今年の年初にギター関係の抱負として、ギターの現代音楽の鑑賞を増やしていくことを書いたと思う。
思いっきり暗く、不気味で荒涼とした現代音楽を求めてYoutube等で探してきたが、なかなか見つけることが出来なかった(ピアノでは見つけることが出来たが)。
そこで過去に聴いた曲でそのような曲を記事にしようと考えた。
現代音楽といっても、調性音楽がそうであるように実にさまざまな曲がある。
現代音楽には感情に訴えるものは少ない。
確率論や因数分解といった数学の論理を音楽に取り入れたものや、それに類するものが多いように思う。
そのような音楽を作った代表的作曲家がヤニス・クセナキスだ。
彼が若い頃メシアンに師事したとき、メシアンから「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか。伝統的な修練は、あってもなくても同じではないか」と言われたという。
クセナキスの曲を初めて聴いたのが、「ヘルマ」というピアノ曲(高橋悠治演奏)であったが、これを聴いたときはちょっとした衝撃だった。
しかし彼の曲はそれ以上のものを感じなかった。
30代の半ば頃だったと思う。
その頃私は邦人作曲家のギター曲を探していた。
伊福部昭のような日本旋法を使用したギター曲、もしくは宍戸睦郎のような日本の1960年代の頃を彷彿させる音楽を求めて、ギタルラ社や現代ギター社GGギターショップ、東京文化会館音楽資料室などに行って、楽譜を探していた。
その時、現代ギター社GGギターショップで、「野呂武男」という作曲家のギター曲の楽譜を見つけた。
「COMPOSITION Ⅰ・Ⅱ」というタイトルだった。
譜面をめくると理解困難な難解な音符が並んでいた。
一目で現代音楽の類だと分かった。
当時私は現代音楽に関心、興味はなかった。
従って楽譜はすぐに棚に戻された。
今から15年くらい前だったと思う。
東京国際ギターコンクールの本選課題曲にこの野呂武男の曲が選出されていた。
この時の本選で初めて彼の曲を聴くことになる。
題名は、「ギターのためのコンポジション Ⅰ 永遠回帰 Op.7 No.1」。
以前、GGギターショップで楽譜を見た曲であった。
客席で聴くにつれ、この曲は非常に難解で理解に苦しむ曲であることが分かってきた。
6人の本選出場者もこの曲の演奏に苦心しているようであった。
中には譜面を見ながら演奏している奏者もいたからだ(それまでは譜面みて弾く奏者を見たことはない)。
私はこの時の演奏で、ある部分を除いてこの曲がどんな曲であったか全く思い出すことが出来ない。
その「ある部分」とは、この曲の最後のフレーズであった。
このハーモニックスで奏でられる最後のフレーズが、妙に脳に焼き付いたのである。
このフレーズを弾いた時の奏者のシーン、指の動きとかが今でも鮮明に思い出すことができる。
とにかくこのフレーズがかつて私が経験した、過去のある時期を想起させた。
そして私の心に何かの感情を湧き起こした。
それは苦しい、「荒涼」としたものであった。
因みにこのフレーズには、出版された楽譜に誤植がある。
私はこの曲の自筆譜を見せてもらったことがあるのだが、最後から3小節目、8分の4拍子の3拍目と4拍目の下のミとドの音は、それぞれレとシが正しい。
1拍目の音のタイで結ばれている音なので、同じ音になることは恐らく気付くであろうが、果たしてこの間違った譜面通りに弾いてしまったコンクール出場者はいるのであろうか。
この東京国際ギターコンクールが終ってから、野呂武男のこのギター曲が気になり、楽譜を探した。
GGショップや出版元のギタルラ社で探したが既に在庫切れで、しばらくしてやっと手に入れることが出来た。
録音など皆無なので、とにかくこの楽譜だけが頼りだった。
完全に自己流だったが、楽譜に書かれている音符を一つ一つ音にしていった。
そして1、2年経って、表面的でかつ自己流ではあるが最後まで弾けるところまできた。
楽譜の紙の綴じ込みが破れてしまった。
楽譜の端が黒く変色している。
度重なる譜めくりでこのようになったと思われる(単に手が汚なかっただけか?)。
野呂武男のギター曲の特色は、6弦をD#(E♭)に下げる変調弦をとっていることである。
出版社から出版されたギター曲(合わせもの含む)は次の4曲だ。
・ギターのためのコンポジション Ⅰ 永遠回帰 Op.7 No.1 1959.11~1960.1
(ギタルラ社)
・ギターのためのコンポジション Ⅱ 離と合 Op.7 No.2 1960.3~1960.4
(ギタルラ社)
・2つのギターのための MEET Op.13 1964.11
(TONOS ドイツ)
・2つのヴァイオリンとギターのための即興曲 Op.11 1961.4
(ギタルラ社)
ギターのためのコンポジション Ⅰ 永遠回帰 の第1楽章のみ通常の調弦であるが、この曲の第2楽章、第3楽章と、それ以外の全てのギター曲(合わせ物含む)がこの変調弦を採用している。
なお出版はされていないが、「ギターのためのコンポジション Ⅲ 夢幻泡影 Op.9 1961.2~1961.3」も同じ変調弦で書かれている(自筆譜より)。
つまりこの調弦による和声が野呂武男の曲の根幹となっていると言える。
ギターを持っている方には、⑥弦=D#、⑤弦=A、④弦=Dの和音を奏でていただきたいと願う。
この響きが彼の最も表現したい気持ちを表していることは間違いない。
「ギターのためのコンポジション Ⅰ 永遠回帰」の第2楽章でこの響きが存分に使用されている。
この曲の第2楽章のみリズムが落ち着いている。通常の音楽のリズムだ。
しかし和声や聴こえてくる音楽は極めて暗く、荒涼としていて、底深い闇を思わせる。
第1楽章や第3楽章は、リズムや和声が難解で、何を意図して書いているのかが殆ど理解不能であるが、例えば第3楽章の次の部分や第1楽章の次の部分は何を言いたいのかが何となく分かる。
それは悲痛な心の叫びのように聴こえる。闇に閉ざされた苦しみのように感じる。
野呂武男は哲学用語をテーマにした曲が多いが、表向き哲学的思考を音にしようとしていても、実は内面の無意識のものが曲に現れてしまっているのではないかと思う。
そのように考えると、野呂武男という作曲家は、音楽=人間の感情から生まれる創作物という必然性を知らずとも実行していたのではないか。
野呂武男の作品の凄いところがそこにある。
難解な技法の底辺若しくは水面下に、誰も目を向けなかった、人間の生の感情が横たわっている。
その感情とは人間の本来の生き方に逆らったことで生じる感情である。
野呂武男の最も精力的に創作していた時代は1960年前後だったと思われる。
この時代にギター曲が作られた。
そして「ギターのためのコンポジション Ⅰ 永遠回帰」は1964年のパリ放送局国際コンクールで2位を受賞した。
1961年から1963年にかけて、青森県の私立奥義塾高等学校の音楽講師を務めたという記録があるが、その後、恐らくではあるが変調をきたしたと推測される。
遺作は「バイオリンとピアノのためのKNOB Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、以下未完 Op.14」(1966.3~1966.4、恩師、阿保健に捧ぐ)であった。
因みにギタルラ社の楽譜の遺作の記載には誤りがある。
「ギターのためのコンポジション Ⅳ」は存在しない。
その後、1967年、青森県の岩木山で自殺しているのを発見される。
42歳の若さだった。
1964年11月の「MEET」の作曲から遺作Op.14までの間に2年近くのブランクがあるが、この間に何があったのか。
野呂武男は家庭生活に恵まれなかったようであるが、元々繊細な方だったのであろう。
自筆譜は極めて緻密で几帳面な手書きであった。
野呂武男はあの三善晃も絶賛するほどの、天才的な作曲家であった。
野呂武男は「グループ20.5」という作曲家集団に属していたことがあった。
このグループ20.5を、松平頼暁、江崎健次郎などの作曲家とともに結成したのが現代音楽作曲家の下山一二三であった。
下山一二三は野呂武男と同じく青森県弘前市出身で、これも野呂武男と同じ青森県立旧制弘前中学校卒業、弘前大学卒業後、松平頼則に師事したと言われている。
1969年、ISCM主催世界音楽祭(ハンブルク)に「3群の弦楽オーケストラのためのリフレクション」が入選し、他にも多くの受賞歴があり、あまり知られていないが実力派の作曲家だ。
その下山一二三がグループ20.5の活動を通じて5年先輩の野呂武男と出会い、交流を経て、彼のギターに対する作曲技法に影響を受けたと思われる。
彼は「ギターとの出会いも、この会を通じてなんですよ、というのは、そのうちに野呂武男という、非常に斬新なギター曲を作っている人物と友達になったわけなんです。~それがたまたま弘前中学
の先輩だと分かって、ひんぱんに交流するようになりました」と言っている。
また彼は「野呂のギター曲は、今でもちょと、しのぐ作品がないんじゃないですか。ギターというものをじつによく知って、生かしていてね。」とも言っている。
そして下山一二三が尊敬する先輩の野呂武男への追想のために作曲されたのが「N氏へのオマージュ(北緯41度)」(作曲:1987年、委嘱、初演:常永章、1988年)である。
題名の「N氏」とは野呂武男のことである。
そして副題の 「北緯41度」とは、二人の郷里の青森県弘前市の緯度のことである。
この曲も無調の難解な現代音楽であるが、野呂武男が用いなかった打楽器的奏法(ギターの表面板を叩く)をふんだんに取り入れていることである。
また最も特徴的なのは、「楽器を演奏しながら声を出すことを要求される」ことだ。
朗読される言葉は、生前よく2人で話題にした「寺院の名前」と「ギターの斬新な特殊奏法の具体的内容」と「N O R O(ネヌ オー アール オー)」である。
あとは「オー」とか「オオン」という発声が断続的に続く。
曲は全体的に暗いが、野呂武男ほどの不気味さ、荒涼感は無い。
特殊奏法やリズム、和声も野呂武男のものとは異なり、下山一二三独自のもののようだ。
ギターを弾くだけでも大変であるが、声による朗読、それも普通ではない発声を同時に行わなければならないため、演奏の難易度はハイレベルだ。
朗読以外のギター曲部分は殆どが理解不能なほど難解だ。
下山一二三は、42歳という音楽家として最も充実した時期に自ら命を絶った優れた同郷の先輩、仲間への敬意と、また作曲家としての基盤が出来るまでの2人の若き日々の交流の回想を、この曲に託したかったのだと思う。
私がこの曲の録音を初めて聴いたのが下記のCDで今から10年くらい前であったが、Youtubeでは別の奏者のライブ映像があったので貼り付けさせていただく。
下山 一二三 Hifumi Shimoyama - Homage to N《L.41N》for guitar (1987)
野呂武男の曲は15曲ほどで、作品番号の無いギター曲(現代音楽ではない)や合わせ物を含めてギター曲は6曲であり、それ以外は室内楽である。
この室内楽の録音は皆無であるし、楽譜も出版されていない。
野呂武男のギター曲は、表面的な音符をなぞっただけの演奏ではとても太刀打ち出来ない。
東京国際ギターコンクール本選で弾いた6人の奏者がどれだけこの曲を理解できていたか、今となっては確かめるすべは無い。
人様に対し、安易な妥協で演奏できるような曲ではない。
寸分の隙も許されないほどの厳しい作品なのだ。
恐らく野呂武男は優れた職人に見られるような完璧主義者であったに違いない。
彼の曲を本当に理解できるようになるのはいつか分からない。
一生かかっても分からないかもしれない。
しかし彼の残した作品には、私がかつて体験した感情と共振するものが感じられる。
それがなければ、ここまで調べたりしない。
彼の作品を追求する目的はなんであろう。
彼の道半ばで逝った無念の気持ちに応えたいと思っているのだろうか。
【追記20190630】
作曲家に対する敬称は省略しました。