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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

志賀直哉著「網走まで」を読む

2022-08-12 21:31:00 | 読書
この短いお盆休みの間、文学小説の1つでも読んでみたいと思っていたが、もう15年以上前に古本で買ったはいいがほとんど読んでいなかった志賀直哉全集が書棚で埃をかぶっているのを見て、短編でもいいからとにかく読んでみようと思い立った。
選んだのは全集第1巻の中に収録されていた初期作品「網走まで」という短編。

志賀直哉を初めて読んだのは高校入試の時ではなかっただろうか。
記憶が正しければ高校入試の国語に「城の崎にて」という短編を題材とした問題が出題されていたのを読んだのが最初であろう。
その後、文学に目覚めた私はこの志賀直哉や島崎藤村、芥川龍之介、菊池寛などといった文学小説を新潮文庫などの文庫本を買いあさって時間があれば読むという生活を送っていた。高校1年生のときだ。

しかし志賀直哉の小説は高校1年生のとき以来読むことはなくなった。
この時に読んだ小説で印象に残っているのは、代表作「城の崎にて」のほか、「小僧の神様」、「剃刀」、「好人物の夫婦」などだ。
今回読んだ「網走まで」という短編は志賀直哉が27歳の頃の作品。
主人公の青年(作者自身と思われる)が宇都宮で友人と会うために上野発青森行きの汽車で乗り合わせた若い母親とその子供たちとの会話などのやりとりを描いただけの短いストーリーではあるが、非常に鋭い人間心理に対する観察眼とこの時代の人々が自然に持ち合わせていたであろう人間的な暖かさや、(とりわけ男女間の)清廉な礼節さといったものを感じさせる、なかなか深みのある力を感じさせる名作の一つとして評価されるべき小説だと感じた。

主人公はこの列車に乗り合わせたこの女性が、結婚前は家柄の良い、裕福な家庭で礼儀正しく育てられたが、結婚後はそれに反して苦難の人生を強いられていることを直感で感じ取る。
しかしそれに反して、7歳ほどの息子は礼儀に欠け、愛情の乏しい家庭で育ったような粗野で生意気な性格を見せていた。
この女性は主人公にこの子が父親の性質を受け継いだ可能性のあることを示唆する。

「是は生れつきで御座いますの。お医者様は是の父が余り大酒するからだと仰いますが、鼻や耳は兎に角つむりの悪いのはそんなことではないかと存じます」

主人公はこの子供の父親が、人生の度々の失敗により次第に気難しく陰気になり、汚い家の中で弱い妻へ当たり散らして憂いを晴らすような人物に相違ないと想像する。
しかしこの母親はこの反抗的な子供に対し、終始丁寧な言葉使いで愛情を持って接していることが文脈から伝わってくる。

主人公の下車駅、宇都宮に着いたとき、子供を便所に行かせるために母親は赤子を急いで背負い始める。

「恐れ入りますが、どうかこの葉書を」こういって懐から出そうとするが、博多の帯が胸で十文字になって居るので、却々出せない。
「一寸待って........」女の人は顎を引いて、無理に胸をくつろげようとする。力を入れようとしたので耳の根が、紅くなった。其時、自分は襟首のハンケチが背負う拍子によれよれになって、一方の肩の所に挟まって居るのを見たから、つい、黙ってそれを直そうと其肩へ手を触れた。女の人は驚いて顔を挙げた。
「ハンケチが、よれていますから、.........」こう云いながら自分は顔を赤らめた。
「恐れ入ります」女の人は自分がそれを直す間、じっとして居た。
自分が黙って肩から手を引いた時に、女の人は「恐れ入ります」と繰り返した。

この女性は、わずかばかりの荷物でどのような理由で網走まで行かなければならなかったのか。
そして車内でなかなか筆が進まずに書き上げた2枚の葉書(宛先はそれぞれ男と女)の意味するところは。

作者はこの女性の現在置かれている境遇や、当時は最果ての極寒の地であったであろうと想像される北海道の網走まで1週間もかけて幼い子供連れで行く理由を読者の解釈、想像に委ねている。
私が思うには、この女性の夫は主人公が鋭い観察眼でもって想像するとおり、粗暴で家庭を顧みない人物であり、息子は礼儀正しく愛情のある母親ではなく父親の性質を引き継いでしまったのではないかと感じる。あるいは愛情を与えてくれるどころか私利私欲で生きている父親に対する憎悪が、無作法で反抗的な態度を生み出しているのかもしれない。

葉書の投函先の人物はこの女性の夫とその夫に関連する女か(宛先はいずれも東京である)。
網走という最果ての地まで行くのは、この葉書の宛先の人物との決別のためなのか。列車の中に夫がいない、荷物があまりにも簡素であることが気になる。夫が先に既に網走まで行っているとは思えない。
(夫が網走監獄に収監されている、と想像するのは行き過ぎだろう。この物語で重要な描写である葉書を出すこととの関連性が無くなる)

その答えをこの短い小説の中で書かれている内容で読み取ることは極めて困難である。
しかし、この短い小説の中には、当時の日本の女性たちの高貴な礼節さ、所作の美しさ、忍耐強さといった現代では見ることが皆無となったものを文中の描写により見出すことが出来る。
またたまたま列車で居合わせただけの他人に対する主人公の純粋な心のやさしさを思うと、当時の多くの日本人がまだ持っていたであろう、現代の日本人が見失い、消滅させてしまった何か尊いものをあらためて感じさせられたのである。

網走には学生時代に3度ほど訪れたことがある(マンドリンクラブと違う、所属していた別の団体の大会がそこで行われたため)。
行きは普通列車を乗り継ぎながらで北見を経由し、帰りは夜行急行「まりも」(?)で帰ってきた。
網走監獄にも見学で行ったことがある。





【追記】
網走から乗った夜行急行は「まりも」ではなく「大雪(たいせつ)」でした。
「まりも」(釧路・札幌間)も1度だけ乗ったことがあります。この時は帯広から乗りました。
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北杜夫著「岩尾根にて」を読む

2022-01-09 23:00:39 | 読書
この3連休、文学作品を1つでも読みたいと思っていた。
今日は朝から雑事に追われていたこともあり、「悲愴」とギターはお預けとなった。

今日読んだのは北杜夫著「岩尾根にて」。
何故この小説なのかというと、年末年始に帰省した折、実家にいる兄との会話の中で、登山の話題となり、その中で偶然出て来たのが北杜夫だったことから来ている。
兄は山好きで北海道の山は殆ど登ったようだが、多分、利尻岳の「這松」のことがきっかけで、この小説に行き着いたのだと思う。
この「這松」というキーワード。
この言葉が終始現れてくる小説が、遠い記憶を呼び覚ました。
それが中学か高校時代の国語教科書で読んだ「岩尾根にて」という小説であった。

「這松」以外にも、連鎖するように奥にしまわれていた記憶の貯蔵庫から他のキーワードが次々に蘇ってきた。
「ウィスキー」、「ベーコン」、「黒蠅」、「ヤッケ」、「遭難」、・・・・・・。
晩秋の山を登っていた主人公が、黒蠅の出現をきっかけに遭難者の死体を発見する。
その直後、信じられない体勢で岩場をよじ登る人間が視界に入ると、主人公は双眼鏡でその様子を恐る恐る観察する。
そして頂上で出会った若者と会話を重ねていくうちに、その若者と自分の区別が無くなり、どちらがどの話をしているのかも判別できない心理状態に陥っていく。
次第に我を取り戻した主人公は、途中で遭遇した遭難者の死体のことを切り出す。そして尋常ではない登り方をしていた登山者が対面している若者その人であったことを指摘する。

若者はその登り方は自分の意志によるものではなく、ある病気がそうさせることを打ち明ける。
死体を見たショックで無意識に自分でも知らないうちにそうのような行動に出たのだという。
そして下山に取り掛かる際に、こう言った。
「僕はねえ、怕いんですよ」、「僕はいつかは必ず堕ちますよ。これ以上山にきているうちには、きっと・・・・」。

終始鉛色の空が覆いかぶさり、冷たい風が吹きすさぶような連想シーンの中、不気味な人間心理が嫌でも読む人にぞっと感じさせ、一度読んだら長い間そのストーリーやキーワードが記憶から消えることなく、貯蔵庫に封印された状態で何十年も保管されるような不思議な力を持った短編小説だ。

原因不明の病を持つこの若者が、遭難での死という恐怖を常に感じながらも、登山を止められない理由も不思議だ。
私は30代初めの頃、北海道から来た兄と合流し、秋田県の象潟から鳥海山に登ったことがあった。
登り始めは晴天だったが、次第に天候は下り坂となり、頂上に着く頃には雨が降り始めていた。
頂上の山小屋には、大学のワンダーフォーゲル部のメンバーや単独登山の方などが既に入っていた。
9月の下旬であったが、夜から朝方にかけて寒くて一睡もすることができなかった。
眠れないシュラフの中で、次は四国に行ってみたいという考えが湧いてきて、絶景を写真に収めたいということをずっと考えていた(のちに実現、大堂海岸)。
翌日、小雨の中、山小屋を出発、急斜面を登って、祓川に出る登山道を目指した。
しかしそのルートは非常に分かりにくかった。
大きな石がたくさんある枯れ沢のような所を下っていくのであるが、石に塗られた道しるべのペンキの表示が曇天ということもあり、見つけるのに苦心し、何度も迷いそうになり、その都度ルートを確認しなければならなかった。
途中、「康新道」との分岐点に差しかかった。
兄が「康新道」を行こうと言ってきた。
天候が悪く、早く下山したい気持ちだった。それとこの祓川に抜ける登山道が分かりにくかった。
しかし私はこの「康新道」に行くのはどうしても嫌な予感がした。
事前に読んでいたガイドブックに、確か片側が切れ落ちた上級者向けのコースだと記載されていたのを思い出したからだ。
私は「康新道」への選択を強く反対し、ゆっくりでもいいから石に塗られたペンキを頼りに下ることを求めた。
しばらく下ると、避難小屋が見えた。
何の設備も無いただの小屋であったが、これまでの道のりが正しかったことが確認でき、ここで初めて安堵感を感じた。

20年くらい前だったであろうか。
我々が鳥海山のこの祓川へ下るルートを歩いたときから数年後だったと思う。
このルートを下った、中高年の夫婦が道に迷い、遭難して死亡した記事を新聞で読んだ。
このとき、身震いするほどぞっとした。
このルート、当時はわかりにくく、一歩間違えば我々も遭難していたかもしれなかったからだ。



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芥川龍之介「秋」を読む

2021-08-13 23:51:34 | 読書
今日から3日間短い夏休みに入った。
今日、久しぶりに文学書を読んだ。
選んだのは芥川龍之介の小説、「秋」。
10年以上前に古本で全集を買ったが、殆ど読まずに本棚に収まっていた。
本棚から取り出した時、函の上部に夥しい量の埃が付着していた。

主人公の信子は、女子大学にいた時から、才媛の名声を担っており、彼女が早晩作家として文壇に打って出ることは殆ど誰も疑わなかった。
彼女には俊吉という従兄がいたが、彼もまた大学の文学部に籍を置き、将来作家を目指していた。
彼女は文学という共通の関心からかいつしかこの従兄と親しくなり、周囲の同窓たちからも彼らが将来結婚するものとして羨望の目で見られていた。
しかし信子が大学を卒業するとまもなく彼女は大阪の商事会社に近々勤務することになった高商出身の青年と突然結婚してしまう。
それは、彼女の妹である照子も俊吉に恋心を抱いていることを知って、妹に対する愛情から自ら身を引いたためであった。
結婚後しばらくは新婚の夫婦の如く、幸せな日々を送っていたが、夫が次第に本性を現わし始め、彼女の文学に対する関心や創作や、日常の些細なことにねちねちとけちをつけたり文句を言うようになっていった。
彼女は夫のそのような態度に口答えもせず、忍耐し、むしろ夫に努めて優しく振舞うようになる。
しかし彼女の文学の創作はしだいに進まなくなっていった。
そんな頃、妹の照子が俊吉と結納を済ませたことを知らせる便りが送られてきたが、信子は式に出れない返事を返す。
翌年の秋、信子は夫の東京出張に同伴した際、結婚以来会っていなかった妹夫婦に会いにいくために、彼らの新居を訪れた。
信子は久しぶりに俊吉と会い、話をしていくうちに懐かしさがこみあげ、文学の話題になると学生時代のように心がときめくのを感じる。
その日の夜遅く、俊吉は雨戸を開けて信子を外に連れ出し、交わした言葉はわずかであったが、庭や鶏小屋の前で2人だけの時間を共有する。
翌日俊吉は亡友の一周忌の墓参をするために外出する際に、昼までに帰ってくるから待っているように信子に念を押した。
俊吉がいなくなってから信子と照子はお茶を飲みながら世間話をするが、信子は照子の幸福そうな生活の話を聞くうちに次第に生返事をしている自分に気付く。
夫の愛に飽き足りている妹の姿を見て、自分の境遇に陰鬱にならざるを得なかった。
その気持ちに気が付いたのか、照子は信子の夫婦関係を心配する。
そして照子はいつのまにか泣き出してしまう。
信子はとうとう俊吉が帰ってくる前に、家を出て幌車に乗って駅に向かっていた。
途中、信子は正面から向かって歩いてくる俊吉の姿をとらえる。
信子はすれ違いざまに一瞬、俊吉に声をかけようとしてためらった。
「秋」だと、信子はうすら寒い幌の下、全身で寂しさを感じながら、しみじみと思わずにはいざれなかった。

あらすじはこんな感じであるが、この小説は登場人物の繊細な心理描写の変化を鑑賞するものなので、あまり役に立たない。
興味のある方は、青空文庫で旧文体のまま読めるのでお勧めしたい。

この小説を読んで最も感じたのは、主人公である信子の結婚後の気持ちの変化と、宿命的に不幸に向かわざるを得ないとまで感じさせる、彼女のその心理的動機についてであった。
何故信子は好きだった俊吉を妹に譲るために、卒業後すぐに早々と縁談を決めてしまったのか。
自分の人生の幸福を犠牲にして、妹の幸福を願う気持ちは真なのか。それともそれとは異なる、本人にも見えない動機に動かされての決断なのか。
「彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。」

信子は次第に本性を現わし始めた夫の冷たさにも耐え忍び、仕打ちを受けた後でも仲直りする努力を見せる。
「信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。」
この「晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔」という表現は別の箇所でも出てくる。
母や照子が信子が大阪に向けて出発するのを見送るために、中央停車場へ来たときだ。
この表情が彼女の性質の一面を理解させるものとして、重要なものになっていると感じられる。

彼女は瑣末な経済的なことしか関心を示さない夫との生活に次第に同化していき、文学への創作意欲を無くしていく。
そんな折り、彼女は俊吉と照子に再会する機会を得る。
俊吉と久しぶりに再会した信子は、かつてのように気持ちが高揚してくるのを感じる。
「その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」と云つた。」

俊吉も出来るだけ信子との二人だけの時間を持てるようしていたことが、信子の到着時や、歓談が終ったあとの夜更けに庭に連れ出したことなどから伺われる。
俊吉はもしかすると、照子よりも姉の信子との会話に魅力や満たされるものを感じていたのかもしれない。だから自ら意図的ではないにしても無意識的にそのような行為に出たのではないか。
それは次の箇所で一層明確になる。
「「好いかい。待つてゐるんだぜ。午頃ひるごろまでにやきつと帰つて来るから。」――彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。が、彼女は華奢きやしやな手に彼の中折なかをれを持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。」

俊吉が外出している間に、信子は照子との会話で自分の現在置かれている境遇に対する現実の気持ちに一層直面せざるを得なくなる。
そのうち照子が激しく泣きだすが、後でその涙は自分に対する不憫な思いからくるのではなく、姉と俊吉との関係に対する嫉妬と夫を奪われる不安から来ているものであることを悟る。

妹の気持ちを察した信子は、俊吉が帰ってくる前に帰る決心をする。
「彼女の心は静かであつた。が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易たやすく二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。」

彼女はここで完全に俊吉への想いを断ち切ろうとする。妹の幸せのために。
しかしそう決心したことで、これまでずっとつながっていた妹に対する思いにも終止符が打たれる。
彼女は駅に向かって走っていた幌車の中で、俊吉とすれ違いざまに声をかけようとしたが出来なかった。
何故出来なかったのか。
声をかけようとした瞬間までは、消えかかる炎のようにかろうじて残っていたかつての信子そのものであった。
しかしつぎの瞬間、俊吉への思いにけじめをつけた自分がそこにいた。
俊吉や照子に対する気持ちを断ち切ったあとで待ち受けていたのは、「秋」のような冷たく寂しい現実であった。


この小説は、読者に強いメッセージを示唆したり、何かを訴えかけるというような性質は感じられない。むしろ平凡な日常のよくありがちな人間関係での心理描写が主題となっている。
しかし私はこの信子という女性に対し魅力を感じつつも、何とも言えない切なさ、いたたまれなさを感じた。
当時は珍しかったであろう女子大学で才媛と見られ、周囲がうらやむほどの文筆活動を行うほどのヴァイタリティの持ち主であった彼女が、何故、妹の幸福のために自分の人生を犠牲にする選択をしたのか。
彼女は従兄と一緒にいることが何よりも幸せに感じていた。本当は小説家になりたかった。文学を読んだり、話したりすることに生きがいを感じていた。本当は早くに縁談により結婚したくなかった。
何故そういう自分の本当の気持ちに従えなかったというところが、この小説を読んで最も深く考えさせられたことである。
何が彼女をそのような選択に向かわせたのであろか。

恐らくではあるが、「自分のことよりも他人を優先させる生き方をしなさい」という暗黙のメッセージが、彼女の深い深層心理に刷り込まれ、あたかもそれが人生脚本のように潜在的に運命づけられていたのではないかと思うのである。
彼女は大学時代までは自分の才能を開花させることができた。
しかし妹の幸せを優先させるために、自ら自己犠牲的生き方を選択した。
自己犠牲的行為は、愛や賞賛を求める受け身的動機ではなく、相手に対する能動的な愛情から来る動機が源になければ、自分を苦しめる以外の何物でもない。
受け身からくる自己犠牲は、次第に自己無価値観を心にはびこらせ、怒りや憎しみを無意識に堆積させる恐ろしいものである。
信子のとったこの自己犠牲の選択は、表向き能動的ではあるのだが、何か自分の本心とは異なる所から出ているようにも感じる。

信子の自己犠牲的選択の真意は結局のところこの小説から完全に読み取ることは出来なかったが、信子がこれからの長い人生を幸福に生きるにはどうしたらよいのか、ということについて考えずにはいられなかった。
強いて言うならば、次のようなことが頭に浮かんでくる。

・自分の選択の過ち、自分の心に潜在的に埋め込まれた人生脚本への気付き、そこからの脱却。
・耐え忍ぶという価値観からの解放
・本来の自分への気付きと回帰
・自己実現への道

根源的に素晴らしい才能、人間的な優しさを持っていながら、不幸な人生を送っている人間は多い。
不幸な人生という自分ではどうすることも出来ないシナリオに従って生きていくうちに、それらの才能や優しさが枯渇していき、それらが自分の記憶からも遠ざかっていくことは思うに忍びない。

しかし作者は信子という主人公に対し、暖かい眼差しを向けているように感じる。
作者は様々な登場人物に対し、自分の価値観を入れていない。ただありのままに描写するのみである。どんな人物に対してもその生き様を受容しているように思われるのである。



【追記20210814】

芥川龍之介全集第4巻の「私の好きな私の作」というタイトルのエッセイ?に、「「秋」が好きです。」とだけ書かれていた。
この時大正10年(1921年)。
芥川龍之介お気に入りの小説だった、ということだろうか。
ちなみに「秋」が書かれたのはその前年の大正9年(1920年)。

【追記202108141200】

信子が何故、俊吉と照子との結婚式に出席しなかった理由が気になっていた。
推測ではあるが、信子はまだ俊吉への未練の気持ちが自分でも意識できないまま残っていたからではないか。
思いが完全に断ち切れていたならば、二人に対し迷いの気持ちなく祝福できたはずである。
また、俊吉も信子に対して未練を感じていると思われる箇所が、随所に読み取れる。
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エーリッヒ・フロム著「愛するということ」を読む

2020-08-15 23:47:17 | 読書
この夏休みに、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本を読んだ。
以前に一度読んだ形跡(随所に線が引いてあった)があったので、今回が2回目だと思う。

この本は精神分析の名著としてロングセラーであり、評価も高い。
しかし正直なところ、私にとっては、心に強く刻まれるほどの力を感じることはできなかった。
「愛する」ことの意味を問う芸術作品は無数に存在している。
著作だけでなく、映画やアニメでもこのテーマを取り上げたものは数えきれないだろう。
そのくらい、人々にとって生きるうえでの重要テーマと認識されているということであろう。

先日、「聲の形」というアニメをテレビで見たのだが、このアニメで「愛すること」の意味の一つの側面を見たように感じた。
少年時代、一見、ガキ大将風だけど、弱い者いじめをしてきた主人公の男の子が、その報いを受けるかのように中学、高校と誰とも交流をもたず孤立し、心を閉ざしていたのだが、小学生のときにいじめた聴覚障害のある女の子との再会をとおして、だんだんと人に心を開くようになっていく。

この主人公の少年の場合、何かの理由で、人間的な「良心」という芽が成長しないまま埋もれてしまっていた。
しかし、その「芽」は枯れてはいなかった。
だからこの少年と接した人たちは、少年の中のこの心の奥底に埋もれていた芽に気が付き、というより反応し、この埋もれた芽を表に引き出そうとしたのではないか。
この行為は全く無意識的である。
動物的本能的といってもいい。意識して出来ることではない。

つまり「愛」とは、本来、人間である以上誰でも根源的に持っている人間的な「良心」(この言葉が適切かどうかわからないが)を相手から引き出し、その芽を開花させる行為なのではないかと思うのである。

究極的な「愛」とは、この「芽」が既に枯れてしまい、失われてしまった人間に対して、「芽」を蘇生させる行為のことだと思う。

この行為の実行は、人間的な成熟を要求されるであろうか。
私は、ある一面では「人間的な成熟」が必要だけれど、根源的には無関係ではないかと思う。
成長した「大人」でなければ出来ないものだとは必ずしも思わない。

真の意味で「愛することの」できる人間から、「芽」を開花させられた人は、自分の素晴らしさに気付き、人生を思う存分生きられる人間へと成長していく。
そしてかつて自分が救われたのと同じように、他人にも愛を与えられるような人間になっていく。

私が少年時代だった1960年代から1970年代に、このような人間がかなりいた。
しかし現代はそのような感じを受けない。
経済的に豊かになっても精神的、心理的に生きるのが難しくなったからこそ、このようなテーマに思いをめぐらすことも必要とされ、増えてきたのだと思う。

フロムはこの著作の最終章で、「愛する」ための技術を具体的に指南している。
その中で、「自分の心の中の声に耳を傾けること」というものと、「信じることの修練」というものを挙げている。
私の感覚では、この2つのことは技術というレベルとは程遠い位の困難さを伴うものである。
自分の心の中の感情が、奥深く抑圧されている場合には、単に声に耳を傾けるというレベルの試みでは不可能に近い。
特に恐怖、怒り、憎しみといったマイナス感情は、強ければ強いほど、拒否、抵抗する作用がある程、直面することは困難だし、受け入れられるようになるまで膨大な時間を要する。
「信じる」ということは、自分自身に対してと他人に対しての両面を指していると思われるが、これらは互いに連関している。
自分自身を信じられなければ、他人も信じることは出来ない。
自分を信じられるようになれれば、その分、他人も信じられるようになる、という理屈は分かる。
しかし、「自分を信じる」ことを成長過程で阻害され、自分も他人も信じられず苦しんできた人にしてみれば、この言葉を「はい、その通りです」と、すんなり受け止めることは出来ないだろう。
フロムは「自分を信じる」ことを阻害された人が、具体的にどのようなことを実践すれば、自分を信じ、肯定できるようになり、その結果、他人も信じることが出来るようになれる、ということは触れていない。

「自分を嫌っている」人が自分を好きになり、信じられるようになれるために何が必要なのか。
言い換えると「愛されなかった人はどう生きていったらよいのか」ということに対する、具体的で明確な答えを提示することの方がむしろ求められているのではないか。
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夏休みに読む本決めた

2020-08-07 20:45:13 | 読書
明日から5連休。
コロナ感染者が過去最大となっているが、明日から父の一周忌で帰省する。
1年ぶりで家族が全員揃うのだ。
今回は甥も姪も来る。

成田発着の格安航空会社を利用するのとコロナ対策で、成田・自宅間の往復は車(16.4万キロの自家用)にした。
工場勤務時代は7月と8月にそれぞれ9連休くらいの休みがあったが、本社勤務となってからはせいぜい5連休がいいとこ。
連休前日の開放感もいまいちだ。
(しかし、今日本酒「樽平」を飲んでくつろいでいる)

この夏休みは昔買ったけど、とうとう読まずにしまいこんでいた本を2冊選んで完読することにした。
まず1冊目は、レヴィ・ストロース著の「悲しき熱帯(上巻)」。



買ったのは今から30数年前。
就職で東京に出てきてすぐの頃だ。
この本を買ったときのシーンは今でも憶えている。
勤務先が東京有楽町駅前のすぐそばのビルにあったのだが、その隣のビルの地下に本屋があって、新入社員の頃、仕事帰りにその本屋に毎日のように立ち寄っていた。
その書店で買ったものだ。
金に苦労した学生時代から、今まで手にしたこともない金額の給料をもらう身になって、それは嬉しくて、今まで欲しくても買えなかったもの、本や、楽譜やレコードなどを次々に買い込んでいったものだ。
この頃って、本屋の全盛時代で、どこに行っても本屋があった。
週末の金曜日は、有楽町から東京駅まで歩いて、駅前の八重洲ブックセンターへ行くこともあった。
本屋に行くと何故か心が落ち着く。

「悲しき熱帯」という本は、新入社員になってすぐの頃に買ったのだが、何故この文化人類学の専門書を買ったのかは分からない。
この時は何でも読んでみたいという気持ちが強かった。
しかしこの「悲しき熱帯」はついに読まれることはなかった。
30年以上、押し入れのダンボール箱にしまいこんだままだった。
この本は上下2巻なのだが、記憶では2巻とも買っていたはずだった。
先日、何故かこの本のことを思い出し、押し入れのダンボール(10箱以上はある)を全て開けて探したが上巻しか見つからなかった。
帰宅してから、2日間、各2時間かけてくまなく探したが、下巻は出てこなかった。
まさか泥棒がこの本の下巻だけ盗んでいったのか。それともただの記憶違いで実は上巻だけしか買っていなかったのか。
長年、押し入れで眠っていたせいで、小口に茶色い斑点(染み)がいっぱいついていた。

2冊目は、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」。



この本も随分前に買ったものだ。
旧訳と新訳の両方買った。
新訳の方のページを開くと、ところどころに線が引かれている。
一度読んだのだろうが、内容は思い出せない。
フロムの著作は他にも数冊買ったがいずれも読まずにしまいこんだままだった。もったいない。
これらもいずれ読んであげないと。

フロムは精神分析の大家だが、フロイト、ユング、アドラーの後に出てきたが、このフロムやカレン・ホーナイ、ロロ・メイ、ヴィクトール・エミール・フランクルといった人物だ。
彼らの本もかなり手に入れたが読んでいない本も多い。
こういった古典的名著はじっくり読むのがいいと思う。
フロムの「愛するということ」という本は、かなり評価が高い。
現代の荒涼とした人間関係の中でも、深い人とのきずなを作ることは可能だと思う。
心をクリーンに保つということが、いかに難しいか、同時に重要かということをいつも常々考えさせられている。

これらの本の感想は休み明けに書きたい。

さて、読書ではないが、この夏休みに力を入れようと思っているのはもちろんギターだ。
コロナで延期となったマンドリンコンサート用曲や、独奏曲を練習したい。
独奏曲は次の2曲だ。

ヴィラ・ロボスの「ブラジル民謡組曲 ガボットショーロ」
ルイス・ピポーの「歌と踊り第2番」

ガボットショーロの楽譜を開いてみたら、随所に運指の書き込みがあった。



いつ書いたものか。随分前のことだ。



表紙(右上)に染みが付いている。



裏表紙に巨大な染みが付いていた。一体、何を付けたのか。

歌と踊り第2番の方は以前記事にしたことがある。
第1番と違って、全く見向きもされなかった曲だ。
でもこの曲、けっこう好きだ。
この曲をものにするのはだいぶ時間がかかりそうだな。


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