緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

英文法の名著

2015-02-22 19:36:00 | 学問
最近、英語の勉強を再開しようと思っている。
英語の勉強は大学一年生までであった。仕事で英語を使う機会が無かったこともあるが、それ以来本格的に勉強することはなかった。
英語の勉強といっても英会話ではなく英文読解である。
英語で会話をしたいとは思わない。人と英会話をするより、英文を読みたい。
ちょっと難解な英文の意味が分かったときの「やった!」という気持ちが好きなのである。
CDの輸入版にはたいてい英語での解説文が付いているが、今までは読むことはなかった。辞書片手に英文と格闘すれば、半分くらいの意味は分かるかもしれない。しかしそんな面倒なことはしようと考えもしなかった。
CDの解説文もいいけど、英文学や英語の原書を読んで、先の「意味が分かった時の感激」を楽しもうと思うのである。
働き盛りの年代ではまだまだ仕事に大半の時間を消費し、何かを勉強をしようと思ってもなかなか時間を取ることはできない。しかし毎日少しづつやっていけば参考書の1冊も数か月で完読できるはずだ。
先日「会計学の名著」という記事で紹介した「ギルマン会計学」という専門書、上中下巻3冊を1か月半で完読した。意味の分からない箇所もかなりあったが、とにかく毎日少しの時間(トイレに入っている時でも)を利用して読み続けると、結構進んでいけるものだ。

英語は昔から好きだったわけではない。
英語を始めたのは中学時代からであるが、これがまた苦痛であった。そして嫌いであった。
嫌いになったのは、次第に文の意味が分からなくなっていったからである。基礎的な段階でつまずくと、その後は殆ど意味がわからなくなっていき、2年生、3年生と進むにつれ、お手上げの状態になってしまうのだ。
単語だけの暗記でなんとか5段階評価の2を維持していた。
中学3年生になって受験が心配になりだした。それでも1学期までは部活動をやったり結構のんびりやっていた。
ある日、中学校生活最後の夏休みに入る直前に行われた模試の結果が返ってきた。結果は5教科500満点中230点程であった。
かなり落胆した。その採点表を親に見せて判子をもらって学校に提出しなければならないのであるが、とても見せられるわけはなく、親が寝た後に、そっと引き出しを開けて判子を取り出し、自分で押して学校に出した。
2学期になり次第に寒くなり始めた頃、英語の勉強をどうやったらよいか分からなかった私は、苦し紛れに「赤尾の豆単」という単語集を買った。とにかく単語だけ覚えればなんとかなると考えたのである。
この「豆単」で単語を必死に覚えた。しかし一向に試験の成績は良くならなかった。そしてその原因も分からなかった。
志望校は当初オール3程度の高校を目指した。オール3のレベルとはテストの点数でいうと500満点中300点くらいである。
3年生2学期から猛勉強を始めた。夜中の2時~3時半までやった。模試も280点から良くて300点くらいまで上がってきた。
第一志望校のランクはぎりぎりであったが、リスクはあった。3年生最後の学年末テストは物凄い勉強した。
自分でも信じられないことに400点を超えた。
しかし無情にも内申書の点数は上がらなかった。先生から気に入られない劣等生はいくらテストで高点数をとっても評価してくれないことは、この時だけでなくそれ以前も経験していた。
この学年末テストで内申書が上がることに賭けていた私は、それが裏切られたことから、受験の願書を出す前日に徹夜で悩んだ末に志望校を低いランクの高校に変更した。
入学した高校はオール3よりもずっと低い、500満点中230点くらいのレベルの高校であった。
他校と暴力沙汰を起こしてクラスの3分の1が停学となるような学校である。
盗みもあった。数年前に実家に帰省した際に、この高校の卒業アルバムを見たら、卒業生全体の集合写真の前の方に大勢写っている輩が、ひどい人相の連中だったことに唖然とした。
Nコンに出場するような高校生たちとは天と地ほどの違いである。
こんな学校にしか入れなかったわけだから文句は言えないが、とにかく頑張っても報われなかったくやしさが残った。一発勝負のテストでは評価されないことを思い知った。
このくやしさからだろうか、高校に入ってもの凄く勉強に力を入れるようになった。
とは言っても英語は豆単しかやってなかったので、高校の定期テストは暗記の力で高得点は取れても、業者が実施する学力テストでは歯が立たなかった。この学力テストでは点数が低かった。
英語が何故思うようにできないのかこの時点ではまだわからなかったが、高校生になってしばらくして学校から貰った福武書店(現ベネッセ)の高校通信講座の小冊子を読んでみたところ、大学合格者の合格体験記が紹介されており、その中で役に立った英語の参考書として「総解英文法」(高梨健吉著、美誠社)という本が紹介されていた。
この大学生はこの参考書のことを絶賛していたので、私は藁をもすがる気持ちで、札幌の紀伊国屋書店へ行き、早速この「総解英文法」を買った。高校1年生の冬休みの直前のことである。
この本は700ページ以上もある分厚い本であるが、まえがきで著者が、単なるページの多さにたじろぐことなく、地道にやっていけば英語の学力は飛躍的に高まるであろう、と述べており、それを信じて読み始めた。
最初の1ページから惹き付けられた。まず英文を読み、理解するには、文の仕組み、すなわち英文法の基礎を理解していなければならないことを、このとき初めて身をもって理解した。
豆単でいくら単語を覚えても英文が理解できない理由がこの本を読み始めて分かってきた。
そして面白いほどのスピードでこの本を読み進めていった。
この本をやればやるほど英文が理解できるようになっていった。中学時代あれほど嫌いだった英語が好きに感じるまでになった。そして低い点数しか取れなかった業者の学力テストも点数が飛躍的に上がった。
高校2年生になって、夏休みに入る直前にこの本と同じ著者で姉妹書である「英語構文の研究」という参考書を紀伊国屋書店で買った。その時のことはよく覚えている。
この「英語構文の研究」で英文読解の楽しみを覚えた。練習問題で数行の英文を訳していくのが楽しかった。そしてこの本で学んだことをベースに、英語の原書にも挑戦した。選んだのはアガサクリスティの「アクロイド殺人事件」である。当時話題となっていた人気推理小説であった。
中学生まで大学に行こうなどとは思ってもいなかったが、しょうもない高校の中にいながらも大学に行こうと決め始めていた。
大学入試のためにこの本以外にも試験対策用の参考書もやってみたが、やはりこの「総解英文法」が最高の完成度であった。この本は間違いなく名著にふさわしい。
1970年初版であるので、半世紀近く前に書かれた本であるが、古さは全く感じられない。
数年前に八重洲ブックセンターでこの本を見かけたが、今でも売っているのだろうか。高校生の参考書としては超ロングセラーである。

冒頭で述べたように、最近また英語の勉強を再開しようと思っているのだが、まず高校時代に使っていたこの「総解英文法」を一通りやり、それから「英語構文の研究」をやっていこうと考えている。
高校時代にこの参考書を勉強した時の楽しさを思い出しながら。
そしてこれらの本を読み終えたら、英文解釈の専門書を読もうと思う。これはもう20年くらい前から読みたいと思っていたのだが、大きな書店で見かける英文解釈専門の面白そうな参考書なのである。高校生のためというより、大学生向けに書かれた本である。
そしてこの専門書を終えたら、英語研究の雑誌を定期購読しようと思う。高校生の時、一度だけ研究社から出ていた高校生向けの英語雑誌を買って読んでみたことがあるが、面白く、この時の記憶があるからだ。

思うに英語は文の仕組みが分からないから、意味がわからなくなり、嫌いになっていくのである。
英語を日常使う環境にいれば、わざわざ文法を意識していなくても無意識のうちに文の使い方、法則は身についていくであろう。
しかし英語を日常語として使用していないのならば、意識して文のしくみを覚えないと英文を理解することは出来ない。
「総解英文法」はまさにこのことを教えてくれた本であり、私の高校生から以後の人生に大きな影響を与えてくれたといっても過言ではない。







【追記(20150321)】
高梨健吉著「総解英文法」(美誠社)が、東京新宿の紀伊国屋書店に1冊のみ売っていました。定価1,400円。
装丁は全く昔のままで、改定もなされていませんでした。
それにしても驚くほどの超ロングセラー。
貧弱で仰々しい装丁ばかり氾濫した英語参考書のなかで、この「総解英文法」がひときわ異彩を放っていた。
それからブログの本文で触れた「英文解釈専門の面白そうな参考書」とは、「英文解釈考」佐々木高政著(金子書房)であることがわかった。
佐々木高政といえば、高校3年生の時に、大学受験の一次試験が終わった後に、二次試験対策として勉強した「和文英訳の修業」という参考書が思い出される。
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フォーレ作曲 パヴァーヌ Op.50を聴く

2015-02-15 23:53:50 | ピアノ
ガブリエル・フォーレ(1845~1924)の曲に初めて出会ったのは多分小学校5、6年生だった思う。
小学生の頃はろくに勉強もせず学校や近所の子供たちともっぱら外で遊んでいた。
当時流行っていた遊びとしては、「釘刺し」と呼ばれるもので、2人、1対1の勝負事であった。
じゃんけんで先にスタートする側を決め、土の地面に刺した相手側の釘の周りを螺旋状に刺して線を引いていき、刺すのに失敗するまで巻いていくのである。相手側はその螺旋状の線と線の間に釘を刺して螺旋から出るまで続けなければならないのである。
私は5寸釘と呼ばれる長く太い釘で挑んだものだ。
また「かたき」という遊びがあった。これはドッチボールと似ているのであるが、エリアが無い。広いグラウンドでないと出来ない。
クラス員を国王軍と反乱軍とに2分し、バーレボールなどのボールを相手に投げ、相手がそのボールを取れなかったら戦線離脱。しかしそのボールを投げた敵側の相手を味方の誰かがかたきをとってくれれば復帰できるというもので、どちらかの軍が全滅するまで行われる。
あとは手つなぎ鬼、缶蹴りもよくやった。
冬はプラスチック製のミニスキーを履いて手造りのスティックでアイスホッケーをやったり、かまくらを作ったりもした。
ちょっと横道にそれたが、小学生の頃は音楽とは無縁だった。しかしテレビから流れてくる音楽で今でもはっきりと覚えているものがある。
例えばNHKの「新日本紀行」という番組のテーマ曲で、短いながらも実に日本的な郷愁を感じさせる曲や、北海道7時30分という番組で流れていた口笛で奏される曲などがそうでであった。
新日本紀行は後で富田勲の曲であることを知った。
それ以外にその後決して忘れることの無かったメロディを持つ音楽があった。
その音楽はテレビの番組と番組の間の時間調整のために、数分間流すための音楽であったのだが、リコーダーで演奏される素朴で何か神妙な気持ちにさせるものがあった。
この音楽を聴いた時に場面は今でも覚えているのであるが、テレビから流れてくるこの音楽を聴き入ったものである。
テレビには題名など記されていなかったが、この曲はなんという曲なのだろうと気にしていた。
そして数年後、中学生になってから兄が「この曲はパヴァーヌというんだ」と教えてくれた。しかし作曲者が誰であるのかは教えてくれなかった。
その後15年くらたってからふとこの「パヴァーヌ」のことを思い出し、東京秋葉原の石丸電気でCDを探した。20代半ばの頃だ。
探すのに時間がかかったと思うが、この曲はリコーダーのオリジナル曲ではなく、管弦楽の曲であった。作曲者はフォーレであった。
この時に買ったCDを探したが、どこにしまいこんだのやら出てこない。管弦楽であるが合唱付きの演奏であった
指揮者はマリナーだったと記憶している。
このCDを聴いたときかなりがっかりした記憶が思い出される。
それは素朴なリコーダーの演奏が耳に強烈に残っていたので、管弦楽、しかも合唱付ともなればかなり仰々しく聴こえたのである。
それゆえにこのCDは数回聴いただけでお蔵入りとなってしまった。
今から15年前以上前であるが、ジャン・フィリップ・コラールの演奏するフォーレの舟歌を聴いて感動し、その後、夜想曲と聴き進むようになった頃、この「パヴァーヌOp.50」のピアノ独奏の録音を見つけた(演奏者はピエール・アラン・ヴォロンダ)。



このパヴァーヌはフォーレのピアノ曲全集の曲目には全く出て来ない。最初、ピアノのオリジナル曲でないと思ったが、しかしこのCDには編曲者の名前は記されていない。
そうならばフォーレのオリジナルということになるが、それではなぜフォーレのピアノ曲全集にこの曲が録音されていないのか、という疑問が湧いてくる。
このCDの解説にパヴァーヌに関する下記の記述があった。
The Pavane was orchestrated at a later date and the orijinal version for piano of this well-known piece shows that the simple archaic melody should be played at a faster speed than is the case with the orchestral or choral versions.
これを訳すと次のようになるのであろうか。パヴァーヌは後になってから管弦楽用に編曲された。素朴で古風な旋律を持つ、この有名な曲のピアノのためのオリジナル版は、管弦楽又は合唱付版の場合よりも速目の速度で演奏されるべきである。
また、フィリップ・フォーレ・フルミエ著の「フォーレ・その人と芸術」(音楽之友社)では、この作品OP.50のパヴァーヌについて、ピアノ曲であり、A.バンフェルトにより四手用ピアノ曲に編曲、随意に管弦楽と合唱で演奏、と記載している。出版社はアメル社である。
またYoutubeのある投稿では、曲目解説で以下の記述があった。
It was originally a piano piece, but is better known in Fauré's version for orchestra and optional chorus.
このパヴァーヌは、管弦楽用に作曲され翌年、パトロンの伯爵夫人の提案で合唱付きに編曲され、その後にフォーレ自身によりピアノ独奏用に編曲されたのが定説のようだが、上記のようにピアノ独奏がオリジナルとする見解もあり、興味深い。

このパヴァーヌは極めて素朴で簡素な音楽でありながら、その旋律は聴く者に強烈な印象を与え、その記憶は長く途絶えることはないであろう。
一昨年亡くなった作曲家の三善晃が、作曲とはブラックホールから音を拾い上げるようなものだ、と言っているのをどこかで読んだことがあるが、このような旋律を生みだすことは自分にとってはとても別世界、異次元のことに思われるのである。
作曲家の音を生みだす能力がいかに凄いことであるかをこの曲を聴いて思い知らされる。

下記はフォーレの自演。



他にピアノ版や管弦楽版のYoutubeを下記の掲載する。





Youtubeでもプロの演奏家によるピアノ演奏は私が探した限り無かった。これはちょっと以外だ。
リコーダーによる演奏の投稿も無かったのも残念だ。

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原嘉寿子作曲「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」を聴く

2015-02-01 00:44:25 | ギター
2月5日の夕刊に作曲家の原嘉寿子さんの訃報が出ていた。
亡くなったのは昨年の11月末だとのことだ。
原嘉寿子さんと言えば10年以上前だったか、東京国際ギターコンクールの本選課題曲に彼女の唯一のギター曲が選出された時に初めて知ったのである。
この時に彼女が作曲家の原博の妻であることが分かった。
原博についてはこれまで何度か触れてきたが、1970年代の現代ギター誌で楽曲分析を担当され、ギターオリジナル曲も2曲作曲した。「無視された聴衆」の著者でもある。
原嘉寿子(以下敬称略)のギター曲を初めてきいたのが先の東京国際ギターコンクール本選であり、確かこの時はトーマス・ツヴィエルハが優勝した年だったと思う。
曲名は「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」で1971年に作曲された。
日本的情緒漂う美しい曲を期待していたが、全く裏切られた。恐ろしく不気味な不協和音を多用した無調の典型的な現代音楽であった。
この頃私は未だ現代音楽に少し抵抗感を持っていたが、この「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」や、その後の東京国際ギターコンクールの本選課題曲となった、野呂武男のコンポジションⅠ「永遠回帰」を聴いて現代音楽に目覚めた。
「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」は不況和音を多用しているが、リズムは難解でなく、現代音楽の中でも理解しやすい方である。
Ⅰ.プレリュードはAllegretto giocosoの速度指定であるが、1小節でメトロノーム66の指定はかなり速い速度だ。この速度で軽快にしかも随所にアクセントを付けなければならないので弾くのは大変だ。上声部の旋律も浮かび上がらせなくてはならない。



Poco andanteに入る少し前に、無調からやや正調らしき音調が顔を出す部分があるが、ここで難しい押さえが出てくる。
1フレット5弦と4弦を左人差し指のセヒーリャ(Cejilla)で押弦し、3弦を開放にするのであるが、4指が1弦の4フレットを押さえるので、上手く押さえないと3弦の開放が鳴らない。しかも速い速度の中で押さえなければならないのである。



Poco andanteで少し速度が落ち、sentimentaleと指示された単旋律でテヌートのかかった音はアポヤンドで雑味を取り除き、不気味さを強調したい。ハイポジホンで同じ音型が出てくるが、この部分の旋律も同様である。



再びAllegrettoの速度に戻るが、ここからますます不気味さが増してくる。現代音楽が嫌いな人が絶対に聴きたくないような典型的な不協和音の連続で、中間部のソの開放弦がもたつくことなく、また爪の雑音がしないように注意を払う必要があるが、しかもこの音の連続が終結部の前までずっと続く。



この部分は聴く者に無意識に寒気を感じさせるほどの荒涼感を表現できれば良いのではないか。冒頭からずっとこのソ(3弦開放)がこのプレリュードのポイントのような気がする。
終結部手前の激しいアクセントのついた和音の後に、上昇スケールを経て終る。
Ⅱ.アリアはAndante con motoという速度指定であるが、不気味なうえに暗さが加わり、しだいに邪悪な感情に変遷していくような過程を表現したかのうような和音が特徴的な楽章だ。



しかし恐ろしく不気味さを感じる和音だ。
今の時代にこのアリアのような曲を人前で突然演奏でもしたら、聴く人はこの奏者は精神的に少しおかしいところがあるのではないかと思うかもしれない。こんな曲を現代で聴くことは、コンクールの課題曲にでも選ばれなければ皆無であろう。この曲の楽譜(ギタルラ社版)も買った時は、何十年も誰も買わずに譜庫に眠っていて茶色く変色していた。誰かがこの曲に興味を示して、譜庫の中から取り出して陽の目を見させてくれるのをじっと待ち続けていたかのようだった。1960年代から1970年代にかけてはこのような曲はかなり作曲されていた。
Piu mossoで速度が上がり、躍動するようなリズムを刻み5連符の直後、意表を突くような強い和音が現れる。この和音の挿入が何を意図したものか、その解釈に考えあぐねるが、予想もしていなかったことに突然驚愕するような気持ちが感じられる。この和音の表現はとても難しいと思う。上手く弾かないとパロディをやっているとも受け止められかねない。



再び最初の主題に戻り、agitatoからアクセントを付けながらクレッシェンドし、何かに追いつめられるような印象を感じるが、クレッシェンドの直後に、3弦ミフラットのテヌートの音が浮かび上がり、この音がまた不気味だ。
学生時代に住んでいた家賃1万円の築50年以上は経っていたと思われる超おんぼろアパートの暗い廊下に一つだけ吊り下げられていたオレンジ色の小さな裸電球を思い出す。
最後はこれまでとは少し違う何とも表現し難い不協和音の連続で終わる。
Ⅲ.トッカータ、Allegro energicoはかなり速い速度が要求される。しかもエネルギッシュで歯切れのある強いアクセントのある音を出さなければならない。次のような音型の単旋律の音は、粒を揃えて太く芯のある音で弾く必要があると感じられる。



とても躍動感のあるリズムが続く。このような部分を聴くと何か邪悪さが勝ち誇っている様を見るような感じを受ける。
強いアクセントのついた技巧を要する下降スケールの後に、何かを次第に追いつめていくような展開に移り、少し速度を緩めた後に再び冒頭の音型が繰り返される。
そしてUn poco meno mossoで速度が落ち、5弦と6弦の重音を伴奏にしながら、暗いうめくような旋律が奏でられた後、昔どこかで同じような感じの曲を聴いたような和音とリズムが現れ、最初のテンポに戻るが、下記のような重音の連続はスムーズに流れるように弾くことは相当の練習が必要だと思われる。



最初の主題が繰り返され、演奏困難な下降重音の後に、次第に激しさを増す不気味な強いラスゲアードが繰り返され、最後は意表を突くタンボーラで曲を終える。



しかし難易度の高い曲である。もちろん私はこの曲を通しで弾けているわけではない。ゆっくりとした速度でプレリュードやアリアを譜面を見ながら弾く程度に留まっている。
器楽やオーケストラなど幅広く作曲を手掛ける、いわゆる作曲専門の方はこのような演奏困難な曲を作る傾向があるが、これは楽器の性能よりも音楽を優先にしているからではないか。
近年のギター界は、作曲専門の方の曲よりも、ギタリスト兼作曲家の曲が好まれ、多くの曲が演奏されている。
このようなギタリスト兼作曲家の曲の中にも親しみやすいいい曲があり、自分も普段演奏しているので否定するつもりはないが、このような曲はあくまでも「ギター曲」という範疇にとどまっているように感じられ、自分には少し物足りなさを感じる。つまり親しみやすいギターという楽器が先にあって、その楽器に求めるニーズにふさわしい曲を作ろうとするからだ。
しかし作曲専門の方はまず楽器を念頭におくものの、曲から入っていく。その曲づくりは、楽器の種類や編成を超えた領域でイメージされ、作られるような気がする。
この「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」は演奏困難な曲であるが、ギタリストではないから表現できた様々な要素、例えば音楽形式、リズム、和声の使い方など、作曲を専門に勉強し、職業にしてきた方ならではのレベルの高さを感じさせられる。

この曲は現代音楽が陥りがちな形式面への偏りは感じられない。寧ろ感情的なものに満ち溢れている。
この曲から自分がイメージするのは、栄光の追求(野心的)、邪悪さ、嘲笑、見下し、切迫、あせり、厭世、驚愕、攻撃、優越感、暗黒、欺瞞といったものか。どれも負の感情ばかりあるが、多かれ少なかれ人間である以上誰でも持ち得る感情でもある。
夫の原博はこの曲を聴いてどう思ったかわからないが、音楽を通しての感情表現が、必ずしも心地よく、高尚で、感動的なものばかりではなく、負の感情も表現できることを教えてくれる。
一般受けしないが、このような音楽は貴重な存在であり、この曲に関しては作曲者の力の入れ方も伝わってくる。当たり前であるが、こういう音楽は簡単につくれるものではない。
音楽に対する受け止めかたは人により様々であるが、私にとってはこの原嘉寿子のギター曲が、現代音楽に対する認識を大きく変えてくれたことは間違いない。
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アセンシオ作曲「ディプソ」を聴く

2015-02-01 00:44:25 | ギター
久しぶりにギター曲を聴いた。新しい録音ではなく古い録音である。
アンドレス・セゴビア(1893~1987)が恐らく最後に残したであろうレコードでの録音である。
アメリカのデッカというレーベルとの契約を終え、マドリッドで1973年の5月と12月にセゴビアが80歳のときに録音されたものである。



第1集の録音は20代半ばにCDで再発されたものを聴いた。しかしこの時は、アラビア風奇想曲などの演奏を聴いて、往時の技巧が衰えていたことから、いささかがっかりし、それ以降繰り返し聴くことは無かった。
今から3年程前に約25年ぶりにこのCDを聴いたのであるが、20代に聴いた時とは全く違う印象を受けた。
何が違っていたかと言うと、「音」が、彼の最盛期の頃よりも進化していることに気が付いて驚いたからである。
技巧は最盛期よりも衰えてはいたが、「音」は最盛期の録音で聴く音よりも、鋭く、芯が強く、密度が高くなっていた。
この音を聴くと、チェロの巨匠フルニエに「セゴビアから多くのものを学んだ」と言わしめた理由がわかるような気がする。
繰り返しになるが、セゴビアの音は、芯が強く、密度が高く、多彩で、様々な人間的感情が詰まった音なのである。
この録音の第2集の中に、ビセンテ・アセンシオ(1908~1979)の「ディプソ」という曲がある。
アセンシオと言えば、ナルシソ・イエペスが10代の頃に学んだバレンシア音楽院の教授であり、イエペスとの関係が深いが、セゴビアがこのアセンシオの曲を弾いていることに意外性を感じた。
CDの解説では、、この曲がエルネスト・ビテッティに捧げられた曲であると書いてあるが、楽譜ではセゴビアへの献呈となっている。
「ディプソ」は「SUITE MISTICA(神秘的な(神秘の)組曲」という組曲の中の第2曲目であるが、単独で演奏されている。
このセゴビアの演奏を聴いて、この曲が弾きたくなり楽譜を入手したが、全て弾き終わるに至っていない。
速度はLento、静かで穏やかな曲想であるが、和声などはアセンシオ独特のものである。
ディプソは「神は渇く」と訳すのであろうか。スペイン語辞書にも出てこない。いずれにしても神秘性の感じられる曲であり、このような曲をセゴビアが録音で取り上げたのも珍しいことである。





譜面を見ながら演奏を聴いてみると、和音に楽譜に書いていない音を追加していたり、実音をハーモニックスで弾いているのがわかる。
原曲と最も異なるのは一番最後の小節のハーモニックスをピツィカートで弾いている箇所であるが、セゴビアの演奏で、原曲を変更することはよくあることだが、基本的には楽譜に忠実に弾いている。
楽譜に忠実とは紙面に書いてあることに機械的に正確に演奏することではなく、作曲者の意図や、感情の流れが理解できているということである。

クラシック・ギター界は1970年代まではセゴビアの演奏、セゴビアの音(セゴビア・トーンと言う)を目指して練習に励むことが主流であった。
1980年代に入り、セゴビアの生演奏が聴けなくなったのを境に、ギターの演奏法、とくにタッチ(音の出し方)、表現する音が変わった。
アポヤンド奏法は廃れ、アルアイレ奏法が主流となり、アルアイレでしか弾かない奏者も多く出現した。
その動きに連動して、楽器も軽いタッチでも大きな音が出せるものが主流となるに至った。
しかしこの変化から30年以上経過したが、ギター音楽はつまらなくなった。イエペスやブリームが録音しなくなってから、聴きたい録音は殆どないといっていい。
このセゴビアの「ディプソ」を聴いて思うのは、聴きたくなくなった理由が、「ギターのもつ音に魅力が無くなってしまった」、ということにあることに気付く。
昨今は電気処理され増幅され、人工的な味付けはされているが、無機的な気の抜けたような音の演奏が多い。
そういう演奏を聴くと、楽器から魅力ある音を最大限に引き出すことを放棄してしまったように思える。
20代前半の頃、深夜にバルエコが弾く、ヴィラ・ロボスの「ブラジル民謡組曲」を聴いて、その感情の入っていない均一な無機的な音、楽譜に忠実ではあるが、何も伝わってくるものが無い演奏に、愕然としたことがある。
その時の場面は妙に記憶に残っているのであるが、やはりクラシックギターの最大の魅力は他の楽器には無い、「音」の魅力であり、この「音」の追求をまず第一に考えるべきと思うのである。
そして第2には、魅力あるクラシック・ギター曲の開拓である。
これについては別の機会に意見を述べたいと思う。
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