緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

リアサイド内張り交換(1)

2018-01-28 19:29:26 | 
助手席の後部サイドの内張りがボロボロになっているのに気付いた。
雨風が侵入し、内張りの表面のビニールが剥げ落ちていた。

無残な姿に変わり果てた内張り(助手席側)。



内張りの後部(助手席側)



見栄えを気にしないのでこのままでもいいと思ったが、解体車から外した中古パーツで同じものがないかヤフオクで探してみたが見つからなかった。
しかしちょっと値段は張るが、アルミ縞板を車に合わせて切断加工した商品がヤフオクに出品されていたので、これに交換してみることにした。

今日、このアルミ製の縞板で作られたリヤサイドパネルが届いた。



裏側は突起が無い。



商品説明では両面テープで貼ると書いてあったが、すぐに外れてしまうであろう。
とりあえず両面テープで仮留めし、あとでちゃんとボルトで固定しようと考えた。
ボルトで固定するためには、パネルに穴をドリルで開けなければならない。

早速、ボロ内張りを外しにかかる。
固定用のフックが車体に取り付けてあり、このフックに吊るす方式になっていた。
左右で形状が違う。

下は運転席側の内張り。





運転席側の内張りは剥げていなかったが、表面のビニールは経年劣化で硬化し、外すときに簡単に破れた。
表面を覆うビニールの中の材質はプレスボードのようだ。

内張りを外した後のリヤサイド(助手席側)。

前部



後部



あまりにも汚い。
以前塗布したPOR-15の箇所が異様に艶が出ていた。

内張りを外した後のリヤサイド(運転席側)。

前部



後部



ボロ内張りを取っ払った後に、アルミ縞板のパネルを仮置きしてみる。

助手席側。





運転席側。





フックが邪魔をしてサイドに密着できない。
これでは両面テープでも固定できない。
このフックをペンチで引き抜こうかと思ったが、日が暮れるまで間もないので、今日はここで作業を終わりにした。

外した内張りを地面に置く。



助手席側の内張りに灰皿が仕組まれていた。
後ろの椅子は人間が座るためのものではなく、荷物置き用なので、この灰皿は何の役にも立たない。
メーカーは何のために付けたのか。





とりあえず、内張りをはずしたままで当座をしのぎ、暖かくなってから、アルミ縞板に取付用の穴を開けて、ボルトかねじで固定することにした。
車体側にはフックが付いている箇所とそれ以外にも何のためか不明だが穴が開いていたので、固定は可能だろう。
六角ボルトでワッシャとナットを付けて固定するが、タッピングねじで固定するか、まず穴の径を測ってからだ。

運転席側の写真も取っておいた。
汚いし、ごちゃごちゃしすぎている。


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今年の抱負2018(4)

2018-01-27 21:49:14 | 音楽一般
(前回からの続き)

3.ピアノ

昨年の6月、千葉県の住宅街にある小さなホールで「太田キシュ道子 ピアノリサイタル」が行われた。
数十人しか入れない小さなホールであったが、近くで聴くピアノの音はとても美しかった。
ピアノの音を、しかもとても美しい音で間近に聴く体験は初めてであった。
太田キシュ道子氏はドイツ在住で、日本に帰省した一時期にコンサート開いていた。
小さなホールであったがプログラムは本格的な内容。
ショパン、ブラームス、リスト編曲のシューベルトの歌曲などが演奏された。普通、小さなホールで、素人相手の演奏会ならばもっと親しみやすい曲を選ぶであろうが、ピアノ愛好家が生演奏で聴きたがるような曲を選んでいるのは感心だし、誠実だと思う。

今のピアニストでなかなか聴けない、力づよい芯のあるタッチ、ピアノを十分に鳴らす弾き方。
このコンサートで演奏された「美しき水車小屋の娘」D.795より「水の上で歌う(Auf dem Wasser zu singen)」は、マリヤ・グリンベルクの1976年のライブ録音での演奏で何度も聴いていたが、 太田キシュ道子氏の演奏はまた違った解釈を聴かせてくれた。
しかしいい曲だ。名曲。リストの編曲は随所に不協和音が混じるが、上手く自然に弾かないと違和感を感じてしまう。とても難しい曲。凄く感情を刺激される曲。

コンサート会場のロビーで買った太田キシュ道子のCD。
武満徹やショスタコーヴィチなどの現代の曲もあったが、私はモーツァルトのピアノソナタKV310とJ.S.バッハ、ブゾーニ編曲Choralbearbeitung - Nun komm der Heiden Heiland g-moll BWV 659 が良かった。
モーツァルトのピアノソナタはペルルミュテールやリリー・クラウスの全曲演奏の録音で聴いていたが、モーツァルトの曲はあまり相性が良くないのか、聴いても心に入って来なかった。
しかし太田キシュ道子氏の演奏でこの曲の良さが分かった。ピアノソナタの中でもこの曲は簡素であっても完成度が高い。モーツァルトの良さが凝縮されている。
モーツァルトのピアノソナタで何がいい、と聞かれたら間違いなくこの曲を答えると思う。

太田キシュ道子氏の演奏をなかなか見つけることはできないが、Youtubeでシューマンの交響的練習曲(Sinfonische Etüden Op.13)のライブ演奏を聴くことができる。
殆ど破綻のない力演。ピアノの音の重厚さ、力強さ、ダイナミックスであると同時に繊細な表現が聴ける。



昨年出会ったピアニストで2人目は、アレックス・ワイセンベルク。
テクニックだけのピアニストと見られてきたようであるが(以前の私もそう思っていた)、昨年ブラームス作曲「間奏曲イ長調 Op.118-2(Intermezzo A Major, Op118 No.2)」の演奏を聴いたのをきかっけに、彼の演奏のいくつかを聴いた。
バッハの組曲パルティータが聴きものだが、まずはベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」の演奏に惹かれた。
テンポを決して遅くしない。くどい弾き方をしない。例えば次のような箇所。
ここを遅く意図的にくどく弾かれると辟易する。



彼の演奏はアファナシエフのような弾き方と対照的だ。
速いからテクニックを誇張していると見る方がいるが間違いだと思う。
少なくとも私にはそのように感じられない。
そのような意図が全く感じられない。
ただ、彼の音楽的技量を本当に評価できるようになるまでにはしばらく時間がかかると思う。
あと5年、10年経って、彼の演奏を聴いてどう感じるか。
本当に音楽的に優れた奏者であったのか。
ワイセンベルクの評価って本当に難しい。

さて今年の抱負であるが、ピアノ曲をどう鑑賞していくか未だ決めていない。
別に目標をたてて聴くものでもないし、仕事や勉強の計画とは違うのだから、昨年の太田キシュ道子のように偶然にいい鑑賞体験を得られるような、気ままな楽しみ方をしてみようと思う。
その中でも、私の好きなベートーヴェンのピアノソナタは継続して、マリヤ・グリンベルクの演奏を基軸として、曲の理解を深めること共に、新たな名演の発掘もしていきたい。
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今年の抱負2018(3)

2018-01-20 21:44:48 | 音楽一般
(前回からの続き)

2.マンドリン・オーケストラ曲

昨年のマンドリン音楽の鑑賞で最大の成果は何と言っても、熊谷賢一作曲「マンドリンオーケストラの為の群炎Ⅵ 樹の詩」、ノートルダム清心女子短期大学の初演(1983年)を聴いて、マンドリン音楽の真髄に触れたことである。

この曲は熊谷賢一作品の最高傑作であり、マンドリンオーケストラ曲の中でも傑作中の傑作であると確信している。
実はこの曲を学生時代に演奏している。今から34年前、1984年の夏だった。
札幌の某大学とのジョイントコンサートで弾いた。
当時、大学近くに住んでいた超おんぼろアパートを朝早く出で、高速バスで札幌に行き、大通り近くの4プラから市電に乗り換え、しばらくするとジョイント先の大学があり、そこで合同練習をしたことを思い出す。

学生時代、この曲を演奏していた頃はこの曲の真価に気付かなかった。
恐らく、自分のギターパートしか聴こえていなかったからであろう。
この曲の全貌に触れていなかった。まだその頃は、自分のパートの音楽しか注意が向いていなかった。
しかしこの曲は、ギターパートに主役を与えた、マンドリンオーケストラ曲の中でも稀な曲であり、私は学生時代も卒業し社会人になってもこの曲のフレーズを時折弾いたものだった。

昨年の3月頃だったと思う。
熊谷賢一さんのご子息から当ブログのコメント欄を通じて、熊谷賢一作品のYoutubeのアカウンを教えて頂いた。
そしてこの、物凄く感動する演奏に出会ったのだ。



この ノートルダム清心女子短期大学の初演を聴くと、決して大袈裟なことを言うつもりはなく、本当に物凄く強い感情が湧き起こってくるのである。
聴いている途中も、聴き終わった後でも感動に震える。
安らぎというような幸福感というのではなく、どん底から這い上がってみんなの凄まじいほどのパワーでもって掴みとった幸福感。そんな幸福感、そこに至る様々なプロセス、人間的なドラマを感じる。
それは日本の戦後の復興、高度経済成長期の活気に溢れた時代を彷彿させる。
私が生まれて思春期までの時代に重なる。
腹の底から湧き起ってくるパワー。
かつては未だあった大自然の素晴らしさ。
日本人の繊細な感性、とてつもない優しさ。
こういったものがこの曲の根底にみなぎっているのである。

この曲を聴き終えると全身汗だくになる。
それは普段感じていない強い感情が放出されるからであろう。
ノートルダム清心女子短期大学の演奏は全てが素晴らしいが、とくにギターパートが素晴らしい。
芯のある強い音。アポヤンドで弾いている。
「ゴーン」と鋼を打ったような力強い低音。ホセ・ラミレスⅢ世の5弦開放弦のようだ。
軽くて、ペンペンしたかすれた昨今のギターの音とはまるで違う。

この曲は生きる上で大切なことを教えてくれる。
少なくても私はこの曲、この演奏から大きなパワーをもらっている。
日々の辛いことに耐えられるのもこのような存在があるからなのだ。これを言っておきたい。

この曲が陽の目を見ず、影に埋もれているのはもったいない。
一生の間に、もう一度この曲を演奏したい。
母校のマンドリンクラブは今年50周年を迎えるが、記念演奏会をやるのであろうか。
10年前の40周年の時には、同期の正指揮者だったM君から現役生との演奏の誘いを受けたが、勤務先のシステム入れ替えで超多忙で実現しなかった。
今年は是非参加したいと思っているが、この曲を演奏したい。

(熊谷賢一さんは、昨年10月に死去されました。享年83)

昨年の大学マンドリンオーケストラの演奏会は、中央大学、立教大学、獨協大学、静岡大学を聴いた。
中央大学マンドリン倶楽部の冬の定期演奏会は昨年、平日開催だったため、聴きに行くことが出来なかった。
学生時代に演奏した鈴木静一の「大幻想曲 幻の国 邪馬台」が演奏されることもあって、聴きに行きたかったのであるが、残念だ。これまでのように土曜日に開催いただけないものだろうか。
この大学の演奏には本当に感動を与えてもらっているので期待したい。
しかしその後、偶然にも静岡大学マンドリンクラブの定期演奏会があることを知り、ちょっと遠かったが、新幹線で静岡まで行き、聴きに行ってきた。
曲目に鈴木静一の「細川ガラシャ」と藤掛廣幸の「星空のコンチェルト」があったこともある。
この大学は人数が20数名と少ないが、技術的、音楽的レベルは今まで聴いた大学の中ではトップクラスであったことに驚いた。
基礎的技巧の練習を徹底していると思われ、技術的破綻が殆ど無かった。
音楽的表現もレベルが高く、とくにコンサートミストレスの演奏は素晴らしかった。
プログラムも4年生だけの寸劇や、ミニコンサートがあり楽しめた。
ギターの二重奏は素晴らしかった。
交通費がかかるので、そうは行けないだろうが、プログラム次第では今後も聴きに行きたい。

さて来年の抱負であるが、自分の夢としてはマンドリンオーケストラに参加して合奏を経験してみたい。
母校の50周年記念演奏会に期待したいが、案内は未だ来ていない。

3年ほど前に、マンドリンを中古で買ったが、弾かずじまいだ。勿体ない。
弦切り恐怖症になったことも一因であるが、今年はマンドリンの練習にも力を入れたい。
そして今まで学生時代に演奏した曲を中心に好きな曲のワン・フレーズを弾けるようになって、自己満足に浸りたいものだ。

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久しぶりの日本酒(5)

2018-01-14 21:31:12 | グルメ
日本酒のラベルを見ると、精米歩合60%とか書いてあるが、これは米がどのくらい削られているかを示す数値とのことらしい。
米は中心にいくほど雑味がなくなり香りが高くなるようだ。
大吟醸酒は50%以下、吟醸酒は60%以下という基準がある。
米を削る割合の高い大吟醸酒は飲んでみると果実酒のように甘く、またスッキリとした華やかな味のするものがあり、女性や外国人に好まれているようだ。
精米歩合65%とか70%の日本酒は純米でも値段の安い大衆酒が多い。
精米歩合が低くなるほど一般的に値段が高くなるが、味は銘柄によって様々だ。

純米吟醸酒でもアルコール臭が強くてがっかりするものもある。
しかしあまり甘い果実のような酒も最初はおいしいと思うが、そのうちもうたくさん、という気がしてくる。

今回出会った日本酒「辨天娘」という鳥取県の酒蔵の純米酒は、精米歩合が75%と高いが、おいしい酒だった。
精米歩合が75%というとスーパーなどに売っている日本酒の中でも最もランクの低い部類であるが、「辨天娘」は全く違う。
何故ならば、ラベルに酒米(さかまい)を「H27BY 若桜町産 五百万石100%」と明記してあるからだ。
さらにこの酒が大量生産されずに、生産量が少ないからでもある。
ラベルに記載される原材料名に、吟醸酒でも「国産米」と記載されるものがたくさんあるが、どんな米を使っているのか分からない。
この「辨天娘」は材料に自信を持っているのであろう。
精米歩合75%にしたのはコストとの兼ね合いではなく、あえて削りを少なくして、独自の味を出していると思われる。

実際に飲んでみると吟醸酒とは全く違う味わいで、深く様々な味がする。
後味も良く、意外に雑味を感じない。伝統的な日本酒らしい日本酒という感じだ。

日本酒の銘柄は無数にあるが、数値が良ければおいしい、というとらえ方は全く当てにならない。
また日本酒は大量生産するようになったら終わりだ。
越乃寒梅、八海山がそうだ。
この前、スーパーで八海山のワンカップが出ていたのを見て、もうこの銘柄はダメになったな、と思った。
今「獺祭」という山口県の酒が人気No.1だが、知れるようになってから大量生産するようになり、今ではコンビニでもスーパーでも手に入るようになった。
この酒も越乃寒梅、八海山と同じ運命を辿るようになるだろう。
お金儲けのために大量生産し、品質が落ちたらその銘柄に対するイメージはなかなか回復できないもの。
ギターだって、海外の有名な製作家がお金儲けのために日本のメーカーにOEMで作らせ、廉価版で販売したら、そのブランドに対するイメージが悪くなってしまったということがあった。

「辨天娘」はラベルのデザインがいい。
昔の日本酒はこのようなデザインが主流だったが、昨今は日本酒らしからぬ現代風のラベルが出回るようになった。
ギターのヘッドのデザインやラベルのデザインは意外にも製作家は一生変えない人が多い。
現代風の日本酒のラベルはちゃちで安易な感じだ。
やはり日本酒のびんに最も似合うのは昔からの伝統的なラベルのデザインしかない。





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今年の抱負2018(2)

2018-01-13 21:11:13 | 音楽一般
(前回からの続き)

1.合唱曲

合唱と言っても高校生の演奏しか聴かない。
今から8年くらい前に、あるきかっけでそれまで全くというほど関心がなかった合唱曲にのめりこむようになった。
ピアノとギターに合唱というジャンルが加わったことは私にとって大きなことだった。

成熟した大人の合唱演奏にも良いものがあるが、やはり高校生の歌声が好きだ。
中学生では幼過ぎる。
自分の人生を振り返ってみても、高校生の頃はまだ純真さというものがあった。
まだ、野心というものが無かった。
小遣いも極端に少なく、欲しい物もなかなか買えなかったし、嫌な高校しか入れなかったので、反動で勉強ばかりしていたが、この時期は集中力がずば抜けていたし、気持ちも澄んでいたと思う。

高校生の演奏に何を求めるかと言ったら、やはり歌い手の純粋な気持ちだ。
技術的な上手さは二の次。
歌っている高校生たちがどんな人間で、普段どんな気持ちでいるのか。
自分の高校時代とラップさせて、彼らの気持ちを感じ取りたい。

合唱コンクールに勝負を持ち込むのはおかしいが、歌う前にもう勝負がついている。
ときに演奏者の歌声の裏から、とても優しい気持ちが溢れているのを感じて、驚きとともに静かな感動を覚えることがある。
もちろん歌っている本人は意識すらしていないだろうが。
大人の演奏にはある程度意識された打算的なものがあるので、このようなことを感じることは稀だ。
高校生には未だ、子供特有の裏表の無い感情が残っているから可能なのだろうし、私が高校生の合唱演奏を聴きたいと思う理由がそこにある。

高校生のコンクールの演奏の中には、技術的な上手さを追求するあまり、歌い手が本来持っている自然な気持ちを抑制させ、指導者の理想の音楽に合わせるようコントロールされた演奏に出会うことがある。
そしてそのような演奏がコンクールで上位を取ることがある。
しかし歌っている生徒たちの表情を見ると、喜びとか幸福感を感じ取れない。
歌声の裏から伝わってくるものが無い。
当然である。コントロールされているのだから。
このような演奏は結構ある。
歌っていて辛くないのだろうか。
音楽を演奏するということは、その音楽を表現することに自らの感情で、喜びを感じられるものでなくてはならないと思う。
別に幸福な顔を見せなくても、聴き手は十分に感じ取れる。
セゴビアがギター演奏しているときの顔は無表情だが、その音、音楽から強い感情エネルギーが放出されている。

技術力はあくまでも手段。聴き手が聴きたい、感じたいのは曲芸でも上手さでもなく、音楽を通して表出される人間の様々な生の感情。
その非日常的とも言える感情に動かされることを無意識に求めている。
上手さを披露することはそう難しくないが、作品に秘められている感情や、演奏者自身の感情を意識せず自然に、かつ強いインパクトを持って表現することは至難の業。
審査もここに重点を置かないから、上手いだけで後で何回も何年でも繰り返し聴きこともなく忘れ去られるような演奏に高い評価を付けているような気がしてならない。

昨年の合唱曲の鑑賞で1つの成果だったのは、この8年間で聴いた数多くの高校生の合唱コンクールの演奏のうち,Nコン全国大会の演奏でベスト10を選んで記事にしたことだった。
改めて選んだ10の演奏を下記に紹介する。
                                                            

1.あの空へ ~青のジャンプ 作詞:石田衣良 作曲:大島ミチル (平成21年度大会)
  演奏:愛媛県立西条高等学校

2.混声合唱のための「ラプソディ・イン・チカマツ[近松門左衛門狂想]」から壱の段
 作詞:近松門左衛門 作曲:千原英喜  (平成21年度大会)
 演奏:愛媛県立西条高等学校

3.混声合唱のための「地球へのバラード」から 沈黙の名 
 作詞:谷川俊太郎 作曲:三善晃 (平成12年度大会)
 演奏:北海道立札幌北高等学校

4.あしたはどこから 作詞:平峯千晶 作曲:三枝成彰 (平成15年度大会)
 演奏:福島県立橘高等学校

5.風になりたい 作詞:川崎洋 作曲:寺嶋陸也 (平成17年度大会)
 演奏:東京都大妻中野高等学校

6.混声合唱のための「やさしさは愛じゃない」から さびしいと思ってしまう 
 作詞:谷川俊太郎 作曲:三善晃 (平成13年度大会)
 演奏:北海道立札幌北高等学校

7.この世の中にある 作詞:石垣 りん 作曲:大熊 崇子(平成11年度大会)
 演奏:福島県立安積女子高等学校

8.海はなかった 作詞:岩間 芳樹 作曲:広瀬 量平(昭和50年度大会)
 演奏:東京都立八潮高校

9.風になりたい 作詞:川崎洋 作曲:寺嶋陸也 (平成17年度大会)
 演奏:福島県立橘高等学校

10.また、あした 作詞:島田雅彦 作曲:三枝成彰 (平成10年度大会)
 演奏:福島県立安積女子高等学校




これらの演奏は何百回も繰り返し聴いて、自分に大きな影響を与えてくれた演奏だ。
これらの演奏は技術力をとっても高校生としては超一流であるが、それよりも演奏者たちの感受性から生まれる感情エネルギーや繊細な気持ちがすごく次元の高いレベルで表現されている。
何か価値ある文学作品を読んだり映画を見たりして、深い感動を感じるときの心境に似ている。
何か、自分の心の深い底に眠っていた、普段日常で感じることの無い強い感情が、演奏をきっかけに呼び起される。

この10演奏は一生の宝だ。

昨年のもう一つの収穫は、Nコン全国大会で聴いた、課題曲「君が君に歌う歌」(作詞:Elvis Woodstock(リリー・フランキー)、作曲: 大島 ミチル)、東京都大妻中野高等学校の演奏であった。
生演奏でも録音でも聴いたが、他の学校には無い演奏をする学校。
演奏の感想は昨年末の記事で書いたのでここではあまり触れないが、この学校の演奏が最も心に深く残った。
Nコンの舞台の上で、「音楽はどれだけ聴き手の心を動かすか」ということを示してくれた演奏であった。
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