは。
今日は祭日でしたが朝から仕事でした。今週、ツィメルマンや宮沢明子のピアノ・コンサートがあり、演奏曲目にベートーヴェンのピアノソナタがあるなど聴きに行きたかったのですが、かないませんでした。
久しぶりにモーツァルトを聴きました。
モーツァルトはあまり聴きません。ピアノ曲ではクララ・ハスキルやホルショフスキの弾くピアノソナタのごく一部、ゲザ・アンダの弾くピアノ協奏曲くらいでしょうか。
モーツァルトの音楽は装飾的で軽いというイメージがありました。あまり苦労せず豊かな暮らしの中で作られた音楽というような。
しかし色々調べてみるとモーツァルトはかなり苦労しています。全然豊かな暮らしではなかったようですね。35歳の若さで人生を閉じています。先入観を修正しなければいけない。
このモーツァルトに対する音楽観を見直すきっかけとなる録音を最近聴きました。
ファンタジア ハ短調(KV396)という曲です。
Mozart Wolfgang Amadeus Fantasia in C minor K 396 385f



録音は旧ソ連時代のピアニスト、マリヤ・グリンベルクによるものです(1967年録音)。



この演奏も最高に素晴らしい。
前半の悲痛な旋律が突き刺ささってくるような芯の強い力強い音、自然な感情の流れ、強弱の幅の広さ、低音から高音まで楽器の最高の魅力を引き出した演奏。
何度も同じことを書くが、理屈抜きに何度も聴きたくなってしまう。
何で何度も聴きたくなってしまうのか。
それは普段、日常で味わうことのない感情、前向きなエネルギー、気持ちを鼓舞するような力強さ、深い悲しみ、思いやりに満ちたやさしさなど、人生でそう多くは感じることのない感情を擬似的に感じられるからではないかと思う。そしてそれらの感情は人が誰もが持っている根源的なものである。
こういう根源的な感情を聴き手から引き出すことのできる演奏が素晴らしい演奏なのではないかと思います。
先月行われたNHK主催の合唱コンクールで高田三郎作曲の「水のいのち」の中の「川」という曲がある高校により演奏されました。
実はこの曲はCDで以前聴いていましたが、その時は殆ど印象に残っていません。しかしこの高校の演奏を初めて聴いたときから、その演奏が耳に残り続けていました。
その後NHKのホームページでその時の演奏が公開され、以後何度も聴かせてもらっています。
演奏者により曲から受け取れるものは大きく違います。
いい演奏とは、曲自体から生じるものを純粋に、無心で表現している演奏だと思います。
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ベートーヴェン ピアノソナタの名盤(6) 第6番

2013-11-16 22:47:44 | ピアノ
こんにちは。今日は快晴で日中は暖かく過ごしやすい1日でした。
しかし朝晩は暖房を入れるようになりました。暖房を入れると湿度が適度に下がってくれるので楽器にとっては助かります
前回のブログでベートーヴェンのピアノソナタ第9番の私が選んだ名盤を紹介しましたが、最も素晴らしい演奏だったのは旧ソ連時代のピアニスト、マリヤ・グリンベルク(1908~1978)でした。
グリンベルクの演奏に出合って半年ほどですが、かなりの録音を集めて聴いてきました。聴けば聴くほど感動が増すと共に、このピアニストの底知れない感性や表現能力に驚かざるをえません。
私は今まで出会ったピアニストの中でこのマリヤ・グリンベルクの音楽と最も波長が合います。他のピアニストではフランスのジャン・ドワイアン、ジャン・フィリップ・コラール、ハンガリー出身のゲザ・アンダそれからチリ出身のクラウディオ・アラウがいます。
先日、上野の音楽資料室でマリヤ・グリンベルクの弾くバッハの曲を録音したCDを聴かせてもらったのですが、そのCDの解説書の中でグリンベルクが1946年に発言したコメントが記載されていました。以下抜粋させてもらいます。
「最近私は、どのように弾かねばならないかという考えや、音楽院時代に学んだ多くのこと、そして権威と呼ばれる人たちの意見からさえも自由になろうとしています。研鑽を積んだ今こそ、これらの枷から自由になり、そして演奏する作品をまるで自分が作曲した作品のように感じることもできるのだとわかりました。音楽自体から生じていないものを背負い込むのは、もうやめようと思うのです。」
この発言が、彼女がバロックや古楽を演奏する際の考え方を述べたものなのかはっきりしませんが、いずれにしてもどんな音楽に対しても彼女が取り組む際の基本姿勢、根幹となる音楽観を示していると思います。
上記の発言において最も重要なことは、「演奏する作品をまるで自分が作曲した作品のように感じる」という箇所だと思います。
1980年代からでしょうか。楽譜に忠実にあるべきだ、とする考え方が間違ってとらえられ、楽譜に書かれたものが絶対的唯一のものであると解釈し、頭をいろいろ使って、この部分はこう演奏すべきだ、この音の強さはこのくらいが正しい、とか色々計算して、分析して完成されたものを実際の演奏に移すという演奏法が主流になったように感じます。
しかし1980年代以降で、聴く者を本当に感動させてくれる演奏は逆にそれ以前の演奏よりも少なくなったのではないでしょうか。
昔の演奏家、例えばピアニストであればベンノ・モイセイヴィッチ(1890~1963)やシューラ・チェルカシー(1911~1995)は、楽譜そのものを自分で部分的に変更して演奏しているものもあります。そして彼らの演奏には、「自分の演奏はこうなんだ」という強い個性が出ています。ギターで言えばアンドレス・セゴヴィア(1893~1987)の演奏がそうですね。
昔の時代だからこのようなことが堂々と出来たのかもしれません。彼らが活躍した時代には未だコンクールなども殆どなかったことも関係しているかもしれません。コンクールで譜面と異なる演奏をしたら失格となる場合があります。
しかし今はピアノにしてもギターにしても国際コンクールというのが至る所にありますね。
コンクールに優勝しないとプロになれない時代になっている。だからコンクールで優勝することを目的に演奏を目指すようになる。さらに演奏者はコンクールの審査に有利な演奏をしようとするようになると思いますね。つまり楽譜に書かれたことに完全に従い、へたに音色に変化をつけると評価を損ねかねないから、音を均一にする。つまり表面的に美しい均一な音で弾こうとする。技巧が凄いと聴衆は熱狂するから、軽いタッチで速い速度で弾こうとする。自己不在の演奏、他者が望む音楽を想定した演奏。
だいぶ横道に反れたがコンクールに優勝することが目的となって、音楽の本質、音楽とは何か、音楽を人に聴かせるということはどういうことなのか、ということを忘れているように思います。1980年代以降から現在までの演奏で、テクニックは凄いし音色も美しい、聴いた一瞬、上手い!、と感じてもそれ以上のものはない。もっと繰り返し聴きたいと思うものは少ない。
グリンベルクが冒頭の発言で、「音楽自体から生じていないものを背負い込むのは、もうやめようと思う」という心境に達したのは、このような頭を使った演奏や、有名になりたいという野心の無意味さに気づき、純粋に音楽そのもの=作曲者の心情、つきつめれば人間の根源的な感情を音楽で表現することこそが自分の使命だと感じたに違いありません。
今日の本題ですが、ベートーヴェンのピアノソナタ第6番の演奏で名盤と呼べる録音の紹介です。
今まで聴いた演奏は次のとおりです。
①アルトゥール・シュナーベル(1933年、スタジオ録音)
②スヴァヤトスラフ・リヒテル(1980年、ライブ録音)
③フリードリヒ・グルダ(1968年、スタジオ録音)
④ヴィルヘルム・バックハウス(1964年、スタジオ録音)
⑤ディーター・ツェヒリン(1969年、スタジオ録音)
⑥マリヤ・グリンベルグ(1964年、スタジオ録音)
⑦マリヤ・グリンベルグ(1961年、スタジオ録音)
⑧ヴィルヘルム・ケンプ(1951~56年、スタジオ録音)
⑨ヴィルヘルム・ケンプ(1964年、スタジオ録音)
⑩クラウディオ・アラウ(1965年、スタジオ録音)
⑪エリック・ハイドシェク(1967~1973年、スタジオ録音)
⑫イーヴ・ナット(1955年、スタジオ録音)
⑬タチアナ・ニコラーエワ(1984年、ライブ録音)
⑭ジョン・リル(録音年不明、スタジオ録音)
⑮パウル・バドゥラ・スコダ(1969年、スタジオ録音)
⑯ウェルナー・ハース(1963年、スタジオ録音)
⑰グレン・グールド(1980年?、スタジオ録音)

この第6番は、ベートーヴェンのピアノソナタの中でも比較的マイナーな曲だと思います。ベートーヴェンが20代の後半に作曲したこのソナタの第1楽章と第3楽章は、若いエネルギーに溢れる希望に満ちた気持ちが強く感じられますが、第2楽章は悲痛ではないにしても、悲しくも繊細な音楽です。若いゆえの純粋さが伝わってきます。私はこの第2楽章が好きです。
さて、今回聴き比べした録音の中で最も聴き応えのあったのは、⑦マリヤ・グリンベルグ(1961年、スタジオ録音)です。
グリンベルクの第6番の録音は2種類あり、1つはよく知られたソナタ全曲録音(1964年~1967年にロシアのメロディアで録音されたもの)の中の録音と、もう一つは、1961年にLesson of Master,vol 1/in Russianとして教育目的に録音されたものです。



素晴らしかったのは1961年の方。1964年の方はyoutubeでも投稿されていると思いますが、グリンベルクの最盛期を過ぎた頃の演奏であり、音が悪い上に1961年の演奏とはかなり様相が異なっています。グリンベルクの最盛期は1950年代~1962年くらいまでで、その頃の演奏は凄いものばかりです。有名なソナタ14番「月光」の録音だってメロディア(のちにベネチアからも発売)から出た全集よりも、1961年の放送用に録音された演奏の方が断然いいです。
この教育用に録音された1961年の演奏は、グリンベルクが弾いたベートーヴェンのピアノソナタの中でも屈指の名演だと思います。
録音はモノラルでかなり悪い状態で、恐らく編集無しで一発録りされたと思われ若干の破綻もありますが、他の奏者の演奏をはるかに超えた真に素晴らしいものだと思います。
今回この第6番を聴いて、大きな感動を得られた演奏はグリンベルクのものしかありませんでした。
第1楽章アレグロは彼女の演奏が生命力に溢れ、瑞々しい音で満たされています。これほど聴く者に力を与える演奏は他に無かったです。
そして彼女の出す音はピアノという楽器の魅力を最大に引き出したものと言えます。
例えば下の部分などは、力強い低音を出せる奏者はそういませんでしたが、出したとしても太いが鈍い低音で、かえってこの音を強調すると変に聴こえるものもありました。



グリンベルクの低音はピアノらしい自然な音でありながら、独特の力強さ、底から響いてくるような魅力のある音です。このような魅力ある低音を出せるピアニストはまず数人しかいなのでは。ギターでもこんな低音を出したいくらいだ。
第2楽章アレグレットは一転悲しく感傷的な曲想に変わります。





ベートーヴェンが何を体験してこのような気持ちになったのか色々想像してみました。晩秋か冬の寒い時の夜空を見てふとこのような感傷的な気持ちになったのか。悲痛ではないが純粋な悲しみが感じられます。



グリンベルクのこの第2楽章を聴くと強く感情が湧き起こってきます。まさに彼女はこの曲を冒頭で述べた「自分が作曲した作品のように感じて」演奏しています。ここが大事なところです。彼女はこの悲しい旋律を作者が感じていた気持ちそのものを感じて表現していることです。だから聴く者も同じ感情が心の底で刺激されて湧き起こってくるのです。
第31番第3楽章の「嘆きの歌」もそうでしたが、これほど悲しい気持ちを音にして、聴く者の心に訴えかける演奏のできる奏者は殆どいないと思います。彼女が長い間の研鑽と過酷な人生体験から会得するに至ったものだと思います。
音に感情エネルギーを込めること、楽器のもつ魅力ある音を最大に引き出すこと、この2つのことが器楽演奏で必要な最も大切であることを彼女の演奏でさらに確信した。
下記の箇所などの低音も彼女しか出せない凄い音です。



第3楽章プレストは、軽快な躍動感を感じる明るい曲です。
冒頭を過ぎたあたりでフェルナンド・ソルのグランソロの一部を感じさせる部分が出てきますが、ソルはベートーヴェンより8年遅れて生まれたのでほぼ同時代を生きたわけであり、ソルはベートーヴェンのこのソナタを聴いたことがあるのかもしれません。
今回大いに感動させられた演奏はグリンベルクの1961年の録音のみでしたが、他にはクラウディオ・アラウとヴィルヘルム・ケンプの旧盤が良かったことを付け加えておきます。

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【追記20131117】
マリヤ・グリンベルクのこの第6番の録音が2種類あると述べましたが、今日もう1種類あることに気づきました。
ソナタ第1番を紹介したときのCDの中に入っていました。



録音は1950年、スタジオ録音で彼女が42歳頃の演奏です。
基本的には先に紹介した1961年の教育用の録音と殆ど同じですが、技巧的には最も力がみなぎっていた頃の演奏で、第1楽章、第3楽章は更に力強さを感じます。特に低音の独特の響きは凄い!
但し第2楽章はやはり1961年の方が数段優れています。
50歳を過ぎてそれまでのさまざまな体験から得た感じ方が滲み出ていると思います。
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ベートーヴェン ピアノソナタの名盤(5) 第9番

2013-11-10 00:49:27 | ピアノ
こんにちは。今日は一日中どんよりとした曇り空で、夜になると雨が降り始めました。
ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲の聴き比べを始めて半年以上経ちますが、ほぼ毎日聴いています。
ベートーヴェンのピアノソナタを聴いていると、ベートーヴェンが人生の途上でさまざまな体験を通して味わった感情を表現していることに気づきます。
人間の感情をテーマにした曲を創造することは、たいへんなことだと思います。とくにクラシック音楽で表現することはなおさらだと思います。
70年代にフォーク・ソングが流行りました。若い人たちがその時に感じた純粋な気持ちを詩や曲で表現したものですね。その頃中学生だった私はギターに熱中していましたが、かぐや姫とか風といったグループのフォークソングも聴きました。
フォークソングのような音楽形態で作者の気持ちを表現することは直截的であり、聴き手にも伝えやすいが、表現できる感情の幅は限られたものになると思います。聴き手がたやすく共感できる範囲にとどまると思います。
フォークソングは親しみやすかったが、自分はやはりクラシック音楽に気持ちが向いてしまいます。クラシック音楽の数は膨大ですが、人間の感情、それも深く、複雑で、単純ではない、良くも悪くもさまざまな精神的体験から生み出されたものに興味を覚えます。
ピアノ曲であれば、ベートーヴェンとフォーレの音楽にそのような要素を強く感じます。
両者共、後年になるにつれて耳が聞こえなくなっていったという体験に共通性がありますが、それ以上に人間はここまで深い感情を体験できるのか、そしてそのような深いさまざまな感情を音楽で表現したことに対し驚きを感じます。
今回紹介するベートーヴェンのピアノソナタ第9番はベートーヴェンが20代の後半に作曲された曲ですが、彼が作曲家として希望に満ちていた当時の心境が感じられます。
第1楽章アレグロは、よく晴れた気持ちのいい日に、何か嬉しいことがあって気持ちが高揚しているさまが感じ取れます。またはこれから何か嬉しいことをしていきたいという、強い前向きな希望を感じます。ベートーヴェンが軽快な足取りで歩きながらこの曲が浮かんできたのかもしれません。



次の部分は非常に情熱的なものを感じます。



アルペジオとユニゾンのメロディの組み合わせですが、この第1楽章の要だと思います。このアルペジオを聴くと、フェルナンド・ソルの「グラン・ソロ」の一節を思い出します。ユニゾンのメロディはとても強い感情が込められています。
この部分の後に強い和音と上昇音階が組み合わさるフレーズが続きますが、喜びの気持ち、嬉しい気持ちが最高に表現されています。
第2楽章アレグレットは、やや暗く陰鬱な感じがしますが、悲痛な感じはしません。繊細な表現が要求される楽章だと思います。単に楽譜どおりに弾くだけではなく、作者の気持ちをそのままに表現できるかが問われると思います。華麗な技巧を出す箇所は全くないですから。



この第2楽章の速度は奏者によりまちまちです。アレグレットという速度指定が奏者によりさまざまな受け取り方があることに気づきます。
第3楽章ロンド・アレグロ・コモドは、軽快なテンポに加え力強い表現が求められる箇所が頻繁に現れます。強弱の少ない平坦な表現だと聴き手に強く伝わってきません。
ベートーヴェンにしては形式面を強調した曲だと思いますが、音の表現は細かく指定しています。



さて今回もいろいろな奏者の演奏の聴き比べをしました。聴いた録音は以下のとおりです。

①アルトゥール・シュナーベル(1932年、スタジオ録音)
②スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音)
③スヴァヤトスラフ・リヒテル(1947年、ライブ録音)
④フリードリヒ・グルダ(1968年、スタジオ録音)
⑤ヴィルヘルム・バックハウス(1968年、スタジオ録音)
⑥ディーター・ツェヒリン(1969年、スタジオ録音)
⑦マリヤ・グリンベルグ(1965年、スタジオ録音)
⑧ヴィルヘルム・ケンプ(1951~56年、スタジオ録音)
⑨ヴィルヘルム・ケンプ(1964年、スタジオ録音)
⑩クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)
⑪エリック・ハイドシェク(1967~1973年、スタジオ録音)
⑫イーヴ・ナット(1953年、スタジオ録音)
⑬タチアナ・ニコラーエワ(1984年、ライブ録音)
⑭ジョン・リル(録音年不明、スタジオ録音)
⑮パウル・バドゥラ・スコダ(1969年、スタジオ録音)

この中で最も聴き応えがあり、感動した演奏は次の3つです。
⑦マリヤ・グリンベルグ(1965年、スタジオ録音)



マリヤ・グリンベルクは2000年近くまで殆ど全くその存在が知られていなかったピアニストですが、その演奏を聴くにつれて世界でも屈指の巨匠であると感じずにはいられないほどの素晴らしい演奏です。技巧や表現力以上に、作曲者の深い心情を直截的に聴き手の心に刻み付ける能力が凄い。類まれな能力というより、さまざまな深い体験から得た感情を持っているから自然に作者の心情を出せるのだと思う。頭で考えてこう表現しようというレベルではないです。作者の気持ちそのものを感じることができるから、曲自体に同化しているのだと思います。
ベートーヴェンのピアノソナタの中でも後期の31番や32番やフォーレの夜想曲第13番などの精神性の深い曲などは、とくにこのようなレベルまで到達しないと聴き手に作曲者の心情をそのままに感じさせることはできないと思います。
第1楽章の先に述べた下記の箇所などは他のどの奏者の演奏よりも強く心に残ります。



グリンベルクのこの曲の演奏を聴いたならば気持ちにエネルギーが生まれていることに気づくかもしれません。
第2楽章はやや遅めのテンポですが、この演奏も作者の気持ちがそのままに現れています。他の奏者の演奏と聴き比べるとなお分かります。喜びや嬉しさの裏の気持ち、不安や弱々しさ、頼りなさ、上手くいかないもどかしさ、やるせない悲しい気持ち、等々。残念ながら第2楽章の終結部の録音が損傷してしまっていることです。
第3楽章は非常に早いテンポですが、力強い音、強弱の幅が広い表現が聴きどころです。
均一で単一な音の演奏では聴き手の気持ちを捉えることはできないと思います。ダイナミックで力強い表現が求められます。
次に感動した演奏は⑩クラウディオ・アラウ(1967年、スタジオ録音)です。



オーソドックスで地味な演奏に聴こえますが、注意して聴くと凄い演奏です。音の幅が凄いです。グリンベルクもそうですが、これほどピアノという楽器から最大限に魅力ある音を引き出せる奏者は数えるほどしかいないと思います。特に低音は何層にも音が重なったような重厚かつ惹きつけられる魅力に満ちている。
そして音楽の流れが自然で、作曲者の求める指定にも忠実です。それは単に楽譜という紙に書かれたものに機械的に忠実という意味ではなく、作曲者が感じ、音楽として創造し曲にしたものを忠実に表現するという意味です。以下の箇所などでそれを感じることができる。



アラウの演奏を聴いていると音が生きているという感じがしてきます。それは音に感情エネルギーが伝わっているからなのだと思います。演奏以前にこの曲に自分は何を感じているのか、まずそのことこそが音楽表現に最も大切なことをあることを教えられます。
3番目の演奏は②スヴァヤトスラフ・リヒテル(1965年、ライブ録音)です。



ベートーヴェンのピアノソナタではスタジオ録音よりもライブ録音が多いですが、ミスが殆どなく完成度の高い演奏が多いです。
リヒテルの演奏は技巧が華やかに聴こえますが、単に技巧が凄いからではなく、音の出し方、特に弱音から強音までのレンジの広さ、美しい優雅な強音を出せるところが凄いと思います。特に第3楽章は、この第9番のベストの演奏だと思います。ただリヒテルの演奏を聴き続けて感じるのは、感情表現においてはグリンベルクほどのものはないです。リヒテルはグリンベルクの演奏をどう見ていたかは興味のあることだが、リヒテルとグリンベルクは親しかったという記録があります。ただグリンベルクはリヒテルのバッハの演奏解釈には否定的だったようだ。これについてはいつか述べたいと思います。
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2013弦楽器フェアに行く

2013-11-03 20:06:42 | ギター
こんにちは。
三連休も半分を過ぎました。
この11月初めの三連休には毎年、弦楽器フェアというイベントが東京北の丸公園内の科学技術館で開かれるのですが、日本国内の弦楽器(ヴァイオリンやチェロを始め、ギター・マンドリン、リュートなど)製作家の楽器が展示され、入場料千円で自由に試奏できるというものです。
私は最終日の今日行きました。前日は割引などで格安のカプセルホテル(1泊600円)に宿泊しました。旅行でなければカプセルホテルがいいですね。ただ耳栓がなければ一睡もできないでしょう。他の人のいびきや、寝相が悪いのか壁を打つドシンという音が朝まで響き渡るので注意が必要です。
今日は開場時間の10時ちょっと過ぎに到着したが、まだ混んでないので今回は殆どの製作家のギターを一通り弾くことができました。







今日は他にも予定があったのでゆっくり試奏する時間がなかったのですが、印象に残った楽器をいくつか紹介することします。
まず一番印象に残ったのは大西潤氏の楽器です。
昨年は出品されていませんでしたが、2年前に初めて出品されているのを弾いてみて、かなり良い感触を得ていました。加納木魂氏に師事したとのことで、派手さはないが高音の透明さに魅力のある楽器です。
前回弾いた時もそうであったが、高音だけが強調されるのではなく、低音、特に6弦の響きはなかなかのものだと思った。ハイポジションの中音域も音の分離が良くされており、試奏した大聖堂第一楽章の中音域が明確に聴こえたのが印象に残る。
ただ13フレット以降の高音の鳴りが今一つなのと、ポジションにより音量に若干差があるのが課題だと思いました。
次に印象に残ったのは井内耕二氏の楽器です。
井内氏のギターを初めて知ったのは、スペインギター音楽コンクールで10年くらい前でしょうか、ある四国の若い方の弾くギターが、この方のコンサート・プログラムで井内氏のものであることが分かった時です。
その後、今は無くなりましが恵比寿のギターショップ・シャコンヌで井内氏の2006年製の楽器を試奏させてもらったことがあります。
この時の印象は、低音、特に6弦がドスンという音で延びが無かったのと、高音が弱かったので先のスペインギター音楽コンクールで聴いたときとのギャップを感じました。
しかし今日弾いた印象では、低音の重厚さはそのままで音に延びが加わり、高音は未だ鳴りにくい面があるものの芯のあるいい音だと思いました。ただ9フレット以降の高音の鳴りが弱く、響きが足りない印象を持ちました。
井内氏は元々アマチュア製作家だったのを数年前にプロに転向したそうですが、年齢からするとかなりの製作暦があるのではないかと思います。
他にもいい楽器だと感じたものもありましたがこの辺でとどめておきます。
今回も製作家が試奏する方のそばで聴いている光景は少なかったと思います。
今回新人製作家と思われる方が何人か出品されておりましたが、何故もっとユーザーの音を聴かないのかと思う。企業でいえば駆け出しの新入社員。こういう場はユーザーの生の声を聞ける最大の機会でもあり、もったいないですね。
ある若い新人製作家の楽器を試奏した後で、この音をもっと出せるようにできれば更によくなりますとか、この弦高では難しい曲は弾けないとか、意見を言おうと思ったら側にいないんですね。私はメーカーに勤めていますが、企業の製品展示会では必ず開発設計担当者が常に待機してお客に熱心に説明するものです。またユーザーの意見にもじっくりと耳を傾けます。ギターの展示会もこうあって欲しいと感じた。製作家はもっと自分の製作物の使われ方やユーザーの客観的評価を知ることにもっと貪欲になってもいいのではないか。
お昼になるとギタリストの鈴木大介氏の展示楽器のミニコンサートが行われました。
今日は8人の製作家の楽器をホールで聴けたが、楽器毎に曲が異なるので各楽器の良さ悪さの判別がしにくかったです。
私はこの弦楽器フェアに1990年頃から行っていますが、昔は同じ曲で弾き比べをしていましたね。鎌田善昭氏がドメニコーニのコユンババを楽器毎に演奏していたのが思い出されます。
また杉材のギターが随分と増えました。半分近くだったと思います。
7,8年前までは日本の製作家で表面板で杉材を使用する方は殆どいなかったですね。ユーザーも松を好むかたが殆どでした。
杉材の楽器は新品でもすぐに鳴りが良いですから、試奏した後の印象度は高いですね。音量もあり気分よく鳴ってくれるので、この楽器はいい楽器だと感じがちです。
しかし注意しなければならないのは、杉の楽器は音質に魅力が出ていないとすぐに飽きてしまうことです。ラミレスのように高音が甘いだけでなく色彩感があるとか、低音が鋼を打ったようにゴーンと響き渡るとか。
松材の楽器は新作時は音が硬く、ミニコンサートではその真価は殆ど分からないですね。実際今日のミニコンサートでは杉材の楽器の方が響きが良く、一番後ろに座っていた私の席でも十分な音量がありましたが、松材の楽器の殆どが音が硬くて十分に楽器が鳴りきっていなかったのは仕方ないことか。
また今回感じたのは、同じ製作家の楽器でも出品した年によりかなり出来不出来があるということです。素材の力を重視する工法を採用する楽器がこのような傾向を示すのではないだろうか。ここに楽器選びの難しさを改めて感じた。
帰りは某大手ショップのブースに立ち寄り、ものすごい値のついていたグレッグ・スモールマンとホセ・ラミレスⅢ世のMT(マリアーノ・テサーノス)マーク入りの楽器を弾かせてもらいました。
スモールマンの響きは伝統的なギターの響きとは全く次元が違いますね。倍音がやたら多くてファンファンという音。人工的な響き。音量は確かに凄いが、音質は魅力がないですね。ジョン・ウィリアムスの音が駄目になった理由がこの楽器を実際に弾いてみて更に分かったように思う。重量は重いが表面板の下半分のものすごく板厚が薄いから取り扱いにも気を使いますね。
その後神保町の古書祭りに立ち寄りました。偶然、若いときに欲しくて買えなかった、最近も読みたいとアマゾンやヤフオクで探していたポーの全集を見つけました(ギターではコシュキンのアッシャー・ワルツの曲の元になったアッシャー家の崩壊などの作品がある)。



今から25年くらい前のサラリーマンになって間もない頃に、神保町の東京堂書店でこの全集を見つけましたが、20代の安月給では値段が高くて(確か1冊1万円近かったと思う)手が出ず、何度か棚から出しては戻してを繰り返した本でした。この本屋に来るたびにこの本を手に取りましたがついにあきらめました。その後何年の経ち、数年前にもしかして未だ売っているかもと思って行ってみたけどなかったです。絶版となったようですね。
今回全3冊で3千円で出されていたのを目にして、すぐに買ってしまいました。
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